初日(月) 米倉櫻が小心者だった件

エピソード文字数 1,647文字

 人の記憶というものは底が知れない。
 何でも最近になって、人間の脳は従来考えられていたより十倍も記憶できると判明したとのこと。単位にすれば一ペタバイト……文字情報なら何と2000万文字である。
 先日情報の授業中に内緒でネットサーフィンをして見つけた雑学さえ、案外覚えていた自分に驚くくらいだ。まあ先生に名指しでバラされてクッソ恥ずかしかったけど。

「………………どっちだ?」

 そんなトリビアを自慢げに語る偉大な生物、米倉櫻(よねくらさくら)は今、数分前に記憶した僅か数文字を思い出せずにいた。
 右手にはシャンプー。
 左手にはリンス。
 ふむ、少し落ち着いて考えてみよう。
 目を閉じればほら、風呂場から呼び出してきた妹の声が聞こえてくるじゃないか。


『お兄ちゃ~ん! ――――切れてるから買ってきて~』


「ぬおおっ? 思い出せんっ!」

 九月半ばの雨の降る夜。普通ならこのコンビニまでは自転車で三分もかからない距離だが、それが徒歩となると実に面倒で往復するのは避けたいところだ。
 まあ待て、深呼吸をしてからもう一度だけ思い出してみよう。


『お兄ちゃ~ん! ――――切れてるから――――』


 何だか前より酷くなった気がする。これじゃ怒ってるみたいじゃん。
 いっそリンスインシャンプーという最終兵器を買ってしまうのも手だが、それはそれで敗北感が半端ない。兄としてのプライドにも関わるし、妹から文句も言われるだろう。

「ありがとうございました」

 そうこうしているうちに、店内の客は俺一人になってしまった。
 いつまでもシャンプーかリンスかで迷っている訳にもいかない。ちょっと頭を働かせてみれば、こんな問題は難しくも何ともないのだ。

「あ、袋いらないんで」
「かしこまりました」

 レジにいる店員さんへ、詰め替え用のシャンプーとリンス両方を差し出す。
 費用は倍になるものの、それで威厳を保てるならば良しとしようじゃないか。兄としてのプライド? 何それ美味しいの?

『ピッ――ピッ――』

 丁寧な手つきでバーコードリーダーを当てるのは、俺と同じ高校生くらいの少女。前髪を桜の花びらヘアピンで留めている、ショートポニーテールに髪を結んだ可愛い子だ。
 普通なら店員の顔なんて覚えないが、彼女は前にも一度見かけた気がする。
 印象に残っている理由は眩しい笑顔と綺麗な声。勿論営業スマイルだろうが、その微笑みは見ていて元気になるし、透き通るような声は聞いていて癒される。

夢野蕾(ゆめのつぼみ)

 財布から紙幣を取り出しつつ、適度に膨らんだ胸のネームプレートをチラリと拝見。夢野って良い苗字だな……少なくとも根暗を連想させる、どこぞの苗字より――――。



『夢野蕾 ¥120』



「…………」

 何度か瞬きした後で、再び少女のネームプレートを確認する。
 見間違いではない。
 ネームプレートにピッタリ収まる形で、名前の後に指先程度の大きさをした小さい値札のシールが貼られていた。
 えっと……つまりどういうことなんだこれは?

「――――あの……お客様……?」
「へぁっ?」

 非常事態に混乱していたあまり、不意の呼びかけに対してウルトラとかヒトデにマンが付きそうな返事をしてしまう。
 既に代金は表示されており、商品にシールを貼り終えた少女が困惑していた。

「お会計ですが、1000円からで宜しいですか?」
「あっ! す、すいませんっ!」

 手にしていた野口英世を慌てて差し出す。まるで支払うのを躊躇っていたみたいに見られたかと思うと、何だか滅茶苦茶に恥ずかしい。

「1000円からお預かりします」

 しかしこの状況、どうするべきだろう。
 やはり教えてあげるべきか……いやでも彼女の立場になって考えてみれば――――。



「ありがとうございました」



 コンビニから出て来たのは、勇気を出せず敗走してきた男の姿だった。
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登場人物紹介

米倉櫻《よねくらさくら》


本編主人公。一人暮らしなんてことは全くなく、家族と過ごす高校一年生。

成績も運動能力も至って普通の小心者。中学時代のあだ名は根暗。

幼馴染へ片想い中だった時に謎のコンビニ店員と出会い、少しずつ生活が変わっていく。


「お兄ちゃんは慣れない相手にちょっぴりシャイなだけで、そんなあだ名を付けられた過去は忘れました。そしてお前は今、全国約5000世帯の米倉さんを敵に回しました」

夢野蕾《ゆめのつぼみ》


コンビニで出会った際、120円の値札を付けていた謎の少女。

接客の笑顔が眩しく、透き通るような声が特徴的。


「 ――――ばいばい、米倉君――――」

阿久津水無月《あくつみなづき》


櫻の幼馴染。トレードマークは定価30円の棒付き飴。

成績優秀の文武両道で、遠慮なく物言う性格。アルカスという猫を飼っている。


「勘違いしないで欲しいけれど、近所の幼馴染であって彼氏でも何でもない。彼はボクにとって腐れ縁というか、奴隷というか、ペットというか、遊び道具みたいなものでね」

冬雪音穏《ふゆきねおん》


陶芸部部長。常に眠そうな目をしている無口系少女。

とにかく陶芸が好き。暑さに弱く、色々とガードが緩い。


「……最後にこれ、シッピキを使う」

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