すみっこモノ戦記。
文字数 5,000文字
ゆらり。アパートの天井、蜃気楼の向こう歪んだ。くらくらと高熱。朦朧と向こう側とこちら側、いったり来たり。
いつから熱に浮かされて、いつからこの6畳1kの隅っこに寝ていたのか。もしかしたら生まれてからずっとかもしれない。
(わたしは…)
(死ぬのかな…)
独りでこのまま死ぬのかと思うと、自然と涙が伝った。
(惨めだ…)
不意にどこかの田舎、夏の朝の匂い、香る。
空は澄み、水遊びが終わると、どこかの家の縁側で、たらいに冷やした西瓜をご馳走になった。───走馬灯って言うんだろうか?次々とつんざく空の色、葉の光。浮かんでは消えた。
(これだけ見ると、いい人生だった気がするけど…)
そうだ、子どもの頃、一夏だけどこかの田舎に預けられた。その風景だけがありありと美しいのだ。
みしみしと体が縮む幻覚が始まった。ああ、布団から落っこちる、助けて…落ちる…落ちる…部屋の隅に、隙間に…布団の下は地獄か異世界か真っ暗闇か…誰か…。
孤独が胸を貫いた。
(惨めだ…)
人生くだらなすぎてふっと笑った瞬間、わたしは布団から、“隙間”にころんと落っこちてしまった。
****
≪すきまの国≫入国管理事務所。
顔が空洞の役員に(検査済)とかいう印鑑をパジャマの裾に押され、わたしは“24時間後_廃棄”というプレートのついた、薄暗くだだっ広い部屋に連れていかれた。
どうやらわたしは、本当に明日までの命なようだった。
「一通だけ、誰かに宛てて手紙を出すことが許されています」そう言って空っぽの役員に封筒、便箋、それとガラスのペンを渡された。
インクだけ無駄に色数があるようで、ショットバー風のインク瓶だらけの屋台で、頭部が青林檎の蝶ネクタイの男が楽しそうに瓶を磨いていた。
小汚いおじさんが、インクの色ォ?何でもいいよ。とか言いながら黒インクを手に、だだっ広い部屋のどこかに霞んで消えていった。
よく見ると、部屋の中央にうずたかく、様々なものが積み上げられており、それらは例えば、ボールペンの蓋や、消しゴムの割れて小さくなった方、靴下の片っぽ…。
(まるで…)
どこか隙間に落っこちたまま、どこに行ったか分からなくなったものたちの寄せ集め──
「忘れられたニンゲンも結構落ちてくるんだよなぁ」
びっくりして振り向くと、埃だらけの──丸い…ぬいぐるみ…?
耳はもげ、鼻も目も取れかかって、元々なんのぬいぐるみなのかわからない…謎ぬいが──ちぎれた耳からはみ出した綿を詰めなおしながら、肩をすくめ、わたしを見上げていた。
「こんな若けぇような女子が落っこちてくんのはあんまねーけどな」やれやれ…と。また綿がビョンと飛び出した。
「どーせぼっちですよ~だ」掴み上げてうりうりといじる。
わたしはなんとなくこの生意気なぬいぐるみが気に入ってしまったようだった。
──綿が出てこないようにしてやれないだろうか?
****
割と簡単に”手術“は成功した。中央に積み上げられている“落し物”たちの中には、ハサミも、針もいたからだ。
糸と布に関しては、落ちた時から寸法を減らすことが出来ない決まりになってるようで、わたしの赤いパジャマの袖のところを切ったり糸を抜いたりした。
本人が使いたくて使うんだから大丈夫だろう。
わたしは半袖になった腕からNIKEのリストバンドがよく見えるようになった。きっとスポーツでもやってたのだろう。
パジャマの袖の頭巾を被って、目鼻がついて、少し立派になった丸いぬいぐるみ───“まる太”はしきりに(わぁ…)と行った様子で、鼻のつき具合を確認したり、ほかの落し物の鏡に頼んで、何回も顔を見せてもらったりしていた。
コイツに関しては元の寸法から減ってるわけじゃないから大丈夫みたいだった。名前は、掠れてほとんど読めないけど「まる?」みたいな書き込みが足の裏にされていたから。
「お前って…つまり…損なヤツなんだな…」まる太が大して礼も言わず、哀れむ。
「そーゆーあんたは性格悪くてご主人から捨てられたんでしょ…」あっかんべー。
「俺は…」
“ご主人”の名前を出すと途端に沈み込んでしまった。
「いつかリエちゃんが、俺がいなくなってるって、思い出して、探してくれて、そしたらこのすきまの世界から家に帰れるはずだって」
「昨日まで、がんばって、そんな風に、思い込もうって、してたんだよ」
「……」
沈黙が木霊した。この部屋のプレート「24時間後_廃棄」の字が重くのしかかった。
まる太の風貌を見れば一目瞭然だった。どこかの”リエちゃん“の子ども時代の相棒だったのだろう。しかもとても可愛がられていた…。
「…お前は手紙出せば、帰れるんじゃねーの?」
最後に一通手紙を出していいって権利は、どうやらニンゲンにしか与えられてないようで、そうか…手紙で誰かに思い出してもらえれば帰れるんだ……でも誰に…?
独り暮らしだったのは覚えている。高熱で…ほっとくと明日孤独死するから、こっちの世界に落ちてきたんだろう。状況から察するに、多分…。
親のことを思い出そうとすると、何故だか心をくしゃくしゃにされたような気持ちになった。はぁとため息。別に明日死ぬならそれでいい気がしてきた。
「…出さなくて、いいや」
まる太は少しハッとした顔をして
「いや、まて、落ち着け」
慌ててガラスペンでつつきにきた。ふふ、こいつを助けてよかったな。
人は何のために生まれ、何のために生きる?くだらないこの命題。一生かけて苦しむ価値はあるんだろうか?
「……まる太。ありがとうね」
「でも、ほっといて」
まる太がしょぼんとしたのが、背中越しに伝わる。
ごめんね、考えたくないんだ。どうしてこんな惨めの極みみたいな世界に落っこちたのか。思い出したくないんだ。独りぼっち。“向こう側“の世界、片隅のわたしを。
──廃棄まではまだ時間がある。一眠りしてからだって考えられる。
その日はまる太を抱っこして、他の大量の”落し物“たちと肩を寄せ集め、最後ぐらいは真ん中で寝た。埃臭さに混じって、懐かしいようなそんな匂いがした。たまに光ってその場から消えてしまう落し物もいた。無事出口ゲートに転送された落し物だそうだ。
≪…机の下を覗き込んでくれますように≫誰かの”落し物“の祈りが聞こえてくる。
わたしは自分のことを思い出せもしないし、思い出したくもない。最後まで帰りたがっている落し物たちを、どこか羨ましく感じながら目を閉じた。
───夢の中、わたしは小さな子どもだった。母の連れ子としてわたしは、沢山、都合のいいように扱われ、弄ばれた後、田舎に預けられることになった。
次の瞬間大人になっていた。西日で焼け付く6畳1kの真ん中、逆光の中、空っぽのわたし。───リストバンドをめくると沢山の切り傷。
頬を意味が分からない涙が伝った。
───もふもふした何かが、わたしの寝顔をじっと見つめた後、おでこを撫でてくれた気がした。
****
ハッと目が覚めた。気づくとひとりぽつんと取り残されていた。手には便箋と封筒。ガラスのペン。
「あれ?」
「まる太は…」
遠くの方で大きな何かがゴウと飲み込むような音が聞こえた。
後ろから軍足の片っぽが、「あんたは逆っかわの方に逃げときな」昨日一緒だった落し物たちは、皆、片隅に避難して震えていた。
「まる太の旦那は…」
「あんたがまだ手紙を書いてないからって」
音の方を指さした。
──「24時間後_廃棄」って…。もしかしたら、24時間後に全ての廃棄処分を終わらせる──ってことなの──?
わたしは軍足の片っぽが言うのも聞かず、音の方に駆け出した。淀んでいた大部屋の中心に風が巻き起こる。次々と落し物たちが”廃棄“されていっていた。
沸き立つペンの蓋、定規、木片、ヘアブラシ、鉛筆、おはしの片っぽ、家族写真、大切そうな誰かの指輪、スカーフ、セーター、ペンの蓋!蓋!蓋!髪を乱した。その少し先──。
「テメェなんでこっちに来るんだよ!」
「まる太!」
風の入り口───廃棄口は結構狭く、大物を噛ませてしまえば少しは時間が稼げるらしく、木材でバッテンを作った上に埃だらけの服たちが引っかかって堪えていた。
まる太はちいさな体で、”廃棄口“を塞ぐことに協力してくれる、なるべく大きな、そして勇敢な落し物に助けを求めながら、わたしに怒鳴った。
「お前は手紙を書けるんだから!」
「諦めるな!」
赤い頭巾が誇らしげにはためいていた。
景色がかぁと膨らんで滲んだ。少し怯んだのち──わたしはまる太の優しさを無駄にするもんかとインク屋の方に駆け出した。
「インクを!」遠くから叫んだ。
「何色をご所望で?」何故かすぐ近くにいるかのような声の距離感でインク屋が嬉しそうに返す。「ええと──」
(何色でもいい、早く!)言いかけて飲み込んだ。ここへきて閃いたからだ。
──色によって何かが違って来るんじゃないか…?
手紙を一体誰に書く…。決めてなかった。
目を瞑る。生意気なまる太の、最後の優しさの色…。皆が癒されるような…。きっと”リエちゃん”がまる太に、沢山もらって、いつの日か忘れてしまった色…。
美しい翠色が心に滲んだ。子どもの頃、夏の日の公園。ラジオ体操の帰りの色。隣を歩く女のコが大切そうに抱える、もうだいぶ汚れた犬のぬいぐるみ。
≪ユーノは、まる太にやさしくしてくれるから、好きだな≫
≪だって、コイツ喋りそうじゃん?≫
ボタンの目がキラキラと光った。
クラスのはみ出しもの2人。女のコの名前は──
ゴォ。急に風が大きくなった。廃棄口が通ったのだろう。
まる太のいる方向だ!夢中で叫んだ。
「夏の朝の翠で!」
インク屋は、いいセレクトです。と言わんばかりに白手袋で指をパチンと鳴らし、キザな身振りで、わたしに向かってインクの竜巻を起こした。掲げたペンに美しい青翠のインクが充填された。
間に合え───!
****
───拝啓。子どもの頃、まる太ってぬいぐるみを、可愛がっていたリエちゃんへ
あなたに少しだけ、不思議なお話があります。
あのね、まる太がね───
****
わたしは夏の朝の翠のただ中、たゆたって、煌めいていた。
ミーンミン、蝉の声。遠くでは風鈴の音。りーん…ぴーん…ぴーんぽーん?
ん?これは、風鈴じゃない…呼び鈴…?朦朧とした意識の中。わたしは最後の力を振り絞り、助けて!と叫んだ。
****
白い部屋、点滴からゆっくりと黄色い液、落ちる。
「不思議なこともあるもんで…」わたしと同い年ぐらい、ギターを抱えた金髪の女のコ。
「あんたのアパートの前に来たら、急に子どもの頃、まる太ってぬいぐるみ、可愛がってたな…って思い出してさ」
なんとなく、アパート見るじゃん?そしたら、あんたの部屋の台所の窓から、コイツがこっち見てるわけよ…。
──わたしの枕元には、赤い頭巾を誇らしげにかぶった、犬のまる太。
見た感じのパンクさからは想像もできないような器用さで林檎を兎の形に剥いてくれた、このコのギターケースのステッカーは”Rie”
「そしたら、ガキの頃一緒に遊んだユーノじゃんね。なにこれ、笑える」
リエちゃんは嬉しそうにライブチケを2枚取出し「治ったら聴き来て~」
「みて、お前の分のチケもあるよ」まる太を撫で、顔を見合わせて笑う。子どもの頃もこのコとはこういうところで馬が合った。
天井を見上げながらリエちゃんは
「なーんか」「たしか…」
「何かの時一斉にまる太のこと、笑われてさ…」
「急に恥ずかしくなって捨てちゃったんだっけね…」
「バカみたいだ」と呟き、まる太にごめんね。と謝った。
「まる太、ユーノが退院するまで、護衛よろしく」と次のバイトに駆けて行った。
病室に静寂が戻った後、
──喉元過ぎてすっかり可愛げのないヤツに戻った”トモダチ“の声が耳の奥、響いた。
≪世話が焼けたぜ≫
はいはい。ありがとうね。
窓の外には、新しい季節の──翠。
わたしに、トモダチが二人出来た。
いつから熱に浮かされて、いつからこの6畳1kの隅っこに寝ていたのか。もしかしたら生まれてからずっとかもしれない。
(わたしは…)
(死ぬのかな…)
独りでこのまま死ぬのかと思うと、自然と涙が伝った。
(惨めだ…)
不意にどこかの田舎、夏の朝の匂い、香る。
空は澄み、水遊びが終わると、どこかの家の縁側で、たらいに冷やした西瓜をご馳走になった。───走馬灯って言うんだろうか?次々とつんざく空の色、葉の光。浮かんでは消えた。
(これだけ見ると、いい人生だった気がするけど…)
そうだ、子どもの頃、一夏だけどこかの田舎に預けられた。その風景だけがありありと美しいのだ。
みしみしと体が縮む幻覚が始まった。ああ、布団から落っこちる、助けて…落ちる…落ちる…部屋の隅に、隙間に…布団の下は地獄か異世界か真っ暗闇か…誰か…。
孤独が胸を貫いた。
(惨めだ…)
人生くだらなすぎてふっと笑った瞬間、わたしは布団から、“隙間”にころんと落っこちてしまった。
****
≪すきまの国≫入国管理事務所。
顔が空洞の役員に(検査済)とかいう印鑑をパジャマの裾に押され、わたしは“24時間後_廃棄”というプレートのついた、薄暗くだだっ広い部屋に連れていかれた。
どうやらわたしは、本当に明日までの命なようだった。
「一通だけ、誰かに宛てて手紙を出すことが許されています」そう言って空っぽの役員に封筒、便箋、それとガラスのペンを渡された。
インクだけ無駄に色数があるようで、ショットバー風のインク瓶だらけの屋台で、頭部が青林檎の蝶ネクタイの男が楽しそうに瓶を磨いていた。
小汚いおじさんが、インクの色ォ?何でもいいよ。とか言いながら黒インクを手に、だだっ広い部屋のどこかに霞んで消えていった。
よく見ると、部屋の中央にうずたかく、様々なものが積み上げられており、それらは例えば、ボールペンの蓋や、消しゴムの割れて小さくなった方、靴下の片っぽ…。
(まるで…)
どこか隙間に落っこちたまま、どこに行ったか分からなくなったものたちの寄せ集め──
「忘れられたニンゲンも結構落ちてくるんだよなぁ」
びっくりして振り向くと、埃だらけの──丸い…ぬいぐるみ…?
耳はもげ、鼻も目も取れかかって、元々なんのぬいぐるみなのかわからない…謎ぬいが──ちぎれた耳からはみ出した綿を詰めなおしながら、肩をすくめ、わたしを見上げていた。
「こんな若けぇような女子が落っこちてくんのはあんまねーけどな」やれやれ…と。また綿がビョンと飛び出した。
「どーせぼっちですよ~だ」掴み上げてうりうりといじる。
わたしはなんとなくこの生意気なぬいぐるみが気に入ってしまったようだった。
──綿が出てこないようにしてやれないだろうか?
****
割と簡単に”手術“は成功した。中央に積み上げられている“落し物”たちの中には、ハサミも、針もいたからだ。
糸と布に関しては、落ちた時から寸法を減らすことが出来ない決まりになってるようで、わたしの赤いパジャマの袖のところを切ったり糸を抜いたりした。
本人が使いたくて使うんだから大丈夫だろう。
わたしは半袖になった腕からNIKEのリストバンドがよく見えるようになった。きっとスポーツでもやってたのだろう。
パジャマの袖の頭巾を被って、目鼻がついて、少し立派になった丸いぬいぐるみ───“まる太”はしきりに(わぁ…)と行った様子で、鼻のつき具合を確認したり、ほかの落し物の鏡に頼んで、何回も顔を見せてもらったりしていた。
コイツに関しては元の寸法から減ってるわけじゃないから大丈夫みたいだった。名前は、掠れてほとんど読めないけど「まる?」みたいな書き込みが足の裏にされていたから。
「お前って…つまり…損なヤツなんだな…」まる太が大して礼も言わず、哀れむ。
「そーゆーあんたは性格悪くてご主人から捨てられたんでしょ…」あっかんべー。
「俺は…」
“ご主人”の名前を出すと途端に沈み込んでしまった。
「いつかリエちゃんが、俺がいなくなってるって、思い出して、探してくれて、そしたらこのすきまの世界から家に帰れるはずだって」
「昨日まで、がんばって、そんな風に、思い込もうって、してたんだよ」
「……」
沈黙が木霊した。この部屋のプレート「24時間後_廃棄」の字が重くのしかかった。
まる太の風貌を見れば一目瞭然だった。どこかの”リエちゃん“の子ども時代の相棒だったのだろう。しかもとても可愛がられていた…。
「…お前は手紙出せば、帰れるんじゃねーの?」
最後に一通手紙を出していいって権利は、どうやらニンゲンにしか与えられてないようで、そうか…手紙で誰かに思い出してもらえれば帰れるんだ……でも誰に…?
独り暮らしだったのは覚えている。高熱で…ほっとくと明日孤独死するから、こっちの世界に落ちてきたんだろう。状況から察するに、多分…。
親のことを思い出そうとすると、何故だか心をくしゃくしゃにされたような気持ちになった。はぁとため息。別に明日死ぬならそれでいい気がしてきた。
「…出さなくて、いいや」
まる太は少しハッとした顔をして
「いや、まて、落ち着け」
慌ててガラスペンでつつきにきた。ふふ、こいつを助けてよかったな。
人は何のために生まれ、何のために生きる?くだらないこの命題。一生かけて苦しむ価値はあるんだろうか?
「……まる太。ありがとうね」
「でも、ほっといて」
まる太がしょぼんとしたのが、背中越しに伝わる。
ごめんね、考えたくないんだ。どうしてこんな惨めの極みみたいな世界に落っこちたのか。思い出したくないんだ。独りぼっち。“向こう側“の世界、片隅のわたしを。
──廃棄まではまだ時間がある。一眠りしてからだって考えられる。
その日はまる太を抱っこして、他の大量の”落し物“たちと肩を寄せ集め、最後ぐらいは真ん中で寝た。埃臭さに混じって、懐かしいようなそんな匂いがした。たまに光ってその場から消えてしまう落し物もいた。無事出口ゲートに転送された落し物だそうだ。
≪…机の下を覗き込んでくれますように≫誰かの”落し物“の祈りが聞こえてくる。
わたしは自分のことを思い出せもしないし、思い出したくもない。最後まで帰りたがっている落し物たちを、どこか羨ましく感じながら目を閉じた。
───夢の中、わたしは小さな子どもだった。母の連れ子としてわたしは、沢山、都合のいいように扱われ、弄ばれた後、田舎に預けられることになった。
次の瞬間大人になっていた。西日で焼け付く6畳1kの真ん中、逆光の中、空っぽのわたし。───リストバンドをめくると沢山の切り傷。
頬を意味が分からない涙が伝った。
───もふもふした何かが、わたしの寝顔をじっと見つめた後、おでこを撫でてくれた気がした。
****
ハッと目が覚めた。気づくとひとりぽつんと取り残されていた。手には便箋と封筒。ガラスのペン。
「あれ?」
「まる太は…」
遠くの方で大きな何かがゴウと飲み込むような音が聞こえた。
後ろから軍足の片っぽが、「あんたは逆っかわの方に逃げときな」昨日一緒だった落し物たちは、皆、片隅に避難して震えていた。
「まる太の旦那は…」
「あんたがまだ手紙を書いてないからって」
音の方を指さした。
──「24時間後_廃棄」って…。もしかしたら、24時間後に全ての廃棄処分を終わらせる──ってことなの──?
わたしは軍足の片っぽが言うのも聞かず、音の方に駆け出した。淀んでいた大部屋の中心に風が巻き起こる。次々と落し物たちが”廃棄“されていっていた。
沸き立つペンの蓋、定規、木片、ヘアブラシ、鉛筆、おはしの片っぽ、家族写真、大切そうな誰かの指輪、スカーフ、セーター、ペンの蓋!蓋!蓋!髪を乱した。その少し先──。
「テメェなんでこっちに来るんだよ!」
「まる太!」
風の入り口───廃棄口は結構狭く、大物を噛ませてしまえば少しは時間が稼げるらしく、木材でバッテンを作った上に埃だらけの服たちが引っかかって堪えていた。
まる太はちいさな体で、”廃棄口“を塞ぐことに協力してくれる、なるべく大きな、そして勇敢な落し物に助けを求めながら、わたしに怒鳴った。
「お前は手紙を書けるんだから!」
「諦めるな!」
赤い頭巾が誇らしげにはためいていた。
景色がかぁと膨らんで滲んだ。少し怯んだのち──わたしはまる太の優しさを無駄にするもんかとインク屋の方に駆け出した。
「インクを!」遠くから叫んだ。
「何色をご所望で?」何故かすぐ近くにいるかのような声の距離感でインク屋が嬉しそうに返す。「ええと──」
(何色でもいい、早く!)言いかけて飲み込んだ。ここへきて閃いたからだ。
──色によって何かが違って来るんじゃないか…?
手紙を一体誰に書く…。決めてなかった。
目を瞑る。生意気なまる太の、最後の優しさの色…。皆が癒されるような…。きっと”リエちゃん”がまる太に、沢山もらって、いつの日か忘れてしまった色…。
美しい翠色が心に滲んだ。子どもの頃、夏の日の公園。ラジオ体操の帰りの色。隣を歩く女のコが大切そうに抱える、もうだいぶ汚れた犬のぬいぐるみ。
≪ユーノは、まる太にやさしくしてくれるから、好きだな≫
≪だって、コイツ喋りそうじゃん?≫
ボタンの目がキラキラと光った。
クラスのはみ出しもの2人。女のコの名前は──
ゴォ。急に風が大きくなった。廃棄口が通ったのだろう。
まる太のいる方向だ!夢中で叫んだ。
「夏の朝の翠で!」
インク屋は、いいセレクトです。と言わんばかりに白手袋で指をパチンと鳴らし、キザな身振りで、わたしに向かってインクの竜巻を起こした。掲げたペンに美しい青翠のインクが充填された。
間に合え───!
****
───拝啓。子どもの頃、まる太ってぬいぐるみを、可愛がっていたリエちゃんへ
あなたに少しだけ、不思議なお話があります。
あのね、まる太がね───
****
わたしは夏の朝の翠のただ中、たゆたって、煌めいていた。
ミーンミン、蝉の声。遠くでは風鈴の音。りーん…ぴーん…ぴーんぽーん?
ん?これは、風鈴じゃない…呼び鈴…?朦朧とした意識の中。わたしは最後の力を振り絞り、助けて!と叫んだ。
****
白い部屋、点滴からゆっくりと黄色い液、落ちる。
「不思議なこともあるもんで…」わたしと同い年ぐらい、ギターを抱えた金髪の女のコ。
「あんたのアパートの前に来たら、急に子どもの頃、まる太ってぬいぐるみ、可愛がってたな…って思い出してさ」
なんとなく、アパート見るじゃん?そしたら、あんたの部屋の台所の窓から、コイツがこっち見てるわけよ…。
──わたしの枕元には、赤い頭巾を誇らしげにかぶった、犬のまる太。
見た感じのパンクさからは想像もできないような器用さで林檎を兎の形に剥いてくれた、このコのギターケースのステッカーは”Rie”
「そしたら、ガキの頃一緒に遊んだユーノじゃんね。なにこれ、笑える」
リエちゃんは嬉しそうにライブチケを2枚取出し「治ったら聴き来て~」
「みて、お前の分のチケもあるよ」まる太を撫で、顔を見合わせて笑う。子どもの頃もこのコとはこういうところで馬が合った。
天井を見上げながらリエちゃんは
「なーんか」「たしか…」
「何かの時一斉にまる太のこと、笑われてさ…」
「急に恥ずかしくなって捨てちゃったんだっけね…」
「バカみたいだ」と呟き、まる太にごめんね。と謝った。
「まる太、ユーノが退院するまで、護衛よろしく」と次のバイトに駆けて行った。
病室に静寂が戻った後、
──喉元過ぎてすっかり可愛げのないヤツに戻った”トモダチ“の声が耳の奥、響いた。
≪世話が焼けたぜ≫
はいはい。ありがとうね。
窓の外には、新しい季節の──翠。
わたしに、トモダチが二人出来た。