第一話「暗闇」

文字数 3,982文字

――ひとりよりもふたりが良い。
共に労苦すれば、その報いは良い。
倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。
倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
(コヘレトの言葉 3章9節-10節)――

救いようもなく深い静けさが支配する(ルート)だった。探知できる音といえば、遠くで虫や獣が鳴きかわす音と沈んだ少女の足音だけだ。二人を追い立てるようにして響いていた信徒たちの笑い声も、今となっては聞こえない。彼らもようやく夜が更けて落ち着いたのか、二人が遠くまで来ただけのことなのだろうか。ずいぶんと長い距離を歩いた気がする。
この静けさは自分があの教会に迷い込んだ時のものに少し似ているな、と思った。とはいえ、あの時とは違って星の光は厚く塗りこめたような雲に遮られて届かない。認識できる光といえば、エリスが縋るようにして腕に抱く警告灯(カンテラ)の光くらいだ。その唯一の光源だって、随分と輝きを弱めていた。燃料が尽きかかっているのだ。気力も同様かもしれない。夕方から歩き続けているのだ。あと二時間もすれば空は白み始めるだろう、という時刻になっていた。
「エリス。疲れてるだろう」
 遅すぎる気遣いに、エリスはきょとんとした顔でこちらを見た。
「いえ。子供って疲れないものなんじゃないの?」
「大人に比べればそうかもしれないけど。足が痛かったり重かったり、もう歩きたくないと感じることは?」
 エリスは黙って自分の足に視線を落としたが、すぐに「大丈夫、まだ歩けるわ」と答えた。虚勢には見えなかったから、おそらく人造人間(ホムンクルス)には疲労というものがないのだろう。ここまで一度もペースを落とそうという話が出なかった事にもっと早く気付くべきだった。
 少女を連れて歩く以上、そこまで遠くには来られないだろうと思って歩いてきたが、予測は外れたわけだ。遠くまで来たというのは、短期的には好都合だったが長期的に見ればあまり都合がいい事態とは言えない。暴徒から離れられたのはいいことだが、同時に目的地からも遠く離れてしまったのだ。
それに、正確にどれくらい廃村から離れたかはわからなくなっている。歩数は数えているとはいえ、この暗闇では映像からの補正が出来ない。
困ったな、と思う。適度なタイミングを見計らって引き返すべきだろうか。だが、それで連中と出くわしてしまったら全てが無駄になってしまう。どうしたものか。
考え込んでいたのがよくなかったらしい。右足をプログラム通りに踏み出した瞬間、足元が崩れて自身の機体が傾くのがわかった。
フィリアは咄嗟に握っていたエリスの手を振りほどいた。それ以上のことは出来なかった。あっという間に重力に捕らわれた機体は斜面を転がり落ちていく。暗闇の中で自身の体がたてる衝突音を聞きながら、山道を踏み外したのだろうということを考えていた。幸いにも衝突音は一つだったからエリスは転がり落ちていない。それだけがささやかな救いだ。
しばらく闇の中を転がり落ちて、ようやく人形の機体は静止した。手足のコントロールは失われていない。身を起こそうとした瞬間ぐらりと体が揺れたので、慌てて元の姿勢に戻る。自分の体の下から土が滑り落ちていく音が聞こえた。木の根か何かにひっかかっているのだろう。危ういバランスの上に自分はいるらしい。いわゆる準安定状態というやつだ。暗すぎて自分がどうなっているのかはわからないが、きっと打ち捨てられた玩具のごとく転がって横たわっているのだろうという予測はついた。夜が明けるまでは動かないほうがいいだろう。自分一人なら適当に身動きして落ちられる所まで落ちてもよかったかもしれない。
「フィリアー! フィリア、どこにいったの!? 大丈夫!?」
 悲痛な叫びが頭上から聞こえてきた。というか、聞こえてきた方向がおそらく頭上なのだろう。声はフィリアの足がある方向から聞こえてきていた。
「エリス? 聞こえる? こっちは大丈夫だけど、夜が明けるまでは動けそうにない」
「ああ、そっちにいるのね? 動けないって?」
 声が少し聞こえやすくなった。こちらの方向を把握したのだろう。掲げられた警告灯の光が遠く小さく揺れていた。星みたいだ。随分と転がり落ちたらしい。
「暗すぎるんだ。自分がどうなっているか見えないから、下手に動くとさらに滑り落ちる」
「ええ、わかったわ。暗すぎるのね。そうね、だから」
 だから心細いかもしれないが夜が明けるまで上で隠れて待っていてくれ、と言いたかった。言わずともわかってくれたようだ。流石に聡明に育てられている子だ、と思う。
「だから私がランタンをもってそっちに行けばいいのね! 大丈夫、わかってるわ」
「やめろ、わかってない。じっとしてて」
 買いかぶりだったようだ。フィリアは静かに諦めた。
 動けない以上、言葉で制止するしか出来ない。効果が薄いことはそれまでの暮らしでよくわかっていた。それに、エリスが夜明けまでに別の人間や獣に見つからないという保証もないのだ。どうにもフィリアに分が悪い状況だった。
「……焦らずにゆっくり注意しながらやってくれ。君まで滑り落ちる羽目になったら大変だから」
「ええ、フィリアみたいにならなければいいのよね!」
 返す言葉もない。フィリアは黙って警告灯の光がゆらゆらと揺れながらゆっくり近づいてくるのを眺めるしかなかった。そういえば、廃村の境界線を越えても警告灯は本来の機能を保っているのだろうかと思った。光源として十分役に立っている以上、警告機能がなくなっても文句は言えそうにないが。
 カンテラの光は着実に近づいてきていた。エリスの方がフィリアよりも夜目が利くらしい。フィリアは普通の人間ほど夜目が利かない。光感度の幅がそれほど広くないのだ。人間の目を設計した何者かがいるとすれば、相当にいい腕を持っているのだろうと思う。
 やがて光がフィリアのもとまで降りてきて、その全身を照らした。視界の横からエリスの顔が覗き込む。差し出された手をとって身を起こす。「助かった」と言い終わらないうちに、がさりと周囲から音がした。発生源はエリスでもフィリアでもない。音は背後から聞こえてきた。
 振り返ると、カンテラの光を反射してぎらぎらと光る獣の目がこちらを見据えていた。合計四つだ。野犬か、狼か。エリスが引きつった声を漏らした。それに反応してだろう、光る眼が一歩こちらに近づく。
 咄嗟に拳を握り締めたフィリアの腕にエリスが抱きついていた。この状況では戦えそうにない。足場が悪すぎるし、そもそも、フィリアには野の獣と関わった経験が殆どない。姿かたちが人に似ているとはいえ、本質的に自動人形は鉄と木だ。そんなものに関心を示すのは人間だけである。
 二匹の獣がまた一歩踏み出した。二人を取り囲むようにして、匂いを嗅いでいるらしい。獣の湿った吐息の音が二人を囲んでいた。その間、二人は一切動かなかった。ただエリスの途切れ途切れのか細い呼吸音だけが妙に甲高く聞こえていた。
 ひとしきり二人の周囲をうろついてしまうと、やがて獣たちは二人への興味を失ったようだった。光る眼がそっぽを向いたかと思えば連れ添って闇の中へと姿を消す。彼らが立ち去って尚、二人はしばらくその体勢から動けずにいた。エリスがしがみつく力を緩めて大きく息を吐いたのは、獣どもが立ち去ってから一分ほどしてのことだった。
「あんまりお腹が空いてなかったのかしら」
「ん……」
 あの獣たちの反応は自分が一人でいるときの反応によく似ていた。獲物によく似た姿をしていても、彼らにとって栄養にならない存在、命を宿し命を保つ血肉を備えた生物とは違うものを前にしたときの反応だ。そう思ったが、彼女に向かってそんな事が言える筈もない。
「炎が怖かったのかもしれない」
 言いながら、そうであればいいなと思った。エリスは特に疑問を呈することもなく「そうね」と答えた。沈黙が訪れる。
「今は上がれそうにない。じっとしてるしかないな」
「そうね。夜明けを待ちましょう」
 狭い視野の中で、なんとか比較的平坦な場所まで移動した。太い根を張り巡らせた大木に背を預け、足を投げ出すようにして座る。
「どうせ動けないんだ、眠るといい。疲れないといっても、休んで悪いことはないはずだよ」
 自身の太ももをぽんぽんと叩いて声をかけると、エリスはしばらく逡巡してからその上に座った。向かい合って、フィリアの肩に頭を預けるような形だ。彼女が何か言ったのが聞こえたが、うまく聞き取れなかった。
「うん?」
「……眠れないの」
「無理もないよ。ただ、目を閉じてじっとしてるだけでもいいんだ」
「違うの」
 エリスは頭を上げた。赤い瞳がこちらを見据える。
「わたし、眠れないの。ずっと一人で夜明けを待ってた。夜が来るのが嫌いだった」
「……」
 人形にも眠りという概念はない。それでも、暗闇に飽きたとき、自らの思考回路を休ませて微睡み(スリープ)の時を持つことができる。決まった時間に思考を再開することも出来る。しかし、彼女にはそれが出来ないのだ。
「でも、今はあなたがいるものね」
 フィリアが何かを言う前に、エリスはそう続けた。また頭を預けてしまったので、こちらからは後頭部しか見えない。
 フィリアは結局何も言わず、黙ってその頭を撫でていた。呼吸が規則正しくなっていくのが見える。目立つから消すよ、と告げてライトを消せば、本物の暗闇が世界を覆った。もう、自分が目を開けているのか閉じているのかも判別できない。彼女にとってもそうなのだろうか。
 フィリアはただ、エリスの鼓動と温もりの欠落した重みを感じながら頭上の暗闇を睨んでいた。星が見えたらな、と思った。
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登場人物紹介

自律思考型自動人形JnC-sPEV1


人の似姿。短い黒髪に青い目をした凛々しい少女……を模して造られた人形。

設計思想が「とにかく人間に近づく」であるため身体能力も少女程度。

思考プロセスは極めて人間に近く、疑似的なものとはいえ感情すら有している。

エリス


廃教会に住まう、白い髪に赤い目をした少女。

外の世界を全くといっていいほど知らない。それ故に無邪気で天真爛漫。

バーソロミュー


エリスの父親。二人で廃教会に暮らしている。本人曰く「異端者」。

医術の心得があり、それで生計を立てている(と娘には説明している)。

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