文字数 1,975文字

「よく寝た……もう昼?」
 日がずいぶん高くなっている。
 トーノはオレが頭を乗せていた部分の足を、名残惜しげに撫でて、頷いた。
「オレもメシ食お」
 学校指定のボストン型の鞄から弁当箱を取り出す。
 母親お手製の弁当はずっしりと重かった。完全に冷めた昼飯は、おかずも米もちょっと右に寄ってしまっている。
 箸を持ったところで、視線を感じた。
 トーノがオレを、というかオレの弁当をじぃっと見つめていた。
 試しに唐揚げをつまみ、わざとトーノの目の前で左右に動かす。
 それに合わせてトーノの目線も動く。さっきはオレを子犬扱いしたのに、今はおまえが犬か。ジャーキーを持った飼い主にもてあそばれる飼い犬か。

「食う?」
「え、いいの?」

 遠慮とかしろよこの食いしんぼ野郎。
 言うが早いか、トーノは唐揚げをそのままパクッと食べた。
「すごい、冷めても柔らかい。千風のお母さん、料理上手だね」
「それ、冷凍食品」
 毎日ほぼ同じメニューなので、オレ的には飽き気味の唐揚げを、トーノは心底うまそうに食う。
「最近の冷凍食品やばいねー」
 なんて抜かして。

(……そういえば)

 最初の『口止め料』も弁当だった。

 思い起こせば二日前。学校をサボったオレは、あてどなく通学路を彷徨っていた。
 平日の昼間に、制服姿でウロウロするのは目立つ。
 かといって着替えなんかない。通学路を行ったり来たりすることで、「遅刻したんです」の(てい)を装って、補導を免れようとしていた。
 だけど疲れて、いい加減落ち着きたくなった。

 ――どこかに隠れたい。

 ゆっくり座れる場所を探して、手近にあった建物……『つばき産婦人科』の裏に回った。
 奥へ奥へ、ひとけが完全に途絶えて、ひとりきりでいられる場所を求めて。
 辿り着いたのが、植え込みだらけのここだった。建物の外観の繊細さからは信じられないような、乱雑で手つかずな、誰からも忘れられ誰からも省みられない庭。
 その瞬間、心の底からホッとした。
 ……のも束の間、そこには先客、つまりトーノがいた。

 ――「ねぇ、そこの君。そんなことをする前に、ちょっと、俺の命を(たす)けてくれないかな」

 変てこな第一声の変なヤツは、『命を(たす)けた』後、自己紹介すると脅してきた。
 ここは病院の私有地だから、勝手に入ったら不法侵入だとか何とか。
『命を救けた』恩人に対して何たる言い草だとムカついた。

 ――「口止め料でも払えってのか。あいにくオレは金なんか持ってねーよ。ほら!」

 と、キレて鞄を開けて中身を見せつけた。
この日は財布を忘れたのだ。
 中を覗き込んだトーノはにっこりと笑った。オレはその笑顔にうっかりドキッとしてしまった。
「じゃあ、これで黙っておいてあげる」
 そう言ってヤツが長い指でつまんだのは、弁当だった。

(……思えば最初から、マジのガチで変なヤツだった……)

 たった二日前のことなのに、ずいぶん昔のように感じる。
 トーノはオレの弁当をまるごと奪って、ルンルンとかっ込んでいた。いちいち味の感想を言うのが面白くてめんどくさい。
 少し強い風が吹いた。木々を揺らし、落ち葉を舞わせる突風は、オレの髪をなぶった。
 けれどすぐに穏やかな風に戻り、頬を撫でてくれる。
 空は快晴で、陽射しはぽかぽかしていた。生ぬるく平和な、五月の風景。
 時間を忘れそうな空間だった。
 ここだけ別世界みたいだ――なんて。
 今まで百回は目にしたありふれた表現を、まさか自分が使うとは。
 ここ最近、思いも寄らないことが続いているな、とふと胸に重みを感じた。

 それから、記録に残すまでもない無駄話をして、ふたりで無為に過ごした。
 夕方も過ぎ、辺りが暗くなると、オレは根っこが生えそうなくらい重い腰を上げた。
「ケツ痛ぇー。コンクリ固すぎ」
「大丈夫? さする?」
「ごめんマジ意味分からん」
 トーノの真顔の謎提案に、遠慮しますと手で制した。ズボンの砂埃を払うと鞄を肩にかける。
「千風、明日の口止め料は米系がいいな」
「来ること前提かよ」
「来ないの?」
「……行くよ」
 などと答えれば、薄闇の中でもはっきりと伝わる歓喜の気配。
 別に変な趣味はなくても、ここまで露骨に喜ばれたら、悪い気はしない。
 つまり、オレも嬉しかった。
 いつまでも手を振って見送るトーノを背に感じながら、来た道を行く。
 幸い、大人に見つからずに外に出られた。同じ高校の生徒をちらほら見かける。今は部活残留組の下校時刻なのだ。
 さりげなくその中に混ざる。これでもう怪訝な目で見られることはない。
 イヤホンを取り出し、携帯電話で音楽を聴きながら、ごく普通の高校生の装いでオレは帰路を辿った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み