第4話 思い出の百貨店

文字数 1,667文字

 無事に通信制高校への入学が決まると、わたしはすぐにバイトを始めた。自宅近くのカフェでのバイトだ。通信制を選んだのは、まず入学費などが安いこと、あとは制服を買わなくて済むという理由と、長時間のバイトができるという理由が主だった。
 バイトは楽しかった。生まれて初めて着るようなお洒落な制服は、いつか従姉妹のお姉ちゃんたちが読んでいた少女漫画に出てきそうだった。時給は九百円で、わりといい方だと思う。一日、朝から五時間程度働いた。それが週に三日だ。幸い、まだ若いので体力は有り余っていた。学校自体も、授業が特別難しいわけではなかったので、ありがたかった。
 その頃のわたしの目標は、可愛い洋服を買うとか、好きな歌手のCDを買うとかではなくて、初めてのお給料で母と百貨店の鰻屋さんで鰻を食べることだった。もちろん、欲しいものはあるにはある。だけど、母との時間の方が大事だった。いつもわたしのために自分ばっかり我慢している母に、お腹いっぱい美味しい鰻を食べてもらいたかった。そして、お金が余ったら、それでアイロンを買おうと決めていた。どうしても欲しいものは、またお金が貯まれば買えばいいのだし。
 バイトと学校で、忙しい日々を送った高校時代には、チェリーを思い出すことはほとんどなくなっていたが、初めて貰ったお給料を持って母と鰻を食べに百貨店に行ったとき、懐かしい気分になった。チェリーと出会ったのは昔に母と訪れたこの百貨店だったからだ。 
 売り場がどうなったか気にはなったが、そのときはもう鰻屋のある百貨店の最上階を目指すべくエレベーターに乗り込んでいた。

「お母さん、昔にもここに来たよね」と、エレベーター内で訊いたわたしに、母は目を細めて「あのときはカイがおもちゃ売り場から離れないから困ったのよ」と笑った。
 
 そこまで欲しがったものを、わたしは捨てた。泣きながらも捨てたのだ。大きなものではなかったし、一体くらいなら残しておいてもよかったんじゃないかなと、今なら思う。
 一生懸命働いたお金で、大好きな母と食べる鰻は格別に美味しかった。でも、食べているあいだも、ずっとチェリーのことが頭から離れなかった。父方の田舎では、きれいな川でとれた鰻を食べることがあった。そのときも、チェリーは一緒だった。
 もし、チェリーが今のわたしと一緒にいたら、どう感じるだろうか。どこかに仕舞い込まれていたとしたら、わたしを憎むだろうか。いや、そもそも、ぬいぐるみだから、何も感じない? 心の中で問いかけたが、当然、誰も答えない。

「おもちゃ売り場、見ていい? 大丈夫、なにも買わないから」
 妙にセンチメンタルな気分になりながらも、最上階から降りていくエレベーターの中でわたしが言うと、母は不思議そうにしつつ「いいよ」と言ってくれた。
 その売り場に来たのは、もう十年ぶり以上だっただろうか。随分と雰囲気が変わっていた。だけど、ぬいぐるみの売り場はまだ健在で、むしろ拡大しているように思えた。

「わあ」
 見るからに高価なテディベアたち、ワニやサル、ラッコなど、特殊な動物のリアルなぬいぐるみ……どれもこれも、恐ろしい値札が付いている。わたしが触ることすら躊躇うような値段のぬいぐるみを眺めていると、隣にいた母が「あ」と声を漏らした。

「どうしたの?」
 わたしは母の視線を目で追った。そこには、コロンとした懐かしいフォルムの可愛いぬいぐるみが並んでいた。

「チェリー……」
 思わず、呟いていた。チェリーとよく似た、ネズミのぬいぐるみだった。無意識に、値札に目がいった。四千八百円。美味しい鰻重くらい高い。こんなに高価なものと同じような出来のものを、わたしは……。

「そうそう、チェリーって呼んでたよね」
 懐かしそうに隣で微笑む母は、幼いわたしが欲しがったものを父に相談してまで買ってくれた。父が半分出していたとしても、小さめのぬいぐるみにしたら、とても高価だ。わたしはそれを捨ててしまった。あんなに大事にしていたのに。そんな風に思うと、母にも、チェリーにも、申し訳なかった。
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