第一章

文字数 9,629文字

「な、いいアイディアだろ? きっと奴は泣き出すか気絶するに違いないぞ」
 嬉々とした、だが辺りをはばかって押し殺した声は確かにジョージ・ディップディン・ビットのもの、そう、オースチン校の問題児にして天使のような可愛い顔で先生方を欺くことに長けたあのジョージ・ディップディン・ビットの。
 さすがのウィリアムもだいぶ事情を知るに及び、ディップディンがひどく楽しそうにしているときは必ずもめ事が起きると了解しており、くだんの発言がジョージ・ディップディンのものと知り、聞き耳を立てた。
 とある午後、場所はオースチン校の図書館、書架が並んで奥まった一画、ちょうどウィリアムは生徒たちから返された本を書棚に整理しようと、本の積まれたカートを押してやってきたところだった。
 嬉しそうな声は書架の陰から聞こえてくる。
「そこで俺たちが奴を助ければ、俺たちの仲間に入るに決まってる」
「そうだ、そうだ」と相槌を打ったのはエドマンド・バーク、人の尻馬に乗りやすい少年だ。
「だいたい、あいつ、新入りなのに俺たちと対等に振る舞うなんて、生意気だ。俺たちの召使いにしてこき使ってやろうじゃないか。それに肌の色だって黄色くて気持ち悪い」
 それってひょっとして、あの少年のこと? とウィリアムは思った。
「でもそれって僕たちもあの部屋に入るってことだろ?」
 少し怯えたような声は、エドマンドの弟分・クリストファーだ。
「なんだよ、クリス、まさか幽霊が本当にいるなんて信じてやしないよな?」
「だって、僕、聞いたもん、修道士の幽霊が出るって」
 クリスの発言をエドマンドが一蹴した。
「そんなの嘘に決まってるじゃないか」
「ま、とにかく、どうやるかはこれからゆっくり俺様が考えるからさ」
 ジョージ・ディップディンの声と何人かの足音が遠ざかり、聞き耳を立てていたウィリアムはうーむと考え込んだ。
 これは「いじめ」じゃないだろうか。
 貴族のお世継ぎたちが時々自分に意地悪をすることはあるが、それはそれ、身分が違うし自分は雇われているのだし、だいたい自分は大人、たかが子供のすることに目くじらを立てるほどのこともなく、でも生徒同士のいじめ、これはゆゆしき問題だ。新入生が周りになじめなくて浮くこともある、だがこれは明らかないじめだ、しかもディップディンの考えることならかなり危険。ウィリアムはディップディンのいたずらで丸焼きにされるところだったのだから、ディップディンの計画には警戒すべきと本能的に感じ取っている。
 ではどうしよう? 教師に直接知らせるべき? いや、ここはやはり生徒たちを束ねる監督生だろう。
 というわけで、ウィリアムはちょうど本を借りにやってきた本の虫ジェフリー君に「ちょっとここで僕の代わりをしてくれないか」と頼んだ。ジェフリー君はすぐに「もちろん、喜んで」と答え、司書の席にウィリアム君の代わりに笑みを浮かべて腰掛けた。ジェフリー君にとって、図書館を()べる司書の席は玉座のようなものだからだ。
「いってらっしゃい、ごゆっくり」
 ウィリアムは図書館から出ると、隣に立つ寮を目指した。
 隣とは言え、オースチン校の敷地はかなり広く、間には小さな林と小さな池、そして古びた四阿(あずまや)が存在する。チィチィと鳴く小鳥の声を聞きながらウィリアムが歩いていると、ふと林の中に誰かがいるのに気づいた。
 トネリコの木の根元に座っているその人影は、なんと話題の中心人物・志門少年ではないか。ウィリアムははたと歩みを停め、少年を窺った。
 ここで悪巧みを彼にばらすべきだろうか?
 いや、必ずしも彼らが実行するとは限らないし、そうなったらいらないお節介になってしまう。だけでなく、他の生徒たちへの偏見を植え付けることにもなるじゃないか、とウィリアムが迷っていると、志門君はなにやらしゃべり出した。
 膝に置いてある本は閉じられているから、声を出して読書しているのではなさそうだ。
 しかも誰かに話しかけている様子。
 他の人がいるのかしらん、とウィリアムは首を伸ばす。
 しかし人影は志門少年のただ一つのみ。
「へえ、そうなんだ。じゃあ、しょうがないなあ。残念だけど、またの日にしよう」
 少年の声が風に乗ってウィリアムの元へと到達する。
「だったらこうしよう。僕が明日の朝、パンを半分残してやるよ、それでいいだろう?」
 チィチィと小鳥の声の合間に少年の声が再び聞こえる。
 まさか霊と話しているのではないだろうな、とウィリアムは思った。
 なんとなれば。
 オースチン校は十一世紀に建てられた聖ベネディクト会の修道院を改築したものだ。
 修道会は十五世紀にヘンリー八世によって解散させられたが、その建物はとある貴族の手に渡り、さらに大商人の手に渡り、なにやら没落して首を括ったの、奥方の不倫の末に刃傷沙汰があったのというお定まりの歴史の末に今世紀の初め、オースチン校の創始者によって買い取られて今現在に至る。下世話な事件だけでなく、プロテスタントとカトリックの宗教戦争のさなかには、血で血を争うこともあったのだ。そういった歴史が刻まれているオースチン校の建物に、ウィリアムは確かにおどろおどろしい気を感じることもある。霊の残渣が残っていると感じることもある。ネクロマンサーとして、自分の職場の邪気を払わねばならないかしらん、とたまに思うこともある。「たまに」なのは、霊の残渣がさほど学校生活に悪影響を及ぼしていないからで。
 しかしふらふらしている霊が少年と話すこともあるかも知れない、とウィリアムは精神を集中させる。
 何も感じない。
 ウィリアムはほっとため息をついた。
 志門少年はきっと独り言が癖なのだ、と結論づけてその場をそっと去った。
「そっと」なのは何故かというと、ほら、あなただって、独り言を言っているのを誰かに見られたら恥ずかしいでしょう?
 独り言の方がずっと誰かさんが当たりの迷惑も顧みずに行う独り芝居よりはまし、とにかく今はいじめを防ぐのが最優先課題だ、とウィリアムは足を速める。林を通り過ぎてすぐ寮の玄関へと到達した。オースチン校の寮は、近代的な設備を備えたホテルなみの施設だが、もとは修道院で、寮の入り口までには苔むした石段が続き、錠前の着いた大きな鉄の扉がついている。
 寮生が外出できないようにと、夜になるとこの扉は閉じられることになっている。
 スコットのルームメイトであるジェフリーに、スコットは今在室中と確かめてあったので、ウィリアムは玄関からまっすぐスコットの部屋へと行った。
「ウィリアムさん! ご用なら僕が図書館へ行きますのに!」
 満面の笑みで迎えたスコットの本音は「部屋へ来てもらって嬉しい」だ。たとえ単なる用事だとしても、わざわざ部屋まで来てくれるなんて! なんだか特別に親しいみたいじゃないか! いや、特別に親しいからこそ、訪ねてきてくれたのだ! そうだろう?
 しかしスコットを見上げるウィリアムの表情は硬かった。スコットは慌てて頭を巡らせる。もしかして僕は何か大変失礼なことをウィリアムさんにしたのだろうか? いやそんなはずはない。もしそうだったら、直接その場で言うだろう。ウィリアムさんは礼儀を重んじるから。だったら生徒たちが何か?
 急いでスコットはウィリアムの手を取る。
「ひょっとして生徒たちが何か悪さをしましたか? 図書館で騒いだりとか、チョコを摘んだべたべたの手で本を触ったりとか、または泥の玉を投げる代わりに本を投げっこして遊んだりとか?」
「違うよ、そんなことで来たのではない」
 ウィリアムは硬い表情のまま首を横に振り、スコットは再び焦って頭を巡らせる。生徒たちでなければ。ああそうだ、あいつに違いない、あいつに決まってる。
「解りました、またあのどうしようもない変人の義兄ですね! ジョン・ウルフがあなたになにか失礼なことをしたのですね! ウィリアムさん、ご心配なく、必ず兄に叱ってもらいますから。あいつはまた我が家に来てやりたい放題をしていることころです」
 ジョン・ウルフがウィービル邸を今訪れていると知って、ウィリアムは不安からなのか、それとも別の感情(たとえば期待?)からなのか、解らないまま真っ赤になった。なぜか心臓の鼓動は早く、しかもスコットに聞こえるのではないかと思うぐらい大きな音になり、胸の中に風船があって、で、それが膨らんできたかのように胸がいっぱいになり……。いけない、今はそれどころじゃない、と必死で心を冷静に保ち、ウィリアムは「それも違う」と答えた。
「実は新入生のことなんだ。ついこの間、君が紹介してくれた志門君についてだ」
 スコットは今度ははてなと首を傾げた。
 遠い国からやってきた志門少年、あまり人とはしゃべらず、いつも不思議な笑みを浮かべていて、先生方の印象では学業については問題ない、と監督生であるからその程度のことはリサーチしている。だが彼が何か問題を起こしたというのは初耳だ。
「何か図書館で問題を起こしたんですか?」
「いいや、そうじゃない」
 スコットはここでウィリアムを立たせたままだったことに気づき、「どうぞ」と礼儀正しくベッドを指し示した。読者諸君、もちろんスコット君がウィリアムさんを誘惑しただなんて思わないでしょうね? 寮の部屋はさほど広くなく、ベッドが二つに机が二つ、洋服箪笥が二つでいっぱいなのだ。どんな高貴な貴族の子弟であってもそれは同じ、来客はベッドに腰掛けるしかないわけで、それゆえ、スコット君はベッドを指したのだ。さすが監督生のベッドだけあってカバーは洗い立て、きちんと整っていて、ウィリアムは安心して腰を下ろした。そしてディップディンたちのやりとりのいっさいをスコットにじっくりと話して聞かせたのである。
「新入生へのいじめじゃないか。スコット君、ぜひ彼らの行動を阻止してくれないだろうか?」
 しかし目の前の椅子に腰をかけているスコットの首は動かない。
「ウィリアムさん、それはいじめではなくて歓迎なんです。我がオースチン校の伝統で、いわばイニシエーション、仲間入りの儀式。僕の時は校舎と寮の間にある林の一番高い木に登らされました」
 スコットは真面目な顔で答えた。
「彼らの言っているのは、我が寮の開かずの間のことでしょう」
 それはウィリアムも知っていた。修道院の一番てっぺん、屋根裏部屋に当たる部屋のことだ。「開かずの間」と呼ばれてはいるが、鍵はかかっていない。ウィリアムはその部屋の由来を門番にして鐘突のサイモン氏に教わったことがある。部屋の真ん中にはぶっとい梁が通り、小さな窓が開いていて、別にどうってことのない部屋。しかし、ある時、生徒たちがそこでこっそりと煙草を吸っていたことが判明し、それも教師が見たところによると、梁に腰掛けて足をぶらぶらさせ、そう、まるで遠い日本に煙草をもたらした悪魔のように……いや、この一節は日本以外の読者には伝わらないので、聞かなかったことにしてくれたまえ、諸君、とにかく当時の校長様(今から三代ぐらい前)が二度と悪いことに使えないよう厳重に鍵をかけた。で、今は鍵がかかっていないのはなぜかというと、サイモン氏が頼まれて鍵を開けたから。校長様が変わって鍵がなくなってしまい、そのままにしておいても良かったのだが、やはりそれもまずかろうというわけで。一つにはそこにネズミが巣を作り、毎晩キーキーチューチュー大騒ぎをしたためで、サイモン氏は鍵を開けただけでなく大掃除もする羽目になったのだが、それはさておき、いつのまにか「開かずの間」の由来はロマネスク様式の修道院にふさわしく「幽霊が出たから」になってしまい、さらに「幽霊が出るから」にもちろん変貌し、子供たちはそんな幽霊譚が大好き故に。
「この数年は、あの部屋で一夜を明かすことが入寮儀式の流行なんです。これは我が寮の、そしてオースチン校の伝統ですから」
 スコットにきっぱり言われてはどうにもならない。ウィリアムはもちろんパブリックスクール出ではないし、寄宿舎で生活したこともない。それがヴィクトリアンの一般庶民。少しばかり身分の差を感じ取ってしまうウィリアムである。
 と、ちょうどサイモンさんの鳴らす鐘の音が聞こえてきた。
 三時。図書館の閉館時間だ。そして下宿へと帰る時間。
 だがそこでふとウィリアムの胸に嫌な予感がよぎる。
 さっき、スコット君はなんと言ったっけ? そう、義兄のジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵がウィービル邸に滞在しているって。まさか、まさか、また下宿に来てるなんてことはないだろうな。もちろんその予感は当たっているのだけれど、とりあえず今の状況を説明し続けようと思います。
 ウィリアムの顔が曇ったのをスコットは見て取り、新入生のことを心配しているのだと想像する。ただちに「大丈夫です、行きすぎないように僕から奴らに釘をさしておきますから」と胸を張った。
 それなら、とウィリアムはベッドから立ち上がる。
「わかったよ、君は監督生だものね」


 下宿へ戻る間、ウィリアムはいろいろなことを考えていた。
 さきほどスコットに言われたことがウィリアムにあることを思い出させ、ウィリアムの心ををかき乱していたのだ。それは「身分の違い」。パブリックスクールとグラマースクール、決して交わらない世界。もちろんウィリアムはグラマースクールの出身者。
 人は生まれながらにして所属する階級が決められている。それはウィリアムも承知している。
 ところで、ビクトリア朝イギリスでは、オイルランプの発明や窓に対する税金が1851年に廃止されたことに伴い、読書の習慣がたいそう普及した。だって暗いところでは本なんか読めやしないでしょう? でもまだ本の価格は高かったので、大衆はどうしたかというと、貸本屋で本を借りたのだ。その頃の最大大手のミューディーズには、家族がみんなで読めるような道徳的かつ啓蒙的な本しかなかったけれど、いつの時代もみんなが読みたいのは「胸キュン」。
 え? それがウィリアムを悩ませている「身分違い」とどう繋がるのかって? それはこれから説明するところです。
 ウィリアムは本が大好き、だからこそ司書になっているのだけれど、学術的な本だけではなくもちろんベストセラーの本は一応目を通している。貸本屋に行くこともある。そこの親父に「へっへっへ、これがおすすめですぜ」などとちょびっといかがわしい本を見せられることもある。貸本屋で最も人気のあるお嬢さんがたやご婦人がたが喜んで読む本のことも知っている。
 彼女たちが読む本は「胸キュン」に決まっている。最近の流行はメイドの恋物語だ。お屋敷の若様との禁じられた恋……幾多の苦難を乗り越え、若い二人は結ばれる、まるでロミオとジュリエット。お嬢さんがた、ご婦人がたは胸を躍らせて読む。ロマンティックな気分に浸る。
 でも知っている、そんなことは現実にはありえないと。階級の差を乗り越えて、なんて実際にはないのだと。だからこそ、みんな夢を見たくて本を読むのだ。
「身分違いの恋」。スコットの言葉から端を発し、さらに連想したその言葉、そう、それがウィリアムの心を悩ませている。
 ウィリアムはさらになぜ自分が悩んでいるか、それについて悩んでいる。
 だってウィリアムは身分違いの恋などしていない……はずだ。というか、そもそも恋なんてしてないし。でももししてるとしたら誰と?
 そこでウィリアムはかっと頭が熱くなるのを感じた。
「ぜったい、ぜったい、ありえない!」
 ちらちらと目の前に浮かぶあの顔をウィリアムはぶんぶんと手を振ってかき消す。その顔はもちろんあの傍若無人・傲岸不遜・迷惑至極の男爵だ。
 恋なんてしていないのだし、たとえもし二人が恋をしていたとしても、そしてどんなに惹かれ合っても、身分が違う故、二人はお伽噺のように幸せになることはない。
「っていうか、惹かれ合う? いいや、それも全然違う」
 ウィリアムは心の中で叫ぶ。少なくとも男爵はウィリアムのことなんか好いているはずもない。恋人同士がすることをしてはいるけれど、それは単に男爵が変身をするのを防ぐため。そう言っているじゃないか、男爵自身も。あんなことをするのは決して好いているからではなく、便宜上なのだ。
 そう考えた途端、ウィリアムの足取りが重くなってきた。まるで胸の中に重たい石がたっぷり詰まっているみたいに。また靴に鉛が仕込まれてるみたいに。
「単なる、単なる、一つの方法として……」
 可愛いとか何とか男爵は言うけれど、そんなの、嘘に決まっている。ウィリアムをだまして言うことを聞かせるために違いない。ウィリアムだって、我慢してやっているのだから。そう、我慢して、いやだけど、仕方ないからで……。
 なんでこんなに胸が痛くなるのだろう、とウィリアムは下宿に向かって真一文字に歩き続けながら思う。
 考えてみれば、ウィリアムは男爵とどころか、(それはあり得ないけれど、と付け足しつつ)普通の女性とだって本当は簡単に結ばれることはないのだ。なぜなら、彼は魔術師の血を引いているから……。
 ウィリアムの母・ヘンルーダに小さい頃から言い聞かされてきた……。
「ウィル、お前には私から特別の血が流れているの。本当は私たちの家系は、娘にしかその血は引き継がれないのだけれど、どうしたことなのかしらねえ、男の子のお前にもその血が流れているの。そしてその血を持つものは、大きな義務も一緒に持つと、それが私たちの宿命、特別な力を持つ理由、私の母やそのまた母、その母はずっと言い伝えてきたのよ」
 だから、と暖炉の傍の椅子に腰掛けたヘンルーダは、ウィリアムをその膝に乗せ、言った。
「秘密は女のものなの。女はそうやって秘密とともに血を伝えていくけれど、お前は男の子。いつか恋に落ちて、可愛い女の子と結ばれて、それでも秘密を守ることは出来ると思う? いいえ、決して出来ないでしょう。だからウィル、恋に落ちてはいけないの、それがあなたの宿命。もし結婚するときには、聡明であなたのことをすべて受け入れ、あなたとともに宿命をも引き受けてくれるような人を選ぶのよ」
 ウィルの父・パトリックは自分の妻が魔女だなんて金輪際ご存じない。彼は田舎町の警察署長で、事件らしい事件など起こらないため、毎日同じ時間に出かけ、同じ時間に帰宅し、その間、奥様が秘密の薬草を煮ているなんてのももちろんご存じない。男は何でも蚊帳(かや)の外にいるものなのだ。
 ヘンルーダ、聡明にして美しい最愛の母、ウィリアムの父を愛し、ウィリアムを愛し、家庭を大事にしているけれど、でもその正体は魔女。十二世紀、グラナダに住んでいたアラブ女性の血が彼女には流れている。情熱的な恋をするのも遺伝らしい。グラナダに住んでいたアラブ女性は、イギリスからやってきた学問僧と恋をし、そのままイギリスに渡ってきたのだ。ヘンルーダも夏のある日、ピクニックで出会ったウィリアムの父と電撃的な恋に落ち、母親の反対を押し切って結婚したのだから。
 それゆえ同じ血が流れているウィリアムに忠告したようなのだが。
 ウィリアムの頭には母の忠告が常に大きな立て看板となって存在する。今までは学問一途、本大好き、それでよかった。結婚することなんて、考えたこともないし、女の子に心を奪われたことだってなかった。立て看板は単にあるだけ、スルーしていた。
 それが今になって、なぜ強烈な胸の痛みを持って思い出されるのだろう?
 わからない……わからないまま、ウィリアムは母に聞かされたいろいろな話を思い出していた。どれほど一族が辛い思いをしてきたか、また平和な生活を一瞬のうちに奪われたことがあったとかとかとか。
 中世ヨーロッパに吹き荒れた異端審問の嵐、それはここイングランドでも例外なく起こり、ウィリアムの先祖たちは自分たちが特殊な能力を持つことをひた隠しにして生き続けた。19世紀の今日、魔法使いだからといって火炙りになることはもうないだろうけれど、職業として悪霊を祓ったり、失せものを探したりする以外はなるべく人の噂にならないよう、とは一族の掟なのだ。
 だからウィリアムは細心の注意を払っている。恋に落ちることなど論外、そう思っている……。結婚だってもちろんしない。決めている……。
「……ウィリアム、本当にいいのか?」
 低い声が耳元で聞こえ、ウィリアムは「ええ、もちろんですとも」と反射的に答えてしまった。
「本当か? 本当なんだな?」
 聞き覚えのある、だがしかしなにやら戸惑ったような、そして躊躇するようなその声に、自分の迷う心を見透かされたような気がして、ウィリアムは「ええ、男に二言はありません」ときっぱり口にする。
「そうなのか!」という叫びと共に、二の腕が強い力で掴まれる。
 はっとその瞬間、ウィリアムは我に返った。
 目の前にはなんとジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の顔が迫っている。狼ではなく、人間の顔なのだが、口は耳まで裂けているかのように開き、にやにやと笑っている。
「いやあ、俺さまとしたことが、なんでもっと早く言わなかったんだろうなあ。満月の夜だけでなく、他の月暦の夜もお前は俺と契りたかっただなんて、全く知らなかったぞ」
「は? 何をおっしゃっているんですか?」
 ウィリアムが聞き返すと、ジョン・ウルフはさらに口を大きく開けてがははと笑った。
「いいのだ、可愛い奴、恥ずかしがりのお前のこと、聞かなかったことにしてやる。さあ、いざ契ろう」
 言葉が全部終わらないうちにウィリアムはひょいと椅子からすくい上げられた。
 そう、ここは下宿、ウィリアムのスィートホーム、居心地の良い居間。
 考え込みながら我が家に戻ってきたウィリアムは、扉の前でジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵と鉢合わせし、執事ヘンリーの「お茶をご一緒にとご主人様がおっしゃるので」という言葉にむげに追い返すわけにも行かず、自分の部屋に招き入れ、ネリー夫人特製のスコーンとヘンリーの淹れた美味しい紅茶を堪能してはいたものの、ほとんど心ここにあらずの状態で今までいたのだった。
 相変わらずジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵は大声でいろいろなことをしゃべりまくり、ウィリアムは適当に相槌を打っていたわけで、なにか尋ねられて返事をしたことまでは理解したが、その肝心の質問が何かはまったくわからない。自分がなんと答えたかさえ。
 それでも逞しい腕にお姫様だっこされ、寝室へと向かうジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の肩越しに慌てて外へ出ていくヘンリーの姿が見え、これから何が起こるか十分想像が付き、ウィリアムは「待ってください」と叫んだ。
「男爵、やめてください!」
 もちろんその言葉でジョン・ウルフの行動を止めることが出来なかった。
「がはは、自分から誘ったなんてことは恥ずかしがり屋のお前は絶対認められないからなあ、もちろん俺が無理矢理やることにしてやろう」
 ぽうんとベッドにウィリアムを放り出すと、ジョン・ウルフはさっさと上着を脱いだ。
「ウィリアム、可愛い奴、たっぷり可愛がってやるぞ。こないだの満月以来だ、朝まで契るからな」
 たとえ変身していなくても、まるで話はかみ合わず、人間と会話しているとはとても思えない、とウィリアムは諦めて目を閉じた。
 こんな男と恋に落ちているはずなんかないじゃないか! そう思いつつ。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

ウィリアム・クーパー・ポイズ

ビクトリア朝英国のパブリックスクールオースチン校の司書にして
悪霊を祓う魔術師。

ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵

スコットランドの貴族にしてフェンリル狼の血を引く人狼。
かなり自己チューなお殿様。

九条志門

日本から来た留学生。

キース・トランパース
オースチン校の学生。

化学オタクで実験が大好き。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み