第23話

文字数 11,687文字

 島に一つだけある神社は、そろそろ始まるお祭りの準備で忙しい。境内はひんやりとした空気に包まれながらも、人々が忙しく動いている。あるおじさんは赤いちょうちんの数を確認していて、またあるおじさんは黙々と屋台を並べ始めている。お祭りは三日間続く。夏の真ん中に行われるこのお祭りは、この島のトップスリーに入る大イベントだ。普段は人が少ない道が、露店で商店街の方まで埋め尽くされ、暗い夜道を赤いちょうちんがぼんやりと照らす。この島の夏祭りはもともと、自然の恵みを神へ感謝し、また、人々の繁栄を願うものだった。昔は島の人々のみで行われるものだったが、今では船も通ったため、本土の方からの観光客も少なからず来るようになった。
「何でここっていっつもひんやりしてんだろうねえ、ね、諒」
「さあなー。でも涼しくて夏は助かる」
 赤い所々けずれている大きな門を通り抜けて、上を見上げた。大きな木々から伸びた枝についている濃い緑色の葉しか見えない。その隙間からようやっと青い空が見える程度で、境内は木漏れ日が少ない。だがだからこそ、たまにある日当たりのところには小さな花が咲き乱れていて、日陰に転がっているコケで覆われている石を寄せ付けない雰囲気をもっていた。三人で境内の中に入りながら、とりあえず持ってきたお金をお賽銭箱の中に投げ入れる。古びた賽銭箱は長さ一メートルほどの大きさだ。ところどころ腐っているように変色しているが、それでも毎年きちんと境内の奥に居座っている。三人そろってお賽銭を入れてその場でしばらくお願いごとをする。ユキはとりあえず、毎年願っていることを頭の中で繰り返した。目線を上げると暇そうに諒が突っ立っている。大したお願いもなかったらしい。
「有姫、いくら入れた?」
「五百円」
「は? 有姫まじで言ってる? 入れすぎじゃねえ?」
「諒はいつも入れにこれるでしょうが。あたしは夏しかこれないもの」
 青いロゴが入った黒いビニール製の財布を小さなカバンに詰める。アサも願いごとが終わったらしくやっと顔を上げた。
「お願い終わったあー」
「安沙奈は願いごとが長すぎだろ。どんだけお願いしたんだよ」
「えー? だってとりあえず願っとかないと。叶ったら得だし」
 ねえ? とアサに言われ、苦笑しながらも頷く。
 サンダルのヒールが土に埋もれる感覚がした。なるべく深く入り過ぎないように慎重に歩きながら、アサの後を追う。アサは建てかけの露店を興味深そうに見て、鳥居のちょうど真下でこちらを振り返った。外からの日差しと境内の暗さの境目のような場所にいるアサは、何となく眩しくて目を細めた。
「ねえ、ユキ、浴衣ってあったっけ?」
「あー、どうだったかしらね。もしかしたら、去年着たのをそのまま良子おばさんが持っておいてくれているかもしれないけど」
 背の高い鳥居の下を通り抜けてアサの横に並ぶ。諒も暑そうな顔をしながら日差しの下に出てきた。三人で稲の緑が当たり一面にそよいでいる道を歩く。だだっ広いその道はコンクリートの道ではないから少し歩きにくい。でも、すぐ下で感じる土の感触は結構好きだった。稲の緑が目に沁みる。夏風であおられてさざ波のように揺れている稲を、目の端で捕らえながら、商店街に続く道を歩いていく。
「あーあ。あるといいなー。アサ、どうせなら下駄も履きたい」
「でもいつも一番始めに痛がるよな? 痛いなら履かなきゃいいだろって思うんだけど」
 諒がアサとユキに数歩遅れてついて来る。アサもユキもそれに振り向かずに大声で返事をする。こんなところで周りを気にして小声で話したって、どうせ誰も聞いていないのだ。というか、夏の一番暑い時間帯にこんなところに誰もいるわけない。
「えー? 何言ってんの、諒! 分かってないよ! 浴衣着るなら下駄履いてなくちゃ変だもん!」
「だから、浴衣だっていつも暑い、きついって騒ぐんだから、着なきゃいいんだよ」
「はー?! お祭りに浴衣で行かないなんて、できないよ!」
「……いや、別にできるだろ」
「そんなこと言って、本当はアサの浴衣姿見たいくせに」
 久々に諒をからかうと、後ろから「なっ?! ち、ちげえよっ」と慌てた諒の声がした。それを、心からおかしく思える自分がいることに安心する。
 やっぱり、あたしは諒が嫌いってわけじゃない。
 アサだって、諒のことが好きなのだ。ユキ一人が諒のことを嫌に思ったって、どうにもならない。何の得にもならないのだ。
 だったら、あたしも諒を好きじゃないと、損だわ。
「ユキ? どした? ぼうっとして」
「え? ああ、別に何でもないわ。それよりも、暑いから商店街入ったらまずアイス食べない?」
「アイス食いてえ! あ、そうだ。確か、この時期観光客も来るから、ソフトクリーム安かった気がする」
「え、そうなの?! どこの店?」
「ええっと、こっちから商店街入ったら……右側にある、小さな緑ののれんかかってるとこだよ。喫茶店っぽいとこ」
 島にずっといるわりには店の名前が分からないらしい。諒は首をかしげながらぶつぶつと考えていたが、途中で嫌になったのか、「まあ、商店街入ればすぐ分かるから」と言って、説明しようとすることを止めた。
 商店街の入り口が見えてくる。だんだんと稲の綺麗な緑一色だった景色が、住宅に変わっていく。住宅といっても、家々の後ろには緑色の稲の葉がそよいでいるし、そもそも全く密集していないのだが。地面も粗雑なコンクリートのものに変わり、歩くとヒールが熱くなっているアスファルト音を立ててを叩く。
 商店街に入ると、綺麗に飾りつけがなされていた。初日に商店街を回って以来、ほとんど海の方でばかり遊んでいたから、商店街内がこんなに飾りつけがなされていることに初めて気がつく。
「綺麗! 毎年商店街って飾りつけされてたかしら?」
「ああ、これは今年からだよ。観光客が増え始めたから、商店街でも何かやろうって話になったんだってさ。あ、あったこの店」
 諒は商店街に入ってすぐの右側の店に入った。緑というよりは、渋すぎる抹茶のような色をしたのれんがだらりとぶら下がっている。傍らについている風鈴だけが涼しげに鳴っている。
「すいませーん! アイスくださーいっ」
 アサが大声でお店の人を呼んだ。カウンターには誰もいなくて、恐らくお店の王にある自宅に引っ込んでいると思ったからだ。ちょっと小太りのおばさんがはいはいと言いながら奥から出てくる。ガラスのショーケースを挟んだ向こう側におばさんが立つ。ユキはアサをそっと小突いた。
「アイスじゃなくて、ソフトクリームでしょ」
「あ、そっか。えっと、ソフトクリーム三つください」
「はいよ、ちょっと待っててね」
 おばさんは後ろを向いて慣れた手つきでコーンを取ってソフトクリームを作っていく。ウィーンとソフトクリームを出す機械音と扇風機が回る音が部屋の中に響いた。奥からは、お昼のドラマがやっているらしい。テレビの音が微かに聞こえてくる。
 そのとき、ドアが開く音が聞こえた。備え付けてある鈴がチリンと鳴る。こんな一番暑い時間に外を歩いているなんてめずらしいと思って、何気なく目をやった。
「すいません、ソフトクリームくださ……あっ?!
「あー!! 孫だっ」
 アサが思いっきり指さしながら叫ぶ。叫ばれた颯(はやて)は今起こっていることが信じられないような顔をしながらドアを半開きにして立っている。
「ちょっと、ごめんね、颯くん。クーラー入ってるから、入るなら入っちゃってくれる?」
「あ、はい。すいません」
 おばさんに言われて颯は一瞬迷って店の中に入った。誰だって日差しが強く暑い外にはいたくない。颯は黒髪を汗でぺったりさせながら、近くのイスに腰掛けた。おばさんに名前を知られているということは、この店に何度も来ているのだろうか。
 ユキは颯の行動を見ながら、この気まずい空気がどうなるのか傍観していた。ユキは、関わるなと言われたのだから、関わるつもりはなかった。だから、傍観だ。ユキは傍観者である。だが、多分アサは違うだろう。
 ちらっとアサを見ると、ソフトクリームをおばさんから受け取っている真っ最中だった。
「はいよ」
「ありがとー。はい、ユキ」
「ん、ありがと」
 アサから真っ白で濃厚そうなソフトクリームを受け取った。ぺろっとなめてみる。冷たくて甘くて美味しい。舌の上に甘くてとろけるような味が広がっていくのを感じながら、一番自分に近いイスに座った。
 そのあと諒が自分でソフトクリームを受け取り、三人とも暑くて外には出たくないという理由で、何となく喫茶店で食べる雰囲気になった。アサはやっぱり颯が気にかかるらしく、ユキの近くではなく颯の傍の席に座った。
「……ね、ね、もうすぐお祭りだって知ってる?」
「…………それが、なんですか?」
 相変わらずお世辞にも社交的とは言えない口調だ。アサの方を見向きもしない。ユキからしてみれば、それだけで颯を怒ってもいい理由となるのだが、傍観すると決めたからぎりぎりまで放っておくことにした。アサが何か言われて傷つくようなことがあったときだけ、ユキは動く。アサは冷たく返事をされてもめげずに話しかけている。
「今年は観光客もたくさん来るんだって。お母さんとかお父さんと回るの?」
「別に……回りませんけど。誰も来ないし。お祭りって好きじゃないし」
「えー?! なんでお祭り好きじゃないの?! 夏祭り、すっごく楽しいのに!」
 アサはそのままお祭りでどんなことが行われるのか勝手にぺらぺら話し始めた。露店はどれくらい出るかだとか、何日間お祭りは行われて、花火が毎年すごく綺麗なことや、焼きそばは神社に近い露店の方がおいしいことだとか。颯はそれをうんざりとした顔で聞き流していた。
「あの、僕ソフトクリームもらったし、出てっていいですか?」
「え? えっちょっと待って! 暑いよ、外。もうちょっと中でおしゃべりしようよ」
「別におしゃべりしたくもないんですけど」
「えー。そんなこと言わないでさ、ね? ほら、諒も何か言って!」
「はあ? 俺かよ」
 諒はかったるそうな顔をしながらアサと颯の方を向いた。諒も傍観すると決めたようで、さっきまで壁にある緑のメニュー表を食べるわけでもないのに見ていた。
「お願いー! 先輩命令とかしてよう」
 アサは上目遣いで必死に頼んでいる。上目遣いなんて、本人は意図していないだろうけれど。
「えっあ、えっと、外は暑いから出て行かないほうがいいんじゃねえ?」 
 諒はアサに上目遣いされたとたん、赤い顔をしながら口走った。
 全く。面白くないわ。何そんなことで喜んでんのよ、諒。
 無言でソフトクリームを喉に通していきながら、目だけそっちに向けて黙って事を見守る。颯は諒に呆れた顔をして、それから外の気温を考えてなのか、席にもう一度座った。
「ねえ、一人で行きたくないなら一緒にお祭り行く?」
「行かないです」
 即答だ。颯はさっさとソフトクリームを食べ終わって外に出て行きたいらしく、もう半分ほど食べ終わっている。
「そんなこと言わないでさ。ほら、その年じゃお母さんと行くの恥ずかしいのは分かるよ!」
「だから、親は来ないですよ」
 颯の淡白な言い方に、アサは小さく首をかしげた。ユキも、さっきから颯が繰り返すことに気がつき始めた。
「ねえ、何で親来ないって言うの? せっかくお祭りなんだから来るかもしれないよ。お仕事忙しいの?」
「さあ……かもしれないですね。仕事で気分を紛らわすことはできますから。あの人ならきっとそうするかも」
 颯はゆっくりと薄く笑った。切れ長の真っ黒な目が細くなる。その様子に、少し寒気が走る。自分の親なのに、アサやユキよりも赤の他人というような口調だった。
「何、言ってんの? あの人って親でしょ? そんな言い方変だよ」
「親かもしれないですけど、僕がこんな言い方しても向こうは何も言えないですから。元はといえば、向こうから僕をこの島に連れてきたんだ」
「……この島って。ここいいとこだよ? それに、良子おばさんが言ってたよ。ちょっと休憩するために空気の綺麗なこの島に夏休みに来ているって。心配されてるんだから、そんな言い方ないよ」
 島のこと悪く言われたからか、アサは少し怒ったように颯の言ったことを訂正した。颯はアサの言い方がよっぽど嫌だったらしい。今まで一度も見なかったアサの顔見て、にらみつけた。
「うるさいな。だから僕は嫌だったんだよ、話すの。あんたは何にも分かってないから口出さなきゃいいんだよ」
「分かってないのなんて、何にも君が話さないんだからしょうがないよ。でも、間違ってることは分かる。絶対その考えおかしい」
「……あんたに何がわかるんだよ。どうせ、絶対いつも回りに人がいるタイプだろ? 僕、そういうやつって虫酸が走るんだ。何でかって言うと、ああいうのって他人がいなくちゃ生きていけないってことだろ。一人になるときっと何もできないんだ。それなのに、偉そうにするんだから、馬鹿ですよね」
 颯は鼻で笑ってコーンを包んでいた紙をくしゃくしゃに丸めた。乾いた音が喫茶店の中に響く。
 そろそろ、ちょっと限界ね。
 ユキはソフトクリームのコーンを包んでいた紙を手元に置いて、立ち上がった。紙はとっくのとうに怒りでしわくちゃになっている。
「ねえ、いい加減にしてくれる? そういうのってみっともないわよ。自分が一人でも平気だって言いたいのかもしれないけど、そんなの強がってるようにしか見えないし、誰かがいる人をうらやましがっているようにしか聞こえないわ」
「な……っ」
 恥ずかしさと怒りで赤くなった颯と目が合う。うろたえる颯を見ると、胸の奥がすっきりした。今度はこっちが颯を鼻で笑う。
「それに、本当はお母さんにこの島に置いてきぼりにされたのが寂しいんじゃないの? そんな意固地にならなくても、電話すればお母さん来てく」
「違う! 何にも分かってないくせにしゃべるなっ」
 ユキの声をさえぎって颯の声変わりしてない高い怒鳴り声が響いた。奥に戻ってテレビを見ていたおばさんがこっちを見た気配がする。さすがに悪いと思ったのか、颯ははっと口を塞ぎ、それからユキをにらんだ。
「来なよ。何が本当か教えますから。だけど、聞いてから同情とかはしないでくださいよ。そういうのはこっちがイライラするんで」
 ガタンと颯が乱暴にイスから立ち上がる音がした。
「同情なんかするわけないでしょ。アサ、諒、行くわよ」
 アサは緊張した顔で颯から離れてユキの横に並んだ。アサの体温を近くで感じる。諒もアサの一歩後ろを、口を真一文字に結んで後をついてきた。
 颯は喫茶店を出て、まっすぐ商店街の坂を下って行った。海風が強く吹き付ける。髪がやたらなびいているのを感じながら、颯の後を追いかけた。颯はしばらくそのまま坂を下っていたがやがて港が見える階段の手前で立ち止まった。
「ここで、カキ氷持って、あの人が戻ってくるのを待ってた」
 突然颯が口を開いた。じっと港から目を離さない。海は太陽の光を所々小さく反射して煌いている。
 やけに空の色に近い薄い青い海を見つめながら、颯の言葉の続きを待った。
「そしたら、そのまま日が暮れて暗くなった。つまり、先に帰ったんですよね。僕を置いて。家に帰ってからなにをするか、予定を話し合ったばかりだったのに。暗くなったけど、どうしたら良いかわからないし。ぼんやりずっと海を見てたら、慌てた様子であのかりん荘のあのおばさんが来た。おばあちゃんらしいけど、僕は一度も会ったことなかったんで、もう他人と一緒ですよね。向こうも、何も連絡を受けてなかったみたいで、困惑しきった顔でしたね」
 そこで、颯はいったん言葉を切った。波の音だけが耳に残る。颯はゆっくりとこちらを向いて、じっとアサを見た。その表情は何の感情も映し出していない。
「まだ、親が心配してるのに、とか言えますか。僕は親に心配されてない。向こうは、僕が失敗したから、もうどうでもよくなって、捨てたくなったんですよ。だから、こんな島に残した。でも別に寂しいとかはないですから。ただ、ほんの少し呆れただけ。本当に、少しだめになったとたん投げ出して」
「で、でも、どうでもよくなったっていうことはありえないよっ」
 アサが口ごもりながら否定する。きっと、颯の何の表情もない顔ににらまれているのが怖いのだろう。
 颯はすっとアサから視線をそらした。また港を見下ろしている。
「僕、兄貴がいるんですよ。高一で、受験に失敗したから大して偏差値が高くない、むしろ悪いところに通ってる。親は受験勉強のときには、兄貴を何とか良い学校に行かせようと必死だった。だけど、受験に失敗したとたん、兄貴が何やっても怒らなくなった。バンド組んでて、勉強しないで永遠とギターばっかり弾いてても、怒らなくなった。兄貴は見捨てられたんです。諦められた。それで、僕はそれを見て絶対兄貴みたいになりたくないと思った。まあ、諦められるなんて思ってもなかったですけど。僕は兄貴と違ってちゃんと言うこと聞いていたから。それで、中学に入学して、初めの頃はよかった。だけど、部活に入ったら少しずつ狂い始めた」
 颯は思い出すように目を細めた。それから少しうつむいて、颯の白い顔にかげりができる。
「走るのだけは負けたくなかったんです。小学校の運動会でも一位以外とったことなかったですし。で、部活に入って同級生はもちろん、どの先輩よりも僕は速かった。そしたら、何て言われたと思いますか? ちょっとは先輩に気を使え、そんなにでしゃばりたいのかよ、ですよ。毎日毎日そんなことばっかり言われた。信じられます? 僕は馴れ合いで部活に入ったんじゃない。足が速いことを自慢するために入ったわけでもない。ただ、もっと速くなりたくて入ったんだ。部活なんかやめても、足を速くする練習は自分でできると思った。でも、今度は部活にいかなくなった僕を先生たちがうるさく言い始めた。学校に行くと先生から部活にでろって言われるのがだんだんわずらわしくなって、少しずつ学校に行くのもいやになった。そうしたら、だんだん、親の耳にも入ってきて……何も知らないくせに、部活にでろ、学校に行けって毎日毎日、僕に説明する間も与えないで、同じことを繰り返し言うんすよ。で、まあ、従わないでいたら、こんな島にいることになったんですけどね。わかります? 結局、思い通り動かなくなったから、どうでもよくなったんですよ」
「じゃあ……そんなに走るのが大事だったのなら、何でもう走らないなんて言ったの。結局、全部意固地になってるだけじゃない」
 ユキが口を挟むと、颯は鋭い目でユキのことをにらんだ。
「違う! 走るのを止めるって言ったのは、それだけ走るのが本当に好きだったからだ! それだけ、一回一回の勝負に僕は真剣だったんだ! なのに……っ」
 悔しそうに、口をかみ締めながら颯はアサを見た。アサが思わず一歩後ろに引きそうになるのがわかった。でも何とかこらえたようで、じっと颯を見つめ返している。それから、一生懸命考えている顔をしながらアサが口を開く。
「あの、ね、多分、アサ、自分と同じくらい足が速い子に会ったの初めてなんだ。あ、もちろん、ユキも諒も速いんだけど。そうじゃなくて……多分、アサよりももっと走ることが好きな子に会ったのが、初めてだったんだよね。だからさ、アサは走ること止めないでほしいと思ってるよ」
 アサが何とか気持ちを言葉に代えて颯に伝えようとしているのが伝わった。でも、颯はいまいちよくわかってない顔をしながら、じっと暗い瞳でアサやユキの方を見ている。深みにはまったら、二度と抜け出せなさそうな泥沼に似た、瞳。
「そんなの走るのを止めるか止めないかなんて、僕が決めることだ。僕に押し付けてくるのはおかしいですよ。僕は負けたらから、もう走らない。もう世話を焼こうとしてこないでください」
 たんたんと颯が言葉をつむぐ。真っ青なさっぱりとした空に不釣り合いな、黒いどろどろしたものが颯の方から這い出ている気がする。
 ユキは軽く唇をかみ締めた。ちょっと言えば、すぐに自分が間違ってることを気づくと思っていたが、颯は颯の中でもうどうにもならないところまで深く考え付いてしまっているらしい。
 母親に見捨てられた。
 でも、自分には走ることが残っていた。それを心頼みに、多分、この島で折れそうな心を立たせていたのだろう。母親に置いていかれても、本当の自分は置いていかれるほどだめになっていない。だって、走ることがまだ残っているから。僕はこんなに速く走れる。毎日きちんと走りこむことも続けている。だから、大丈夫。絶対、見捨てられるほどだめなやつにはなっていない。
 そう考えて、それしか、頼るものがなくて、独りで、自分を無理やり立たせていた。
 だけど、こないだ、アサに走ることも負けてしまった。
 そのとき颯はどう思ったのだろう。一番自分を支えてくれたものが、唯一の自分を奮い立たせるプライドがこうもあっけなく折れて、何も支えるものがなくなった。母親が行動で示したように、自分がだめなやつだと思ってしまったのだろうか。
 でも……強いところもある。
 無言の状態が続くなかで、ユキはほんの少しだけ、颯のことを考え直した。
 だって、もしあたしなら……。自分を支えてくれる自信がすべて折れてしまったら、部屋の中に閉じこもっている気がする。誰かが支えにきてくれるまで、大丈夫だよ、と言ってくれるまで、からの中でうずくまっている。
 そんなふうになったことは、今まで一回もないけど。
 ちらっとアサを見る。アサは何か颯に言いたそうに、でも、それが言葉にできないのをもどかしそうにしながら、じっと颯を見ていた。
 あたしはアサがいたから、そんな状況に一回もならなかった。アサがあたしを折れそうなときも支えてくれてたから、あたしは大丈夫だった。告白されて、その後のあの相手が去っていく背中を一人で見ているときのむなしさ。そういうものに押しつぶされなかったのは、絶対に、笑顔で迎えてくれるアサの元へ帰れたから。あたしを待ってくれている人がいたからだわ。
 颯は、そういう人がいなかったのかもしれない。もしかしたら、母親こそ、そういう人だったのかもしれない。だとしたら、今、こんなふうに他人をにらみつけるぐらいの強さがあるのは、奇跡に近いくらいぎりぎりの状態なのかもしれない。
 大事な人に見放され、独りになっても何とかプライドで自分を立たせ、それが折れてもなお他人をにらみつけるぐらい、気持ちを奮い立たせている。座り込むな、と叱咤している。
 それは、どれくらい、さびしくて孤独な戦いなんだろう。
 夏の風が海に向かって強くユキたちと、颯の間を通り抜けた。
 気がついたら、ユキは一歩、颯の方に歩いていた。
「ねえ」
「……なんですか」
 颯が警戒したように見つめてくる。それすらユキにはもうあぶなっかしく見える。
「ごめんなさい」
 口にしてから、最近謝ってばかりだと少し思った。でも、ここは謝らないと。先によくも知らないで颯のプライドを折ってしまったあたしたちも悪い部分はあったから。
 颯を見ると、驚いたようにじっとユキの顔を見つめ返していた。
「何で、急に謝るんですか」
「あたしが悪かったからよ。何も考えずに君のなかをぐちゃぐちゃに引っかき回したから。知らなかったのは本当だけど、だったとしても、もうちょっと考えて接すればよかったわ」
 後ろから、アサと諒の驚いた視線を感じる。でも、あたしはきっと間違ってない。
「ねえ、あたしも走るの止めないほうがいいと思うわ。あたしが言う資格、ないけど。でもね」
 いったん言葉を切る。
 こういうことを、アサ以外に言うのは初めてだと思った。今まで、そこまで他人の深いところに入り込まなかったし、入り込もうともしなかった。アサ以外、本当に誰もきちんと見てこなかった。
 でも、今は言いたい。あたしが言えば、もしかしたら目の前の子を少しだけ救えるかもしれない。
 独りが怖いこと、あたしは知ってる。知ってるからこそアサを離さないようにしてたんだもの。
「でも、信じないかもしれないけど、やめなければ何かが変わるわ、絶対に。本当に好きなら、やめないほうがいいと思う。何があってもやめなければ、あたし、本当に君は誰よりも速くなれると思うから」
 だって、こんなに、強いもの。
 大切な人に裏切られても、自分を信じていられるくらい強かったから。
 それが、走ることっていう自分のプライドのおかげなら、こんなことで一度折れたぐらいであきらめないで。
 もう終わりだなんて、座り込んでうつむかないで。
 プライドなんて、たとえ折れても自分しだいでもっと大きなものにだってできるんだから。
 言いたいことが言葉にならないで奥のほうにつまる。はがゆい。うまく言えない自分にイライラした感情がつのる。それでも、何とか伝わってほしくて、ユキはまた口を開いた。
「今は、あたしが言ってることわからないかもしれない。だけど、あたしもアサも、諒も、みんなきっと走るのは続けたほうがいいって思ってるわ。それから、お祭りに一緒に行きたいと思ってるし、そのあと他のところへ遊びに行ってもいい。またみんなでかけっこしたりするのもいいかもしれない」
 ユキがそういうと、颯の表情にやっと変化が出た。怪訝な顔をしてユキを見ている。
「いきなりなんですか? 一緒に遊びたいなんて、言ってませんけど」
 颯の言葉にユキは肩をすくめた。
「確かに言ってないけど。でも、君はあたしたちと一緒に過ごす時間をもったほうがいいと思って。だって、あたしにはすごくあぶなっかしく見えるもの。走るのは続けて、たまにあたしたちとも遊んで。そうやって過ごしたほうが気持ちが楽になるわよ。本当は走りたいんでしょう?」
「ちが……」
「うそよ。負けたことなんて、本当はそこまで大きなことじゃないのよ。負けたって事実は、もっと速く走れるようになるために必要なステップに変えられるんだから。もっと気持ちが元気なときなら、簡単にそう思えたはずよ。今、そんなふうに思えないくらい気持ちが疲れてしまっているんなら、誰かを頼ればいいのよ。助けてほしいけどそんなこと言えないなら、黙ったままでいいから誰かのそばに寄ってみるの。自分の声すら聞こえないくらい、独りきりに感じるなら誰でもいいから話を聞いてもらうの。いつもいつも、独りですべて解決できるなんて、大間違いなんだから。そんなやつ、きっと世界中探したっていないのよ」
 いつまでたってもわからない颯がまどろっこしく感じて、最後はなんだか説教みたいに言ってしまった。
 ここまで言ってわからないなら、あたしはもう何もしてやらないんだから。
 そういう気持ちでずっと颯を見ていると、ふっと突然颯がうつむいた。くぐもった声が聞こえてくる。
「……たい」
「え?」
 青々と茂る山の木々を鳴らす風と明るい青い波が海岸に打ち寄せる音で、ユキには颯が言ったことがよく聞き取れなかった。それから、颯がもう一度うつむいたままで少し声を大きくして言う。
「…………はしりたい。走ることが、本当に一番、好きだから」
 少し、嗚咽と一緒に聞こえてきた颯の声は、みっともないくらい震えていた。それでも、我慢している方なんだろう。うつむいているから顔は見えないけど、多分歯を食いしばって涙をこらえている気がする。
 そのとき、ユキの後ろにいたアサがふっと前に出てきた。それから、颯のそばによってなるべく優しい声で話しかける。
「ねえ、あのね、アサもさ、絶対譲れないくらい好きなのがあるのね。好きなことは誰がなんと言おうと、なくさないでいたいよね。その気持はわかるよ。アサの一番好きなことは、走ることってわけじゃないんだけど。でも走るのも楽しいよね。すごく」
 アサが微笑みながら言うと、颯はぴくっと体を動かした。
「また一緒にかけっこしよう?」
「…………絶対、僕が勝ちますから」
 アサは微笑みながら「うん」と頷いて後ろを振り返った。もちろん、ユキと目が合う。それから嬉しそうにはにかむ。こっちまで微笑みたくなる、いつもの笑顔だった。
 アサの譲れないくらい好きなものって、あたしよね。
 トクン、と胸が鳴る。昔なら、完全に信じていたから、当たり前すぎて何とも思わなかった言葉が、今は切ないほど胸にしみる。
 ねえ、そうよね。何にも疑う理由なんて思い当たらないし。
 信じろ、あたし。まず信じなくちゃ、その先は何もないんだから。
 柵の向こうに広がる港を見渡した。綺麗だと、思う。海の匂いを含んだ強い風は、きっと背中を押してくれているし、眩しい空の青も、上から見守ってくれている。だから、あたしは信じていられる。たとえ、アサがあたしのことを言ったんじゃなくても。
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