タンザナイト――4―5
文字数 5,331文字
歩いて行くうちに他人というものが徐々に消えていき、今となっては歩いている人を殆ど見かけない。それでも蝶は時折ノイズを交えながらも道案内を続ける。
どこまで行くんだ、いくらなんでも遠すぎる。もう小半時、いや、半時は歩いているかもしれない。もしや、近道があるのに道幅が広い方を優先しているために遠回りになっているのではないか。
今まで普通の道を飛んでいた蝶が細い路地を曲がって飛んでいく。
そこは整備されて入れ歩くのには全く支障はなかった。狭いくてもいいから近道を行けと思ったからそれに応えたとでもいうのか。或いは。
奥の方から透き通った鈴の音が微かに聞こえてくる。
路地を抜けるとがらりと景色が変わった。
開けた土地、規則正しく並んだ木々、青白く冷ややかな月明かりに照らされ映える地面、外周を囲う様に茂る草花に佇む人影。
緑の蝶はその人物のもとへ飛んでいくと掻き消え霧散する。
紛れもなくそこは公園だった。
一歩を踏み出し敷地内に足を踏み入れた途端、俺の心臓は馬鹿になったように鼓動を早める。
「お兄さん、待ってましたよ」
違和感まみれな聞きなじみのある声が耳へと届く。
そこにいたのは間違いなく理久なのだが、声だけでなく容姿も違和感だらけでとにかく服がおかしい。コスプレ衣装のような露出が多い巫女装束を纏い、明らかに髪も伸びていて胸も少し膨らんでいるようだ。
「君は理久の兄妹、とかではないよな」
「いませんからね、ですが違います」
舞う様に理久はその場で一回転すると鈴の音が聞こえてくる。
手にはやはり白い花、スプレーマムとやらを持っていた。
「何が、違う」
「名前ですよ、僕の名前」
今度は反対周りに理久は一回転する。
またしても鈴の音が聞こえてきた。どうやら理久の着ている巫女装束にいくつも鈴がついているようだ。
「瑠璃、それが僕の名前です。どちらで呼ぶかはお兄さんに任せます」
「理久、いや瑠璃。お前は、女、なのか」
「はい。正真正銘、女性です。僕の身体見ますか? お兄さんになら、全部見せてあげますよ」
「いや、見せなくていい。それよりなんでお前、わざわざ男として俺の前に」
瑠璃はスッテプを踏み、大きく回ると、顔を俯けしゃがみ込んだ。
「笑わないでくださいね。えっと、恥ずかしかったんです。お兄さんに一目惚れしてしまって。でも、近づくにはお兄さんの前に出ていかなければなかったので、どうしようかって悩んだんです。その時に思いついたんです。僕の能力は生体操作系、人も対象に取れる生体操作系能力。これを使ってお兄さんに会う時だけ男の子という仮面を被っていればいんだって」
瑠璃はゆっくりと顔を上げる。
「少し痛かったですけど、おかげで冷静なままでいられました」
どこか不気味さを感じるような痛々しく純粋な笑顔を浮かべていた。
「成程、自分に向けて常に能力を発動し続けていたからいつだって髪も目も緑色だったんだな。長居出来なかったのは痛みか」
「そうですよ。でも失敗してしまいましたね。僕が男の子として距離を縮めようとしている間に日高研究室の越前舞奈とかいう女に盗られちゃいましたしね。勇気を出して、お兄さんに最初から女の子として話しかければ良かったんです」
「何で舞奈の名前が今、それもお前から――」
先程愛梨さんは言っていた。ストーカーされていたのは俺だと、していたのは緑色の女性だと。
日高さんが研究室を出る時同じ人物と二度遭遇している。舞奈が日高さん目当ての女性がこれで五人目だと言っていた。だから俺も、きっと舞奈もその人物が日高さん目当てだと思っていた。
「瑠璃、お前がストーカーだったんだな」
「気付いてたんですか、お兄さん。ううん違うかな。きっと、お兄さんの同居人、長野愛梨かその友人だよね。気付いたのは。だってお兄さん、今まで一回も気付いてなかったみたいだし」
「お前の目的はなんだ、瑠璃」
「え、わからないんですかお兄さん」
瑠璃は回り、鈴を鳴らしながら二歩ほど後ろへ下がる。
「あの女と別れてください」
俺がそうすると信じ切っているように笑う。
「舞奈と別れてお前と付き合う、そういうことか」
「はい、そういうことです」
左右へステップを踏むたびに、巫女装束に付いた鈴が澄んだ音を響かせる。
どうすればいい。舞奈を捨てるか瑠璃を説得するか。どちらにせよ面倒なら今この場で瑠璃を説得した方が誠実だろう。
「付き合って間もない相手を捨てることは出来ない」
「どうせ別れるのに? どうせ捨てるのに? どうせゴミみたいに捨てるのに? お兄さんにその気がなくても捨てられるかもしれないんだよ。僕は純潔も命も全てお兄さんに捧げられるんだよ」
「かもしれないな。そうかもしれないけど、今はまだその時じゃないし、来ると言い切れるものでもない」
瑠璃は肩を落とすと、小さな円をなぞるように歩きだす。
二周ほどしたところでこちらを向いて立ち止まった。
「本当にだめですか、お兄さん」
「少なくとも今は、そのくらいのことで捨てることは出来んな」
大きな溜息を吐いて瑠璃は俯く。
「そのくらい、そのくらいですか。でもそうですよね、僕が足踏みしていたのがまちがいなんですよね。その間に盗られてしまって」
「もういいか、この話は」
俺の言葉を聞いていないのか、瑠璃に反応はなく俯いたままだ。
「そうだ、そうだよね。奪われたんなら奪い返すしかないんだよ。ははっ、だからお兄さん、奪われてください。僕に奪われてください。ふふっ、あははっ」
汗が頬を伝い、背中から踵へと冷気に撫でられるような感じがした。
「ごめんなさい、少し取り乱してしまいました」
そう言うと二回、三回深呼吸して振り返り俺から離れる。
「きっと、もう受け取ってもらえませんよね」
自嘲するような小さな笑い聞こえた直後、瑠璃の手から花が落ちた。
「もう、だめみたいです。僕が急いた所為でしょうか。それでも僕の願い思い、聞き届けてもらえますか」
草花のざわめきでかき消されてしまいそうな声で言う。
ゆっくりとこちらへ向き直ると目が合った。苦しさを滲ませた顔で笑っていた。
「お兄さん、僕に奪われてくれますか?」
どうすればいい。落ち着かせるためにはいとでも答えておけばいいのか。しかしそれは先延ばしにしているに過ぎない。
冷たく穏やかな風が鈴の音と共に草を揺らし頬を撫でる。
「わかりました」
何をわかったのか、よくある無言はなんとかとみなすというやつか。映画やドラマなんかではよく聞くが、実に理不尽だろ。
「星の神よ十二宮よ。形代に依りて集ひ給ひて此の地を平らけ給へ。暗き世道示す星の神暗き世照らす星の神、罪穢れ種種の禍事を祓ひ給ひて道を示し給へ。十二宮より白羊宮おひつじ座よ、懼れを祓ひて御恵みを御力を与へ給へ。我が名を捧げ恐み恐み白す」
祈るような瑠璃の声が、透明な水晶の如く清純に響く。
俺には何を言っているのか、意味なんかまるでわからないが、瑠璃の手の中と後ろで何かが群青色に光り輝いている。
瑠璃の後ろで輝いているものから群青色の光が打ち出され、流れ星のように四方へと降っていくと同時に、手の中にあった光が閃光を放ち、群青色に金色が浮かぶ剣が現れた。
説明されなくてもよくわかる。非常にまずい状況だということくらいは。
「もう少し、お話ししてくれますか。お兄さん」
「少しと言わずまだまだ大丈夫だぞ。それに、断ったらそれでざっくり斬られそうだしな」
「はい。それと、奪われてくれなくても斬りますよ」
約束した時と同じように、それがさも当然かのように言い放つ。
どうにも手詰まりとしか思えない。それが俺のせいだとわかっている。舞奈に付き合ってと言ったあの日の俺を全力でぶん殴りたい。
「そんなことしたら犯罪者になるぞ。やめた方がいいと、俺は思うな。うん」
「大丈夫ですよ」
何故か嬉しそうに笑うところに恐怖を感じる。
「お兄さんの息が止まったら、腹を裂いて首を斬り、僕の臓物も命もお兄さんに捧げて後を追います。素敵じゃないですか? ロマンチックじゃないですか? 愛し合う二人が添い遂げる為に心中するんです。後日見つかるのは、抱き合いながら唇を重ね、横たわる二人の死体です」
危険信号を発しているのは既に本能だけではない。理性もまた同じように、こいつはやばいやつだと五月蠅いくらいに騒ぎ立てている。
自分も死ぬことが前提なら、間違いなく本気で殺しにかかってくるだろう。
ふざけるな、死にたくないと怒鳴り散らしたくもある。しかしそんなことをすれば、即座に地に伏すことになって終いだろう。
生きて帰るには冷静に、落ち着いて、話し合うしかないのかもしれない。
「そうだ、この話は、あと何年かしてからっていうのは。お前の年齢だと、あんな子に手を出してとかって後ろ指さされそうで」
「僕の年齢気にしてたんですか? 大丈夫ですよ、僕はこう見えてもも今年で十九になったので。面白いですよね、人という動物を、その身体を操作できる能力を持っている当の本人が、全然成長してないんですよ。本当に、出来ることなら能力使って無理矢理伸ばしたいくらいですよ」
年下、十三か十四くらいに思っていた男の子が実は女の子で、更に自分より二歳年上だった時の心境は誰にもわからない。誰にもわからないだろう。俺と同じことが起きた者でなければ。
いや、そうでもないか。
年齢を理由にやんわり断る、或いは安全に先延ばすことには失敗した。
「最近いろいろあって疲れていてな、今日は休ませてもらってまた後日、じゃだめなのか」
「だめですよ、空が白んでくるまでです」
まただ。時間を指定している割には曖昧な表現をする。
白むまでまだ時間はあるが、明確に時間が指定されているわけではない。それはつまり、いつ殺されるかわからないという事でもありそうだ。
生きていなければ出来ないことを述べれば行けるだろうか。ただし、美味しいものが食べられるとか、あの小説の続きが読めるとかではないものだ。
「そうだ、俺とお前がここで死んだとすれば俺たちの子供は出来ないな」
「こど、も、っていうことは、そういうこと、ですよね」
俺なんかの目でも揺らぎは捉えた。これならいけるか。
「ああそうだ、俺と、お前の子供だ。これから先の時間がなければ出来ないだろ」
「そうだね。でも、考えてみればそんなの要らないよ。お兄さんの気持ちがそっちに移ってしまったらきっと僕は妬いてしまうし、殺してしまうと思うから」
今の状況からも、深刻そうな声色からもやりそうだと感じる。
「やっぱり、今ここで殺されてくれるのがいいと思うんです。もう、あの女に奪われているわけですから、あの女から奪い取るしかないんです」
足を小さく踏み出し、少しづつ近づいてくる。
「落ち着いて考え直した方がいいと、俺は、思うなあ」
瑠璃の歩幅に合わせて後退する。
「お兄さんこそ、考え直してもらえないですか」
凶器を持って迫ってくるというのは想像以上に恐ろしいもので、言葉が見つからず愛想笑いで返す。
「待ってください、お兄さん」
恐怖ですくんでしまったのか、足が動かなくなる。
こういう時、アニメやドラマの登場人物を、さっさと動けと馬鹿にしてきたが、本当に動かなくなるなんて思わなかった。
「僕は言いましたよね、僕の能力は人間も操作対象ですよ」
能力を使っているせいかなのか、瑠璃の髪も瞳も緑に変わり息が荒くなっている。
それより、それよりだ。能力の名前なんか知らないが、人間の身体を操れるなんて、少々いんちき過ぎるだろう。こんな危険な奴にそんな危険な能力を与えた運命とやらは罰せられるべきだろ。
歩幅が小さいとかそんなのは関係ない。こっちは止められているのだから。
俺を確実に屠れるところまで迫っているにも関わらず距離を詰めてくる。
瑠璃は歩みを止めることなく近づいてきて、そのまま抱き着いてきた。
「一度くらいは、生きているお兄さんを抱かせてください」
俺の身体だというのに支配権は向こうにあるようで、俺の意思とは関係なく動かない。お手上げ状態だ。
瑠璃が顔を上げるとすぐに近づいて唇が触れる。柔らかくて、とても純粋な。
「女の臭い」
悲しそうな顔で呟く。
その後突然だった。
瑠璃が後ろへ飛び、俺の拘束が解かれると同時に人影が一閃と共に瑠璃のいた場所に降り立った。
「あら、猫さん。居たんですか。大人しくしていて欲しかったですね」
「私が猫なら貴女はなにか教えてもらえないかなあ。私の専門外だから。そうだ、暫定的に探女というのはどうかな」
「なりすましはいつだって討たれると知らないんですか、猫さん」
どこまで行くんだ、いくらなんでも遠すぎる。もう小半時、いや、半時は歩いているかもしれない。もしや、近道があるのに道幅が広い方を優先しているために遠回りになっているのではないか。
今まで普通の道を飛んでいた蝶が細い路地を曲がって飛んでいく。
そこは整備されて入れ歩くのには全く支障はなかった。狭いくてもいいから近道を行けと思ったからそれに応えたとでもいうのか。或いは。
奥の方から透き通った鈴の音が微かに聞こえてくる。
路地を抜けるとがらりと景色が変わった。
開けた土地、規則正しく並んだ木々、青白く冷ややかな月明かりに照らされ映える地面、外周を囲う様に茂る草花に佇む人影。
緑の蝶はその人物のもとへ飛んでいくと掻き消え霧散する。
紛れもなくそこは公園だった。
一歩を踏み出し敷地内に足を踏み入れた途端、俺の心臓は馬鹿になったように鼓動を早める。
「お兄さん、待ってましたよ」
違和感まみれな聞きなじみのある声が耳へと届く。
そこにいたのは間違いなく理久なのだが、声だけでなく容姿も違和感だらけでとにかく服がおかしい。コスプレ衣装のような露出が多い巫女装束を纏い、明らかに髪も伸びていて胸も少し膨らんでいるようだ。
「君は理久の兄妹、とかではないよな」
「いませんからね、ですが違います」
舞う様に理久はその場で一回転すると鈴の音が聞こえてくる。
手にはやはり白い花、スプレーマムとやらを持っていた。
「何が、違う」
「名前ですよ、僕の名前」
今度は反対周りに理久は一回転する。
またしても鈴の音が聞こえてきた。どうやら理久の着ている巫女装束にいくつも鈴がついているようだ。
「瑠璃、それが僕の名前です。どちらで呼ぶかはお兄さんに任せます」
「理久、いや瑠璃。お前は、女、なのか」
「はい。正真正銘、女性です。僕の身体見ますか? お兄さんになら、全部見せてあげますよ」
「いや、見せなくていい。それよりなんでお前、わざわざ男として俺の前に」
瑠璃はスッテプを踏み、大きく回ると、顔を俯けしゃがみ込んだ。
「笑わないでくださいね。えっと、恥ずかしかったんです。お兄さんに一目惚れしてしまって。でも、近づくにはお兄さんの前に出ていかなければなかったので、どうしようかって悩んだんです。その時に思いついたんです。僕の能力は生体操作系、人も対象に取れる生体操作系能力。これを使ってお兄さんに会う時だけ男の子という仮面を被っていればいんだって」
瑠璃はゆっくりと顔を上げる。
「少し痛かったですけど、おかげで冷静なままでいられました」
どこか不気味さを感じるような痛々しく純粋な笑顔を浮かべていた。
「成程、自分に向けて常に能力を発動し続けていたからいつだって髪も目も緑色だったんだな。長居出来なかったのは痛みか」
「そうですよ。でも失敗してしまいましたね。僕が男の子として距離を縮めようとしている間に日高研究室の越前舞奈とかいう女に盗られちゃいましたしね。勇気を出して、お兄さんに最初から女の子として話しかければ良かったんです」
「何で舞奈の名前が今、それもお前から――」
先程愛梨さんは言っていた。ストーカーされていたのは俺だと、していたのは緑色の女性だと。
日高さんが研究室を出る時同じ人物と二度遭遇している。舞奈が日高さん目当ての女性がこれで五人目だと言っていた。だから俺も、きっと舞奈もその人物が日高さん目当てだと思っていた。
「瑠璃、お前がストーカーだったんだな」
「気付いてたんですか、お兄さん。ううん違うかな。きっと、お兄さんの同居人、長野愛梨かその友人だよね。気付いたのは。だってお兄さん、今まで一回も気付いてなかったみたいだし」
「お前の目的はなんだ、瑠璃」
「え、わからないんですかお兄さん」
瑠璃は回り、鈴を鳴らしながら二歩ほど後ろへ下がる。
「あの女と別れてください」
俺がそうすると信じ切っているように笑う。
「舞奈と別れてお前と付き合う、そういうことか」
「はい、そういうことです」
左右へステップを踏むたびに、巫女装束に付いた鈴が澄んだ音を響かせる。
どうすればいい。舞奈を捨てるか瑠璃を説得するか。どちらにせよ面倒なら今この場で瑠璃を説得した方が誠実だろう。
「付き合って間もない相手を捨てることは出来ない」
「どうせ別れるのに? どうせ捨てるのに? どうせゴミみたいに捨てるのに? お兄さんにその気がなくても捨てられるかもしれないんだよ。僕は純潔も命も全てお兄さんに捧げられるんだよ」
「かもしれないな。そうかもしれないけど、今はまだその時じゃないし、来ると言い切れるものでもない」
瑠璃は肩を落とすと、小さな円をなぞるように歩きだす。
二周ほどしたところでこちらを向いて立ち止まった。
「本当にだめですか、お兄さん」
「少なくとも今は、そのくらいのことで捨てることは出来んな」
大きな溜息を吐いて瑠璃は俯く。
「そのくらい、そのくらいですか。でもそうですよね、僕が足踏みしていたのがまちがいなんですよね。その間に盗られてしまって」
「もういいか、この話は」
俺の言葉を聞いていないのか、瑠璃に反応はなく俯いたままだ。
「そうだ、そうだよね。奪われたんなら奪い返すしかないんだよ。ははっ、だからお兄さん、奪われてください。僕に奪われてください。ふふっ、あははっ」
汗が頬を伝い、背中から踵へと冷気に撫でられるような感じがした。
「ごめんなさい、少し取り乱してしまいました」
そう言うと二回、三回深呼吸して振り返り俺から離れる。
「きっと、もう受け取ってもらえませんよね」
自嘲するような小さな笑い聞こえた直後、瑠璃の手から花が落ちた。
「もう、だめみたいです。僕が急いた所為でしょうか。それでも僕の願い思い、聞き届けてもらえますか」
草花のざわめきでかき消されてしまいそうな声で言う。
ゆっくりとこちらへ向き直ると目が合った。苦しさを滲ませた顔で笑っていた。
「お兄さん、僕に奪われてくれますか?」
どうすればいい。落ち着かせるためにはいとでも答えておけばいいのか。しかしそれは先延ばしにしているに過ぎない。
冷たく穏やかな風が鈴の音と共に草を揺らし頬を撫でる。
「わかりました」
何をわかったのか、よくある無言はなんとかとみなすというやつか。映画やドラマなんかではよく聞くが、実に理不尽だろ。
「星の神よ十二宮よ。形代に依りて集ひ給ひて此の地を平らけ給へ。暗き世道示す星の神暗き世照らす星の神、罪穢れ種種の禍事を祓ひ給ひて道を示し給へ。十二宮より白羊宮おひつじ座よ、懼れを祓ひて御恵みを御力を与へ給へ。我が名を捧げ恐み恐み白す」
祈るような瑠璃の声が、透明な水晶の如く清純に響く。
俺には何を言っているのか、意味なんかまるでわからないが、瑠璃の手の中と後ろで何かが群青色に光り輝いている。
瑠璃の後ろで輝いているものから群青色の光が打ち出され、流れ星のように四方へと降っていくと同時に、手の中にあった光が閃光を放ち、群青色に金色が浮かぶ剣が現れた。
説明されなくてもよくわかる。非常にまずい状況だということくらいは。
「もう少し、お話ししてくれますか。お兄さん」
「少しと言わずまだまだ大丈夫だぞ。それに、断ったらそれでざっくり斬られそうだしな」
「はい。それと、奪われてくれなくても斬りますよ」
約束した時と同じように、それがさも当然かのように言い放つ。
どうにも手詰まりとしか思えない。それが俺のせいだとわかっている。舞奈に付き合ってと言ったあの日の俺を全力でぶん殴りたい。
「そんなことしたら犯罪者になるぞ。やめた方がいいと、俺は思うな。うん」
「大丈夫ですよ」
何故か嬉しそうに笑うところに恐怖を感じる。
「お兄さんの息が止まったら、腹を裂いて首を斬り、僕の臓物も命もお兄さんに捧げて後を追います。素敵じゃないですか? ロマンチックじゃないですか? 愛し合う二人が添い遂げる為に心中するんです。後日見つかるのは、抱き合いながら唇を重ね、横たわる二人の死体です」
危険信号を発しているのは既に本能だけではない。理性もまた同じように、こいつはやばいやつだと五月蠅いくらいに騒ぎ立てている。
自分も死ぬことが前提なら、間違いなく本気で殺しにかかってくるだろう。
ふざけるな、死にたくないと怒鳴り散らしたくもある。しかしそんなことをすれば、即座に地に伏すことになって終いだろう。
生きて帰るには冷静に、落ち着いて、話し合うしかないのかもしれない。
「そうだ、この話は、あと何年かしてからっていうのは。お前の年齢だと、あんな子に手を出してとかって後ろ指さされそうで」
「僕の年齢気にしてたんですか? 大丈夫ですよ、僕はこう見えてもも今年で十九になったので。面白いですよね、人という動物を、その身体を操作できる能力を持っている当の本人が、全然成長してないんですよ。本当に、出来ることなら能力使って無理矢理伸ばしたいくらいですよ」
年下、十三か十四くらいに思っていた男の子が実は女の子で、更に自分より二歳年上だった時の心境は誰にもわからない。誰にもわからないだろう。俺と同じことが起きた者でなければ。
いや、そうでもないか。
年齢を理由にやんわり断る、或いは安全に先延ばすことには失敗した。
「最近いろいろあって疲れていてな、今日は休ませてもらってまた後日、じゃだめなのか」
「だめですよ、空が白んでくるまでです」
まただ。時間を指定している割には曖昧な表現をする。
白むまでまだ時間はあるが、明確に時間が指定されているわけではない。それはつまり、いつ殺されるかわからないという事でもありそうだ。
生きていなければ出来ないことを述べれば行けるだろうか。ただし、美味しいものが食べられるとか、あの小説の続きが読めるとかではないものだ。
「そうだ、俺とお前がここで死んだとすれば俺たちの子供は出来ないな」
「こど、も、っていうことは、そういうこと、ですよね」
俺なんかの目でも揺らぎは捉えた。これならいけるか。
「ああそうだ、俺と、お前の子供だ。これから先の時間がなければ出来ないだろ」
「そうだね。でも、考えてみればそんなの要らないよ。お兄さんの気持ちがそっちに移ってしまったらきっと僕は妬いてしまうし、殺してしまうと思うから」
今の状況からも、深刻そうな声色からもやりそうだと感じる。
「やっぱり、今ここで殺されてくれるのがいいと思うんです。もう、あの女に奪われているわけですから、あの女から奪い取るしかないんです」
足を小さく踏み出し、少しづつ近づいてくる。
「落ち着いて考え直した方がいいと、俺は、思うなあ」
瑠璃の歩幅に合わせて後退する。
「お兄さんこそ、考え直してもらえないですか」
凶器を持って迫ってくるというのは想像以上に恐ろしいもので、言葉が見つからず愛想笑いで返す。
「待ってください、お兄さん」
恐怖ですくんでしまったのか、足が動かなくなる。
こういう時、アニメやドラマの登場人物を、さっさと動けと馬鹿にしてきたが、本当に動かなくなるなんて思わなかった。
「僕は言いましたよね、僕の能力は人間も操作対象ですよ」
能力を使っているせいかなのか、瑠璃の髪も瞳も緑に変わり息が荒くなっている。
それより、それよりだ。能力の名前なんか知らないが、人間の身体を操れるなんて、少々いんちき過ぎるだろう。こんな危険な奴にそんな危険な能力を与えた運命とやらは罰せられるべきだろ。
歩幅が小さいとかそんなのは関係ない。こっちは止められているのだから。
俺を確実に屠れるところまで迫っているにも関わらず距離を詰めてくる。
瑠璃は歩みを止めることなく近づいてきて、そのまま抱き着いてきた。
「一度くらいは、生きているお兄さんを抱かせてください」
俺の身体だというのに支配権は向こうにあるようで、俺の意思とは関係なく動かない。お手上げ状態だ。
瑠璃が顔を上げるとすぐに近づいて唇が触れる。柔らかくて、とても純粋な。
「女の臭い」
悲しそうな顔で呟く。
その後突然だった。
瑠璃が後ろへ飛び、俺の拘束が解かれると同時に人影が一閃と共に瑠璃のいた場所に降り立った。
「あら、猫さん。居たんですか。大人しくしていて欲しかったですね」
「私が猫なら貴女はなにか教えてもらえないかなあ。私の専門外だから。そうだ、暫定的に探女というのはどうかな」
「なりすましはいつだって討たれると知らないんですか、猫さん」