本文

文字数 3,952文字

「な゛ん゛て゛た゛よ゛お゛お゛お゛〜〜〜〜〜〜」と、佐藤は泣き、くずおれ、四つんばいになり、そして握りこぶしで地面を叩いた。地面は一面の砂浜だった。観光的でない、自然で、どことなくでこぼこした砂浜だ。
 太陽が、白くきめ細かな砂をじりじりと焼いていた。
 僕たちは二人とも海水でずぶ濡れで、湿った服が肌に張り付いて不快だった。波は荒く、二人で五日かけて作り上げた即席のいかだは波打ち際に叩きつけられるように砕け、残骸はリズミカルに寄せては返していた。
 平時であれば、全身をぐっしょりと濡らし身体のラインをつまびらかにした佐藤に対して多少の性的興奮を催したのかもしれなかったけれど、その時はそれどころじゃなかった。尻が死ぬほど痛かったのだ。
 植物というものは割とカジュアルに毒を持っている。トイレットペーパーがないからといって、用を足したあとにその辺の葉っぱで尻を拭いてはいけない。運が悪ければ肛門が腫れ上がり地獄の痛みを味わうことになるからだ。

 何処ともしれない南の島。
 空は高く、海は青く、海水はケツの穴に沁みて、そして僕たちは完膚なきまでに遭難していた。

 二週間ほど前のことだ。
 いや、きちんと思い出そう。はっきりとさせておこう。そうでないと時間の感覚を見失ってしまう。時計もカレンダーもないこの文明から切り離された無人島に飲み込まれてしまう。
 十五日前、四月十九日。
 僕たちは沖縄に居た。高校の修学旅行、二日目のことだ。
 沖縄は良かった。
 観光的でよく整備された砂浜があり、首里城があり、文化があった。人びとの営みがあった。
 ここには何もない。あるのはヤシの木と漂着物と、あと佐藤だけだ。

 遭難の顛末はあまり覚えていない。
 溺れてすぐに気を失ってしまったからだ。確かホエールウォッチングの最中に、急に海に放り出されたのだ。
 運良く気絶しなかった佐藤の証言によると、白く巨大なシロナガスクジラに遊覧船ごと跳ね上げられたらしい。
 にわかには信じがたいことだった。佐藤は昔からアホだったし、ビニール袋かなにかを見間違えたのだと思う。それにしてもアホだ。なんだ巨大クジラって。
 まあ、それでも僕たちがこの無人島に流れ着いたのは本当のことで、現実だ。とても悲しいことに。
 僕たち以外のクラスメイトたちはどうなったんだろう? 無事でいるだろうか? 鈴木あたりが片足を食いちぎられて復讐心に燃えていたりするのだろうか?
 目を覚ましたばかりの僕の質問に、佐藤は「わからない」と硬く首を振るだけだった。

 ともあれ僕たちはこうやって遭難し、そしてもがいている。
 もちろんスマートフォンは壊れて使えないし、肌はずいぶんと日に焼けた。海外セレブたちが身に纏うアクセサリーの延長線上にあるような均等な小麦色ではなく、漁師のように実際的でまだらな日焼けだ。

 僕たちは生き残るためにさまざまな手だてを講じた。
 拾ってきた小石を並べて、砂浜に大きく〝SOS〟と書いた。
 岩壁のへりに長い棒を立て、僕のTシャツをくくりつけて目印にした。
 水分を求めてヤシの実を拾い、石で叩き割った。最初はひどく時間がかかったが、鋭く尖らせた石を流木に巻きつけて簡易な石斧を発明することで大幅に効率的に水分を摂取できるようになった。まるで原始人だ。二〇一九年の原始人。
 幸運なことに食べ物に困ることはなかった。
 海岸の岩場にはフジツボと牡蠣を足して二で割った感じの謎の貝がびっしりとへばりついていて、焚き火で焼いた謎貝はとてもうまく、そして滋養があった。
 十日以上のあいだ謎貝だけを食べ続ける生活の中で、徐々に身体に異変が現れだした。
 つまるところ、ちんちんがびんびんになったのだ。
 貝類に含まれる豊富な亜鉛のせいだ。
 結果として僕は僕自身の性欲とは関係なく四六時中勃起していて、無人島で過ごす時間のあらかたを前かがみで過ごすことになった。
 尻は痛いが高楊枝。前門のアレ、肛門のアレ。やかましいわ。


 ◆


 佐藤のことについて語ろう。
 ザンギエフというロシア人を知っているだろうか? 彼はおそらく日本で一番有名なロシア人だから、多分わかると思うんだけど。
 幼少期の佐藤は、まさにそれだった。小さな富山の赤きサイクロン。
 同年代の子供よりも身体が大きく、力が強く、男の子の上級生にだって負けなかった。
 その力で都会から越してきたもやしっ子だった僕をいじめっ子から救ってくれた、みたいな美談は特にない。確かに僕は都会から越してきたもやしっ子だったけれど、富山の赤きサイクロンの暴力は分け隔て無くあらゆる人びとの頭上に雨のように降り注いだ。
 あらゆる人びとの中にはもちろん僕も含まれる。彼女のパイルドライバーは春の雪崩のように不可避で、夏の嵐のように絶対的だった。
 本当に、完璧に、非の打ち所のない、最悪のガキ大将だった。
 なんで僕はこんな奴とずっと友達でいるんだろうか? よくわからない。

「だめだったね、いかだ作戦」と佐藤は涙声で言った。「どうなるのかな、私たち」
 僕は前屈みのまま額の汗を拭い、「心配ないよ、まだ出来ることはあるはずだ」と気休めを言った。
 のん気に水死するいかだの残骸から目を背け、佐藤のほうに振り返る。
 ありていに言えば、佐藤は――僕の幼なじみは、とても美しかった。
 幼少期のザンギみはなりを潜め、ねむの木の葉のように静かに伏せられたまつげの奥には黒くて大きな瞳があり、鼻梁は上品にまっすぐに伸びている。頬に落ちた細い前髪のひと房が汗で張り付いていた。
 塩水で濡れた白いTシャツが透けて、白くて頼りない下着と、それに包まれた豊満な乳房が否が応にも目に入る。

 思春期というのは人間が最もダイナミックに成長する時期だ。けれど、佐藤のそれはいささか突然変異的に過ぎた。女型(めがた)のザンギエフがクラムスコイの「忘れえぬひと」になるなんて誰が想像できるだろう?
 きっと佐藤は二次性徴の過程のどこかで、遺伝子操作された特殊な蜘蛛に噛まれたかなにかしたのだろうと、僕はひそかに思っていた。

「きゅーちゃんは前向きだね……。でも、もう遭難してから二週間も――」
「十五日な。そっちはいつになく弱気だな、ぶそ子よ」
「そのあだ名で呼ばないでよ、小学校のときのじゃない」
「〝きゅーちゃん〟もそうだろ。おあいこだよ」
「きゅーちゃんはきゅーちゃんなの」
 僕の軽口に頬を膨らませた佐藤の顔色は、先ほどよりはいくぶんか良くなったように見えた。
「もう戻ろう。失敗は失敗として受け止めて、頭を切り替える。謎貝を焼いて食べて寝る。体力は温存しないと」





 それから僕たちは僕たちが「家」と呼ぶ仮住まいまでの道のりを歩いた。
 家と言っても、掘った穴に漂着したボートの残骸を逆さまにして被せた粗末な住居だ。それでも雨風はしのげるし、二人で身を寄せ合っていれば夜も寒くはなかった。

 寄せては返す波の音を聞きながら、僕たちは歩く。
 その間、ほとんど会話はなかった。最初の頃こそ「帰ったら真っ先に何を食べたいか」みたいな話題で盛り上がっていたけれど、その頃にはもうそんな話題も尽きていた。
 さりとて、それで居心地が悪いというわけでもなかった。
 僕たちは幼い頃からともに居て、お互いのことを深く理解し合っていたからだ。
 お互いがそばに居さえすれば、波の音や、風の匂いや、太陽の親密な暖かさを、より近くに感じることが出来たからだ。
 僕たちは幼いころからずっと結びつきあっていて、皮肉にもこの無人島生活でそれを再確認していた。

「ねえ」
 しばらくの沈黙を終わらせたのは、佐藤だった。
「新しい作戦、思いついたんだけど」
「どんな?」
「漂流物のなかからびんを探して、手紙を詰めて、海に流すの。『私たちは生きています、助けてください』って」
「素晴らしい」と僕は言った。「佐藤が言うと上手く行きそうな気がする」
「でしょう?」
 佐藤は得意気に鼻を鳴らす。この女は皮肉という概念を理解しないのだ。
「佐藤とならヤン–ミルズ方程式の存在と質量ギャップ問題も解決出来そうだ」
「ふふん」
「名づけて『瓶詰の地獄』作戦」
「それ最後自殺するヤツじゃん」佐藤は笑い、「今度こそ、うまくいくといいね」と言った。
 僕も笑ってうなずく。

 けれど、僕は知っている。
 佐藤が夜のうちにこっそりと家を抜け出して、いかだが壊れやすいように継ぎ目に細工をしていたことを。

 僕は知っている。
 森を挟んだ反対側の砂浜で、僕たちのクラスメイトが沢山死んでいることを。

 僕は知っている。
 彼らの死因が、おそらくパイルドライバーによる頚椎の損傷だということを。

 僕は知っている。
 きっとこの『瓶詰の地獄』作戦も何かの理由――何かの不幸な事故(・・・・・)――で上手く行かないだろうということを。

 けれど、それでいいのだとも思う。
 ここには何もない。
 観光的でよく整備された砂浜も、文化も、人びとの営みもない。
 それでも佐藤はこの島にいて、僕の隣で静かに笑っている。
 だから、それでいいのだ。



 さて、今から僕はこの手紙を丸め、びんにつめ、硬く蓋をして、それから渾身の力で青い青い海に放り投げようと思う。
 願わくば、どうかこの手紙が誰にも見つかりませんように。
 母なる海の複雑な流れに引っかかって、永遠に同じ所をぐるぐると彷徨い続けますように。
 どうか、どうかこの二人きりの世界が、一秒でも長く続きますように。
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