イエスタデイワンスモア
文字数 4,538文字
その店は雪国の港が臨める高台にあった。
店舗兼住宅の建物は木造モルタル二階建てで1階に喫茶店、2階に住居スペースがある。一人で暮らすにはいささか広すぎる感はあるが美冬はここに留まっていた。
北国の日照時間は短い。
一日の大半は陽の差さない気の滅入りそうな薄闇だ。大抵は空似分厚くて黒い雲がかかりただでさえ気温の低いこの地を冷やす。雨よりも雪のほうが降ることが多く、土地の人間は生まれた頃から雪に馴染み、雪とともに育っていた。
喫茶店のフロアにはカウンター席と五つのテーブルがあり、窓に面したテーブル席からは海が見える。少し支店を変えれば港も見ることができ、人々の営みを観察することもできた。
店内には美冬の父親である店主の趣味が丸出しになったような写真や装飾品が飾られている。大判の三枚の写真には満月と雪原を走る狼、燃え盛る焚き火を中心に躍るインディアンたち、むき出しになった山肌を幾つも連ねる険しい山脈が写っている。壁にぶら下がっているのは鳥の羽と草花で作られた魔除けの髪飾り、雄鹿の首だけの剥製、黒曜石と翡翠が散りばめられたネックレスなど。棚の上からは大鷲がその巨大な翼を広げて客席に睨みをきかせていた。
かつては店内にカントリーミュージックが流れていたものだが今は風の音がBGM代わりだった。
照明の仄白い明かりが店の天井に灯っている。美冬はいつものように暇な時間をぼんやりと過ごしていた。
*
びゅうと風が吹き、ガタガタと窓を揺らす。
朝方から降り続けていた雪は夕方になってからその勢いを強め、今では吹雪と化していた。降り積もる雪はすでに大人の腰ほどの高さにまで達している。
伝染や電話線などのケーブル類は積雪の重みでたるんだり切れたりしてしまうので全て地下に通すようになっていた。それ故にこのあたりには電柱はない。道を照らすのはときおり通る除雪車のヘッドライトかその後に走る車のそれくらいだ。治安を思うとどうかというレベルだがとにかくこの高台へと続く道には明かりらしい明かりはなかった。
どん、と大きな音が鳴り美冬はびくりとする。反射的に向いた視線の先には大きなカウベルのついたドアがあった。分厚いドアの向こうから誰かが叩いているらしくまたドアが強く響く。
「おーい」
聞き覚えのある声に美冬ははっとした。慌てて彼女はドアに駆け寄る。ドアには鍵はかかっていなかったが普段誰かが開けることはなかった。美冬自身も外に出ることはない。
「誰?」
答えはわかっていたがあえてたずねる。その声を確かめたかった。
「えっ、美冬?」
ガタガタと震える窓の音に彼の声が重なる。うまく聞き取れずにいたが美冬はうなずいた。
秋人。
思わず呼び慣れた名が出る。アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれた彼はミセス・アキヒト・グリーンという本名があった。だが美冬はいつも「秋人」と日本の名で呼んでいた。
彼女はドアに触れる。それまでしっかりと閉じられていたドアが嘘のように簡単に開いた。びゅうと吹きすさぶ雪とともにコートを羽織った幼馴染みが飛び込んでくる。ドアは勝手に閉じた。誰の手も介さずドア自身が意思を持っているかのようでもある。彼以外を拒絶しているふうでもあった。
「……」
勢い余って前のめりに倒れた彼が不思議そうな顔をしながら起き上がる。きょろきょろと店内を見回し、そのアーモンド型の目をぱちぱちさせた。
コートのフードが外れて胸まで伸びた亜麻色の髪を露わにしている。縦巻きロールの髪は先程までフードを被っていたらしいというのに湿っていた。
ああ、まだお姉さんのこと忘れられないのね。
美冬は彼の髪型を前にため息をつく。お姉ちゃんっ子だった秋人が十歳のときに五歳年上の姉を病気で亡くし、その後彼女の真似をするようになったときは少なからず驚かされたものだ。
秋人は顔立ちが良く、女性と見間違えてしまいそうだった。黒髪ショートの美冬には真似できない髪型に少しうらやましくもなる。長身で美冬よりも頭一つ分は背が高かった。
「美冬……?」
信じられないといった面持ちで彼が声を漏らす。
「秋人、どうしたの」
美冬は軽く首を傾けた。彼とはずいぶん会っていない気がする。曖昧な記憶の中で幼いころの秋人と自分の姿があった。快活に笑う彼に美冬は僅かに微笑む。何もかもが美しく何もかもが幸せな時間だった。もう戻らない時間、もう来ることのない時間。
彼女の時間は止まっていた。
「……」
何かを告げようと彼が口を開きかけ、やめる。代わりに彼は抱きついてきた。しっかりとした感触に美冬は軽く戸惑う。冷気にさらされていた彼の身体は冷えていたがじんわりと温まっていくのがわかった。
とくんとくんと心音が跳ねる。
美冬は彼に腕を回した。応じるようにぎゅっと身体を預ける。
ほわりと彼女の頭上で黄色い輪のようなものが浮かんだ。
それは無意識のうちに発現したもので彼女からは見えない。
しかし、彼はそれを視認したようだ。
「……そっか」
納得したように、哀しそうに彼がつぶやく。
「おかしいとは思ったんだ」
美冬は彼の胸に何かが現れたのを知覚した。僅かに顔を上げると左胸に青リンゴのワッペンがあった。一口囓られたようなデザインで囓った位置には薄緑色の宝石がはまっている。
……これは。
美冬は息を呑み、はね除けるように彼から離れる。精霊の存在はかなり前から見知っていた。「それ」はとても身近な存在だ。万物に「それ」は宿る。物や植物、動物に限らず事象や感情にさえ「それ」はいた。
彼女はまじまじと彼を見た。知らず口を半開きにさせていた。先程とは異なるリズムで心臓が鼓動する。彼がもう普通の人間ではないと認めるしかなかった。幼馴染みの、あの秋人はもういない。
彼は秋人だけど秋人じゃない。
「この町を離れる前にここに来て良かった」
彼が静かに言った。
青リンゴのワッペンの宝石が光る。きらりと輝くその光は何かを訴えているようでもあった。
彼が寂しそうに笑う。
「僕は星神島に行かなくてはならない。どうしても探さなければならないんだ。そのためにこの精霊と契約した」
「……まだ探していたの?」
「うん。諦める訳にはいかないよ。僕たちはあのときから時間が止まっているからね」
まっすぐな眼差しには力があった。悲しさの裏側にある決意、思い出の底にある後悔。それはもしかしたら美冬にもあったのかもしれない。
彼女は聞いた。
「いつ行くの?」
「明日の朝の便で出るよ。それから政府の船に乗り換えて島に向かう」
「……」
美冬は噂を耳にしたことがあった。星神島は政府の連絡船でしか行けない特別な島だ。
そして、島に足を踏み入れたら二度と出られない。
つまり……。
「もう会えないのね」
「違うよ、僕はまた出会うために行くんだ。そして今度は君の手を離さない。どんな犠牲を払ってでも……」
「無茶はしないで」
「大丈夫」
彼は誇らしげに青リンゴのワッペンの形をした「それ」を見下ろした。そっと手で撫でる。きらきらと宝石が呼応した。
「こいつと一緒なら大抵のことは切り抜けられる。頼もしい相棒だよ」
「どうしても行くのね?」
「うん、たとえ君が僕を引き留めたりここに閉じ込めようとしても無駄だよ。僕が外に出るのにドアは必要ない」
それは何となく理解できた。
この雪深い中を明かりもなくろくな装備もなしでここまで来たのだ。腰のあたりまで積もっている雪道を歩いて来た割にはさしたる汚れはない。この不自然極まりない状態を説明するのは精霊の力なしには不可能であった。
「誓うよ、絶対に君を取り戻す」
「……」
言葉が詰まった。この再会までの歳月はどのくらいであっただろうか。その間に店は取り壊され、美冬の家族は他の町に引っ越してしまっていた。
ここは本来何もない更地。
だが……。
彼が用事を済ませたと言わんばかりにドアに向かう。その腕を掴もうとするが美冬の手は虚しく空を切った。うっすらと彼の姿が半透明になっていく。
ああ、これが彼の授かった力か。
もはや互いに人ではないのだと彼女は判じる。彼をそうさせてしまった自分が憎かった。こんな運命を恨んだ。互いの時間が止まっているのならせめて彼の分だけでも何とかしてあげたかった。
音もなく、ごく自然に彼はドアをすり抜けていく。入るには彼女の許可がなければいけないが出るときには許可は必要ない。それはルールであり彼女の能力の限界でもあった。
視界を滲ませつつ彼女はその場にへたり込む。彼が無事にやり遂げるのを祈るしかなかった。
吹きつける風がガタガタと窓を揺らし、彼の名を呼ぶ美冬の声をかき消した。
*
万物に精霊は宿る。
それは想いという概念にすら該当した。美冬が交通事故で命を落とし、彼女を悼む人々の想いが一つの奇跡を生んだ。大本が彼女の家族なのかまわりの人たちなのかは定かではない。しかし、彼女が事故死し、秋人が幼馴染みを蘇らせようとその方法を模索するようになってしばらくしてから、彼女はここに目覚めた。そのときには家族は別の土地に引っ越していたがそんな事情とは関係なく彼女は在り続けた。
正確には彼女とこの建物が、ではあるが……。
*
翌朝。
美冬は店の窓から港を眺めていた。
赤茶けた船体の連絡船が出港の時を待っている。コンテナを運ぶフォークリフトの黄色い車体が溶けた雪で濡れたコンクリートの暗い灰色に映えていた。一列に並ぶ人々は乗船手続きをする人たちだろう。
その中に昨日目にしたコートの人物を見つけ美冬は「あっ」と小さく声を漏らす。
風が走り抜け、コートのフードが外れた。縦巻きロールの亜麻色の髪がはっきりと彼の存在を主張する。片手にトランクを持った彼は流れに沿うように進みタラップを上り始めた。
秋人。
これから彼は船で南西に向かい、そこで星神島行きの連絡船に乗り換える。もう戻ることのできない片道切符だ。今生の別れという言葉が頭に浮かぶ。秋人は……ミセスと会うことはもう叶わないだろう。
美冬が島を訪れることもない。
彼女はこの建物から出ることができなかった。それはまるで決して破ることのできぬ掟のようなもので、シンプルだが極めて強力な呪いでもあった。人の想いに宿った精霊は彼女を生み出し、ここに閉じ込めた。彼女は美冬ではあるが美冬ではない。精霊が在る間だけのかりそめの存在。本物の美冬は彼岸の彼方へと旅立っている。
……彼はそんな彼女を引き戻そうとしている。
船が出港準備を済ませ、汽笛を鳴らす。ゆっくりと離岸していく船を美冬はじっと見つめた。
ああ、なぜ私はここにいるのか。
なぜ彼と共にいられないのか。
理由はわかっていても納得できなかった。感情がそれを許さなかった。
なぜ私は美冬ではないのだろう。
美冬なのに美冬ではないのだろう。
こみ上げてくるものが溢れて頬を伝った。
彼に申し訳なかった。自分が美冬であれば彼は普通の人間でいられたのに……二度と引き返すことのできぬ道を選ばずにいられたのに。
せめて彼が無事でいられますように。
想いの精霊によって創り出された少女はゆっくりと目を伏せて神に祈るのであった。
了。
店舗兼住宅の建物は木造モルタル二階建てで1階に喫茶店、2階に住居スペースがある。一人で暮らすにはいささか広すぎる感はあるが美冬はここに留まっていた。
北国の日照時間は短い。
一日の大半は陽の差さない気の滅入りそうな薄闇だ。大抵は空似分厚くて黒い雲がかかりただでさえ気温の低いこの地を冷やす。雨よりも雪のほうが降ることが多く、土地の人間は生まれた頃から雪に馴染み、雪とともに育っていた。
喫茶店のフロアにはカウンター席と五つのテーブルがあり、窓に面したテーブル席からは海が見える。少し支店を変えれば港も見ることができ、人々の営みを観察することもできた。
店内には美冬の父親である店主の趣味が丸出しになったような写真や装飾品が飾られている。大判の三枚の写真には満月と雪原を走る狼、燃え盛る焚き火を中心に躍るインディアンたち、むき出しになった山肌を幾つも連ねる険しい山脈が写っている。壁にぶら下がっているのは鳥の羽と草花で作られた魔除けの髪飾り、雄鹿の首だけの剥製、黒曜石と翡翠が散りばめられたネックレスなど。棚の上からは大鷲がその巨大な翼を広げて客席に睨みをきかせていた。
かつては店内にカントリーミュージックが流れていたものだが今は風の音がBGM代わりだった。
照明の仄白い明かりが店の天井に灯っている。美冬はいつものように暇な時間をぼんやりと過ごしていた。
*
びゅうと風が吹き、ガタガタと窓を揺らす。
朝方から降り続けていた雪は夕方になってからその勢いを強め、今では吹雪と化していた。降り積もる雪はすでに大人の腰ほどの高さにまで達している。
伝染や電話線などのケーブル類は積雪の重みでたるんだり切れたりしてしまうので全て地下に通すようになっていた。それ故にこのあたりには電柱はない。道を照らすのはときおり通る除雪車のヘッドライトかその後に走る車のそれくらいだ。治安を思うとどうかというレベルだがとにかくこの高台へと続く道には明かりらしい明かりはなかった。
どん、と大きな音が鳴り美冬はびくりとする。反射的に向いた視線の先には大きなカウベルのついたドアがあった。分厚いドアの向こうから誰かが叩いているらしくまたドアが強く響く。
「おーい」
聞き覚えのある声に美冬ははっとした。慌てて彼女はドアに駆け寄る。ドアには鍵はかかっていなかったが普段誰かが開けることはなかった。美冬自身も外に出ることはない。
「誰?」
答えはわかっていたがあえてたずねる。その声を確かめたかった。
「えっ、美冬?」
ガタガタと震える窓の音に彼の声が重なる。うまく聞き取れずにいたが美冬はうなずいた。
秋人。
思わず呼び慣れた名が出る。アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれた彼はミセス・アキヒト・グリーンという本名があった。だが美冬はいつも「秋人」と日本の名で呼んでいた。
彼女はドアに触れる。それまでしっかりと閉じられていたドアが嘘のように簡単に開いた。びゅうと吹きすさぶ雪とともにコートを羽織った幼馴染みが飛び込んでくる。ドアは勝手に閉じた。誰の手も介さずドア自身が意思を持っているかのようでもある。彼以外を拒絶しているふうでもあった。
「……」
勢い余って前のめりに倒れた彼が不思議そうな顔をしながら起き上がる。きょろきょろと店内を見回し、そのアーモンド型の目をぱちぱちさせた。
コートのフードが外れて胸まで伸びた亜麻色の髪を露わにしている。縦巻きロールの髪は先程までフードを被っていたらしいというのに湿っていた。
ああ、まだお姉さんのこと忘れられないのね。
美冬は彼の髪型を前にため息をつく。お姉ちゃんっ子だった秋人が十歳のときに五歳年上の姉を病気で亡くし、その後彼女の真似をするようになったときは少なからず驚かされたものだ。
秋人は顔立ちが良く、女性と見間違えてしまいそうだった。黒髪ショートの美冬には真似できない髪型に少しうらやましくもなる。長身で美冬よりも頭一つ分は背が高かった。
「美冬……?」
信じられないといった面持ちで彼が声を漏らす。
「秋人、どうしたの」
美冬は軽く首を傾けた。彼とはずいぶん会っていない気がする。曖昧な記憶の中で幼いころの秋人と自分の姿があった。快活に笑う彼に美冬は僅かに微笑む。何もかもが美しく何もかもが幸せな時間だった。もう戻らない時間、もう来ることのない時間。
彼女の時間は止まっていた。
「……」
何かを告げようと彼が口を開きかけ、やめる。代わりに彼は抱きついてきた。しっかりとした感触に美冬は軽く戸惑う。冷気にさらされていた彼の身体は冷えていたがじんわりと温まっていくのがわかった。
とくんとくんと心音が跳ねる。
美冬は彼に腕を回した。応じるようにぎゅっと身体を預ける。
ほわりと彼女の頭上で黄色い輪のようなものが浮かんだ。
それは無意識のうちに発現したもので彼女からは見えない。
しかし、彼はそれを視認したようだ。
「……そっか」
納得したように、哀しそうに彼がつぶやく。
「おかしいとは思ったんだ」
美冬は彼の胸に何かが現れたのを知覚した。僅かに顔を上げると左胸に青リンゴのワッペンがあった。一口囓られたようなデザインで囓った位置には薄緑色の宝石がはまっている。
……これは。
美冬は息を呑み、はね除けるように彼から離れる。精霊の存在はかなり前から見知っていた。「それ」はとても身近な存在だ。万物に「それ」は宿る。物や植物、動物に限らず事象や感情にさえ「それ」はいた。
彼女はまじまじと彼を見た。知らず口を半開きにさせていた。先程とは異なるリズムで心臓が鼓動する。彼がもう普通の人間ではないと認めるしかなかった。幼馴染みの、あの秋人はもういない。
彼は秋人だけど秋人じゃない。
「この町を離れる前にここに来て良かった」
彼が静かに言った。
青リンゴのワッペンの宝石が光る。きらりと輝くその光は何かを訴えているようでもあった。
彼が寂しそうに笑う。
「僕は星神島に行かなくてはならない。どうしても探さなければならないんだ。そのためにこの精霊と契約した」
「……まだ探していたの?」
「うん。諦める訳にはいかないよ。僕たちはあのときから時間が止まっているからね」
まっすぐな眼差しには力があった。悲しさの裏側にある決意、思い出の底にある後悔。それはもしかしたら美冬にもあったのかもしれない。
彼女は聞いた。
「いつ行くの?」
「明日の朝の便で出るよ。それから政府の船に乗り換えて島に向かう」
「……」
美冬は噂を耳にしたことがあった。星神島は政府の連絡船でしか行けない特別な島だ。
そして、島に足を踏み入れたら二度と出られない。
つまり……。
「もう会えないのね」
「違うよ、僕はまた出会うために行くんだ。そして今度は君の手を離さない。どんな犠牲を払ってでも……」
「無茶はしないで」
「大丈夫」
彼は誇らしげに青リンゴのワッペンの形をした「それ」を見下ろした。そっと手で撫でる。きらきらと宝石が呼応した。
「こいつと一緒なら大抵のことは切り抜けられる。頼もしい相棒だよ」
「どうしても行くのね?」
「うん、たとえ君が僕を引き留めたりここに閉じ込めようとしても無駄だよ。僕が外に出るのにドアは必要ない」
それは何となく理解できた。
この雪深い中を明かりもなくろくな装備もなしでここまで来たのだ。腰のあたりまで積もっている雪道を歩いて来た割にはさしたる汚れはない。この不自然極まりない状態を説明するのは精霊の力なしには不可能であった。
「誓うよ、絶対に君を取り戻す」
「……」
言葉が詰まった。この再会までの歳月はどのくらいであっただろうか。その間に店は取り壊され、美冬の家族は他の町に引っ越してしまっていた。
ここは本来何もない更地。
だが……。
彼が用事を済ませたと言わんばかりにドアに向かう。その腕を掴もうとするが美冬の手は虚しく空を切った。うっすらと彼の姿が半透明になっていく。
ああ、これが彼の授かった力か。
もはや互いに人ではないのだと彼女は判じる。彼をそうさせてしまった自分が憎かった。こんな運命を恨んだ。互いの時間が止まっているのならせめて彼の分だけでも何とかしてあげたかった。
音もなく、ごく自然に彼はドアをすり抜けていく。入るには彼女の許可がなければいけないが出るときには許可は必要ない。それはルールであり彼女の能力の限界でもあった。
視界を滲ませつつ彼女はその場にへたり込む。彼が無事にやり遂げるのを祈るしかなかった。
吹きつける風がガタガタと窓を揺らし、彼の名を呼ぶ美冬の声をかき消した。
*
万物に精霊は宿る。
それは想いという概念にすら該当した。美冬が交通事故で命を落とし、彼女を悼む人々の想いが一つの奇跡を生んだ。大本が彼女の家族なのかまわりの人たちなのかは定かではない。しかし、彼女が事故死し、秋人が幼馴染みを蘇らせようとその方法を模索するようになってしばらくしてから、彼女はここに目覚めた。そのときには家族は別の土地に引っ越していたがそんな事情とは関係なく彼女は在り続けた。
正確には彼女とこの建物が、ではあるが……。
*
翌朝。
美冬は店の窓から港を眺めていた。
赤茶けた船体の連絡船が出港の時を待っている。コンテナを運ぶフォークリフトの黄色い車体が溶けた雪で濡れたコンクリートの暗い灰色に映えていた。一列に並ぶ人々は乗船手続きをする人たちだろう。
その中に昨日目にしたコートの人物を見つけ美冬は「あっ」と小さく声を漏らす。
風が走り抜け、コートのフードが外れた。縦巻きロールの亜麻色の髪がはっきりと彼の存在を主張する。片手にトランクを持った彼は流れに沿うように進みタラップを上り始めた。
秋人。
これから彼は船で南西に向かい、そこで星神島行きの連絡船に乗り換える。もう戻ることのできない片道切符だ。今生の別れという言葉が頭に浮かぶ。秋人は……ミセスと会うことはもう叶わないだろう。
美冬が島を訪れることもない。
彼女はこの建物から出ることができなかった。それはまるで決して破ることのできぬ掟のようなもので、シンプルだが極めて強力な呪いでもあった。人の想いに宿った精霊は彼女を生み出し、ここに閉じ込めた。彼女は美冬ではあるが美冬ではない。精霊が在る間だけのかりそめの存在。本物の美冬は彼岸の彼方へと旅立っている。
……彼はそんな彼女を引き戻そうとしている。
船が出港準備を済ませ、汽笛を鳴らす。ゆっくりと離岸していく船を美冬はじっと見つめた。
ああ、なぜ私はここにいるのか。
なぜ彼と共にいられないのか。
理由はわかっていても納得できなかった。感情がそれを許さなかった。
なぜ私は美冬ではないのだろう。
美冬なのに美冬ではないのだろう。
こみ上げてくるものが溢れて頬を伝った。
彼に申し訳なかった。自分が美冬であれば彼は普通の人間でいられたのに……二度と引き返すことのできぬ道を選ばずにいられたのに。
せめて彼が無事でいられますように。
想いの精霊によって創り出された少女はゆっくりと目を伏せて神に祈るのであった。
了。