第3話

文字数 2,100文字

「どうかした?」
 君子が声をかける。丹野の記録を書く手が止まっていた。
「それヤバいよ。派遣の職員が一斉に引き上げたら、とんでもないことになるぞ!」
 丹野が危機を募らせると君子も、
「それって八代さんもいなくなるってこと?」
 と慌てだす。すると、スリッパを履いた足音が聞こえてきた。そして、その音は隣のユニットに入ったところで消えた。

「八代さん、特養やまびことの派遣契約を解消しました。撤収しますよ」
 岡田が険しい表情で、派遣の職員に声をかけていた。入居者も隣のユニットの職員も戸惑いの表情を浮かべるばかりだ。何より当の八代さんが最も戸惑っていた。
「えっ、そんな急に言われても、困ります。私はどうしたら、いいんでしょうか?」
 と八代さんが少々間の抜けた質問をすると岡田は、
「この施設は派遣の費用も支払えない、いや踏み倒すような事業所です。こんな施設であなたを働かせる義理はありません。行きますよ」
 と強引に八代さんを連れ出そうとしていた。すると、そこに施設長が息を切らして現れた。どうやら、階段を走って上り、二階へ上ってきたらしい。白髪混じりのスーツを着た男はユニットの扉の前まで来ると、息を整えた。
「ま、待って下さい。は、話はまだ終わってないでしょう。ちゃんと、お、お金は支払いますから」
 施設長がそう大声で言ったつもりなのだろうが、声が篭った上に、吃りが加わって、聞き取るのがやっとという有様だ。
「永野さん、もう話すことはありませんよ。お金のあてがないんでしょう?無理して見栄を張ることはないんですよ」
 永野と呼ばれた施設長はそれでも、抵抗を試みる。
「今度理事長が来ます。その時に、派遣費用を出してもらうように説得します」
「私はね、あの人のことは誰よりも、もちろん最近着任したばかりのあなたよりも詳しいと自負している。その理事長が自分の思い通りにならないからと人材を切ってきた歴史も知っている。私たち派遣がターゲットにされて、詰め腹を切らされるのだったら、こうするより仕方がないってこと。ご理解いただけます?」
 一連の永野施設長と岡田のやり取りは、隣のユニットにいる丹野や君子にも聞こえた。君子などは仕事そっちのけで扉の近くまで行って、耳をそばだてていた。
「君子さん、もう入浴介助の時間だから、準備しようよ」
 丹野がそう言っても、君子は中々準備をしないのだった。一方、永野施設長は
「せめて、今月だけでも働いてもらってもいいでしょうか? いきなり、引き上げられても困ります」
 と懇願している。その姿は、施設長としてとても見ていられるような物ではなかった。
「それなら、私に頭を下げる前にやることがあるでしょう。今すぐに理事長にアポを取って、支払いがされるように交渉してください。今すぐに!」
 岡田は最後の「今すぐに!」に凄みを込めて、永野を脅すように言った。慌てた永野は大急ぎで下の階に駆け出していった。
「さっ、行きますよ」
 岡田に言われるがまま、八代さんは半ば強引に荷物をまとめられ、帰宅してしまった。
 結局、この日は派遣社員が不在のまま、仕事が続けられた。主任もリーダーも休日だと言うのに電話で呼び出され、派遣社員が撤収した分を埋める働きをする羽目になってしまった。それでも人数が少ないので、丹野も二時間ばかり残業をした。介護業界は慢性的に人手不足で、この施設も例外ではない。募集をかけても人は集まらず、運良く入職ということになっても、3K(きつい、汚い、危険)という言葉がぴったりな労働環境とあっては、長続きする職員はどうしても稀になってしまうのだった。こうした人材難を埋めるのが派遣労働者という訳だ。人手が足りないときに埋め合わせとして投入される彼らはなくてはならない存在であった。

「よりにもよって、何で今日に限って残業なんだよ。こっちはデートの予定があるんだぞ」
 丹野は派遣社員を引き上げさせた岡田を、そしてそのような状況を作り出した永野を恨んだ。
「もしもし、連絡遅くなってごめん。急に残業を言い渡されちゃって。7時にはそっちに行けるよ。夕飯奢るから」
 家に帰ってくると、丹野はデートを予定している相手の結衣に電話した。
「もう、また残業? あんまり無理しないでよね。こっちは大丈夫だから、ゆっくり来てくれたらいいよ」
 結衣は丹野に対して半分気を遣い、残りの半分に不安さを滲ませていた。「すまない」と何度も繰り返す丹野はその気配を電話越しながら、敏感に感じていた。彼女はいつも、
「介護業界は安月給だから、転職した方がいいよ」
 と言っていた。きっと将来結婚することを考えて、話しているのだろう。しかし、介護専門学校を卒業した彼は転職に関して不安を感じていた。事実、何度か転職できるチャンスはあった。しかし、学歴がないことをコンプレックスに思っていたのか、介護業界を離れるという選択はできなかった。一方で、彼自身がいつまでこの仕事ができるのかを見通せないでもいた。というのも、腰を痛めて、離職していく人を多く見てきたのである。
「次は自分かもしれない・・・」
 腰が痛くなる度に彼はそう思っていた。

つづく
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