懐古

文字数 1,108文字

今訪れても、そこには何もない。

夜は街灯もなく真っ暗闇で、家の灯りさえない。
夏は辺りに虫の声だけが響く。
冬は雪の重みで、昔からある建物が潰れた。

両親は小学校の同級生だったので父方母方どちらも同じ市内の歩いて行ける範囲に家があった。
長期休みには必ず弟と訪れていた山の中にある町に、祖父母は住んでいた。
そこには、小さな頃の幸せの記憶のほとんどが詰め込まれている。

朝一番、窓を開けたとき、澄んだ空気に触れるとその町の空気を思い出す。
夏の夜の空気も同じだ。
そんな時、私はその空気を体の中の空気全てと交換するように深く吸い込む。

遊園地、夏祭り、盆踊り、花火。
商店街に並ぶ花屋、電気屋、本屋、おもちゃ屋、薬屋。
商店街の子どもと私たちだけでいっぱいになってしまう小さな公園。
冬はスキーと祖父母の家の雪かき。

今は祖母1人だけが住むその町に私が訪れることはほとんどない。
でも、何年かに一度訪れると、トンネルを抜けた瞬間に30年以上の時をすぐに超えることができる。

車から、もうずいぶん前に人手に渡ってしまったおばあちゃんの家が見えると、身を乗り出し、見えなくなるまで目に焼きつけるようにそれを見る。

そんなことをしなくても、いつでも思い浮かべることができるくらい、私の中には今でも何十年も前の光景が、写真を見るようにはっきりと刻みこまれているというのに。

あの家の裏におばあちゃんの畑があった。
あの畑でとれた野菜で野菜ジュースを作ってもらった。

弟とおばあちゃんとかまくらを作ってソリ遊びをした。

冬は廊下に置いておけば冷蔵庫に入れたみたいにみかんが冷えていたこと。

寝ているときにベッドから落ち、そのままでいいやと寝ようとすると、おばあちゃんが起きてきてベッドに戻してくれたこと。

スキーを家からスキー場まで履いていき、自分は滑らないでずっと私たちが降りてくるのを待ち、作ってくれたおにぎりを食べさせてくれたおばあちゃん。

夜眠る前に自分の考えた物語を話しながら先に眠ってしまったおじいちゃんは、遊園地ではいっしょにジェットコースターにも乗ってくれた。

家に戻る帰りの車で弟は必ず寝ていたが、私は誰にも見つからないようにいつも泣いていた。

あの町の人たちはどこへ行ってしまったのだろう。
でも、どこかに私と同じ光景を記憶している人がいて、それぞれの人の中で幸せの記憶として残っていることを想像する。
きっと、別の場所でも同じような記憶を持つ人はたくさんいるだろうと思う。

子どもにとっての幸せとはそういう、小さくて本当は簡単なことなんだと思う。

そんなことが何十年経った今でも私の中心にあり、その幸せな記憶が私を作ってくれたものの真ん中にあると、今、感じている。
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