Dr.ニコルの検死FILE

エピソードの総文字数=3,164文字

「まったく! あの野郎はなに考えていやがんだ!」
 さっきまでよりはだいぶ治まったが、デイヴィッド警部の口調にはまだ怒りの色が残っていた。
 いや、それもそうだろう。スティーヴ警視に現場から離れるよう命令され、渋々ながらそれを甘受したのだから。
 それでもそれを受け入れたのは、ニコルの取り成しがあったため。これ以上現場でケンカするより、他の場所で聞き込みをする方が独自の調査もできるから、と進言されたからだった。
「ま、例のところに行けば、なにかわかるかもしれませんし……」
 そういうニコルの足取りも、心なしか重かった。
 なにしろ二人がいま向かっている先は、他でもない、聖ニコラオス孤児院だったからだ。その上、道すがら延々と愚痴を聞かされれば、誰だって足が重くなろうというものである。
「面子よりも市民の安全の方が大事だろっての! あいつは犯人を捕まえようって気があるのかよ! ったく!」
 その愚痴に反応して、ニコルもぼそりと呟く。
「捕まえる気……ですか」
 すると、そのニコルの呟きを耳にして、デイヴィッド警部の愚痴がピタリと止んだ。
「ん? お前さんのことを言った訳じゃないぜ」
「いえ、それはわかっています。ただ、スティーヴ警視は本当に犯人を捕まえる気があるのか、と……」
「おいおい。俺が言ったのは言葉のあやで、まさか本当に捕まえる気がないなんて思ってやしないぞ」
「そうでしょうか……」
 言って、しばし歩を止め、考え込むような素振りをするニコル。
 しばらくしてから、ようやくその口をゆるりと開いた。
「だって考えてみてください。いくら犯人が切り裂きジャックではないかという先入観を持っていたとしても、初期段階から犯人像を狭めるなんて、どう考えてもおかしいじゃないですか。よほど功に焦っているか、さもなくば……」
「さもなくば?」
 デイヴィッド警部が緊張した面持ちで聞き返す。
「わざと捜査をかく乱しようとしているか、そのどちらかでしょうね」
 ニコルは静かに言い切った。
 その言葉に、デイヴィッド警部がごくりと唾を飲む。
「そ、そんなことが……」
「はい。さすがにそんなことはないと思いますけどね」
 さっきまでとは打って変わって、ニコルはにこやかに言った。
 おかげで張り詰めた空気は何処へやら。デイヴィッド警部も思わず肩の力が抜けた。
「お前さんなぁ……」
「はい?」
 屈託のない笑顔で、首を傾げるニコル。
「脅かすんじゃねぇよ!」
 ほどよく力の抜けた腕で、ヘッドロックをかけられてしまった。
「痛たたたたっ! 痛いっ! 痛いですってばぁ!!」
「やかましいっ! ちょっとは痛い目でも見てろってんだ!」
「ちょっ、ほんと、マジで痛いんですから!」
 デイヴィッド警部の太い腕を、ニコルはしきりとタップした。
 だが、こんなことぐらいでは許さじとばかり、ますます力が込められる。
「ちょっと、ほんとに待ってくださいって!」
 堪らず涙目で懇願するニコル。
「なんだ? なにか言い残すことでもあるのか?」
「は、はい。あります! もちろんありますとも! もしこれが本当に切り裂きジャックの犯行じゃないとしたら、かなりまずいことになってくるなぁ、って思いましてですね!」
 痛みからか、一気に早口で語った。
「まずいこと?」
 その瞬間、ふっと力が緩んだ。
 ここぞとばかりに、ニコルはデイヴィッド警部の腕からするりと抜け出した。そして、戒めから解かれ、ようやくホッと一息。
 だが、それは束の間の一息だった。なにしろ逃げ出せたと思いきや、今度はお馴染みのように首根っこをつかまれていたからだ。
「おい。まずいことっていうのは、どういうことなんだ?」
 すかさずデイヴィッド警部が突っ込む。
 こうなっては、もはや逃げようもない。やむなく観念して、ニコルは力なく口を開いた。
「はい。まずいことになる、っていうのはですね……」
「うん。まずいことになる、っていうのは?」
「おそらく次の犯行は二、三日中に、早ければ一両日中にも行われるかもしれないってことなんです」
「なにぃっ!?」
 耳をつんざく轟音。そのすさまじさに、ニコルは思わず眩暈すら覚える思いがした。
 だがそこへ容赦なく、デイヴィッド警部の質問が即座に飛び込んできたではないか。
「なんでそんなことがわかる?」
 この勢いにだんまりを決め込む訳にもいかず、ニコルはいまだ頭をクワンクワンさせながらも、なんとかゆるゆると答えておいた。
「以前私が言った犯罪心理学というのを覚えていますか?」
「は、犯罪……、なんだっけ?」
「犯罪心理学です」
「そう。その犯罪なんとかが、どうしたって?」
「覚える気ないんですね……。まぁ、いいです。その犯罪心理学の見地から言うと、この種の連続殺人者の行動心理には二つのパターンがあるとされています」
「二つのパターン?」
「だんだんと大胆になっていくか、逆に証拠隠滅や偽の証拠作成が巧妙になっていくか、そのいずれかです。私が褒めるのも変な話ですが、本物の切り裂きジャックは非常に賢い犯罪者で、その証拠隠滅によってスコットランドヤードは見事にかく乱されました。ゆえにこれが後者のパターンであることは一目瞭然。しかるに今回の犯人による一連の行動は、本物の切り裂きジャックとは対照的なまでに大胆不敵。これは明らかに前者のパターンに属します」
「うん? だんだんと大胆になっていくってことか? だったら、その分捕まえやすいんじゃないのか? どこがまずいんだ?」
 納得しきれないという面持ちで、デイヴィッド警部が首をひねる。
 だが、ニコルは真面目な顔を崩さぬまま、言葉を続けた。
「もちろん捕まえやすくはなるでしょう。しかし、だんだんと大胆になっていくということは、言い換えれば、犯罪の歯止めが利きにくくなっている、ということでもあります。その証拠に、一件目から二件目、二件目から三件目、そして今回の四件目と、だんだん時間の間隔も短くなってきているでしょう?」
 ニコルの言葉を受け、デイヴィッド警部が声高に叫ぶ。
「た、たしかに! 初めは一ヵ月空いていたのが、次は約二週間、そして今回は五日間ほどだ!」
「はい。その上、今回はこれまでターゲットに入れていなかったメイドを殺害しています。おそらくですが、犯人は自制が効かなくなった結果、二十代の女性であれば誰でもよくなった。つまりは二十代の女性を殺すことのみに欲望を覚える、快楽殺人者と化したのでしょう。今後は見境なく、二十代と思しき女性を次々に殺害していくでしょうね。そう、早ければ一両日中にね」
 あくまで冷静に、あくまで淡々と語るニコル。
 すると、その冷静さをもどかしく思ったのか、デイヴィッド警部がゆっさゆさとニコルの肩を揺さぶって、捲くし立ててきた。
「おい! 落ち着いてる場合か? こうしている間にも、どこかで犯人が手ぐすね引いてるかもしれんのだぞ!」
「いや、さすがにこんな明るいうちからは動かないと思いますよ」
「そんなことわかるもんか! それに二十代の女性がターゲットっていったら、あのマリアさんだって危ないかもしれないじゃないか!」
「夜出歩かなければ、さほど危険ということも……」
「いいや! 切り裂きジャックの時だって、室内で殺害された被害者もいたんだぞ! あー、もう! こうしちゃいられん!!」
 そう言うやいなや、デイヴィッド警部は猪突猛進よろしく勢い駆け出していた。むろんその手に、ニコルの襟首をつかんだまま。
「ちょっ、またですかぁぁぁ……!!」
 ホワイトチャペルの裏通りに、ニコルの悲痛な叫び声が吸い込まれていった。

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