祖母が死んだ。

文字数 1,998文字

 祖母が死んだ。スマートフォンの通知欄に表示された母からのメッセージを見た私は、思わず小さく声をあげたが、カースピーカーに乗せられたラジオ音声にはっと我に返り、スマホを助手席に置く。ラジオが午後二時を知らせている。
 社用車を走らせてわずか十分、目的の患者宅に車を入れる。二階建ての一軒家の敷地内にはカーポート付の駐車場があるが、現在は家主を失った家のような空虚さを持ったまま、コンクリートの隙間からは雑草を数本寂しく生やしていた。私は荷物を持って車から降りる。施錠されていないドアを開けながら、大きく息を吸い込んだ。

「千賀子さーん、こんにちは! 薬局でーす!」

 奥にあるリビングからはテレビの音が響いてくる。こちらの声が聞こえていない事は想像つくが、他人の家に自由に入るという事には、たとえ仕事の範疇だとしても慣れない。そういえば母からのメッセージをきちんと見ていない事を思い出すが、私用のスマホは車内に置いてきてしまった。お邪魔しまーす、という声と共に、私はプライベートの影を消していく。今は仕事中だ。
 押し車の置かれた玄関で靴を脱ぐ。古い木造の空間に漂う微かなカビ臭さは懐かしさを誘う。
 狭くて暗い廊下を抜けた先のドアを開けると、テレビの音で一杯になった。淡いピンクの花柄模様のソファーに座っている千賀子さんはテレビ画面に釘付けだが、午後のワイドショーに対してどの程度興味を持って理解を示しているのか、定かではない。

「千賀子さん、こんにちは」

 ゆっくりと千賀子さんに近付き、目線の高さを合わせてはっきりと言うと、私に気付いた千賀子さんが、怪訝な表情を浮かべた。毎度の事だ。

「薬局の者です。お薬を整理させて貰いますね」

 私が社員証を見せると、千賀子さんは、いつもありがとうね、と安堵を漏らすように微笑んだ。
 キッチンへと歩き、所定の棚を開ける。千賀子さんの目に届く範囲に薬があると、彼女は思い出すたびに薬を服用してしまう。今日の薬を飲んだかどうか覚えていられない、つまり薬の管理ができない。そういった理由で、薬局薬剤師である私も千賀子さんの在宅医療に関わっている。
 元々、千賀子さんは私の薬局の患者だった。歩く足取りも変わらず、薬局スタッフに示す感謝の言葉も変わらなかった半年前のある日の会計時、こちらが金額を伝えても、丁寧に使い込まれた財布を片手に、千賀子さんは呆然としていた。どのお札、どの小銭を出せばいいのか判断できない。これは認知症の初期症状の一つでもあり、千賀子さんのかかりつけ医と地域の支援センターに相談したのが在宅医療の始まりだった。それからは、医師や薬剤師、ケアマネージャー、市の福祉支援課なども交えた会議が行われ、私は月に二回、千賀子さんの自宅に薬を持ってきている。しかし彼女自身が薬の管理をする事は難しいため、毎日訪問する介護士が棚から薬を取り出し、千賀子さんに服用してもらう事になっていた。
 セロファン状の分包紙には、いくつかの錠剤が入っており、私は分包紙ごと棚に入れる。ふと違和感を覚え、僅かに開いた引き出しに視線を移した。こうして患者様の家に入る事で見える生活背景がある。引き出しを探ると、以前私が持ってきたはずの分包紙が数包入っていて、日付は二か月ほど前のものだった。彼女は介護士が渡した後で服用せずに隠したのだろうか。真相は不明だが、報告書に記入しなければならない。他の場所にも隠されているかもしれないが、そろそろ薬局に戻る時間だ。

「千賀子さん、お薬飲めてますか?」

 服薬の対策について考えながらリビングに戻り、カーペットに立膝をついて千賀子さんに訊ねると、当然のようにうなずき返された。これも想定内だ。
 小さく嘆息した私は、テーブルにある写真に気付く。最近のものだ。若い女性が三歳くらいの男の子を抱いている。

「この写真、もしかしたら千賀子さんのお孫さん?」

 私が訊ねると、千賀子さんは満面に微笑んで、先日孫が産まれたの、と時空を歪めた。おめでとうございます、と返しながら、私は会った事のない千賀子さんの孫について考える。そして千賀子さん自身について考える。千賀子さんの話を五分ほど聞き、彼女の家を出た。ドアを閉めた途端、年号を超えるタイムマシンに乗ったような感覚に襲われた。
 車に乗り、エンジンをかけながらスマホを開いた。十年近く会っていない祖母への郷愁よりも、他人である千賀子さんの生活に触れる方が容易い事に罪悪感を抱く。軽やかなラジオ音声に混じって、何かが胸の内でじわじわとひしめいていく。喪失感とも違う、悲しみとも違う、だけど、私は祖母を亡くしたのだった。
 まずは、薬局に戻ったら母に電話しよう。そして、認知症だったお祖母ちゃんに最期の挨拶をしよう。私はゆっくりとアクセルを踏む。今はまだ仕事中だ。
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