Chap.6

文字数 3,318文字

「この質問は君が書き込んだんですよね?」
 匿名希望で書かれた質問内容はこうだった。
『学校で友達が先生に殴られた。友達は寒いからマフラーをして学校に行っただけなのに、黒以外のマフラーは禁止だからって怒られて、俺はひどいだろって抗議した。そしたら、顔を叩かれた。どうすればいいかわかんない』
 ネットユーザーの〈回答〉はいくつかついている。『体罰だから訴えた方がいい』とか、『違反のマフラーする方が悪い。君が日頃から反抗的だからじゃないか』とか。
「投稿は一週間前。結局どうしたんだ?」
「なんで話さなきゃいけないんだよ」
「この件が武富先生の事故と関係あるかもしれないから」
「は? アヤカのこと怒ったのは武富じゃねぇよ」
 千川さんが微笑む。
「アヤカっていうのが友達の名前か。もしかして昨日のゲーセンの子か?」
 響が大きく舌打ちし、口を噤んだ。
「響くん」
 私は彼の向かいに立った。
「『どうすればいいのかわからない』のはどうして? 叩かれたことに納得いっていないのに、どうして怒らないの」
 鬱陶しそうに、響が俯く。私は続けた。
「怒っていいのかが、わからないから?」
 ハッとして響が目線を上げた。
「悪いことをしたのは自分。間違っているのは自分だって思っているから?」
 音のない公園に、沈黙が落ちた。
「……だって……そうだろ。先生は正しい。正義だろ?」
「君にだって正義はあるよ」
 私がいうと、目前の少年は引きつった笑みで首を横に振る。
「俺みたいな奴の正義なんて、だれが聞くんだよ。認めてくれるはずがねぇよ。俺が悪なんだって、決めつけられるし、実際、そうなんだろ?」
 違うのかよ、とほとんど悲鳴みたいな声が上がる。千川さんが私の隣に立った。風が強く吹き、千川さんのジャケットの裾がなびく。
「はっきりいおう。君がされたことに、正義は関係ないんだよ」
「え?」
「正義の反対は別の正義。一理ある。でも正義が正義であるうちは両者が衝突しても何も問題ない。風が木々にぶつかるような、自然現象だ」
 千川さんは揺れる街路樹を指さした。
「でも、どちらかが一方を虐げたのなら、それは正義と正義の話じゃなくなる。暴力事件の加害者と被害者がそこにいるだけだ。君は、堂々と被害者になっていいんだ。昨日いったろ。大人も子どもも嘘はつく。でも今は、自分に嘘つくな」
 響は千川さんを見つめ、やがて口を開いた。

 風見中学校の二年B組の教室に、茂手木さんはいた。黒板の前に立ち、ぼんやりと佇んでいた。入ってきた私と千川さん、スナオさんの姿を認めても反応が遅かった。
「……な、なぜここに?」
「職員室に行ったら、ここだといわれたんだよ」スナオさんが答える。「テストの準備に日曜出勤だって? 大変だね」
 整然と並ぶ同じ形の机。ロッカー。壁の掲示物。私も懐かしさを感じた。
「そうじゃ、なくて、なんで学校に」
「玉木響に話を聞いた」
 千川さんは教卓を挟んで茂手木さんに向かい合った。
「玉木響が非行少年になるきっかけは、一年生のときの頭髪検査だったらしいね。彼は生まれつき茶色い髪だったけど、校則は黒髪でないとならず、地毛が茶色い生徒は黒染めしなきゃいけない。それを嫌がったことで教師の不興を買った」
 茂手木さんは首を横に振った。
「校則ですから、仕方ありません。近頃は校則を批判する動きもあるようですが、たった数年、学校でのルールを守れない生徒が、社会のルールを守れますか」
 社会のルールを守っていない脅迫屋はほくそえんだ。
「社会のルールで茶色い髪が禁止になってれば、まだわかるけど。たった数年のルールは、生徒の何を守る?」
「秩序です」
 声を大にして茂手木さんはいった。
「で、秩序のために問題児とか、非行少年とか、そんなレッテルを貼られて、自力で剥がす術もなくなるわけか」
 千川さんの言葉に茂手木さんが気色ばむ。
「知ったようなことをいわないでいただきたい。そんな話をしに来たんですか?」
「いいえ。武富さんの事故の話と、ついでに脅迫をしに」
「き、脅迫?」
 千川さんが黒板の前に移動する。茂手木さんが後ずさり、説明を求めるようにスナオさんを振り返る。けどスナオさんは腕を組み、目を伏せていた。私はドアの前に立ち塞がる。
「茂手木利成。今からあんたを脅迫する。武富さんに酒を飲ませたのは自分だと認めろ。そして……」
千川さんが続きをいい終わる前に、
「なんのことですか」
 と、茂手木さんが呆然としていった。
「最初に気になったのは病院での会話だ」
 千川さんがいい、茂手木さんがびくっと体を震わす。
「武富さんのトラブルに心当たりがないか訊いたら、あんたはクラスに問題児がいると口走った。慌ててすぐにごまかしてたけど、妙だと思った。真面目そうなあんたが部外者に、生徒が疑わしいなんて失言をしてしまうこと。理由は一つ。スナオの仮説を訊かされて動揺したからだろ? とっさに自分から嫌疑を背けるために玉木響をほのめかしてしまった」
「――だれかに無理やり酒を飲まされ、強制的に運転させられた可能性」
 スナオさんが昨日のセリフをコピーペーストしたように繰り返す。茂手木さんの視線が泳ぐ。
「私が、どうやって、酒を飲ませたっていうんだ。先生は一人で車を運転して……」
「水筒だよ」
 千川さんの一言で茂手木さんは絶句した。
「武富さんはいつも水筒を持ち歩いていたそうだね。中身はミネラルウォーター。職員室でよく飲んでたとか。もし事故の日、水筒の中身が酒にすり替えられていたとしたら?」
「……馬鹿な。そんなの、気づくだろう」
「通常ならね。でも武富さんはおそらく気づかなかった。味覚異常を患っていて味がわからなかったから」
 茂手木さんの額に汗が浮かんでいた。
「体内で亜鉛不足になると味覚異常になることがある。武富先生の所持品に亜鉛製剤があったのは、亜鉛を補うためだったんだね」
 スナオさんがいう。和枝さんが「最近食が細くなった」といっていたけれど、味覚異常によるものだったんだろう。
千川さんが続ける。
「原因が偏食による亜鉛不足なら薬が効いたはずだ。でも効果は薄かったんだろう。だから一か月前に処方された薬は大半が残されていた。たぶん武富さんの味覚異常の原因は心因性。ストレスだ」
 おそらく玉木響の非行について。いや、他の要因もあったのかもしれない。数多の子どもたちの人生を預かる仕事なのだから。
「事故当日、知らないうちに武富さんは酒を飲まされていた。水筒は帰る間際、本物の水に再度すり替えられた。あんたの手によってね」
「茂手木さんは知っていたんですよね?」
 私は訊ねる。どうしても責める口調になってしまう。亜鉛製剤を飲んでいるのを知ったときにでも、茂手木さんは訊き出したはず。相談を受けていたかもしれない。なのに。
「武富さんの病気を利用して、あんなこと」
「ちょっと待ってください」
 茂手木さんは額の汗を拭った。
「仮に水筒の中身が日本酒にすり替えられていたとして、私がやったということには……」
 千川さんが「はいダウト」と指を鳴らした。
「あんた、またいったね」
「……な、何を?」
 千川さんがずかずかと歩み寄っていき、茂手木さんはじりじりと後退する。
「日本酒って。覚えてる? 金坂澪が、武富さんは酒好きだったかと訊いたときもあんたはこう答えた」
――人並みに飲む方でした。日本酒も。
「なんで日本酒について付け加えたのか気になったよ。その後、武富和枝さんに、武富さんの服から日本酒が匂ったという話を聞いた。でも奥さんはだれにもしゃべっていない。医者は『アルコールが検出された』以上の情報を発表していない。武富さんが日本酒を飲んでいた、と知っていたのは水筒をすり替えた人間だけだ」
 茂手木さんは背中がくっつくほど壁際に追い込まれていた。
「……違う」
「武富さんを酔わせ、事故を起こさせた!」
「そんなつもりじゃなかったんだ!」
 茂手木さんは絶叫し、千川さんを押しのけて窓に走った。
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