第60話 『 ち せ の 』

文字数 1,320文字

       ◎


 その孤児には名前がなかった。
 なまえどころか、ことばもなかった。
 それでもなんとか歩けるようになるまでは
 誰かが乳をくれていたはずだが、
 そのような記憶もなかった。
 ただ、気がついた時には、
 ほかの同じような孤児たちや
 野良犬やカラスたちにまじって、
 ひたすらに餌をもとめ、
 這いつくばり、
 唸り、叫び、
 逃げ回り、
 また、打たれたり蹴られたり、
 罵られたり、
 唾をはきかけられ、
 追い立てられるばかりの
 無限地獄の日々だった。


 戦禍と天災に
 追われ追われて、ずいぶん遠くまで来た。
 と、いうことさえ、わからぬ幼児であった。

「…おい! そこの! ちっせーの!」

 ある日、乱暴な声がかけられた。
 ことばの意味などもわからなかったが、
 その時そこにいたのは、
 たまたま自分だけであった。
 なので、声が自分に向けられたものである、
 ということは、おぼろげに理解した。
「…ちいせぇなぁ! 骨と皮ばかりじゃねーか!」
 乱暴で不機嫌そうな声であったが、
 なぜか、今までのように
 蹴られたり追い立てられたりは、しなかった。

 それどころか、ぽん!と
 目の前に、
 ひもじくて動くこともできなくなった
 その幼児の前に。
 まだ温かい、湯気をはなった、
 美味しそうな匂いのする、
 なにかのカケラが投げ落とされた。
 …夢中で!
 がッ! と、掴み。
 むさぼり喰らった。

「…まったく! なんてぇ時代だよ…!」

 乱暴な声は。
 そう、言いながら、遠ざかっていったが…

 幼児は。
 はた!と気づいて、とにかく、その男を追った。

「…お? おいおいおい! ついてくんじゃねーぞ!?」

 追い立てられたので、避けて、距離はおいたが。

 その子どもは、食い物をくれた男のことを、
 けして忘れなかった。

 姿を見れば、追いかけ。
 払われれば、距離を置き。
 気がつけば、また、ぽんと、
 食い物のカケラが投げ与えられ。

 嵐が来れば、「おい!ちっせーの!」
 …と、声がかかって。
 男たちが群れる、難民のかたまりの端の端で。
 激しい雨風が避けられる、なんとか隅っこの床の下などに。
 …居場所が、与えられた…


 男たちの群れを追ううちに。
 幼児は。
 ひと、というものの、言葉や決まりを。
 なんとなく…

 習い覚えた。


「…すっかり、なついちまったなぁ!」

 男のなかまたちは、そんなふうに、ひやかしながら。
 やはり、いつのまにか、なにくれとなく。
 気を掛けてくれて。
 古い衣服を投げ与えられたり。
 着方もわからずにぼんやりしていれば。
 女たちが河原につれて、
 酷い汚れだ…
 と、嘆きながら体を洗ってくれたり。
 臭い塊に過ぎなかったドロドロの髪を。
 洗って、梳いて、切って、整えて…

 時には、乳を与えてくれる子持ちの女すらいて。
 子を失った婆ぁに、抱かれて眠ることさえあった。

「…ちっせーの!」

 …と、男からは、いつも呼ばれた。


       ◎

 ある時、ある場所で、いくらか大きく育った、
 子どもは。

「…なまえは?」
 と、尋ねられた。


「 ちっ、せー、のッ! 」

 と、元気よく、子どもは応えた。


「…『 ち せ の 』、ちゃんね…」

 難民定住促進官は、そう、名簿に記入したのであった。


       ◎


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