偽物の太陽

文字数 4,619文字

 息を吐くと白い煙になって辺りに霧散する。これは呼気よりも冷たい空気が、水蒸気を凝縮させているからだ。気候観測所なんて場所で働いていると、そんなことばかり考えるようになっていけない。
 観測所は丘の上にある。日が昇る前、まだ辺りが暗いうちに観測所に到着した俺は、庭に設置してある百葉箱の中を覗き、温度・湿度の自動記録装置が正常に動いていることを確かめる。これをちゃんと記録して報告するのが俺たちの仕事である。もちろんそれだけじゃなく、その集めたデータを基にして研究をしたりするのも仕事の一つだ。
 それにしても寒い。この地域でこの寒さは異常に思える。珍しいデータが取れれば研究対象になるかもしれない、今度観測所の皆に持ちかけてみよう。
 観測所内の研究室、そこが俺たちの住処である。普段はこんな早くには当番の者しか来ないのだが、今日は研究室の明かりがついていた。所長が珍しく早く来ているのだろうか。明日は槍でも降るんじゃないか。
 いつものように研究室裏口から、鉄製の重い扉を開けて中に入る。扉はギギッと音を立てて開く。

「おはようございまーす、と」
「おはよう」

 返ってきたその声は、所長の声ではなかった。それは、久しぶりに耳にする友人の声だった。

 *

「その声、まさか先生か!」

 ティーカップを片手にこちらに笑いかけた彼は、確かに『先生』その人だった。

「なんだよ、顔を出すなら連絡ぐらいくれよな!」
「朝から元気だな、お前は」

 相変わらず。そう呟いた先生は少し微笑んだ。

 『先生』と言うが同期の友人である。つまりはあだ名で、観測所のメンバーは皆そう呼んでいた。彼のいつも落ち着いた様子からついたものであり、メンバーの中で一番博識な彼への敬称でもあった。

 上着を脱いだ俺に、先生は紅茶の入ったティーカップを差し出してくる。先生は相変わらずの紅茶派だ。いつだったか、コーヒーは苦手なんだ、と語っていたのを思い出す。そんな先生は少し気障ったらしく、それも『先生』と呼ばれる所以だった。

「それで? そっちはどうなんだ?」

 問いかけると先生は視線だけをこちらに向ける。

「そっち、とは?」
「とぼけるなよ、国立観測所のほうだ」

 先生は一年前まではこの観測所で働いていたが、国立観測所からオファーがあり、今年の春からそちらで働いているのだ。

「決まったとたん、ろくに別れの挨拶もせずにいっちまうからさ」
「うん? 皆の前で挨拶はしただろう?」
「お別れ会をやってない」
「子供か」

 そう言って鼻で笑うから、俺は先生を睨んだ。

「……先生、少し毒舌になったんじゃないか?」
「そうか? 俺はいつも通りだ」

 先生はどこか寂しそうに微笑んだ。

 紅茶を一口すすると、柑橘系の茶葉の香りが鼻腔いっぱいに広がった。俺が淹れたのではこの味は出ない。数分蒸らすのがコツなのだ、と前に先生は言っていた。

「皆は怒っていなかったか? 俺が急に研究から抜けることになって」
「そりゃ、先生がいなくなって困るところもあるけど、あの時は皆喜んでたよ。うちのエースがやってくれたってな」
「……俺は何もしていないが」
「選ばれただけですごいんだよ」

 そう言うと先生は肩をすくめてみせる。変なところで謙虚な奴だ。
 こんな地方の観測所から国立の観測所に引き抜かれる、それだけですごいことなのだ。先生の努力が認められたということだ。

 *

「そろそろじゃないか」

 何気なく誘うと、先生は察してくれたようで何も言わず窓際に向かった。俺は部屋の電気を消したあと、先生の後を追う。

 二人して窓の外を眺めれば、ちょうど太陽が山の縁から顔を出すところだった。日の出の瞬間だ。山の木々に光が射し、麓の湖は光を反射してキラキラと輝いている。鳥が一斉に飛び立ち、風が木の枝を揺らした。
 一年前までは、先生とよくこうやって日の出を眺めていたものだ。

「母なる太陽、か」

 ふと先生が呟いた。

「ん? それを言うなら母なる大地、じゃないか?」

 大地讃頌の一節だ。

「ああ、そうだったか」
「まあ、先生の言うことも最もだ。太陽がなければ俺たちは生きられないからな」

 植物は太陽の光で光合成をし、草食動物はその植物を食べる。肉食動物は草食動物を食べ、その死骸を菌類が分解し、この栄養でまた植物が育つ。そして、人間は動物・植物どちらも食べる。
 太陽の光がなければ、生態系は動いていかない。俺たちは食料がなくなり、生きていくことが出来なくなる。

「気候が生まれるのも太陽の影響が大きい」
「その通りだ」

 風が生まれるのは太陽光の生み出す気温差が原因だ。太陽の光によって温められることで気温は変化するし、気温の違いによって雨が降ったり雪が降ったりする。

「太陽がなければ生きていけない」

 だから日の出の瞬間に、人はこんなに感動するのだろうか。

 *

「定期的にこっちに顔を出すことになると思う。今回は一週間こちらにいる」
「本当か、それ」
「ああ。……エイプリルフールにはまだ早いだろう」

 太陽の光に照らされた先生はどこか遠くを見つめていた。いつになく神妙な様子だ。

「……まさか、何か向こうでやらかしたとかじゃないよな」
「まさか」

 自嘲気味に笑う先生は、下手な冗談を言わない人だと俺は知っている。
 また先生と働けるのだ。そのことに、俺は想像以上に喜んでいた。

「なあ、今度また白鳥を見に行こう」
「白鳥?」
「なんだ、忘れたのか? 麓の湖にさ、毎年白鳥が来るじゃないか。前も見に行ったろ」

 ああ、と生返事をした先生はどうやら思い出したようだ。湖の方に視線を送っている。

「今年はこんなに寒いからな、少し時期には早いけど、もう来てるかもしれないぜ」
「……そうだな。時間が空いたら、見にいこうか」

 先生はそう言って紅茶をすすった。俺もティーカップに口をつけるが、紅茶はもう冷めてしまっていた。

 *

 先生はそれから続々とやってきた研究員達と喜びの再会を果たし、これから一週間共に働けるということに皆も喜んでくれた。

「な? 大丈夫だったろ?」
「ああ」

 先生は再会して初めて、嬉しそうに笑ってくれた。


 ***


「あれ、先生。どこいくんだ?」

 席を立つと、同期の彼に呼び止められた。他の皆はそれぞれの作業に集中しており、こちらを気に掛ける様子もない。

「ちょっと電話にな」

 そんなのここですればいいのに、という彼の声を背に聞きながら外に出た。冷たい空気が肌を刺す。辺りに誰もいないことを確認して電話をかけた。
 呼び出し音の三回目が鳴る前に相手は出た。

「どうぞ」

 無機質な声に温度はない。俺は短く用件のみを伝えた。

「太陽の温度を上げてください」
「報告場所は?」

「……ポイント一五一です。以前より気温が低下しています」
「了解しました。他のポイントからも同様の報告がされています。近々国際観測所にその旨を報告することになるでしょう」

 *

 『二つ目の太陽』プロジェクトが始まったのはもう数百年も前だというから驚きだった。太陽の活動は低下しつつあり、それに伴って気候に変動も見られる。それも人間にとって悪い方向に。
 近い将来、太陽は活動を停止する。このままでは人間が地球に住めなくなる。そう考えたお偉い学者様方は、人工の太陽を作り出すことにした。太陽というのは巨大なエネルギーを持った熱球で、要するにそれと同じものを地球上空へ打ち上げればよいと。馬鹿げた考えだ。もし失敗したら人類絶滅どころではない。
 しかし、実験は成功してしまった。人工の太陽はごく自然な形で太陽系におさまり、活動の低下した太陽の代わりを果たすこととなった。おまけにこちらの操作で温度調節すら可能になった。人が地球の気候をコントロールすることが出来るようになってしまったのだ。

 この事実を、その実験を行った研究所や投資していた政治家が公表しない理由は二つある。一つ目に、こんな突飛な話は誰も信じないから。人工太陽は今までの太陽と何ら変わりないような顔をしてそこに鎮座しているのだ、わざわざ説明して、要らぬ混乱を招かなくとも良いではないか、と。
 二つ目に、気候を自由に操れるということは、絶対的な力になりうるからだ。人口太陽を使って気候を操れば、ある国を狙って意図的に災害を起こすことだって可能かもしれない、と誰かが言っていた。つくづく、人間は汚いことを考える生き物だ。

 *

 引き抜かれた先で俺が依頼されたのは各地の気候を調査し、人工太陽の温度を調節するためのデータにすること。そして、各地の観測所で、人工太陽に不審を持つ人間がいないか調べることだった。

「報告、感謝します」

 ちっとも感謝していない声で相手は言う。

「他に報告は」
「ありません」
「気づかれた様子は」
「ありません」
「分かりました。引き続き、観測をお願いします」
「……悪いんだが」
「まだ、他に何か?」
「……これはいつまで」
「それについてはもう、あなたはご存じなのでは?」

 ガチャリ、と言う音を聞いた俺は腕をだらりと下げた。
 何気なく上を見ると、偽物の太陽がこちらを見下ろしていた。

 *

「意外と早かったな。もう電話はいいのか?」

 机に戻ると隣に座った彼が話しかけてくる。この机は一年前まで、俺が使っていた机だ。俺が抜けてから誰も使っていなかったらしいが、きれいなのは同僚がこまめに掃除をしてくれていたからだ。

「ああ。くだらない定期報告だよ」
「なんだ、説教されてるのかと思ったのに」
「君は俺をなんだと思ってるんだ」
「え? 先生だろ?」

 その返しに少し拍子抜けする。

「……『先生』は説教されないだろう」
「そうかもな。けどさ、俺たちの『先生』は、お前だよ」

 彼はなおも続ける。

「がんばってくれよな、俺たちのエース! 期待してるんだからさ」

 そうやって俺の背を掌で叩く。

 そうだ、君は嘘のつけない人間だった。
 俺は君のそんなところが好きだった。そんな君に憧れていた。

 だから俺は自分に嘘をつきたくなくて、あの時も太陽の動向がおかしいなどというレポートを提出し、その結果……。いや、これは君のせいではない。これは俺の出すぎた好奇心のせいなのだ。


 俺は君と麓の湖に行かないだろう。
 真実を知ってしまった時から駄目なのだ。湖の水面も、青くしげった樹々も、空を飛んでいく鳥達も、俺に愛想よく話しかけてくる人々の言葉、行動、表情、そのすべてが、作られたものにしか見えなくなってしまったのだ。

 世界は約二千年前、ガリレオが望遠鏡を覗いた時から太陽を中心に回っていた。太陽は神であり、母であり、すべての源だった。太陽という絶対的な存在が崩れた時、こうも世界は違って見えるものか。
 君と湖に白鳥を見に行ったあの頃には、もう戻れない。俺はこの一年足らずであまりにも変わってしまった。俺が確かに目標としていたはずの、君のような馬鹿正直な人間でさえ、なにか裏があるように見えてしまうのだから。
 君は俺の入れた紅茶を、変わらない、と言って笑ったが、それも俺にはひどい皮肉にしか聞こえなかった。俺の価値観は、人生観は、俺という人間は、こんなにも変わってしまっているのに。


 隣の席に座った彼は俺に笑いかけた。

「なあ、また紅茶を淹れてくれよ、先生」

 俺には君のその笑顔すら、偽物にしか見えないのだ。
 俺は彼に精一杯の微笑みを返した。

「ああ、もちろん」

 それが偽物に過ぎないことは、俺が一番理解している。
 ああ、俺は酷いやつだ。
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