第5話 鮎川

文字数 1,144文字

 一時間目の国語の授業が始まった。教師は、鮎川という男性の新任教師で、いつも高級そうなスーツを着こなし、すらりとしている。ほっそりした顔は、どことなく神経質そうに見えるが、女子生徒には人気があるらしい。
 
 今日のテーマは、「おくのほそ道」だ。
「それではまず、誰かに読んでもらおう」
 鮎川が、教室を見回す。その視線が、翔の顔で止まった。
「増永、立って」

「はい」
 翔は、椅子を引いて立ち上がると、教科書を持って音読し始める。
「月日は百代の過客にして……」
 よどみなく最初の一節を読み終わり、鮎川に言われて腰を下ろすと、隣の席で、藤崎が小さく口笛を吹いた。
 
 
 放課後、図書準備室の椅子に座り、窓の外をぼんやりと眺めながら藍を待っていると、話し声とともに、鮎川が入って来た。
 すぐ後ろから、藍が入って来る。二人とも、手に数冊の本を持っている。
 鮎川が、翔を見て、涼しげな微笑みを向ける。
「やぁ。待ち合わせだそうだね」
 
「翔、お待たせ」
 藍も笑顔で言ってから、手にした本を、書架に戻す。翔に向かって、鮎川が言った。
「今日、一年生の授業で使った本を返しに来たんだ。途中で彼女に会ってね」
 藍が言う。
「先生、一人でたくさん持っていらしたから、お手伝いして差し上げたのよ」
「ふぅん」

 書架に本を戻し終えた鮎川が言った。
「ありがとう。それじゃ、気をつけて」
「さようなら」
 颯爽と出て行く鮎川の背中を、藍が見送る。翔が音を立てて椅子から立ち上がると、藍が振り返って言った。
「さぁ、帰りましょう」


 肩を並べて廊下を歩く。翔は、ちらりと横を見ながら言った。
「藍も、あいつみたいなのがタイプなの?」
「あいつって、鮎川先生のこと?」
「うん」
 藍が、うふふと笑った。
 
「妬いてるの? 馬鹿ね」
 それから、翔の耳元に顔を寄せてささやいた。
「私のタイプは、翔に決まっているでしょ」
 吐息が、耳にかかる。
 
 
 いつものように、校門の外で車が待機している。二人の姿を認めると、増永は素早く運転席から降りて、無駄のない動きで後部座席のドアを開けた。
 翔と藍が乗り込むと、増永は、二人がシートベルトを締めるのを待って、静かに発車させる。
 藍が、前を向いたまま、そっと翔の腿の上に手を置く。翔も、上からその手を包み込むようにして、握りしめる。
 
「翔、後で宿題、一緒にやりましょう」
「うん」
「鮎川先生が、翔のこと、ほめていらしてわよ」
「え……なんて?」
「古文の音読、ふりがななしでスラスラ読んでいたって」
「たまたまだよ」


 いつものように、車の音を聞きつけた久美が、ポーチの前で迎えてくれる。
「おかえりなさいませ」
 久美の前を通り過ぎながら、藍が言う。
「今日は一緒に宿題をするから、お茶は翔の部屋に運んでほしいの」
「承知いたしました」
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