第1話

文字数 1,943文字

お父さんが茉莉花の足を触ったよ、と娘の茉莉花が言う。
今日は3月18日、春休みの始まりだ。
「そう」とだけ返事をして、私は花を生ける手を止めない。広々としたダイニングで、娘に背を向けながら。
花瓶の中に黄色と白の小さな花が並んだ様は、春の野の温かみを感じさせてくれる。花屋でこの花を選んだ自分は間違っていなかったと、心の中で自画自賛する。
私は花を生けるのが好きだ。だって、分かりやすく幸せそうだから。
「ねえ」と、再び呼びかける茉莉花の声で、私は思考を止めた。
「この前また、お父さんが茉莉花の足を触ったの。茉莉花がソファで寝てたら、近付いてきて、触ったんだよ」
「また、そんな嘘を……」
呆れた顔を作りながら、私は振り向いた。聞かなかった事にしたいのに、尚もしつこく言い募ってくる、この娘は、まるで花の中に入り込んだ蛇だ。
「あなた、寝てたんでしょう?夢でも見たんじゃないの。それか、お父さんが心配して、毛布でもかけてくれたのよ。大体、寝るなら自分の部屋へ行きなさいって、前から言ってるのに―」
でも、と言いかけた茉莉花の言葉を遮って、私は、
「それより、勉強は終わったの?春休みだからって、手を抜かないで。最近、学校でも集中力が落ちてるようだって、先生から聞いてるわよ」
と言った。
茉莉花は不満そうな顔で私を見ていたが、やがて、言っても無駄だと思ったのか、身を翻して、ぱたぱたと部屋を出て行った。
「今の話、家の外でしちゃ駄目よ。変な目で見られて困るのは、あなたなんだから」
その後ろ姿に、そう声をかけて、私はようやく息をついた。
それにしても、いつから、あの娘はあんなに綺麗になったのだろう。
茉莉花は明らかに、私よりも実父―私の前夫―に似ている。茉莉花と同じ年頃の私は、もっと目立たぬ子だった。そして、それは今も変わらない。
私の前夫は容姿端麗な人で、私と短い結婚生活を送った後、同じく容姿端麗な女性と逃げて行ってしまった。お互いの両親が連れ戻してくれたものの、結局、私は前夫と元の鞘には戻れなかった。
はなから、愛されての結婚ではなかったのだ。酒の席での過ちによって、私は妊娠し、周囲からの圧力によって彼は私と結婚した。その裏に、前夫に対する私の憧れから来る策略が無かったとは言わない。けれど、前夫が親しい女性達に「騙し打ちに遭った」と語っていた程の事を―あんな風に打ち捨てられる程の酷い事を、私は、していない。
……もしも私に、前夫と駆け落ちした女性くらいの美しさがあれば、或いは彼も私のもとを去らなかったのだろうか?

私が、今の夫である耕作と結婚したのは、2年前、茉莉花が10歳の時だ。
友人の紹介で出会った耕作は、物静かな優しい人だった。離婚した経験があり、連れ子が居ると言っても、彼は顔色ひとつ変えなかった。
「ええ、知っていますよ。茉莉花ちゃん、綺麗なお嬢さんですね。実のところ、以前、友人と出かけた時に、お2人が仲睦まじく歩いておられるのを見かけて……。それからずっと、良いなと思っていたんです」
話に面白みは無いけれど、私の気持ちを尊重してくれて、連れ子である茉莉花にも優しくしてくれる。
出会って1周年の日、「君達と家族になりたいんだ」と照れた顔で花束を差し出す耕作を、私は受け入れた。
それからは、私が働く必要も無くなり、恵まれた生活を送っている。耕作の給料が、同年代の平均よりも遥かに多かったおかげだ。
私が1人で茉莉花を養っていた頃には、平日の昼間から花を生けるなど、考えられなかった。昼夜を問わず働きづめだったし、食べられない花よりも、今日の食料を買わねばならなかった。耕作と結婚して初めて、花屋で花を買った時には、嬉しすぎて泣くかと思ったものだ。
茉莉花だって、たくさんの可愛い服に囲まれて、他の子達が持っていないような物を買い与えられている。
―だから自分は間違っていない、とトイレの床を磨きながら、私は、ぎゅっと手を握りしめる。
昼の内、私は花を生けたり、本を読んだりして過ごしている。風呂やトイレを掃除するのは、夜が更けた後―耕作が帰宅して、皆で食事を終えた後だ。その時間には、耕作が茉莉花の部屋を訪れるから。
血が繋がらないといっても親子なのだし、夜に娘の部屋を訪ねても特に問題は無いと、私は自分に言い聞かせる。
その時間に自分が決して茉莉花の部屋に近付かない理由は、考えないようにして。
だって、それを考えてしまうと、自分が築き上げてきた何もかもが崩れてしまう。
―大丈夫、問題ない、あれは勉強を教えているだけ。
トイレの低い位置に付いた汚れを、私は力を入れて拭き取る。
その内に、それがいかにも本当らしく思えてくる。どこか遠くから、すすり泣く声が聞こえても、掃除をする場所が無くなっても、私は手を止めない。
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