赤い鯨

文字数 2,070文字

 砂浜で金魚の弔いをしている女に出逢った。
 マッチ箱の中に、白い綿にくるまれたからだが眠っている。
「一番素敵な箱にしました」
 女はそう言って、少しだけ口の端を上げた。
 音もなくしゃがみ込むと、女はポケットから別の箱を取り出した。その何の変哲もない紙箱は軽く膨らんでいる。金魚の棺桶から、中身を移し替えたのだろう。一本、また一本とマッチが取り出され、炎があがっては消えていく。最後に燃え尽きた一本を女はずっと持っていた。熱くはないのだ、だって黒い炎だから。
 月が咳払いをして、波が揺れ、砂を連れていく。白くて長い指が棺桶をその流れの中へ押しやった。
 どうして金魚を海に、とは聞かなかった。どこまでもどこまでも漂って、朽ちて、いつか鯨に生まれ変わるような気がしたから。
「あなたの金魚もお弔いいたしましょうか」
 女はこちらを向くことなく言った。それは星が瞬くのと同じくらいの早さで、砂を踏むくらいさりげないことだった。
 胸の真ん中にいる、私の真っ赤な金魚。
「いまはこのままにしておきます」
「そうですか。いつかご入用になったら呼んでくださいね。ほら、素敵なマッチ箱にはなかなか巡りあえるものではないから」
 もう還してやったらどうかと、頭では解っている。そうしたらいつか、赤い鯨になれるかもしれない。でも、あと少しだけ、そう、少しだけこのままで。

 ピアスの片方を木の根元に埋めた。
 「ムーンストーン。宏樹(ひろき)に誕生石のピアスもらった」
 侑子(ゆうこ)がそう言って耳朶を見せてくれたのは、一昨年のことだったか。
「いいなあ」
 周りの友人たちが羨ましげに群がるのを遠目に眺めていた。欲しいか、と聞かれたらきっと要らないと答えただろう。侑子と目が合ったので、すてきだねと笑いかけておいた。
 侑子のピアスは今夜、洗面台に置かれている。その石は濁った空気のような色をしていて、中に白く一筋の光が浮かんでいた。よく見たくなって手にとり、蛍光灯に透かした。
 石がちら、ちらとリズムを刻んでいる。え、よく聞こえない。何て言ってるの。
 大浴場から侑子たちが戻ってくる気配に、私はピアスを握りしめたまま縁側の籐椅子に向かい、ずっとそこに座って庭の景色を眺めていたような体を装った。
 翌朝、ピアスが片方無いと騒ぐ侑子をみんなで宥め、部屋中を探すふりを装いながら私の意識は流れていく。
 昨晩あの後、散歩してくると一人で出かけた。旅館のそばにあった小さな公園で、ベンチに腰掛けて石を月明かりにかざす。ちら、ちら。ムーンストーン、六月の誕生石。ねえ、さっきの話の続きを聞かせて。
 月の光を吸い込んでため息をついている、と思えてならなかった。
 ここに眠らせてやろう。
 梔子(くちなし)の花びらは辺縁から茶色くなり、盛りを過ぎてなお、芳香を放った。墓標として、相応しい気がした。
 それからひと月も経たずに、侑子は宏樹と別れたと私たちに告げた。その話をしながら、彼女はほんのちょっとだけ泣いた。侑子が自分の誕生日に私たちと一泊二日の旅行をしているあたり、二人の向かうところは決まっていたのだろう。ピアスを無くしたことは、最後の一押しとなっただろうか。
 所詮その程度だったということ、私のしたことなんて。

 このところ毎晩のように赤い鯨の夢を見る。尾を上下に振り、海原に踊る赤い鯨。青黒い夜の海を駆ける鯨は浮かび上がって潮を吐くとき、決まって私の方を見る。月明かりに輝く鯨の目。
 目が覚めると跳ねる、胸の真ん中で、私の真っ赤な金魚。

 今夜は鯨の夢ではなさそうだ。夢の中なのにほっとする。梔子がつややかな葉を繁らせるてっぺんに、たくさんの蕾。どうしてこんなに息苦しいのだろう。まだ咲いてもいないのにものすごい香りがするせいだ。私が肩で息をしていると、あっという間に一輪、また一輪と咲き始める、小さな白い丸い、いや、花ではなくてあれは。
 ムーンストーン。

 私は、梔子の根を切っているのかもしれない。ぶち、ぶちと不規則な振動が伝わってくる。お構いなしにひたすら木の根元を掘り返す。
 泥だらけの手で車を走らせる。ピアスを握りしめたままの掌に血が滲むが、痛みが心地よい。
 なんて醜い放物線を描いて飛んでいくことだろう。ピアスを吸い込んだ海は静まりかえり、波音ひとつ聞こえない。
 あの女に会いたい。
 私の金魚を弔ってもらいたい。
 女はどこにもいない。素敵なマッチ箱を探すのに手間取っているのだろうか。
 夏だというのに雪が舞い始めた。掌で固まっている血の上に積もっていく。
 誘ってきたのは宏樹の方で、私じゃない。聞かれたならばそう答えた。でもそんなこと尋ねなかった、誰も。
 掌の傷が穴になって、向こう側へ雪が崩れて落ちてゆく。もっと、もっと雪が降って、胸の真ん中も穴になって、金魚を連れて行ってしまえ。
 雲が切れて月の道がついた。あの果ての果てに赤い鯨がいるのだろうか。
 私は穴のあいていない方の手を波に浸した。
 舐めてみたらしょっぱかった。
 涙と海はどっちがしょっぱいのか。
 混じってしまったから、今は良くわからない。
  
〈了〉
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