第29話 Phase28

文字数 1,046文字

 「ああー……」
 俊は大きく息をついた。その途端、店の空気も緩んだ。
「緊張した……」
「まだ手震えてるんだけど……」
 俊と蒼は目を見合わせる。そして同時に、吹き出すように笑った。
「どうなることかと思ったぞ。よかったのか、先延ばしにして」
 陸斗もため息をついた。
「いいんだ。俺たちで決めたことだから」
 俊の言葉に、蒼もうなずく。陸斗は、これなら大丈夫そうだと思った。
「そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」
 陸斗の言葉に、俊が素早く時計を確認した。
「もうこんな時間! 蒼、帰ろう」
 飛び出すように店をあとにした二人を、陸斗は眩しそうに見ていた。


 「ただいま……」
 家に帰った俊は、玄関にある靴を見て息を詰めた。
(父さん、帰ってきてるのか……)
 着替えてリビングに行くと、空気が重かった。
「ずいぶん遅かったな」
「すみません、勉強が……」
「本当か?」
 父は鋭く俊の声を切り裂く。俊は目を上げられない。
「成績が落ちている。本当に勉強しているなら、成績が落ちるなんてことはないだろう」
 冷たい声で淡々と責められるのがつらい。これなら、怒鳴られた方がマシかもしれない。
「最近、陸斗のところに行っているな?」
 言い当てられて、俊は唇を噛んだ。
「お前がやっていることは、嘘までついてやることなのか? そんなことよりも大事なことがあるだろう」
「っ、でも」
 俊の声をまたしても遮り、父はパサリと塾のパンフレットをテーブルに置いた。
「この塾に行け。すでに申し込みは済ませてある」
「待って……!」
「お前は」
 父に気圧されて俊は黙った。
「長男だろう。俺はあと数年で父から病院を受け継ぐ。そして、俺から病院を継ぐのはお前だ。一時のくだらない感情なんかに、振り回されてる場合ではないんだ」
「お、俺は」
「俊。わかっていると思うが、うちは代々医者の家系だ。恥をさらしてくれるなよ」
 俊は我慢ならなくなり、立ち上がってリビングを出ていこうとした。
「持っていけ」
 父から差し出された塾のパンフレットをひったくるように掴むと、今度こそ部屋に閉じこもった。

 「くそっ……」
 俊は手に持っていたパンフレットを握りしめた。パンフレットは音を立ててゆがむ。
(なんで医者の家に生まれたからって、医者にならなきゃいけないんだ……せっかく、やりたいことが見つかったっていうのに)
 パタリと雫が落ちた。拭おうと上げかけた手も、力なく落ちてしまう。涙が止まらないなんて、何年ぶりだろうか。
 窓を叩く風の音に紛れてしまえと、俊は必死に声を押し殺し続けた。
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