富士山頂

文字数 10,545文字

富士山頂

とにかく、ことしはおかしいと言われ続けていた。

基本的に雪の少ないところと言われる静岡県であるが、富士山だけは例外的に雪が降る。

体に雪の着物着て、とある歌で歌われているが、それくらい、富士山の雪は有名な話だ。

でも、この年は、何とも言えない暖冬で、いつまでたっても寒くはならず、富士山に雪は積もらなかった。

テレビでは、雪が降らないのはおかしいと、アナウンサーたちは口をそろえていった。でも、いくら偉い人がああだこうだと言いあっても、あてにならないのが、テレビというものである。

影浦医院では、テレビというものを置かないことにしている。患者さんたちが、テレビが嫌いという人が多いためである。患者さんの中には、テレビのせいでより体調が悪化していく人も少なくないので、影浦はテレビはなるべくなら使わないようにと言っていた。

でも、自宅ではテレビを見るし、ほかの情報機器から情報を得たりすることもあるから、影浦自身、精神科医がよく言う理想の生活をしているというわけではない。医者になり始めたときは、自分も患者さんと同じ、つつましい生活をと心がけてきたが、時間がたつにつれて、だんだんに忘れていき、テレビは普通に見るし、音楽も普通に聞き、電車にも普通に乗り、外も普通に出歩いた。患者さんの中には、そういうことができなくなってしまって、困っているという人も少なくなかった。そういう訴えも聞いて、カルテに書かなければならなかったが、そういう人たちの訴えを聞いているのは正直、苦痛になってきつつあった。それでもアドバイスはしていた。ただ、時折、患者さんに、先生は私の気持なんかわかるはずないよね。なんていわれると、ムキになって怒ってしまったりもした。それは、医者として、どうしようもないことだと、半分あきらめていた。というより、医者として当然のことだから、もう線引きをして、自分なりに生活していく、影浦はそう考えていた。

今日も、患者さんがやってきた。

「今日はどうしましたか?」

影浦はにこりと笑って、患者さんの話を聞くことから始める。

「ええ、ずっと頭が痛いんですけど、病院で診てもらってもどこにも異常がなくて、こちらに行けと言われました。どうしたら、治るものなのでしょうか。」

そういわれても影浦も困ってしまうのだった。

「採血とか、そういうことはやりましたか?」

「ええ、やりました。そこでも数値には何も異常がないそうです。」

確かに、数値だけ見れば、異常はないというのが、医者のよく言う言葉だが、それでは納得できないという人も少なからずいる。

「それでも、異常はないないというものですから、私、もう頭に来てしまって。一応こっちに来させてもらいましたけれども、それでも何もないというんでしたら、私、怒ります!」

と、いう患者。

そうだねえ、と影浦は頭の中で思った。

「はい。怒ってください。それで結構です。」

影浦は、とりあえず、そういうことにしている。そうして、患者さんの望みをかなえてやるようにしているのだ。

「じゃあ、やっぱり体には異常がないとでも?」

「正直に言うと体には異常がありません。それは全く確かです。」

患者さんは大きなため息をついた。

「医者であっても、できないこととできることとあるんです。どうしてもできないこともあります。」

影浦は、患者さんに頭を下げた。

「ごめんなさい、何もできなくて。」

そうやって謝罪をしないと、患者さんに信用してもらえない。すでに彼女は、いろんな病院をめぐって、いろんなところで門前払いになってきたに違いないから。

「先生が謝る必要はありませんよ。だって、お偉い先生に頭を下げられるほど、私は偉くはありませんよ。」

大体の人は、医者を偉い人だと思っているらしいから、そういう態度をとると、このような言葉を返してくるのが通常であるが、中には、本当にたたいてやりたいという人もいる。もし、彼らがそういうことを言ったら、影浦は応じてやることにしている。そのくらいの覚悟を持って勤めないと、こういう職業はできないと思う。

「はい、とにかく、医療的にはどうすることもできないんです。今は雪が降って寒い季節ですが、そのような季節はいつか終わるんだと思って、生きていただきたい。僕ができるのは、それしかありませんよ。」

影浦は、そういうことを言った。

「先生、薬も何もないんですか。」

「はい、ありません。医学的に異常があるわけではないですから、どんな薬を出しても、効果を出すはずがありません。それに、むやみに薬を出してしまうと、副作用でまたつらくなってしまうこともありますし。そのような場合は、かえって出さないほうが賢明です。」

「でも、事実、頭痛がした場合どうしたらいいのでしょうか?」

「そうですね。自分の心が、おそらくその場にいたくないのだと思いますから、もし頭痛がしてきたら、その場から離れてください。そして、頭痛がなくなったら、そこへ戻ってきてください。それを繰り返せば、体も自然になれてきて、そのうち頭痛も消えてなくなってきますから。それで、生き抜いていってください。」

そういうしかない。逆を言えば、これが影浦が出す「処方箋」なのかもしれなかった。

「大丈夫ですよ。体は何も異常はないわけですから、すぐに順応できます。そういう風にして、人は生きているのです。」

そうだろう。体に異常がないというわけだから、別に食事制限をしなければいけないわけでもないし、大掛かりな運動はしなくてもいいというわけだ。ただ、普通の生活をすればいい。それでいい。

「人間は、異常がなければ、どこにでも適応できます。もし頭痛がしたときは、それをした時だけその場から離れれば大丈夫です。」

そこを理解してくれるかどうかは、患者さんの能力というか、感性の問題だった。それは、どうしようもないことであって、ただ生きていくしか、方法はないんだと、影浦は伝えていくのだった。

「わかりましたわ。私も、少し自分を大事にするようにしますね。それで何とかします。」

彼女は、わかってくれたようで、丁寧に一礼し、診察室を出て行った。

そういうやり取りを繰り返して、診察は終わる。診察というよりか、単に会話をしているだけかもしれない。それでは、いけない、何か実績を出さなければいけないという医者も少なからずいるが、自身にできることはこういうことしかないと影浦は思っていた。

今日も、診察を終えて、影浦医院の建物を出ると、もう夜はかなり遅くなっていて、雪が降っていた。

雪か、、、。この静岡では、雪というものを見て面白がったり、喜んだりする者が多いが、母が東北出身であった影浦には、どうしてもそうは思えなかった。そうじゃなくて、雪というものは見た目は確かに美しいのかもしれないけれど、屋根の上に乗りすぎて崩落させたり、人間を凍死させたりするそういう意味では危険なものであった。決して、楽しいものと考えてはいけない。でもそのうち暖かくなってきて、春がくればすぐに消えてしまう。そして、水になって、作物を育てる一助けをする。あれだけ苦しめた雪が、そうやって終わってしまえば大いに役に立つ。体や心の病気も、そういうものに近いのではないか。確かに、病気になれてよかったと口にする人はまだ少ないが、治った後により健康に気を遣うようになったとか、二度とかからないように、新たな健康法を始めたよ、なんて豪語する患者もいる。いずれにせよ、彼らは、二度と病気にならないように、前向きな考えに変わっていってくれる。そういうところが、さんざん危害を与えておきながら、おわった後には、何かもたらしてくれる雪にそっくりだ。

そんなことを考えながら、影浦は雪道を歩いて、自宅に帰るのだった。

でも、最近は、雪が降ってくれてうれしいなと思うことも確かにある。雪のないほど暖かい日が冬になっても続いており、それに適応できなくなって体の不調を訴える人もいるからだ。たぶん、静岡県のシンボルと言える、富士山に、いつまでたっても雪が降らないということは、多かれ少なかれ、ストレスになるのだろう。今日きてくれた患者さんも、その一人だった。

「今年は、夏が長かったですね。でも、昨日、雪が降ってくれました。それで私はやっと、季節が普通にやってきたということを感じました。」

ここで、患者さんの言葉に着目する。わかりましたでは、まだ回復していない場合が多い。そうではなくて、心で感じてもらうこと、それをしないと、回復してきたとは言えない。

彼女は、ここへ来たときは、全身汗だらけで、いつまでたっても寒いと感じない、私の体はおかしいのではないかと言って、ここへやってきた。医療機関を受診したが、それでも体に異常はなかった。それでも、汗が出て、止まらないので、ここにやってきたのである。

それでは、対策として、どうしたらいいかを考えて、影浦は、毎日朝起きたら、富士山を暫く眺めることを習慣にしろ、といった。ちょうど、彼女の家は富士山がよく見える位置にあったからだ。

彼女は、季節が変わっていくことを感じられない。いつまでも体が夏だと思い込んでしまっていて、それが相当なストレスになっている。だから、具体的に、季節が変わってきたということをわかってもらう必要があった。そのために、富士山を眺めることを習慣にさせた。もちろん、それを始めたころは、何も変わらないと言って泣いていたが、辛抱強く、それを続けていると、彼女は汗も減ってきて、体のほてりもなくなってきたといった。

「よかったじゃないですか。それで良いのですよ。それでいいのです。もし、もう少し体に余裕が出てきたら、山登りまではしなくていいですから、自然を感じられるところに行って、少し歩いてみたらいかがでしょうか。」

こういう時はできるだけ、具体的に指示を出していくようにしている。あいまいな指示は出してはいけない。彼らはすでに、具体的なものが見つからなくてここへやってきているからだ。

そして、彼らを治療させるためには、やっぱり人間は自然と絶対に切り離してはいけないのだと思う。

そういうときも、富士山の白雪は、役に立つのだなと思う。

そして、自分はそういう理論を知っていて、また教えることができて、幸せなのだなという態度も出すようにしていた。

それが、患者さんにはどう見られているかなんて、まったく知らない。もし悪く言われるようなら、それは、患者さんが買ってに思っているだけの事。

自分は悪くない。役に立たない商売そうしてやっているのだから。

そう思っていた、、、。



その日の午後は、病院を出て、往診に出かけた。自力で病院に行けないで、家で待っている患者たちを診察に行く。こういう患者たちの中にはひどく暴力的であったりして、時には影浦自身が危ないのではないかと感じられるときもある。でも、そういう人ほど、放っておいてはいけない人たちであると思っている。

往診に行くのは原則として徒歩で移動した。そうでないと、変な目で見られてしまう可能性もあるからだ。それに、車を置けそうな場所に住んでいる患者ばかりとは限らない。

今日の往診の患者はその典型だ。とにかく偉そうだという印象を与えてはいけないとおもった。

その、建物の前に立つと、インターフォンがないので、玄関の引き戸をすぐに開けた。

「ごめんください。」

「はい、なんでしょう。」

応答したのは恵子さんだ。確かここで、調理の仕事をしている女性だと聞いている。同時に、診察する患者の介護人という役割もしているらしい。

「彼、いますか?」

「あ、どうも先生。いつも来てくださってありがとうございます。今、眠ってはいますけど、起こせばすぐ起きるはずですからどうぞ、上がってください。」

と、恵子さんはそういった。起こせばすぐ起きる、という言い方から判断すると、かなり邪見に扱われているように見えたが、影浦はあえてそれは指摘しなかった。

「じゃあすみません、上がらせていただきます。」

といって影浦は、中に入った。まっすぐ患者のいる四畳半に向かっていく。四畳半は、一番奥にある。途中鴬張りと言われている長い廊下を歩いて、広い中庭を眺めていく。中庭は、大きな池があり、その片隅に、竹製の鹿威し、正確に言うと僧都が設置されていた。それが、決まった時間ごとに、カーンカーンと鳴った。それを通り越すと、四畳半へのふすまがある。

「ごめんください。」

影浦は、ふすまを開けて中にはいった。

中に入ると、一人の男性が布団で眠っている。間違いなく、女性であればすぐにとりこになってしまうような、男性でさえ、彼には挑まないような、そういう美しさを持っている、言って見れば美形男子だ。影浦も、きっとこの男性には、容姿の美しさで言ったらきっと負けるだろうな、と思いながら、彼の枕元に座る。

「水穂さん。こんにちは。」

そっと声をかけると、目が覚めたらしく、んん、と口元が動いて目が開いた。

「こんにちは。」

もう一回声をかける。

「ご気分はいかがですか?」

影浦は、どんな立場の患者さんであっても、この口調だけは変えないようにしている。誰に対しても同じというのは結構苦労がいる作業であるが、特定の人に対して、乱暴な口調になるのはやっぱりいけないことだと思っている。

「あ、ああ、すみません。来訪されたのに気が付かなくて。」

「いいえ、いいんですよ。目を覚まして下さればそれでかまいません。」

そうやって変な風にへりくだるなよな、と思いながらも、影浦は患者を否定はしない。それは絶対にしないようにしている。

「ごめんなさい。寝たままでは失礼ですから、、、。」

水穂は、体を起こして布団に座ろうと試みたが、どうしても自力では体を起こせなかった。時折そうなってしまうときがある。ある時は、容易く体を起こせるのだが、変にかったるさが続く場合、体を起こすのはむずかしくなる。医師の沖田先生は、だんだんにそれが進行していくと、誰かの手助けなしには、何一つできなくなってしまうと言っていたっけ。それを水穂本人に伝えたのかは不詳だが、毎回来るたびにこれは必ずテストしておかなければならない。

「ごめんなさい。どうしても体が重たくて起きられません。」

「無理なら、そのままで結構です。無理をする必要はありません。」

そうして、その事実を受け入れさせることも必要だと思ったから、影浦は、あえて手伝おうとしなかった。普通の人なら、それをあきらめて、自分は悪くなったということに絶望して、泣き言を言いじめる。それは、ある意味では仕方ないことだったから、影浦も、ある程度はみとめていた。それを乗り切らないと、うまく終末というものを迎えられない。でも、大体の人は、そこを無視するというか、その時点はかかわりたくないという人が多い。だからこそ、自分のようなものが、呼び出されることもあった。

でも、水穂は、なんとしてでも起きて、座らなければと思っているようで、一生懸命布団から起きようと試みる。

「だから、そのままで結構だといったでしょう?そのまま寝ていてかまいませんよ。あんまり無理すると、体力を消耗するだけじゃないですか。」

影浦がそういっても、水穂は、何とかして布団に座ろうと試みるのだった。

「水穂さん。無理しなくて結構ですから。」

と、彼の肩に手をかけて、そっと体を布団に寝かせてやった。水穂はポロンと涙を流す。影浦は医者としては決まり文句的に、それでいいのですよ、と優しく言ってあげた。普通の人なら、失った体の機能を取り戻せなくなって、悲しいとか、気の強い人であれば、この機能を取り戻すためにはどうしたらいいんだとかそういう言葉を口にするはずだ。でも、水穂はどちらでもない言葉を口にした。

「いいえ、僕はそうしなければなりません。だって、先生と僕は、階級が、」

言いかけて、全部言い終わらないうちに、せき込んでしまうのだった。影浦は、水穂を横向きに寝かせてやり、そっと背をさすってやった。

「そんなこと、どうでもいい話じゃないですか。そういうことにはとらわれないで、ゆっくり話をしましょうよ。今となっては、そういうことは気にしないでくれて大丈夫ですよ。」

「違います。」

水穂は、細い声であるが、でもはっきりといった。

「違います。とらわれないでなんて、できるはずはありません。常にこれを持っていると考えて、行動していかないと、先生にまで弊害が出てしまいますから。」

その意味がはっきり分からなかったけど、影浦にしても、患者を無理やり動かすわけにはいかない。ましてや、自分が往診に来たときは、いつでも、ありのままの姿を見せてもらいたいと思っていた。

「先生は、日本の身分制度をご存知ないんですか?」

ふいに水穂がそういった。

「でも、それはもう過去のものになったのではないのですか?今はだれでも平民として、同じように生きていい権利は保証されています。差別的な発言をしたら、それが何?みたいな感じで、言い返してやればいいのです。僕たちが見たいのは、そういう身分の水穂さんではなくて、本物の水穂さんですよ。身分にとらわれて、あなたは本当の自分を出し切れていないのではないですか?ほら、今悩んでいることだってそうでしょう?」

影浦は、少し説教をするような話を始めた。

「あなたは、そういうところにとらわれすぎなんですよ。今日だって、動けないところを見ると、ほとんど食事をされてないでしょう。」

水穂は力なく頷く。

「それじゃあ、ダメなんですよ。もしかしたら過去に、身分制度のことで、何かあったのかもしれないですよね。あなた、以前看護している方に聞いたんですが、学生時代に、音楽コンクールでほかの学生ともめて、その腹いせに、無理やり食べれないはずのものを無理やり食べさせられて、さんざんな目にあったようですけど、」

水穂の唇が、少し震えたのを影浦は見逃さなかった。

「それに振り回されて、というか、その時の恐怖と同じことをもう一回味わいたくないから、咳き込んだりして、体が防衛しているのだと思いますが、それでは、過去にいつまでも、とらわれすぎて、弱っていくことしかできないことになります。確かに、あなたは、もう回復の可能性はあまり高くないのかもしれないですけれども、過去にとらわれることはなく、前向きに生きていくことは可能なのではないですか?それをもっと自分に言い聞かせて、少しでも、食事をとれるように、努力していくべきではないでしょうか?」

「いいえ、それはできません。僕は、低い身分だからです。逆を言えばそれが僕のありのままの姿なのです。」

影浦が一生懸命語りかけるが、水穂はそれを打ち消すように言った。

「どうしてですか?ありのままというのはね、学歴や社会的身分ではなく、あなたそのものを見るということですよ?」

影浦が、そう聞いてみると、

「いいえ違います。何処へ行っても、汚い人間という言葉が付いてくるのが僕です。それは、もう僕だけではなく、伝法の坂本というところに住んでいる人間であればみんなそうです。」

ときっぱりと答えが返ってきた。

「ずっとそうなんです。僕も、周りの人たちも。伝法の坂本はそういう人の場所です。一昔前であれば、親指を誰でも詰めることを義務付けられていて、四つの人と呼ばれていました。僕たちはそういう身分なんです。だから、そこから解放されるには、この世を去っていくしか方法はありません。だから、逆に僕は世を去っていったほうが、周りの人はうれしいのかもしれない。そういう身分なんですよ。何処へ行っても邪魔な存在。癪に障る存在。」

影浦も、同和問題について、少し学んだことはある。思い出してみれば、狭山事件の犯人にされてしまった人も、本人は無実であると言っているが、すでに懲役に行かされてしまっていた。それはもしかしたら、同和地区の人を犯人としておけば、ほかの捜査にてを出せるという、楽をしたい人間の欲のせいかもしなかった。確かに結婚しようと思っても、相手方に結婚を取り消されてしまったりとか、そういう事例はまだあるようである。

「でも、だからと言って、あなたは、すべての権利をはく奪されたわけではありません。あなたはちゃんと看病してもらって、ちゃんとおしまいまで観てもらえる権利がちゃんとあるんです。それは、誰でも変わらないし、今はそういうことはちゃんと憲法で保証されています。」

「そんなことありません。そんなことは絶対にありません。」

水穂は、影浦の話を打ち消すように言った。

「だったら、僕がここの人たちに言ってあげましょうか。あなたの事。」

「いいえ、やめてください。そんなことは絶対にしないでください。そんなことをしたら、さらに負担が大きくなります。これ以上負担を強いるような真似はしたくありません。このまま、逝ってしまうのが、一番、」

そこまで言うと、水穂は、前より激しくせき込んでしまった。

「一番、なんですか?」

影浦が、そう言っても、治まらない。さらに激しくせき込むだけである。

「水穂さん。」

本当はその一番のあと、なんという言葉が入るのか聞いてみたかったが、それはもうできないことも分かった。さらにせき込みつづけ、とうとう、口に当てた手が、赤く染まり始める。

「ほら。」

影浦は、枕元からチリ紙をとって、水穂の口元に付けた。白い紙は一気に赤い濡れ紙に変色してしまう。

今日はもう、彼に話を聞くのはやめたほうがいいかな、と影浦は思った。

暫く黙ったまま、影浦は、水穂の背をさすった。庭の鹿威しの音が、カーン、カーンと無造作になっているのが、なんとも言えない苛立ちを起こす。鹿威しは風流を楽しむ道具だというけれど、今の彼には、なんだかどこかへ行くための時間をカウントしているように見える。

そのうち、暫くして、咳の数は少し減少した、その間に何枚のチリ紙を赤く染めてしまっただろうか?

「少し、やすみましょうか?今回はごめんなさい。変な質問してしまって。」

影浦は、改めて水穂の顔を見た。もう疲れ切っていて、これ以上会話を続ける気力はなさそうな顔をしていた。

「僕こそごめんなさい。汚いところを見せてしまって。」

「いいえ、大丈夫です。医療従事者として、慣れていますから。」

影浦は、にこやかに、無理やり笑顔を作ってそういった。

「薬飲んで、ゆっくり休みましょうか。またそのうち来ますから、その時はもっといい話ができますように、心がけておきます。」

枕元にあった吸い飲みをとった。沖田先生が出した薬だ。もう、根本的に治療する方法はないので、出血を止めるとか、吐き気を解消するとか、そういう対症療法的な薬しか出していない。それに、かなり強い薬なので、副作用も強く、時にきつい作用をすることも少なくないそうだ。本当は、容易く使うべきではないのではないかと思っていた影浦であったが、こうなってしまうと、もう使わざるをえないというか、そんな気がしてしまうのだ。

「どうぞ。」

吸い飲みを、口元へ持っていくと、水穂は中身を飲み込んだ。そのうち、中身を飲むのも大変になってくる、と言われているが、今はまだ、ゆっくりとそれを飲み込んでいる。飲み干すと、水穂はふっとため息をついて、再びあおむけの姿勢に戻り、眠くなってきたのか、再び眠ってしまった。

「また、来週来ますから。よろしくお願いしますね。この時間にまた来ますからね。」

影浦は、来訪する日付と時刻をメモ用紙に書き、それを水穂の枕元に置いた。

そこへ、また冷たい北風がピーっと吹いてきたので、水穂にかけ布団をそっとかけなおしてやる。

「それでは失礼いたしますね。」

そっと、立ち上がり、影浦は四畳半を出た。



恵子さんに往診終了の挨拶をして、手早く影浦は外へ出た。外はどんより時雨ていて、時折冷たい北風が彼の体を殴るように、打ち付けた。

何となく、風にあおられて後方を見た、北の山はすべて雲に隠れていて、もう当分姿を見せそうにはない。その中で一番姿の目立つ富士山も雲に隠れて姿を消していた。

影浦は、その景色を見て、自分は今日、なんということをしたんだろうと、自分を責めた。もう、救いようのないってわかりきったことなのに、なぜそこから脱却させようとしてしまったのか。自分は、なんだか医者としてまだまだ力が足りないな、という気がした。

重い足取りで、いつも通りの影浦医院へ戻ろうと歩き出したところ、また冷たい北風が自分をなぐった。そして、頬に何か冷たいものが打ち付けたような気がした。

「わあ、雪だ。」

気が付くと周り一面、雪が降っている。

美しいなんてどころではない。刺すような冷たい、冷たい雪。

雪は、非常に厳しく、やがて来る春のことなんて連想できないかのように、影浦の体に打ち付けた。

「ごめんなさい、水穂さん。僕は、医者として甘すぎましたね。」

影浦は、今までの、雪についての出来事は、すべて過去へ葬り去ってしまった。雪に立ち向かうように、影浦医院までの道のりを歩いていく。それでは甘い、という言葉をその通りだ!とでも言うように、雪は彼のほほに打ち付けた。それではいけない!

医者はやっぱり、患者さんに寄り添っていかなきゃいけないんだ。

きっと、患者さんたちは、逃げ場もなくこうやって生きている人たちなんだろうな。

そう思いながら、歩き続ける影浦だった。
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