第二章・第三話 読めない腹の底
文字数 6,472文字
当時感じた無力感を乗せて吐息を漏らし、
皇女との婚儀を前に、将軍の寵愛を受けていたお
二年前のあの日、麟太郎が話を聞いた時点で、
自分が飾り物だという自覚は薄々あったものの、その一件で家茂は、自身は本当に存在だけしていればいい人形だと、完膚なきまでに思い知らされたという。
『……将軍なんて、名前ばっかりだ。何もできねぇなら、いっそ死んだほうがいい』
そう漏らした、当時十四歳の少年を、反射で張り倒さなかったのは奇跡に近かった。
相手が将軍だという遠慮はなかったと思う。その証拠に、手が出なかった代わりに、胸倉に手が伸びた。
『本気で、
掴み上げられ、否応なく麟太郎の顔を見上げる羽目になった少年の目は、やはり虚ろだった。
『……あんただって幕臣ならそう思ってんだろ?』
クッ、と漏れた笑いは嘲るようなそれだった。
『俺のことなんて皆どうだっていいんだ。
『道具ならいくらでも換えがあります。しかし、あなた様は、徳川家茂様という人間は、たった一人しかいない』
『知った風な口利くなよ』
『ご両親にも同じことが言えるのですか!?』
思わず、声を荒らげていた。
『ええ、上様のお苦しみは上様にしか分からぬでしょう!
まくし立てる麟太郎を唖然と見ていた家茂は、徐々に
『だっから、知った風な口利くなって言ってるだろ!?』
それまでされるままだった家茂の手が、己の胸倉を掴み上げている麟太郎の手首を掴み返す。
『あんたに何が分かるんだよ! 今日会ったばっかの俺の何を知ってそんな口利くわけ!? 母上なんて俺を生んだら生みっぱなしだった! それも、貴人のしきたりだから乳母に預けたんじゃない、あの人だって俺を道具くらいにしか思ってない!!』
胸倉を掴んだ麟太郎の手を振り払おうとするも、まだ十四の家茂の力ではそれは叶わなかった。だが、
『俺が将軍の座に就いて、“お腹様”とか祭り上げられたあの人が毎日大奥で何やらかしてるか知ってんのか!? 浮かれた勘違いのドンチャン騒ぎだよ!! 皆がメーワクしてるってのに、ちぃっとも態度改めねーし! 紀州藩邸でも大概同じ調子で飲んだくれてた! まあ、そんな人に育てられて勘違いした常識植え付けられるよりはマシだったと思ってるけどな、俺を育ててくれたのは乳母の
『悲しむ人間がいると分かってるのに、何で死に急ぎたがるんだ!!』
ついに麟太郎は、敬語をかなぐり捨てた。
同い年の子を持つ親なので、つい自身の息子を叱りつけている錯覚に陥ってしまったのだ(もっとも、麟太郎の『息子』のほうは、家茂より大分下だが)。
しかし、家茂も負けていない。とは言え、
『知らねぇよ、そんなこと!! 俺にどーしろってんだ!!』
と、完全に逆上したとしか思えない言葉が投げ返された。麟太郎も釣られて、頭に血が上っているとしか言えない語調で言い返す。
『お前さん、仮にも将軍だろ!? だったら将軍としての権利を行使しろよ!』
『できるならとっくにやってるさ! できねぇから柊和が死んだんだろ!!』
『分かってんじゃねーか、クソガキ!
『だっから、どーすりゃあんたは満足なんだよ!』
『知るか! まず手始めに足下から始めるとか、それでなくてもほかにやることいくらでもあんだろが!!』
『やってどーすんだよ! 今更権力握ったって、柊和は戻って来ないだろ!!』
『じゃあ、このまんまで一生やってくのか! 死んだみたいに生きるのがお前さんの望みか!?』
額をぶつけ合わんばかりに、年端も行かない少年と
しかし、いつしか麟太郎の胸倉を掴み返していた家茂の手は、やがて力が抜けたようにそこを離れ、下へ落ちた。
『……やれることなんかやったさ。それでも、柊和が殺されたって証明できなかった』
クシャリと整った顔が歪む。
『皆、病死なんだから仕方ない、何を調べるんだって……まるで俺がおかしいみたいに……!』
一通り怒鳴り合ったことで、麟太郎も徐々に頭が冷めていく。ひとまず、家茂の胸倉を掴んでいた手を離した。
『……
『……そうしたって、もう柊和は』
『そう何度も
『……今後……』
『そうです。一年後、上様に柊和様と同じくらい大切な
『……そう簡単に忘れられたら苦労しねぇよ、それこそ人形じゃあるまいし』
『
それでも、家茂は分からないと言いたげな表情で麟太郎を見上げた。
『傀儡のままでよろしいのですか。将来、同じ
***
(……あれは、さすがに利いたわ)
クス、と家茂は小さく苦笑した。
柊和が無駄死にになる――その言葉は、当時の家茂を、ほんの少しだけ動かした。
けれども、変わらずどうしていいかはよく分からず、結局それから数日してから、家茂は以前の日常に戻っていった。
気持ちの整理は付かぬまま、ひとまず
彼との親交が深まっていったのは、自然な流れだった。
海外のことを彼から聞いたのも、その頃のことだ。
それはそれとして、それから
それ以前に、まさか柊和が死ぬきっかけとなった存在である和宮に、こんなにも惚れ込んでしまう未来が待っているとは思わなかった。
『一年後、柊和様と同じくらい大切な女人ができたらどうします』
ふと、麟太郎の言ったことが、また脳裏をよぎる。
『未来のことなど、誰にも分かりません』
(……まったくだ)
麟太郎の言うことに訂正を加えるとしたら、和宮の大切度合いは柊和と同じくらい、ではない。柊和には申し訳ないが、正直言って彼女以上だ。
このことで彼女に詰られるのは、当分遠慮したい。よってできれば今後、長生きしたいとも思っている。
人生何が起きるか、本当に分からぬものだ。
内心で再度、微苦笑する頃、前を歩いていた崇哉が、
彼は、家茂が追い付くのを待って、襖を開いた。
「上様のおなり!」
崇哉がお決まりの宣言をするのを、どこか遠くに聞きながら、家茂は白書院上段へ足を進める。
下段には、二人の男が平伏していた。
家茂は、上段にしつらえられた
「二人とも、
「は」
「はっ」
二人はそれぞれに答えると、上体を起こした。二人とも、
内一人は、初めて見る顔だった。そちらが恐らく、
年の頃は三十代半ば。輪郭は面長で、目元は横に細長く、鼻筋はすっきりと通っていて長い。眉尻はやや下がり気味で、穏和そうな人柄がにじみ出ている。前髪から頭の上部を、丸く切り取った感じの
もう一人はすでに面識のある、
やや縦に長い逆卵型の輪郭の中に、切れ長の目元に通った鼻筋、いつも笑みを
月代は剃っておらず、普段はうなじの上辺りで無造作に束ねられている黒髪は、今日は登城するからか、きちんとした髷に結われていた。
彼とは、一年ほど前からの付き合いになる。
「両名とも、まずは長きに渡る謹慎、大儀であった」
「いえ、そのような。勿体のうございます」
口を開いたのは、慶永のほうだ。
「そなたが慶永殿だな」
「はい。お初にお目に掛かります。松平慶永にございます」
「うん。福井藩主時代は、民に慕われるよき藩主であったと聞いている。そのような人物を
「上様……!」
「しかし、聞けばそなたは、かつて先代様の継嗣問題に際してはそこの一橋卿を推していたと聞く。継嗣争いに敗れた末の沙汰とも言えるゆえ、蟄居謹慎に関しては、さぞや余を恨んでいよう」
ただ、彼らが謹慎その他の罰に処されたのは、実は家茂の将軍就任前のことだ。よしんば、就任後だとしても、今の今まで実権のなかった家茂にはどうしようもなかったのだが。
「そのような……!」
型通りの
慶喜を推していたことも関係しているだろうが、慶永は家茂を『思考力皆無のガキで傀儡・無能将軍』としか思っているまい。
家茂を、年端も行かぬ少年だと、頭から
人柄がよかろうが、真実民の為の
基本が『
「……ともあれ、此度新設した
「勿体なきお言葉、恐縮でございます」
(本当にそう思ってるかは、どうだかな)
内心、鼻先で笑いながらも、家茂はそれをおくびにも出さずに、小さく頷いた。己に平伏する臣下の表面上の恭順を、芯から信じ切る、まさに人の善い君主を演じて見せる。
まるで、狐と狸の化かし合いだと思うと、おかしいような疲れるような、複雑な気分になった。
そして、そうするともなく慶喜のほうへ視線を転じると、彼は彼で何やら笑いを噛み殺しているような、何とも表現し難い表情になっている。
旧知の彼には、家茂の将軍ブリッコした口調がおかしくて
(……何だよ)
口には乗せずに、やや細めた目にその意を込めて睨み付けてやると、慶喜は『別に』と言いたげに肩先を上下させた。
「両名とも、正式な就任は明日以降になる。今日はひとまず、心の準備だけしておいて欲しくて、顔合わせの意味も兼ねて呼んだ。各自、準備もあろうから、下がるがよい。明日からよろしく頼む」
「はっ」
「はい、上様。誠心誠意、お
慶喜の口からそう聞いた途端、家茂は今度こそ身体のそこここがむず痒くなるような錯覚に陥る。
心にもないこと言いやがって、とこの場で返すのを、苦労して呑み込む羽目になった。
***
一礼ののち、
だが、通路へ出たところで、「やぁ、上様」と、後ろから少々茶化したような口調で呼ぶ声があった。
足を止めて振り返ると、そこには先ほど、白書院を辞して行ったとばかり思っていた内の一人、慶喜が立っている。
先を歩いていた崇哉が、素早く引き返したのか、背後から肉薄するのを気配で感じた。が、慶喜のほうへ向き直った家茂は、後ろ手で崇哉を制する。
「……何か用か」
「第一、呼んだのは君のほうだと思うんだけど」
「儀礼上呼んだだけだ。それ以上の意図はない。それに、どーせ嫌でも明日から
無意識に
「その最後の休みに、せっかく城まで足運んだんだ。茶菓子の一つくらい、期待できると思ったんだけどなぁ」
「そら、期待外れでお気の毒様だったな。とっとと帰れ」
「あれれ、いいのかな、そんな口利いて」
笑みを深くした慶喜は、家茂の肩に無造作に腕を回した。
「俺、明日から君の後見役だよ? つまり、最側近」
「だから?」
「君としても、俺と仲良くしておいたほうがいいんじゃないの?
フン、と家茂は鼻を鳴らす。同時に、慶喜の腕を肩から半ば
「ジョーダンだろ。そもそもこっちとしちゃ、後見なんかもう必要ねぇんだ。前任に
前任である
「じゃ、何で今回、俺を後見職に据えたの?」
即座に痛いところを突かれて、家茂は押し黙った。
(言えるかっつの)
ほぼほぼ九割九分九厘、和宮を手放さない為だなんて、慶喜相手には色んな意味で言えるわけがない。
だが、慶喜は家茂のそんな心中を知ってか知らずか、仮面の笑顔を深くした。
「俺には本当のトコ、言ってくれていいんだよ? 分かってるからさ」
「何が」
「後見職なんて名前ばっかりで、実権なんてゼロに近いってことは」
再度、家茂は唇を噛んだ。
慶喜の言う通りだ。
元々、将軍後見職は、十二歳だった家茂が将軍職に就くに当たり、当時の大老だった
「だからこそ、先の後見役の退任前後に、朝廷のほうでは
慶喜は、おもむろに家茂の耳元へ唇を寄せると、声を
「それとは別件で、
言われて、目を見開く。
どうしてこの男は、そこまで知っているのだろうか。
すると、まるでそれを読んだような間合いで、耳元にクスリと小さく笑いが漏れる。
「やっぱまだ、詰めが甘いね」
「……何が言いたい」
「そこまで察しが悪いようなら、俺が味方する価値はないな」
また一つ笑いを挟んだ慶喜は、自身より身長の低い家茂に合わせて屈めていた上体を、スッと上げた。
「だけど見込みが違っていたとは思わないし、思いたくもない」
「どういう意味だよ」
「俺も一応、君を評価してるってことさ。
「補佐なんか、要らないって言ってるだろ」
「そう言わずに」
うっすらと笑った慶喜は、幼子にするようにポンポンと家茂の頭を叩く。
「俺への評価は、仕事振りを見てから改めて下してくれると嬉しいな。じゃ、明日からよろしく、
上様、をやたら強調してきびすを返す慶喜に、家茂は何も言い返せず、ただ彼を見送った。
©️神蔵 眞吹2024.