アルバイト

文字数 2,929文字

 汗で濡れた服を着替えると、睦月は小さく吐息を漏らした。
 精界での泊まり込み訓練の初日。
 着いた早々、基礎訓練の成果を見ると言って部練場に連れて行かれ、走り込みや柔軟運動などの基礎体力作りに加え、体術の基本の型を教えられた。
 2時間弱の訓練を終えて、睦月が通されたのは前と同じ部屋だった。
「私の部屋は隣だから、何かあったらいつでも呼んでね」
 そう言って向かって左手の扉の向こうに消えた友香を見送り、睦月も自室で着替えを終えたところだ。
 この後の予定は特にない。荷物もさほど多くないから、荷ほどきをするほどでもない。さてどうやって過ご そうかと考えていると、コンコンと扉が叩かれる音がした。
「はい」
 扉を開けると、アレクがそこにいた。心なしか、いつもよりもラフな服装だ。
「よう、初回はどうだった?」
「むちゃくちゃ疲れたよ……」
 睦月の言葉に苦笑して、アレクはポケットに手を入れる。
「今日はこの後予定はあるか?」
「ううん、今日はもうない」
「なら、昼飯ついでに外に行かないか? 前に来たとき、街に興味を示してただろう」
「え、いいの?」
 確かに、以前来たときにはすぐに裏道に抜けてしまったので、ほとんど街には入っていない。だがあのときは確か、睦月がうろうろすると騒ぎになると言っていた筈だ。
「前は精神体だったからな。今は実体だから問題ない。それに一月も滞在するなら、暇潰しに街に降りる機会もあるだろうし」
 そう言うと、アレクは半身を返す。
「じゃあ、行くか。道々、この辺りを案内するよ」
 
 *

 「ランブル」は、田園地帯に広がる緩やかな丘陵を利用した城塞都市である。
 麓と中腹の二箇所で丘陵をぐるりと取り囲む二重の城壁が、都市全体を強固に守っている。丘陵の周囲は田園地帯で、城砦の裏手には大きな川の流れる自然豊かな――天然の要塞とも言える――地だ。
 中腹の城壁の内側には、本部棟を頂点に、医療部の病院や開発部の研究棟、武練場や訓練棟、寮など、治安維持機関である「ランブル」の本部機能を支える施設が、迷路のような石畳の道に沿って配置されている。
 それよりも外、麓までの緩やかな勾配には城下町が広がっている。大きな噴水のある広場とそこから放射線状に伸びる大通りを中心とした街である。上部に治安維持機関が鎮座していることも相まって、貿易拠点としても栄えているらしい。街の中には一般向けの学校や病院もあるという。

 視察も兼ねているのだろう。様々な店舗を覗き、店主や道行く人と挨拶を交わしながら街を歩く。言葉は分からないながらも、リラックスした雰囲気から、住民との間に良い関係を築いていることがわかる。
 そうして最終的に落ち着いたのは、一軒の食堂だった。庶民的で温かい雰囲気の店だ。
「そういえば、訓練以外の時間帯はどうするんだ?」
 食事の合間に、アレクが訊ねた。
「うーん、それなんだよね」
 訓練のために来たとは言っても、丸一日身体を鍛えているわけにはいかない。むしろ、そんなことをしたら却って身体を壊すからやめるようにと友香にも言われている。
 しかしそうなると、問題は残りの時間である。大学の課題はせいぜいがゼミの課題図書を読んでおくくらいだが、数日あれば読める程度のものだ。
 かといって、あちこちをふらふらするのも容易ではない。以前、魂の状態でここに来たときには通じていた言葉が、今は通じないからだ。
「こっちの言葉を勉強したいなとは思ってるんだけど」
 今のところ、精界語でのやりとりが行われている時には、日本語を使えるアレクや友香に通訳をしてもらわなくてはならないのが現状だ。それでは今後何かと不便だし、これからも精界に来るのなら、せめて簡単な会話と文字の読み書きくらいはできるようになりたい。
「ああ、それはいいな」
 睦月の言葉に、アレクが微笑を浮かべる。
「兄貴のところに、姪が使ってた子供用の読み書きの本があった筈だ。後で聞いておくよ」
「え、アレンさんて結婚してたの?」
 兄というのは、司令部の副官兼監察長をしているアレン・ランブルのことだろう。まさか妻子持ちだったとは。
「まあな。それより、実は睦月に折り入って頼みたいことがあるんだが」
 驚く睦月に小さく笑って、アレクが言った。
「頼み?」
「ああ。公安と情報部の連中に、日本語を指導してやってほしい」
 その意外な依頼に、睦月はきょとんと首を傾げる。
「日本語の指導?」
 指導も何も、睦月の知る限り、彼らは日本語に堪能の筈だ。
「お前の護衛担当は全員、日本担当だからな。他の奴だと日本語がうまく使えないのも多くてな」
 アレクが言うには、彼らは訓練生時代に、各自の配属先に合わせて主要な言語をいくつか習得するのだという。だが、もちろん習得の程度には個人差がある。
「知っての通り、日本語は若干ややこしいだろ? おかげで日本で起きる事件を担当できる者が少なくて困ってる」
 かくいう彼は、日本語はもとより主要な言語は一通り習得しているという。そういえば先日も開発長が話すイタリア語を事もなげに通訳していたなと睦月は思い出す。もしかしなくとも、長官達は全員マルチリンガルなのではなかろうか。
「それに、流行ことばや文化なんかについても話してやってほしいんだ」
 違和感なく現場に潜入するには言語力だけでなく、ごく自然に振る舞うことができるだけの知識がなくてはならない。情報部には年単位で人界に駐在する駐在員がいるが、その数は限られているし、駐在員を持たない公安部は流行に乗り遅れやすい。
 人界の歴史や文化についても訓練生時代に一通り学ぶのだが、現代では文化の流動性が高まりすぎて、その情報の早さに着いていくのが大変なのだとアレクは言った。
「本当は訓練生にも教えてもらいたいところだが、さすがに言葉が通じない状態じゃあな」
 それでも、現役の武官に教えておけば、そこから下へと情報は伝達されていくものだ。
 それでも、現役の武官に教えておけば、そこから下へと情報は伝達されていくものだ。
「もちろん、指導してもらった分は、訓練の分とも合わせて謝礼を出すぞ」
「謝礼?」
「訓練もそうだが、基本的にこっちの事情に巻き込んでるんだから、当然だろ? 今後、人界で危ない目に遭ったりした場合にも、それに応じて危険手当をも出すつもりだ」
 思わぬ申し出に、睦月はぱちくりと目を瞬く。
「え?」
「元々危険手当と訓練手当は付けるつもりだったんだ。それに指導料を上乗せするだけしな。お前だって、こっちの通貨があれば出歩きやすいだろうし」
「そうだけど……いいの?」
「さっきも言ったが、そもそも俺たちの問題に巻き込んでるんだからな。堂々と受け取ってくれ」
「なら……うん」
 正直、この店の会計もアレクが奢ると言ってくれて、そのことに申し訳なさを覚えていたところだ。通貨を得られるのなら、それに越したことはない。
 ただ……その対価に見合う働きができるかは分からないが。人に教えた経験も教えるだけの知識もないのに、指導などできるのだろうか。
「まあ、そんなに気負わなくていいよ。お互い言葉を教え合うのが主な目的だと思ってくれ」
 早速明日から頼む、と言うアレクに、睦月は戸惑いながらも頷いた。
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