第1話

文字数 18,783文字

 春です。
 墨田川の両岸に桜が咲き、屋形船だ、花見だ、と華やいでくる季節でありますが、
 僕、藤田ワタルは元気よく業務にいそしんでおります。ええ、今週末に高齢者介護のセミナーを行う準備です。
 外から、訪問看護師さんや保健師さんをお招きして、区民の皆さんに介護に対する理解を深めていただこうという催しです。新米の僕は来場者にお渡しするパンフレットやリーフレットをホッチキスで止めていました。一緒にパートの鈴木さんとカッチンカッチンやっていると、近くの机で電話が鳴りました。
「はい、隅田区役所、高齢者福祉課です」
 元気よく、滑舌よく応対します。高齢の方からのお電話も多く、できるだけ声を張るのがコツだと最初に教わったからです。
「あら、藤田さん、ちょうど良かったわ、」
 大家さんです、大家さんは練馬にお住いのはずですが、どうされたのでしょう、何か僕に不備があったのでしょうか、それとも介護のご相談? ちなみに僕の住んでいるアパートはここ墨田区にあります。
「どうされましたか、」
「うちのキャベツ畑に何かいるのよ」
「え…、」
「ぼりぼり、キャベツ食べているのよ」
 話が見えません。
「どのような動物かわかりませんが、害獣の駆除なら保健所か何かでは…」
「あたしもそう思ったんだけどねぇ…、なんか馬みたいで、」
 馬、どこから逃げだしたのでしょうか、
「白くてきれいな馬なんだけれど、頭のとこに長い角がついていてね」
 角! なんだそれは、鹿ですか、
「鹿じゃないですか、」
「鹿ならわかるわよ、一本角なの、きれいな小さい馬」
「大家さん、酔っ払ってないですよね」
「酔ってもボケてもないわよ、失礼ね」
「失礼しました、でも、困っているのはわかりますが、ここは高齢者福祉課なので、110番か保健所だと思いますが…」
 そうです、やはり、通報先が違うと思うんです。
 でも、大家さんは続けます。
「藤田さんの隣の課は担当なんじゃないかしら、」
 隣の課、特殊外来生物対策課ですか。
「この間、新聞にチラシ入っていたじゃない」
 区報とともに入っていたリーフレットのことのようです。
 ここ、墨田区では土地柄、特殊外来生物の被害が発生する可能性が高いということで、三年前から発足した課です。
 それほど忙しい様子ではないです、というか暇そうな課です。
「藤田さんがいる福祉課にかけると話がはやいかなぁ、と思ったのよ」
「わかりました、変な馬なら特殊外来生物対策課の担当かもしれません。お隣に電話を回しますので、お待ちください」
「ありがとう、」
 大家さんの心証を損ねずに済んだでしょうか、内線で回すより、お隣さんに声をかけたほうが早そうです。受話器の口元を抑えて、特殊外来生物のご相談です。担当の方お願いします。と声をかけました。
 隣の課の課長さんが電話を受け取りながら、ありがとうと手をひらひらさせました。名札によるとお名前は「宮永洋」さん、であるようです。
 隣の課の課長さんは昼行燈という言葉がよく似合う人で、いつ見てもお茶をすすっています。今日のお茶請けは長命寺の桜餅のようです、いいなぁ。
 席に戻って、ひき続きカッチンカッチンを再開します。
 後ろでは、先ほどの大家さんの対応を課長がしています。徐々に、声が大きくなっています。
「危ないので、その馬を捕獲しようとか、触ろうとかは絶対にやめてください」
「え、近所のお子さんが追いかけまわしている、キャベツが大変なことになっている」
「わかりました、我々が伺うまで、そっとしておいてください。興奮させないように、」
 メモを取っているようです、直々に特殊外来生物課が訪問するのでしょうか、保健所か隅田署案件だと思うのですが、馬だと交通課とかかなぁ、
 ポンポン、肩を誰かに叩かれています、振り向くと、となりの課の課長が微笑みながら立っています。
「君、えーと、」
「藤田です」
「藤田君ね、一緒にキャベツ畑に行ってくれないかな」
「え、」
「田中さーん、いいですよね」
 うちの課の課長に許可を求めているようです。でも、僕にはセミナーの準備という崇高な使命が…
「鈴木さん、その調子なら終わりそう? 保育園のお迎え間に合うかな、」
 鈴木さんが段ボールに入っているパンフレットを見ながら、「大丈夫でーす」と、返事しています。僕の崇高な使命…
「ごめんね、今日、みんな出払っていてねー、悪いね」
 両手を合わせながら、ニコニコしています。まあ、お隣の課とは仲良くしておかなくてはなりません。僕の力が必要だというなら、お貸ししましょう。
「わかりました、何か持っていきますか、そこの防犯対策の刺股とか…」
「うーん、大丈夫だと思うけど、借りていくかな」
 頼りない感じです。

 横腹に「墨田区・特殊外来生物対策課」と書いている軽自動車に乗って事件現場に向かいます。墨田区の区章の横に、一般から公募した「特殊外来生物対策課」マークも描かれています。
 これは、区の高校生が応募したもので、ニコニコ笑顔を簡略化したものに桜をあしらっていて可愛いです。車の運転は宮永課長です。
「メモを置いてきたから、帰ってきたらうちの職員が追いかけてきてくれると思うんだけれど、ほんと、ごめんね、」
 課長は、もう一度謝りながら煙草を出してくわえます、あ、禁煙パイポだ、
「うちの奥さんがうるさくてねー、禁煙中なんだ」
 健康に気を遣う年だしねー、とか、気さくな宮永課長、いい方のようです。
「今日、向こうから来る職員がいるから、それまでには帰ってくる予定なんだけれど…」
「職員の方が増えるのですか」
「最近、世界的にも特殊外来生物が持ち込まれるケースが増えていてね、入管の問題だけでもなくなっているし、こっちの人間だけじゃ対応できなくなっているんだよね。被害が出てからじゃ遅いし、増えてからだと駆除も大変だし、」
「密輸が増えているってニュースで聞きました」
「珍しい動物に目のない人が多いってことかねえ、」
 困ったことだねえ、密輸は良くないよねえ、水際で防がないとねえ、
と、宮永課長。
 仕方がありません、ご時世なのでしょう。ゲートが開く前から世界中で起こってた問題が、増えているだけです、と伝えると、
「そうだねー、でも、あっちからの生き物は危険なものが多いから、放置できないんだよね」
 角の生えたお馬さんも危険なものじゃないといいなー、と、のんきな課長さんです。
 そんな、危険なものなら、やはり警察に任せましょうよ。
「警察に連絡を…、」
「着いたんじゃない」
 到着してしまったようです、大家さんのおうちです。
 いくつかの不動産をお持ちで悠々自適の大家さんのお宅は敷地も広く、庭の一部が広い家庭菜園になっています。23区内なのにうらやましい限りです。お世話になるにあたって、菓子折りを持って御挨拶に伺った折にもたくさんの野菜をいただきました。
 お宅の前で大家さんが手を振っています。
「藤田さん、ここよ、ここ、」
 存じ上げております、大家さんのお宅の駐車場をお借りします。
 課長が名刺を渡しながら挨拶をします、
「特殊外来生物対策課の宮永と申します」
「あら、ご丁寧に、小島と申します」
 名刺を持ってくるのを忘れていたのですが、僕のことは忘れられている様子ですので、良しとします。
 大家さんは、今日の朝の出来事をマシンガントークで課長に伝えています。
 今朝も趣味の家庭菜園にいそしもうとしたら、見慣れない馬がいたこと、丹精込めた作物を無情にも貪り食う馬の憎たらしさや、手塩にかけた作物が食い荒らされる辛さ、野菜を育てる喜びや苦労…、大家さんの魂のリリックが炸裂しています。
 僕も以前に家庭菜園のソウルを小一時間ほど聞かされました。
 課長は鷹揚に頷いていましたが、さすがに、えーと、と、僕のほうを振り向くと、
「藤田君、刺股を取ってきてくれるかな。」
 僕に指示をだすふりをしながら、話の腰をへし折ります。
 車から刺股を出すと課長が、
「では、その馬はどこにいるのですか、」
 話を本筋に戻しました、まだ語り足りないような大家さんでしたが、こちらへどうぞ、と庭に僕たちを招き入れてくださいました。
 ご近所さんでしょうか、やじ馬の方も大勢見られます、ご近所のご老人たちとそのお孫さんと思われる幼児です。
 大家さんのお宅の庭は屋敷の裏手になるのですが、そこには確かに馬がいました。いえ、馬にしては小柄ですが、ポニーやロバよりは大きそうです、色は白くてロバではないし、と、見ていると、馬が頭をもたげました。
 頭に角がというか、あれは一角獣というやつでは…、
「一角獣ですね…」
 美しいです。粉雪をまとったように薄く光る体毛、たてがみはたんぽぽの綿毛のようでふわふわとほっそりした首を覆い、やはり薄っすらと発光しているように見えます、尻尾は馬より長く優雅にゆらゆらしています。小さな形の良い頭の上に角があり、角は真珠のような光沢で、すらりと伸びています。
 見とれてしまい、しばし業務を忘れてしまいます。
「迷い一角獣かぁ」
 どこから入ってきたんだろうとぶつぶつ言う課長、非日常に動じないのが出世の秘訣なのでしょうか、もう少し感動とか何かないのでしょうか、
「とりあえず、僕が追い詰めますから、藤田君はその刺股で取り押さえてください」
 課長から指示がでます。
 大家さんのキャベツ畑には、たくさん足跡がついています、やじ馬と大家さんと一角獣の間で大捕り物があったのでしょう。相手は足も速そうですし、やっぱり刺股で太刀打ちできるとも思えないのですが、指示に従います。
 手を広げてとー、とー、とー、とか言いながら一角獣に立ち向かう宮永課長、…ニワトリじゃないんだからとー、とー、は無いと思いますが、
 一角獣はひらりと身をかわし、こちらに向かってきます、あの角でひっかけられたら労災だろうか、などといらぬ雑念が頭をよぎります。一角獣は身を翻すと僕の頭の上を跳躍して飛び越えます。
 あ、これは無理なやつだ。そもそも、普通のイノシシや、ニホンザルでも捕獲には苦労するのです、課長と僕では無理です。やじうまの皆さんはご近所のご老人の皆さんとよいこの皆さんのようです。
「お兄ちゃん、頑張って、」「そこだ、」とか、声援が飛びますが、無理です。
「おうまさん、がんばえー、」というよいこの声援も交じっています。そうだよね、おじさんとお兄さんが、おうまさんを、いじめているようにしか見えないよね。
 なぜか、大家さんの庭から出ていこうとしないので、僕たちと一角獣の追いかけっこは続きます。生まれついてのインドア派の僕には大変きつい業務です。はあはあと息も上がり、汗だくで刺股にもたれかかっていると、誰かやってきました。
「すみません、インターホンを押しても応答がないので、失礼して入ってきました」
 きれいな女性です、もう一人は…、目深にフードをかぶっています、足元まである深緑のフードつきコート? ローブというやつでしょうか、春の陽気には暑そうです。
 フードを挙げると異国の方? 北欧の方でしょうか、白髪と見まごうばかりの銀髪、緑の目、肌の色は抜けるように白く、とても美しい方です。
「新井くーん、こっち、こっち、」
 課長が声をかけるとスーツの女性がこちらに来ます。あの美人さんは新井さんというのか、
 特殊外来生物対策課の方でしょうか、
「うちの新井君、」
 課長が紹介して下さいます。
「隣の課の藤田です」
「新井です、よろしく。ごめんねー、課が違うのに手伝わせちゃって」
 いえいえ、お仕事お疲れ様です、と伝えると、
「うち、暇だから、疲れてないわよ、藤田君は社交辞令が上手いなー」
 ざっくばらんな方のようです。
 ストレートのボブの黒髪が似合う、しっかり者な雰囲気を漂わせています、タイトスカートのスーツが良くお似合いで、キャリアウーマンって感じです。
 もう一人の美人さんもこちらを見ています。課長が、新井君この方がそうなのかな、と話しかけます。
 新井さんが銀髪美人を指して、課長に紹介しました。
「そうです、オフィィァ・ソフィアさんです」
 すらりと背の高い銀髪美人さんはオフィィァ・ソフィアさんというようです。
 そして、銀髪の女性に向かって、新井さんが、
「課長の宮永です」
 と、課長を紹介します。
「オフィィァさん、課長の宮永です」
「初めまして、これからよろしくお願いしますね」
 名刺を渡す課長、
 名刺を手にどうしたものかと所在なさげな美人、きれいな方は何をしても絵になります。
「ソフィアさん、それはこちらの世界では、初対面の挨拶にくっついてくる儀礼なので、気にしないでいいですよ」と新井さん、
「ああ、儀礼的なものなのですね」名刺をしまい込むソフィアさん、
 そうですよね、今ここでの問題はこの一角獣ですよね。
 改めて、刺股を握りしめる僕、美人二人にざわめくギャラリーのじじぃ、もとい、おじいさまたちと、おうまさんがんばれと目をキラキラさせるよいこたち、
 春の午後の日差しの中、ここ足立区から藤田がお送りしております、一角獣捕獲作戦。指揮は宮永課長。
 また、じりじりと距離を詰める課長、一気に飛びかかろうとするのですが、やはり敵は足が速く、軽やかに身を翻して逃げ、課長はそのまま勢いあまってつんのめってしまいます。こんなに身軽で足が速いのだから同じ方法をとっても、だめだと思うのですが。
 ここで新井さんから「専門家の意見を聞きましょう」と提案がありました。ソフィアさんが専門家だそうです。なるほど、特殊生物の専門家の方だったのですね。さっそく四人で相談しましょう、そうしましょうです。課長がここまでの経緯を話します。ふんふんと聞いているソフィアさん、
「一角獣はもともと穏やかな幻獣です。ひとたび怒ると手が付けられず勇猛なことも有名ですが、知性も高くてめったなことでは怒らないのではないかと思います。あちらでも個体数が減っていて、保護されています」
「深い山奥に生息していて、見かけることも大変珍しいので…、こちらでも伝承があるそうですから、こちらの個体ということはないですか、こちらの個体だと、また性質が違うことが考えられますから…、」
「こちらでは一角獣といえば一角鯨のことですし、このような生き物はいないと思います」
 と僕、ソフィアさんからは、
「それでは、やはりこちらから迷いこんだのでしょう。でしたら、彼に穏やかに話しかけてみては如何でしょうか」
 と、提案がありました。声も美しいし、日本語もお上手です。そうですよね、いきなり追い掛け回すのは一角獣が相手でも無しですよね。
 でも、さんざん追い掛け回した後で、ご機嫌も損ねてそうですし、そもそも日本語が通じるのでしょうか、
 ふんふんと聞いていた新井さんが、
「こちらの伝承では、清らかな乙女にしか心を開いてくれないことになっています。清らかでないものが近づくと、怒りだして手が付けられないとか、」
スマホを見ながら言います、
「乙女かー、じゃ、新井君、説得をたのむよ」
 いやですよ、私は彼氏いますし、と、にべない新井さん。
 そっかー、清らかってそういう意味か、じゃあ、あのギャラリーの園児にお願いするしかないのではないかしら、
 何か思案していた課長が、ふと、聞いてきました。
「藤田君は彼女いるのかな、」
 藪から棒に何ですか、
「な、何で、僕のほうに飛び火してるんですか」
「この業務を遂行するにあたって大事なことだからに決まっているじゃないか、僕は妻帯者だしね」
 嘘だ、目が笑っている。
「そんな、プライベートなことにはお答えできません」
 拒否する僕に、いいから、いいから、と肘で突っついてくる新井さん。なんだ、ここは居酒屋かなんかですか、崇高な公僕としての業務はどうしたのか、
「とにかくお答えできません」
 徹底抗戦の構えの僕に、じりじりと詰め寄る課長と新井さん、事態を見守っていたソフィアさんが、
「業務上必要なことなのですね、」
 課長に聞いています。課長が「そうです」と、重々しく答えています。嘘だ、
「失礼します」
 オフィィァさんの指が僕の額に当てられました、指先が光ります。
「彼は、清らかです」
 なんだー、今のはなんだー、
 何の手品でしょうか、しかも、人のプライバシーを、何を言って下さっているのか、美人さんといえ許せません。
「何ですか、そんなこと、わかんないじゃないですか。僕がこう見えて男女のゲームの達人であったらどうするおつもりですかー」
 思わず声を荒げてしまいます、しかも早口で意味不明、
「わかります、あなたの霊子を読みました。あなたは女性と交わったことがないでしょう」
 断言するオフィィァさん、蒼ざめる僕、
「な な、なんておっしゃいましたか?」
 先ほどとは打って変わって冷や汗が背中を伝います。そうです、彼女いない歴が年齢なのは認めましょう。しかし、なんで、こんなところで暴露されなくてはいけないのでしょう、理不尽です。
 課長と新井さんが、薄く微笑みながら、うんうん頷いています。課長がポンと僕の肩に手を置くと、
「じゃ、藤田君お願いできるかな、説得、」
「ぼ、僕が清らかだったとしても乙女じゃないから無理ですー」
 ミステリーで名探偵に追い詰められた犯人はこのような心情になるのではないかと思うのです。刺股に寄りかかり息も絶え絶えな僕、
新井さんに「男の子でしょ、しっかり」
 と尻を叩かれます。
「男女平等ですよ、セクハラです!」
 もはや、特殊生物も幻獣もそっちのけです。
 やじ馬の皆さんも、こちらに興味が移ったようです。「あのあんちゃん、彼女いないらしいよ」「今時ふびんなことだ、梅子さん世話してやんなよ」とか「勝さんとこの孫娘どうだい、」「うちの孫はまだ八つだよ」とか聞こえてきます。
 やめてええー、ほっといてええー
 ソフィアさんが僕の手を取ります、
「失礼いたしました、何かあなたを動揺させてしまったようです、謝罪いたします」
 と言われました。ちょっとだけ我に返ります。
「わたくしも一緒にまいりますから、」
「い、いけません危険かもしれませんし」
 そうです、こんな美しい方に、いえ、どんな方であっても、危険な業務をお願いするわけにはまいりません。
「なんかあったら、すぐ救急車も呼んであげるから、」
「労災の認定もすぐおりますから、」
 とか、課長と新井さんの声が聞こえます。あんたたちなああぁ、この激しい憤りをどうしてくれよう、とはいえ、この場を収められそうなのは僕ということですね。いいでしょう、やってみましょう。
「じゃあ、行ってきます」
 とりあえず、精いっぱいの営業スマイルで敵意がないことをアピールしながら、一角獣にゆっくり近づいてみます。
 一歩、一歩、ゆっくり、足元のキャベツを手に持ち、どうぞしながら、近づいてみます。
 今度は逃げません、こちらを向いています。目の前まで来たので話しかけてみます。
「怖くないからね、どうしたのかな、」
「子に話しかけるように、成獣に話しかけるのは失礼だと教わらなかったのかね」
 一角獣に話しかけられたのは初めてです、しかも、叱られているし…、僕の人としての何かが今ぐらつきました。
「す、すみません、」
「わかればよい」
 一角獣は鷹揚に頷いています。
「いや、そうではなくて、なぜあなたはここに、」
「わかれば苦労はしていない」
 気難しいのでしょうか、不機嫌そうです、意を決して話かければこの仕打ち、ひどい、でも気を取り直してお仕事モードに戻ります。
「失礼いたしました。私は墨田区役所の職員で藤田と申します。ここは小島さんのお宅の庭で、あなたが召し上がってらっしゃったのは小島さんのキャベツですが…」
「失礼した、謝罪しよう、」
 以外に素直です。
 でも一角獣がしゃべるとは知らなかったな、幻獣はみんなこうなのでしょうか、
 一角獣さんは話を続けます。
「私は、ジョゾと申します。フィラフィトの山、ケトムの森深くに住まう一角獣です」
「気が付くと、ここの近くにおりました。戻ろうと道を辿ったのですが、行けども、行けども見知らぬ町並みで、もともと人里には近寄らず生活していたものですから、いつの間に人の町並みがこのような変貌を遂げたものかと驚いて、つい迷い込んでしまいました。この世のものとも思えぬような一枚岩で覆われた道ですから、食事にも事欠く有様で、」
「つい、これを食べちゃったんですね」
 僕がキャベツを見せると、こくりと頷きました、素直です。アスファルト舗装された道で食べられる草がなかったということなのでしょう。下町の道路にはゲリラガーデニングのジャングルが幅を利かせている場所もあるのですが、夾竹桃や紫陽花の葉を食べていたらおなかを壊したでしょうから、キャベツでよかったと申せましょう。
「ここはどこなのでしょうか」
「日本という国の首都東京の足立区です」
「ニホン、シュトトウキョウ、アダチク…」
 ジョゾさんが、いぶかしそうに首を振ります。
「あなたの住んでいた場所からとても遠い国ですから、そんな名称の国の都で町だと思っていただければ良いですよ」
「そうですか…」
 しょんぼりしている風情のジョゾさん、
「わたくしは帰ることができるのでしょうか…」
「多分、大丈夫だと思いますよ」
 不安でいらいらしていたのですね、わかります。
 安心していただくためにも、とりあえず安請け合いをする僕、まあゲートから帰れるとは思うのですが、
「僕より詳しい方たちがいますので相談しましょう」
 こういう時こそ特殊外来生物対策課だと思うんです。
「課長、うっかりこちらの世界にきて迷っている、迷子一角獣だったようです。公園のほうから、あちらの世界に帰れますよね」
 課長に相談します。いつの間にか近くまで来ていた課長と新井さん、
「さっきから、藤田君がなんて言ってるのか全然分からないけど、」
「この馬と喋っていたよね、すごい特技、」
 え…、
「いえ、ジョゾさんも日本語を話していたはずですよ」
 そうとしか考えられません、
「失礼します」
 ソフィアさんが指を二人の額に当てます。やはり指先が薄く発光しました。
「これで、お二人も大丈夫だと思います。話しかけてみてください。」
 新井さんが話しかけます。
「こんにちは、」
 課長も、
「こんにちは、」
 ジョゾさんも戸惑いを隠せない様子で、
「…こんにちは、」
 異種族間コミュニケーションが上手くいっているのでしょうか、しばしの沈黙の後、僕が状況を説明しました。困ったなと課長、「不法入国になるんじゃないか」とかなんとか、しばし考えこみます。
 新井さんは、「その前に、一角獣をこの国の法令で縛れるのか、そういうのはナンセンスなのではないか」と言います。
「こっそり返しちゃいましょーよ、なかったことにして、」
 そっちですね提案したかったのは、このものぐささんめ、
「そういうわけにもいかないでしょう」
 課長がどこかに電話をしています。ペコペコお辞儀をしています、電話でもお辞儀をしてしまう癖があるようです。
 様子を見守っていたやじうまの皆さんや大家さんも近くに寄ってきて、しげしげとこの美しくも不思議な幻獣に見入っています。大家さんにも状況を説明します。
「あら、それは大変ね、もー、災難でしたわね」
 あらヤダ、と話しかける大家さんを厳かに見つめるジョゾさん、ちょっとシュールな光景だと思う僕、
「あなたの丹精込めて育ててこられたキャベツを勝手にいただいてしまって申し訳ない」と、詫びるジョゾさん、不思議そうな顔の大家さん、
「ごめんなさいね、なんて言っているかわからないのよー」
 大家さんにはジョゾさんの言葉がわからないようです。はて、
 ソフィアさんがさっきやっていたことと何か関係がありそうです。
「ジョゾさんの言葉がわかるのは、僕と課長と新井さんだけなのですか、」
 ソフィアさんは頷くと、
「私が術式をかけたのがお三方だけですので、そうなりますね」
 と、答えます。そのような便利なものがあるのなら早く仰っていただければ、このような醜態をさらさずにすんだのに、そもそも、清らかな乙女の話はどうなったのですか、責任者の説明を求めたいと切に願います。
「ジョゾさん、一角獣は清らかな乙女にしか心を開かない、それ以外の人が近寄ると怒ると伺ったのですが本当ですか?」
 本人に聞いてみます。
「いえ、私たちの種族が穢れを嫌うのはもちろんそうなのですが、ここには、邪な心を抱く方はいませんし、わたくしは短気な性格ではありませんから、」
 さっきイライラしてたではないですか…、
 そうですか、その情報も早く知りたかったなぁ、すんだことは仕方がないのですが。
 私もお話がしたいのにーとか、のんきな大家さんはさておき、課長が戻ってきました。
「もう少ししたらお迎えが来ますから、ジョゾさんは帰れると思います。あちらのゲートはクスィラのコッリスでしたっけ、」
 どうやらそこが日本側のゲートとつながっている場所のようです。ソフィアさんが、
「フィラフィトはそう遠くはないですね」
 と、仰います。ジョゾさんは早く帰れそうで良かったことです。
 大家さんはちゃっかりソフィアさんに術をかけていただいたようで、ジョゾさんに話しかけながら、小松菜とニンジンを進めています。おいしいと言われたのが嬉しかったのでしょう。きれいに籠に盛られた小松菜をもぐもぐしながら、
「こちらも良いですね、おいしいです」
 ジョゾさんは健啖家のようです。
 収穫用でしょうか、大きな籠にいっぱいの野菜を抱えて、ジョゾさんに野菜を勧めていた大家さんでしたが、あらヤダ、腰が…と腰に手を当てます。僕が籠を受け取ります。
「大丈夫ですか、大家さん」
「去年、腰をやっちゃってね、年よね、嫌だわー、」
「それは大変でしたね、重いものは持たないほうがいいですよ」
 僕が持ちます、無理しないでくださいと、大家さんに話していると、ジョゾさんが
「たくさんごちそうになりましたし、お礼にわたくしに診せていただけませんか、」
 と、仰います。えーと、と思っていると、大家さんが、
「あら、そう悪いわね」
 シャツをめくって、腰をよいしょと出しています。大家さんの怖いもの知らずの鋼の心臓がうらやましいです。
 大家さんの腰のあたりにジョゾさんの角が当てられました、やはり薄く真珠色に光っています。大家さんが
「あら、痛くない、」
 腰を伸ばします。
「やだ、ここんとこ調子が悪くて、接骨院にずっと通ってたのに、」
 嬉しそうな大家さん、大家さんの後ろに並ぶ、やじ馬、もといご近所のお達者たち。
「肩がのう、」とか「わしも腰が、」とか言ってます。
 ソフィアさんに聞いてみます。
「あれは問題ないのでしょうか」
「一角獣の角には治癒能力があるので、問題ないですよ」
 まあ、いいのか細かいことは、みんな嬉しそうですし、新井さんが、
「最近、お肌の調子が悪かったんだけど、診てもらえるかな」
 と、呟いています。あんたはもう黙っとれ、
お子様たちもお馬さん遊んでー、とか楽しそうです。ほほえましい光景です、僕も頑張った甲斐があったというものです。

「ごめんください」
 声がします、大家さんが対応しているようです。ほどなくしてスーツの男性とソフィアさんのようなローブ姿のかたが入ってきました。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
 ご挨拶を交わす課長とスーツの男性、面識がおありのようです。
「こちらの方がそうですか、災難でしたね」
 ソフィアさんに話しかけます。ソフィアさんは首を振り、あちらの方です。とジョゾさんを指します。が、ジョゾさんはお達者たちと子供さんに埋もれています。
「どちらの方が…、」
「あの一角獣でしょうね。」
 ローブの方が言います。
 えーと、とスーツの男性も面食らっています。
「えーと、わたくし伝え忘れておりましたか、あの白いお馬さんのような方がジョゾさんです」
「一角獣さんなので、わたくしたち特殊外来生物対策課に第一通報があったわけです」
 課長と新井さんが改めて状況を説明します。
 お話によると、この方は入管支局の戸田さんです。もう一人の方は異界の方でグラナティス・ヤシュムさんとおっしゃるそうです。アッシュブロンドに碧い瞳、きれいな顔立ちの男性です、美男子は敵だと思っている、心が猫の額の僕でも、ついうっかり見とれます。
「困ったな」
 と、戸田さん、
「どうしたのですか、一角獣だと何か不都合でも、」
 と、宮永課長も不安そうに伺います、
「うちの、」
「うちの、」
 復唱する宮永課長、皆が戸田さんを注視します。
「うちの車には、一角獣は乗ることが難しいかと…」
「人間か人型の種族だと思ったので、普通車で来たのですが、乗るのは厳しいです。何とか入れたとしても、その角がつかえるか、はみ出して危険です」
「うちの軽にはもっと、無理だろうしなあ、」
 中間管理職のおじさん二人が額を合わせて悩んでいます。もっと別のことで悩んでいただきたかったような気がするのですが、確かにこの事態は悩ましいです。新井さんが、
「角を切ってはどうでしょうか」
 と言って、一同の冷たい視線を一身に浴びています、少しは凝りてくれたらと願わずにはいられません。なんか、「切ってもまた伸びるからいいんじゃないの」とか言ってます、無視します。
「うちの、軽トラでよかったら乗って行くかい」
「あら、徳さんいいの、」
 ここで、やじ馬の徳さんから大家さんに、渡りに船のご提案がありました。徳さんは八百屋さんだそうです。禿頭でいかにも商店街の好々爺という感じの徳田さん、「馬ほど大きくないし、なんとか荷台には乗るだろう」とおっしゃいます。
「いいぜ、送ってやるよ」
 男前な徳さん、ありがとう。
 中間管理職間では、軽トラで一角獣を搬送していいものかと、また議論が繰り広げられましたが、日本の道交法に一角獣に言及したものがない以上いいんじゃないかしら、と、いうことでまとまりました。というか、まとめました。
 徳さんの軽トラには、ありがたいことに幌がついており、軽トラにはジョゾさんも乗ることができました。大家さんや足立区のお達者たち、よいこの皆さんとお別れの挨拶を交わしたジョゾさんがひらりと軽トラに乗り込むと、支局の車の先導で一角獣を乗せた軽トラがしずしずと発進します。
手を振る足立区民の皆さん、よく晴れた昼下がり、僕の心にドナドナが聞こえたのですが、気のせいでしょう。

 こうして、僕は異界の幻獣に触れることとなったのです。
 初めて、しかも一角獣に会うことができたのですから、感動とか、なにか大きな心の動きがあっても良さそうなものなのですが、今あるのは仕事を達成したことの安堵の気持ちとただならぬ疲労感でした。
 その後は皆で支局に行き、またしても事情を説明し、支局の方と一緒に書類を作成し、区役所に帰りました。
 とっくに就業時間は過ぎて、がらんとした区役所、人がいないと寂しいものです。
 宮永課長は皆で食べましょうと桜餅を出してねぎらって下さいました。新井さんが緑茶を入れてくれます、いいお茶です。初めて食べるものですと、恐る恐る桜餅を口に運ぶソフィアさん
「いい香りの葉ですね、このままいただくのですか?」
「お好みで、」
 と、新井さん、僕は葉っぱを一枚残して頂くのが好きです。
「突然いろいろお願いして悪かったね」
「手伝ってくれてありがと、」
「いえいえ、早くに解決して良かったです、ジョゾさんも話の分かる一角獣さんでよかったですね」
 和やかな雰囲気で、お互いにねぎらいあいます。新井さんがソフィアさんにも、
「着いてすぐなのにドタバタしてごめんなさい」
 お詫びの言葉を述べています。
「私も少しはお役に立てたでしょうか、大事に至らなくて良かったですね。邪な気持ちで彼を追い回すものがいれば、ただでは済まなかったでしょうから」
 うんうんと頷くみんな、下町の気のいい皆さんが、邪な気持ちのない、ただのやじ馬でよかったと申せましょう。
「でも、問題はこれからです。今回の件は、大きく接続して開いているゲートの近くに不安定な小さな亀裂が開いたのではないかと思います。ジョゾさんは、その亀裂を意識せずに通り抜けてしまったのだと思います。亀裂は不安定ですから、すぐに閉じて戻れなくなったのでしょう。今後も同様のことが起こり得ると考えたほうが良いです。迷い込むものが増えるかもしれません。今回のように善良で害意のない生物ならばよいのですが、三年前のようなことがないとも限りませんから、注意は必要です」
 三年前はこの特殊外来生物対策課ができた年ですね、僕が就職する前ですから経緯はよく知りません。新井さんが、最初は私と課長のふたりだけの課でね、と遠い目をしています。
「最初は僕一人だったんだよ、準備期間はね。なんかもう特殊外来生物とかって、雲をつかむようなものでしょう、いやもう、ホントにねー」
 大変だったと、宮永課長も遠い目をしています。
「三年前に、ロンドンの地下鉄でコカトリスが逃げ出したことがあったでしょう、32名の方が石化して大騒ぎになった。大きく報道されて、うちの課が立ち上げられるきっかけになったんですよ」
 大きく報道されたし、当然、僕も知っています。持ち込んだ卵が孵化して車両内で逃げ出し大惨事になった事件ですね。
「隅田公園にゲートが開いて、異界との交流が増えてくるとやっぱり珍しい品物や動植物をこっそり持ち帰る人が増えてきてね、今までは全部見つけて没収して、大事にはいたらなかったけど、今後、人の往来が増えてくれば危険なことが起こらないとも限らないので、啓蒙活動に力を入れようというのが設立当初の目的でね。…いろいろ手探りでした」
 しみじみと課長が言います。
「ソフィアさんはロンドンの事件の時に石化の解除や治療で活躍された方なんですよ」
「こちらの世界に来て初めての大きな事件ですからよく覚えています。あちらの闇業者と取引して、卵に術をかけてセキュリティをくぐり抜けたようです。しかし、施術をうけていないのにコカトリスを飼育しようなんて、馬鹿な行為にもほどがあります」
 会話の流れでそうかなぁーと思っておりましたが、やっぱりソフィアさんは異界の方のようです。
「施術?」
「あちらでは石化予防の術式以外にもいろいろな施術を皆が受けています。こちらで近いものといえばお子さんの予防接種かと、」
 なんでも、コカトリスだけでなく被害にあいそうな幻獣・植物・呪物の対策として就学児童は術式を医学魔導師に予防施術してもらうそうです。これによって、うっかり石化やマンドラゴラを抜いて昏倒、あるいは死に至る被害などを受けることを防ぐことができるそうで、施術は義務付けられているそうです。
「本人は厳重な耳栓をしていて大丈夫でも、よく育ったものは悲鳴も大きいですから…、近くにいた人が被害を受けたり、事故が絶えなかったのです。まあ、今では自生物より畑で栽培されたものが主流ですから、昔のような被害は少なくなりました。でも、天然物にこだわる方はいて、シーズンになると野生のマンドラゴラを抜いて搬送される人がいます。耳栓が甘かったり、うっかり忘れたり、そういったときにちゃんと施術されている人は気絶程度で済みますし、回復も早いです」
 やはり、予防接種と似ているようです。
「イヌやロバに引き抜かせるのではないですか、」
 新井さんがスマホを見ながら質問します。
「イヌを使う方法は、イヌがかわいそうだということで動物愛護団体から抗議がきますので、イヌやロバに施術したとしても倒れちゃうこともありますから、」
 そうか、文明が進めば万国共通というか、異界にもある問題なのですね。
「今回は危険な生物でなくて良かったですね」
 改めてそう思います。新井さんが、皆にお茶のお代わりを入れながら、
「ソフィアさんのご出身はどちらなの?」
 と聞きます、僕も知りたいです。
「国ということでしたら、クィスラですね」
「先ほどの指先が光っていたのも魔術というか魔法のようなものなのでしょうか?」
 気になっていたことを聞いてみます。
「そうです、私の術で互いの言語が理解できるようになったでしょう? 軽い術でしたら媒介を使わなくてもできます」
「媒介?」
「魔導師が術を施行し、効力を発揮させる対象に対する仲立ちを行うものです。一般的なものは杖です」
 魔法の杖とはファンタジー世界の鉄板ネタです。どうやらソフィアさんは杖を使用しなくても簡単なものなら術を使うことができる、ということらしいです。そうなると、ソフィアさんの杖を見てみたくなります。
「今、お持ちなら杖を見せていただけませんか?」
 お願いしてみます。
「良いですよ」
 快く応じてくださるソフィアさん、懐から何か取り出します。細い30㎝ほどの綺麗な杖です。木製で細かい複雑な文様が彫り込まれています。柄の部分は金でしょうか、これも精緻な模様が刻まれています。
「きれい」
 新井さんがうっとり見ています。
「見せてもらってもいいかなぁ」
 さっきから興味津々だった新井さんがお願いすると、ソフィアさんはいいですよと渡しています。しげしげと見入っていた新井さんが柄を触っていると外れそうになりました。
「ごめんなさい」
「壊れたわけではないので大丈夫ですよ」
 ソフィアさんが少しひねると柄が外れました。引き抜くと杖の中は空洞になっていて、中から芯のようなものが引き出されます。こちらは15㎝ほど、無色透明の結晶で、発光しながら複雑な文様を浮かび上がらせています。文字にも見える、いえ、文字なのかもしれません。文様はプリズムのように色彩を変え、どのような仕組みで光っているのかは想像できません。こちらの世界にも光るものや結晶は多くありますが、そのどれとも違う気がします。しいて言えば、ダイヤモンドのファイアと言われる乱反射が近いでしょうか。
「これは、こちらが本体です。むき出しのままでは危ないのでこのような形状になっている杖がほとんどです。私に合わせて調律しているので、私以外の方が触れてしまうと調律が狂ってしまいますから、うっかり触ってしまわないように、外側は鞘のようなものです。それと、あちらでは不用意に外気に触れ続けると暴走事故にもつながりますから」
 すみません先生、よくわかりません、こちらの世界の人間にもわかるように説明してほしいとお願いします。
「あちらの世界はこちらと違って空間の魔素が濃いので、そのまま置いておくと場合によっては魔素を吸収しすぎて暴走を起こし、誤作動します。魔素というのは力を使うときの動力となっているものと考えていただければ良いです。魔導や魔法といっても何もないのに力を行使することはできません。こちらでいえば電源が入ってないと機械が作動しないのと同じです」
「では、その動力が薄いこちらではほとんど魔法は使えないのですしょうか」
 僕にも魔法が…、と思いましたがこちらでは無理なのでしょうか、残念です。
「こちらでもレイラインと呼ばれるやや濃度の濃い場所も確認できています。しかし、あちらと比べるとかなり薄いですね」
「そうですか、魔素の薄いこちらで、触媒の杖がなくても術を発動させられるということは、ソフィアさんはかなり腕前の方なのですね」
「だから、ここにいる訳で、課長もロンドンで大活躍って言ったじゃない」
 聞いてなかったの、と新井さんが突っ込み気味に言います。
「私がエルフだからというのもありますね。ヒト種族よりも、もともと種として持っている力が大きいというのもあります。術式という力の行使には、本来持っている内在する力を使うものと、杖などを媒介に使い、魔素を動力として術式を作動させる、外の力を利用する方法があります」
「あなたたちが異界と呼ぶ私たちの世界ではドラゴンや、先ほどの一角獣のように、存在そのものが魔力の塊みたいな幻獣も呪物も数多く存在しますから、ドラゴンクラスになると、質も量もけた違いです。何もなくても自力で火を吐くぐらい朝飯前ですよ」
 火を吐くドラゴンか…、あんまり会いたくありません。
「ただ、自分の内在する力を放出しながら術式を使うと消耗しますから、外の力を使うのが主流です。空気中にあるものを利用するのですから、消耗が少なく、負担も少なくて済みます」
エネルギー問題もなさそうで羨ましい世界です。いいなぁ、と素直に呟いてしまいます。
「そのようなことはないですよ、大気中にというのは、ありがたいのですが、利用できるようになるまでには多くの先達の苦労がありました。魔素は安定させるのが難しいものです。術式を発動させるだけ集約させると暴発しやすくなりますし、それを踏まえたうえで、どのような種族でも誰でも安全に一定の効果を生み出す触媒や仲介術式を作るとなると、気の遠くなるような実証実験が必要です。その努力は研究者の間で、今も続けられています」
 叱られているわけではないのですが、つい、すみませんと言ってしまいます。
「いえ、私もつい、熱くなってしまいました」
 二人で顔を見合わせて、ふふふっと笑ってしまいます。
「いい雰囲気のとこ悪いけど、そろそろ帰るわよ、いつまでもいると警備員さんにも悪いしね」
新井さんに声をかけられます、洗っとくからと湯飲みを回収し、残った桜餅を僕とソフィアさんに渡しながら、
「課長は肥満気味なの気にしてるし、私はダイエット中だから、」
 と、新井さんは宣言します。
 洗い物手伝いますよと声をかけると、「いいから、いいから、ソフィアさんを送っていけ」と言います。
「良い感じじゃないの、駅までお話ししながら帰って親睦を深めなさい」
 微笑みながら言います。
「いえ…、」
 あ、でも墨田区に慣れていないソフィアさんを送って行ったほうがいいのか、
 ちょっと逡巡します。美しいエルフと一緒に帰宅、カフェに誘うのもいいかもしれません。
 などと、取らぬ狸のなんとやらが脳裏をよぎります。
 いや、だめです、そのような下心。いや、ただの道案内の親切は問題ないのでは、
 こういう場合、僕は…、
「…えーとね、誤解しているようだけど、みんな、ソフィアさんは男性だよ」
 それまで、皆の話をうんうんと聞いていた宮永課長の爆弾発言です。
「うそ、こんなにきれいなのに、」
 新井さんが驚きの声を上げます。
 そうですよね、背が高いけどエルフだからと思っていました。
 そうですよね、世の中にそうそう美味しい話は転がっていないものです。
「よく間違われるのですが、私はそんなに女性らしいでしょうか?」
 ソフィアさんの問いかけに、こくこくとうなずく僕と新井さん、
「お肌なんかすべすべだし、髪の毛つやつやだし、」
「すべすべで、つやつやの男性もいるのではないかと思うのですが、」
 ため息をつくソフィアさん、様子から伺うにあちこちで間違われているのでしょう。美しい人は男女問わず、人並みの容姿の僕にはわからない苦労がおありなのでしょう。
「昔から誤解されることが多くて…、髪の毛を短くしたり、わかりやすい服装にしたり、いろいろ工夫してみたのですが…」
 効果がなかったのですね、その美貌では男装の麗人と思われたのでしょうか。
「こちらの世界では、女子でもそんなにツルスベしてないわよ」
 大丈夫です、新井さんも十分ツルスベしています、と火に油を注ぐ僕。
 清らかな奴は黙れ、と、よくわからん八つ当たりをされます。
「女子の沽券にかかわる意外と大きい問題なの、」
 よくわからない理屈です。
 課長が、「みんなで駅まで行けばいいじゃない親睦も深まるでしょ」「ほら早く帰るよ、」と、せかします。「課長、ご飯ごちそうして下さいよー」とか新井さんがたわごとを言っています。
「よいこは、ちゃんとおうちのご飯を食べてください」と、いなされました。
 僕とソフィアさんは、とっとと帰ることにします。みんなで机の上をきれいにして、就業時間を過ぎていたので裏口から帰ります。課長は奥さんに「これから帰るよ」と連絡を入れています、いいなぁ妻帯者。
 外はすっかり暗く、春の宵はまだ冷えこみ、独り身にはしみます。
 ソフィアさんはローブで電車通勤なのか、目立つなぁ、と思ったら自転車通勤でした。かわいい色の奥様御用達自転車です。
 お近くなのですかと尋ねると、
「区役所に近い錦糸町寄りのワンルームマンションですよ」
 とのことです、
 ママチャリに乗ってマンション住まいのエルフ…、いろんな概念が崩壊した一日です。なぜ、チョイスがママチャリなのかと尋ねたら、一番安定していて乗りやすいからという実用的なお答えでした。
 乗り慣れないのか、よろよろと自転車をこぐソフィアさん、無事におうちにたどり着くとよいのですが、
 職員用の自転車置き場からソフィアさんを見送ります。
 そして、明日からはまた高齢者福祉課で頑張ろうと決意する僕。
 嵐のような一日が終わりました。
 でも、それは今日で終わり、明日からは、また穏やかな福祉課の業務が始まり、それは続いていくはずでした。
 しかし、この後のあれやこれや、なんだかんだは、神ならぬ身の僕には知る由もなかったことでした。いえ、知っていたら回避できたとも思えないのですが…、
 この時の僕は、いただいた桜餅は明日のおめざにしようか、などと呑気なことを考えて帰途に就いたのでした。
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