第1話 (一)藤田志穂
文字数 4,970文字
(一)藤田志穂
「受付です。三井先生、トランスインターナショナルジャパンの酒井様よりお電話が入っております」
「トランスインターナショナルジャパン。心当たりないのですけど、分かりました。出ますので繋いでください」
「お繋ぎしますのでよろしくお願いします」
トランスインターナショナルジャパン。会社名からは、何をやっている会社か全く想像がつかない。インターナショナルというからには、国際的なビジネスをやっているのかな。ジャパンが付くからその日本支社ということだろうか。そうすると事業内容はトランス。いやいや、全く分からないって。
私が社会に出て気付いたことの一つは、会社名を聞いて事業内容が分かる会社がとても少ないということ。会社名を聞いて、何の会社なんだろうと疑問に思うことがとても多い。その点、ハラダ国際法律特許事務所は分かりやすい。想像するに、ハラダ、漢字はおそらく原田、という人が代表を務める法律事務所だろう。国際は、外国とも仕事をするということだろう。特許というのは馴染みがないけど、なんとなく聞いたことはあった。要するに特許の仕事もする法律事務所ということだろう。そして、おおむね私の想像の通りだった。ただし、創業者の原田氏は存命ではなく、現在では創業者の原田氏とは何の血縁関係もない多数の弁護士と弁理士で運営されている。弁理士という職業はハラダ国際法律特許事務所に勤めることになって初めて知った。特許や商標などを専門に扱う資格であり、弁護士や税理士、会計士などの一種のようだ。ちなみに、正式名称のハラダ国際法律特許事務所だと長いので、この業界では「ハラダ事務所」と呼ばれている。
「三井です。先ほど電話がかかってきたトランスなんとかという会社ですけど、マンション販売の営業なので、今後は取り次がないようにお願いします」
電話を終えた三井先生から連絡があり、今後はトランスインターナショナルジャパンからの電話を取り次がないように、着信拒否リストに追加した。
迷惑電話なので取り次ぎをしないように、と先生方から要望された会社は電話番号と簡単な内容を着信拒否リストに記載することになっている。着信拒否リストは、歴代の受付から今日まで引き継がれている。トランスインターナショナルジャパンは、マンション販売の営業として登録しておいた。
「なんかすごくいい匂いがする」
面談を終えた潮田真希 が受付に入ってきた。今日は派遣会社の営業担当者と面談がある。先に真希が面談を終えたので私を呼びにきたのだ。
「これって金木犀だよね。秋って感じだよね。私ここの受付の雰囲気がわりと好きなんだよね」
真希は生けられた金木犀を見ながら独り言のように呟いている。
私もハラダ事務所の受付の環境は気に入っている。黒を基調とした和風の空間で、常に季節の草木が生けられている。生け花は華道の師範の資格をもつ秘書さんが中心になって定期的に生けている。ゆったりと座れるソファーがあって、法律関係の雑誌とともに、英語で解説してある浮世絵などの日本の美術の書籍などもさりげなく置いてある。また、江戸時代の江戸城周辺の城下町の地図が壁に掛けられている。さながらオシャレな書店の一角といったところだ。なんでも、十数年前に有名な空間デザイナーに依頼して受付を設計してもらったらしい。ハラダ事務所は海外のクライアントも多く海外からの来訪者も多いのでこういった和風な空間デザインになっている。少しベタな和風な演出のような気もするが、外国人受けはいい。私もこの空間が心地よい。私は受付の仕事には興味が無かったが、ハラダ事務所の受付の雰囲気が気に入ったので、派遣会社のお勧めしたハラダ国際法律特許事務所の受付で働くことになった。
「長谷川が一階のスタバで待ってるって」
真希は長谷川に対して棘のある言い方をする。真希は長谷川のことが嫌いなのだ。まあ、私も好きではないけど。
スターバックスに着くと長谷川が私を見つけて手を挙げた。
「お待たせしてすみません」
「さきほど、潮田さんとの面談が終わったところです。お好きなお飲み物をどうぞ」
長谷川から手渡されたスターバックスのプリペイドカードでカフェラテを注文した。せっかくだから大きいサイズを注文した。スタバで飲むカフェラテはちょっと特別な味がする。スチームされたホットミルクがエスプレッソと混ざり合い、しっかりとしたコーヒーの香りはするけれど、泡立ったミルクの優しい口当たりが幸せを運んでくる。「秋とカフェラテ」、いや「アキとカフェラテ」かな。頭の中でカフェラテを飲む自分をアート作品にしてみる。目の前にいるのが長谷川じゃ絵にならないな。
「ハラダ事務所で勤務するようになって半年になるけど、どうかな」
確かにハラダ事務所で4月から働いているので、もう6か月が経っている。
「私としては特に問題なくできていると思っています。事前にお聞きしていたように残業もないのでありがたいです」
私にとって残業が無いというのはとても重要なのだ。夜遅くに家に帰ると何もやる気がしなくなる。絵を描く気力だってなくなる。疲れていたら好きなことだってできなくなるのだ。多くの人が残業することを許容しているみたいだけど、私には無理。
前の職場に派遣として入ったときに、残業は無いと聞いていたのにしばしば残業を頼まれることがあった。事前の約束と違うので長谷川に文句を言ったが、長谷川は、フレキシブルに対応して先方の事業にコミットできる姿勢を見せておいた方が正社員への道が開けるとか、先方の会社の事業内容を理解しておくチャンスだとか、意味不明なことを言うだけで、派遣先の会社に約束と違うと申し入れることはしなかった。真希が長谷川を嫌い、ヒラメの長谷川と言うのはもっともだ。真希によると「ヒラメ」は漢字の平目ではなくカタカナのヒラメらしい。確かに長谷川は使えない。だから私も長谷川には期待していない。
「ハラダ事務所さんの方でも藤田さんの仕事には満足していただいているようで、先方も派遣契約の継続を望まれています。藤田さんも継続ということでよろしいですか」
「はい、継続でお願いします」
「コンセンサスが得られましたね。ではハラダ事務所さんの方にもその旨を伝えておきます。藤田さんの方で困っていることや、希望などがあれば聞いておきたいけど、何かあるかな」
休みを取る日が希望通りにならないことがある。今年の夏休みが希望通りに取れなかったことを思い出したので、その件を伝えた。
長谷川が少しマズイという顔をしている。長谷川がハラダ事務所にきちんと交渉をしてくれなかったせいで、私が夏休みを希望通りの日程で取れなかったことを思い出したのだろう。
「ハラダ事務所さんは法律業をやっているので、事務所の休日は裁判所や特許庁に合わせるからカレンダー通りなんですよね。だから、一般企業のように決まったお盆休みのような夏季休暇がなくて、社員さん達が互いにスケジュール調整しながら夏休みを取るのです。藤田さんも頑張って正社員になれれば、希望通りに休みが取れるようになれると思うから、それまで頑張ってみてはどうかな。ハラダ事務所さんは派遣社員から正社員への登用にも積極的だし、実際にうちの派遣会社からも何人か正社員として登用されてますよ。ファクトベースで言うと、早い人の場合は半年で正社員登用された例もありますし」
派遣で働くメリットは自由が利くことだと長谷川自身が言っていることなのに、正社員になれば休みを希望通りに取れるようになるとは、どういうことか。やっぱり真希の言う通りヒラメの長谷川なのだな、と思う。だいたい困ったことや希望はあるかと聞いておいて、希望を言えば意味不明な対応しかしない。これが社会というものなのだろうか。専門学校を卒業し、社会人デビューしてまだ1年ちょっとだけど、私が思っていたよりも社会は大人ではないみたい。
「志穂。新しい職場はどう。もう慣れた?」
「うん。だいぶ慣れたよ。受付の仕事はそんなに大変じゃないし、時間通りに終われるから残業もなくて、わりと気に入ってる」
後ろから三両目の車両のドア近くに立つ。これが私の帰りの定位置。
「時間通りに終われるのはいいよね」
「そうなの。残業があると絵を描く時間が減っちゃうから残業がないことを条件に選んだんだ」
「志穂は昔から絵が好きだったもんね。美術の専門学校にも行ってたし」
「この前、出来上がったファンアートをSNSにアップしたら、結構いいねやコメントが貰えて嬉しかったな」
「私も見たよ。すごく良かった」
はゆねちゃんにそう言われると照れる。嬉しい。はゆねちゃんとはとても気が合うし、好みが似ているところもあるんだ。私は今日はお気に入りのコンバースのチャックテイラーを履いてきた。はゆねちゃんもチャックテイラーが好きというのも共通点だ。
「これからも志穂の絵を楽しみにしてるね」
「私もはゆねちゃんの歌が好きでいつも励まされてるよ」
はゆねちゃんに楽しみにしてもらえるなら、頑張って描かないとな。
ハラダ事務所の受付の仕事はそれほど忙しくない。来客もあまり多くないし、総合受付に電話がかかってくることもあまりない。弁護士や弁理士の先生たちは直通電話を持っているからクライアントからの連絡は直通電話にかかってくる。受付を通す電話はあまりなく、あっても営業目的のなかば迷惑電話のようなものが多い。
受付でぼんやりしているとハラダ事務所の総務部長から会議室に呼ばれた。受付は総務部の管轄なので、受付の私は総務部所属になっている。なので、総務部長は私の上司ということになる。嫌な予感しかしない。別に仕事で問題は無いはずだが。
総務部の社員さんのひとりが急に退職することになったとのことだ。旦那さんの転勤により関西に引っ越すことになり、退職するのだという。既に引っ越しの準備のために有休消化に入っていて、総務に人が足りないらしい。それで、私に受付の仕事とともに、しばらくの間、一部総務の仕事を担当してほしいという要望なのだ。だが、受付は5時30分までは必要なので、その後に少し残って仕事をして欲しい、という依頼だ。つまり、残業をして総務の仕事をして欲しいということなのだ。
「残業」、聞こえない程度の小さな声でつぶやく。
「急なお願いになってしまって申し訳ないけど、新しい人を補充する予定だから。それまで藤田さん手伝ってもらえないかな」
総務部長は私に担当して欲しい総務の仕事が書かれた紙を渡してきた。
「分かりました。新しい方が見つかるまでですね」
「ありがとう。仕事内容の具体的なことは、吉野さんから教えてもらってください。今日からお願いします」
そういうと総務部長は満足したように会議室から出て行った。
「残業」、今度はもう少し声を大きくしてつぶやいた。会議室には私の声だけが響いている。ならばと、試しに大きなため息をついてみた。やはり私のため息が聞こえてきた。何に対するため息なんだろう。胸が少しチクリとする。
「ねえ、はゆねちゃん。今日ね、総務部長から残業の依頼があって、それで帰りがこんな時間になっちゃったの」
後ろから三両目の車両のドア近く。私ははゆねちゃんに愚痴を吐き出す。
「えっ、残業はないんじゃなかったの?」
「そうなんだけどね。急に総務の社員さんが退職することになって、新しい人が見つかるまでということなの」
「そうなんだ。残業かぁ。まあ一時的なら、ね」
「うん。残業が無いことが条件だったけど、新しい人が見つかるまでなら、許容できるかなと思って」
「仕事だもんね。社会人になると色々あるよね。そういうのを乗り越えて私たちは立派な大人になっていくのかなぁ。志穂は立派だよ」
はゆねちゃんと話をすると落ち着いてくる。はゆねちゃんの言う通りだな。社会人になると好きでもないこともしなければならない。「派遣さん」と呼ばれても愛想笑いで返すとか、高圧的な物言いの先生にも丁寧にお伺いを立てるとか、使えない長谷川とスタバで話をするとか。
はゆねちゃんは優しい。はゆねちゃんはいつも私の欲しい言葉をくれる。絵を描く時間が減ってしまうけど、一時的な残業なら頑張れる。
「受付です。三井先生、トランスインターナショナルジャパンの酒井様よりお電話が入っております」
「トランスインターナショナルジャパン。心当たりないのですけど、分かりました。出ますので繋いでください」
「お繋ぎしますのでよろしくお願いします」
トランスインターナショナルジャパン。会社名からは、何をやっている会社か全く想像がつかない。インターナショナルというからには、国際的なビジネスをやっているのかな。ジャパンが付くからその日本支社ということだろうか。そうすると事業内容はトランス。いやいや、全く分からないって。
私が社会に出て気付いたことの一つは、会社名を聞いて事業内容が分かる会社がとても少ないということ。会社名を聞いて、何の会社なんだろうと疑問に思うことがとても多い。その点、ハラダ国際法律特許事務所は分かりやすい。想像するに、ハラダ、漢字はおそらく原田、という人が代表を務める法律事務所だろう。国際は、外国とも仕事をするということだろう。特許というのは馴染みがないけど、なんとなく聞いたことはあった。要するに特許の仕事もする法律事務所ということだろう。そして、おおむね私の想像の通りだった。ただし、創業者の原田氏は存命ではなく、現在では創業者の原田氏とは何の血縁関係もない多数の弁護士と弁理士で運営されている。弁理士という職業はハラダ国際法律特許事務所に勤めることになって初めて知った。特許や商標などを専門に扱う資格であり、弁護士や税理士、会計士などの一種のようだ。ちなみに、正式名称のハラダ国際法律特許事務所だと長いので、この業界では「ハラダ事務所」と呼ばれている。
「三井です。先ほど電話がかかってきたトランスなんとかという会社ですけど、マンション販売の営業なので、今後は取り次がないようにお願いします」
電話を終えた三井先生から連絡があり、今後はトランスインターナショナルジャパンからの電話を取り次がないように、着信拒否リストに追加した。
迷惑電話なので取り次ぎをしないように、と先生方から要望された会社は電話番号と簡単な内容を着信拒否リストに記載することになっている。着信拒否リストは、歴代の受付から今日まで引き継がれている。トランスインターナショナルジャパンは、マンション販売の営業として登録しておいた。
「なんかすごくいい匂いがする」
面談を終えた
「これって金木犀だよね。秋って感じだよね。私ここの受付の雰囲気がわりと好きなんだよね」
真希は生けられた金木犀を見ながら独り言のように呟いている。
私もハラダ事務所の受付の環境は気に入っている。黒を基調とした和風の空間で、常に季節の草木が生けられている。生け花は華道の師範の資格をもつ秘書さんが中心になって定期的に生けている。ゆったりと座れるソファーがあって、法律関係の雑誌とともに、英語で解説してある浮世絵などの日本の美術の書籍などもさりげなく置いてある。また、江戸時代の江戸城周辺の城下町の地図が壁に掛けられている。さながらオシャレな書店の一角といったところだ。なんでも、十数年前に有名な空間デザイナーに依頼して受付を設計してもらったらしい。ハラダ事務所は海外のクライアントも多く海外からの来訪者も多いのでこういった和風な空間デザインになっている。少しベタな和風な演出のような気もするが、外国人受けはいい。私もこの空間が心地よい。私は受付の仕事には興味が無かったが、ハラダ事務所の受付の雰囲気が気に入ったので、派遣会社のお勧めしたハラダ国際法律特許事務所の受付で働くことになった。
「長谷川が一階のスタバで待ってるって」
真希は長谷川に対して棘のある言い方をする。真希は長谷川のことが嫌いなのだ。まあ、私も好きではないけど。
スターバックスに着くと長谷川が私を見つけて手を挙げた。
「お待たせしてすみません」
「さきほど、潮田さんとの面談が終わったところです。お好きなお飲み物をどうぞ」
長谷川から手渡されたスターバックスのプリペイドカードでカフェラテを注文した。せっかくだから大きいサイズを注文した。スタバで飲むカフェラテはちょっと特別な味がする。スチームされたホットミルクがエスプレッソと混ざり合い、しっかりとしたコーヒーの香りはするけれど、泡立ったミルクの優しい口当たりが幸せを運んでくる。「秋とカフェラテ」、いや「アキとカフェラテ」かな。頭の中でカフェラテを飲む自分をアート作品にしてみる。目の前にいるのが長谷川じゃ絵にならないな。
「ハラダ事務所で勤務するようになって半年になるけど、どうかな」
確かにハラダ事務所で4月から働いているので、もう6か月が経っている。
「私としては特に問題なくできていると思っています。事前にお聞きしていたように残業もないのでありがたいです」
私にとって残業が無いというのはとても重要なのだ。夜遅くに家に帰ると何もやる気がしなくなる。絵を描く気力だってなくなる。疲れていたら好きなことだってできなくなるのだ。多くの人が残業することを許容しているみたいだけど、私には無理。
前の職場に派遣として入ったときに、残業は無いと聞いていたのにしばしば残業を頼まれることがあった。事前の約束と違うので長谷川に文句を言ったが、長谷川は、フレキシブルに対応して先方の事業にコミットできる姿勢を見せておいた方が正社員への道が開けるとか、先方の会社の事業内容を理解しておくチャンスだとか、意味不明なことを言うだけで、派遣先の会社に約束と違うと申し入れることはしなかった。真希が長谷川を嫌い、ヒラメの長谷川と言うのはもっともだ。真希によると「ヒラメ」は漢字の平目ではなくカタカナのヒラメらしい。確かに長谷川は使えない。だから私も長谷川には期待していない。
「ハラダ事務所さんの方でも藤田さんの仕事には満足していただいているようで、先方も派遣契約の継続を望まれています。藤田さんも継続ということでよろしいですか」
「はい、継続でお願いします」
「コンセンサスが得られましたね。ではハラダ事務所さんの方にもその旨を伝えておきます。藤田さんの方で困っていることや、希望などがあれば聞いておきたいけど、何かあるかな」
休みを取る日が希望通りにならないことがある。今年の夏休みが希望通りに取れなかったことを思い出したので、その件を伝えた。
長谷川が少しマズイという顔をしている。長谷川がハラダ事務所にきちんと交渉をしてくれなかったせいで、私が夏休みを希望通りの日程で取れなかったことを思い出したのだろう。
「ハラダ事務所さんは法律業をやっているので、事務所の休日は裁判所や特許庁に合わせるからカレンダー通りなんですよね。だから、一般企業のように決まったお盆休みのような夏季休暇がなくて、社員さん達が互いにスケジュール調整しながら夏休みを取るのです。藤田さんも頑張って正社員になれれば、希望通りに休みが取れるようになれると思うから、それまで頑張ってみてはどうかな。ハラダ事務所さんは派遣社員から正社員への登用にも積極的だし、実際にうちの派遣会社からも何人か正社員として登用されてますよ。ファクトベースで言うと、早い人の場合は半年で正社員登用された例もありますし」
派遣で働くメリットは自由が利くことだと長谷川自身が言っていることなのに、正社員になれば休みを希望通りに取れるようになるとは、どういうことか。やっぱり真希の言う通りヒラメの長谷川なのだな、と思う。だいたい困ったことや希望はあるかと聞いておいて、希望を言えば意味不明な対応しかしない。これが社会というものなのだろうか。専門学校を卒業し、社会人デビューしてまだ1年ちょっとだけど、私が思っていたよりも社会は大人ではないみたい。
「志穂。新しい職場はどう。もう慣れた?」
「うん。だいぶ慣れたよ。受付の仕事はそんなに大変じゃないし、時間通りに終われるから残業もなくて、わりと気に入ってる」
後ろから三両目の車両のドア近くに立つ。これが私の帰りの定位置。
「時間通りに終われるのはいいよね」
「そうなの。残業があると絵を描く時間が減っちゃうから残業がないことを条件に選んだんだ」
「志穂は昔から絵が好きだったもんね。美術の専門学校にも行ってたし」
「この前、出来上がったファンアートをSNSにアップしたら、結構いいねやコメントが貰えて嬉しかったな」
「私も見たよ。すごく良かった」
はゆねちゃんにそう言われると照れる。嬉しい。はゆねちゃんとはとても気が合うし、好みが似ているところもあるんだ。私は今日はお気に入りのコンバースのチャックテイラーを履いてきた。はゆねちゃんもチャックテイラーが好きというのも共通点だ。
「これからも志穂の絵を楽しみにしてるね」
「私もはゆねちゃんの歌が好きでいつも励まされてるよ」
はゆねちゃんに楽しみにしてもらえるなら、頑張って描かないとな。
ハラダ事務所の受付の仕事はそれほど忙しくない。来客もあまり多くないし、総合受付に電話がかかってくることもあまりない。弁護士や弁理士の先生たちは直通電話を持っているからクライアントからの連絡は直通電話にかかってくる。受付を通す電話はあまりなく、あっても営業目的のなかば迷惑電話のようなものが多い。
受付でぼんやりしているとハラダ事務所の総務部長から会議室に呼ばれた。受付は総務部の管轄なので、受付の私は総務部所属になっている。なので、総務部長は私の上司ということになる。嫌な予感しかしない。別に仕事で問題は無いはずだが。
総務部の社員さんのひとりが急に退職することになったとのことだ。旦那さんの転勤により関西に引っ越すことになり、退職するのだという。既に引っ越しの準備のために有休消化に入っていて、総務に人が足りないらしい。それで、私に受付の仕事とともに、しばらくの間、一部総務の仕事を担当してほしいという要望なのだ。だが、受付は5時30分までは必要なので、その後に少し残って仕事をして欲しい、という依頼だ。つまり、残業をして総務の仕事をして欲しいということなのだ。
「残業」、聞こえない程度の小さな声でつぶやく。
「急なお願いになってしまって申し訳ないけど、新しい人を補充する予定だから。それまで藤田さん手伝ってもらえないかな」
総務部長は私に担当して欲しい総務の仕事が書かれた紙を渡してきた。
「分かりました。新しい方が見つかるまでですね」
「ありがとう。仕事内容の具体的なことは、吉野さんから教えてもらってください。今日からお願いします」
そういうと総務部長は満足したように会議室から出て行った。
「残業」、今度はもう少し声を大きくしてつぶやいた。会議室には私の声だけが響いている。ならばと、試しに大きなため息をついてみた。やはり私のため息が聞こえてきた。何に対するため息なんだろう。胸が少しチクリとする。
「ねえ、はゆねちゃん。今日ね、総務部長から残業の依頼があって、それで帰りがこんな時間になっちゃったの」
後ろから三両目の車両のドア近く。私ははゆねちゃんに愚痴を吐き出す。
「えっ、残業はないんじゃなかったの?」
「そうなんだけどね。急に総務の社員さんが退職することになって、新しい人が見つかるまでということなの」
「そうなんだ。残業かぁ。まあ一時的なら、ね」
「うん。残業が無いことが条件だったけど、新しい人が見つかるまでなら、許容できるかなと思って」
「仕事だもんね。社会人になると色々あるよね。そういうのを乗り越えて私たちは立派な大人になっていくのかなぁ。志穂は立派だよ」
はゆねちゃんと話をすると落ち着いてくる。はゆねちゃんの言う通りだな。社会人になると好きでもないこともしなければならない。「派遣さん」と呼ばれても愛想笑いで返すとか、高圧的な物言いの先生にも丁寧にお伺いを立てるとか、使えない長谷川とスタバで話をするとか。
はゆねちゃんは優しい。はゆねちゃんはいつも私の欲しい言葉をくれる。絵を描く時間が減ってしまうけど、一時的な残業なら頑張れる。