第5話 希望 2

文字数 2,219文字

 もう眼医者に通うことはなくなった。
 仕事の帰り、僕は信じられないものを見た。彼女が停留所に座っていたのだ。僕の乗った停留所を彼女は覚えていたのだろう。
 夏の夕方、僕は車で通り過ぎ、もう1度戻った。間違いなく彼女だ。間違うわけがない。
 目が合った。ごく自然に彼女は乗ってきた。ごく自然に僕は車を走らせた。 
英幸(えいこう)さんでしょ? 三沢さんの息子さんの……幸子さんの息子さん」
「母を知っているの?」
「おかあさんは、私を助けて亡くなったのよ」
 驚き、声の出ない僕の横で彼女は話す。
 
 田舎の海で出会ったふたりの母親。春樹を抱いていた僕の母。同郷の母親は娘と心中しようとしていた。娘が生まれると父親は出ていった。母は身の上話を聞き励ました。しかし母親は娘を連れて海に入った。波がふたりを引き裂くと母親は助けを求めた。水泳の得意な僕の母が助けた。命と引き換えに……

 ずいぶん遠くまで来てしまった。パーキングで休み飲み物を買った。背筋を伸ばし堂々と歩く娘を行き交う人が驚きを隠さない。僕は彼女の手を握った。父もそうしてきたのだろう。
 外のベンチでコーヒーを飲んだ。夜のとばりが彼女を隠した。
「私を憎む?」
「……もう、母が生きていたことのほうが嘘のようだ……」
 自然に僕は肩を抱いた。
「無条件で……許す。尊敬する。もっと早く会いたかった。君の力になりたかった」
「亜紀さんが子犬をくれた」
「義母が子犬を?」
「素敵なおかあさんね。おとうさんも」
「……僕は君の兄になるよ」
 彼女は涙を流した。
「感情のないことの訓練はできているのに……」
 夜のとばりが現実社会を遮断した。僕はママを感じた。
「母が……」
「幸子さん?」
「ああ。喜んでるよ。僕たちを見ている。ホントだよ。僕は霊感が強いんだ」

 彼女を送った。小さな家に母娘は住んでいた。母親が出てきて家に上がった。ヨークシャーテリアが彼女を守っていた。居間の棚に母の写真があった。家には1枚もないはずだ。
「弟さんにもいつか謝りたい」
 ポツリと彼女が言った。
「春樹にはずっと会ってない」
 父は、会っているのだろうか? 芙美子おばさんにはときどきは会っているはずだ。『幸子』の残した命はどうしているだろう?
 彼女の部屋に、母親が子供を抱いた絵が飾ってあった。別荘の立ち入り禁止の部屋から消えた絵だ。
「おとうさんに貰ったの。あなたのおかあさんが海辺で子供を抱いていた……重なるの。あなたのおかあさんと」
「抱いているのは僕ではない。弟でもない。女の子だ。君だよ。君を抱いてる」

 記憶の最初から父はいた。父親だと思っていた。甘えさせてくれた。絶望して死にたいと言ったときに父は真実を語った。
「最愛の女がおまえを助けて死んだのだ」と。
「助けなければよかったのに、そうしたらこんなに苦しむことはなかった……」
 望が言うと父は怒って首を絞めた……

 父は最初、母子を憎んだ。だが、娘の顔を見ると言葉を失った。
 想像した。『幸子』はこの娘を見てどんな反応をしたのだろう? 『幸子』は強い女だった。逆境には立ち向かっていった。『幸子』なら娘を隠すことなく希望を与え、強く育てただろう。父は『幸子』の遺志を継いだ。
 自分の子供は亜紀に任せ、愛した女が命に変えて助けた娘を強く育てたのだ。並大抵ではなかっただろう。おそらく『幸子』と心の中で話していたのだろう。
 自分の息子には向き合わなかったくせに……僕はあなたの愛した女の息子だから、強い女の息子だから大丈夫だとでも思っていたのか? 

 部屋の隅にフラフープが置いてあった。
「おとうさんが買ってきてくれた。おとうさんは上手なのよ」
 本もCDもたくさんあった。母が読んでいた小説、母が好きだった曲。
「柔道を教えてくれた。強くなれって。カラオケに連れていってくれた。思いきり歌うの。おとうさんは上手。それでも絶望したときは別荘に連れていってくれた。誰にも会わない。遮断するの。おとうさんと私だけ。それに……幸子さんの亡霊と」
「立ち入り禁止の部屋か?」
「おとうさんは、とことん付き合ってくれた。先に帰りたくなるのはいつも私の方だった」

 海外出張は手術のためだった。毎年のように行われた手術に父は同行した。急な出張も何度もあった。何度も父は、絶望する望に付き合った。望を強くするために。10年以上の父と望の物語が目に浮かぶ。
「学校にもしょっちゅう来てくれた。だから辛い思いはしなかったのよ。先生も保護者も生徒も、皆優しくしてくれた」
「母の話をした?」
「強い人だったと。たくましい人だったと。望は絶望の望じゃない。希望だって。同じ境遇の人に希望を与えろって。絶対、生まれてきてよかったと思わせてやるって。おとうさんに会えてよかった」
「もうすぐ母の命日だ。忘れていたが……」
「毎年お墓参りに行くの。おとうさんに引きずっていかれたわ。1年間なにをしたか、報告しろって」
 僕を連れて行こうとはしなかったくせに……

 怒りは湧いてこなかった。僕の顔を見なかった父、話をしなかった父。教えてもらったことはなにもない。勉強も柔道も歌も。
 想像する。望との出会いから今までを。歳とともに増していったであろう苦悩と絶望。
 絶望か希望か? 想像する。望を抱き上げた父を。手術の間、待っている父を。母の墓前でのふたりを。海を。柔道を教える父、歌うふたり、子犬を世話するふたり、学校でのふたり、実の父娘よりも深く強い絆だ……

 
 
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