十月十七日、日曜日。
文字数 6,060文字
すべての謎が解けた日から、二日後。
時刻はもう、お昼をまわっている。
(泣き疲れて、こんな時間になっちゃった)
昨日は一日中、飽きるほど泣いていた。痛みも憎しみも、全部涙に流してしまった。おかげで気分はだいぶ晴れやかだ。
(お葬式でもちゃんと泣けなかったのに)
死因がわかって、やっと心から哀しむことができた。その死を悼むことができた。――受け入れる、ことができた。
(おかげで、気づいちゃった)
『オレがスマートフォンを使った独自のトリックを考えて、新しい推理小説を書く!』
そう意気ごんでいた輝臣先輩を死に至らしめたものは、間違いなく『スマホを使った独自のトリック』だったのだ。しかも、使われたもうひとつのアイテムである公衆電話は、ケータイやスマホが普及する以前まで活躍していたもの。当然ながら、輝臣先輩がこれまで読んできた推理小説のなかにも、よく登場していたことだろう。
輝臣先輩は、それらふたつの合わせ技で殺されてしまった。
(なんて皮肉なの)
それとも輝臣先輩なら、「本望だ」と笑うだろうか?
そう考えると、笑みさえ浮かんでくる。
――そう、輝臣先輩のことはもちろん、父のことも、そしてセイちゃんのことも、当然哀しいのだけど、覚悟していたよりもずっとつらくはなかった。
(今までわたしを支えてくれたものは――)
わたしを生かしてくれたものは、ひとつやふたつではないから。一部を奪われたくらいで倒れてしまうほど、弱くはないつもりだ。
みんなが、そういうわたしにしてくれた。
前向きに、歩いていけるわたしに――。
「あ……」
不意に鳴りはじめたスマホに気づいて、ベッドの上から机に手を伸ばした。画面を見てみると、嗣斗からだ。
「――もしもし?」
『舞! ケンケン軒にラーメン食いに行こうぜ。今すぐ支度しろ!』
「はぁ!? いきなりなに言ってんのよ」
『今から行ったら三時半頃着くから、中途半端でちょうどいいだろ? 迎えに行くから五分で準備しろよ。ほい、スタート!』
そこで一方的に通話を切られた。
(こ、この強引さは、本気だあいつ!)
いつもなら文句を言いつつもわたしに従う嗣斗だけど、ときおりこういう態度に出ることがあるのだ。
長いつきあいだからこそ知っていたわたしは、慌てて準備を始める。下手をすれば、たとえ準備が途中でも連れ出される可能性があった。それだけは避けたいところだ。
顔を洗って服を選んで、頭をセットして化粧して――五分どころか十五分くらい経った頃に嗣斗が現れる。さすがに少しは気を遣ってくれたらしい。
玄関で顔を合わせるなり、
「お、ちゃんと準備してんな。偉い偉い」
「だってあんた、寝間着でも連れて行きかねない勢いだったじゃない!」
「そうでもしなきゃ、おまえ頷かないだろ」
「今だって頷いてないよ!? だいいちわたし、全っ然蒼林市まで行けるような顔じゃないんだけど」
どんな化粧品でも、一日泣いてここまで腫れた目蓋を治すことはできないだろう。自分でも笑ってしまうほど酷い顔だった。こんな顔で大勢のおしゃれガールが集まる街に行くなんて、恥さらし以外のなにものでもない。
しかし嗣斗は、当然それを予想していたようで、あっけらかんと笑い飛ばす。
「そんなの、おまえが気にしなきゃいいだけだろ。ほら行くぞっ!」
わたしの右手を掴むと、強引に引っ張った。
「ちょっ、靴くらいちゃんと履かせてよ!」
(まったく……相変わらず騒々しいやつね)
――そう思ったわたしは、どうやら少し間違いだったらしい。
蒼林市までの二時間、電車に揺られているあいだ、嗣斗はとても静かだったのだ。
休日だけあってさすがに混んでいて座れず、並んでつり革に掴まっていた。
そのあいだ、嗣斗の視線はずっと窓の外を向いていたから、一体なにを見ているのだろうと追ったら、窓に反射した顔と目が合った。
(――あれ? もしかしてずっと、わ た し を見てた……?)
自分で「気にするな」と言ったくせに、やっぱり腫れた目蓋が気になるのだろうか。
そっと近くにあった足を踏んでやったら、
「おい舞。おまえ、髪切れよ」
文句よりも先に、そんな言葉が飛んできた。
「はぁ!? いきなりなに言ってんのよ」
この台詞、さっきも言った気がする。
「オカッパじゃ、ラーメン食べるとき邪魔だろ。スープのなかに髪の先っちょが入る。おまけに妖怪先輩にもからかわれる」
「オカッパじゃないって! それに泉先輩は、ちゃんと名字で呼んでくれるようになったし。……まあ確かに、邪魔ではあるんだけどね」
実は、ボブカットにしたくてしているわけではなく、伸ばしている途中なのだ。これは嗣斗にも言っていないことだけど。
言っていない――はず、だったのに。
「おまえのことだから、どうせ肩まで伸びたら告白しようとか思ってたんだろ? 男はみんな、保健の水森先生みたいにいかにも女くさいのが好きだろうとか、くだらないこと考えて」
「ぐ……っ」
文句を言いたいポイントは、たくさんあった。でも、図星過ぎて言葉に詰まってしまう。
今日の嗣斗はいつもとはひと味違うようで、攻撃はまだとまらない。
「おまえ、昔からずっとショートだったじゃん。そっちのが似合ってるし、実は長いの邪魔だと思ってるだろ? 無理に伸ばしても、後ろ姿で勘違いするやつが増えるだけだぜ」
「余計なお世話よ……っ!」
(わたしのこと、なんだと思ってるの!?)
周囲に人がたくさんいるから、いつものように怒鳴れないのがもどかしかった。でもその分、いつもより深く、嗣斗の言葉を噛みしめることができて――
「……あんた、さぁ。推理とか、全然興味ない感じなのに、人のことよく言いあてるし、事件の話してるときだって、学校の成績があんまりよくないのが信じられないくらい鋭い意見言ってたよね。なんでわかるの?」
「おい、褒めるか貶すかどっちかにしろよ」
嗣斗はそう笑ってから、ふいっとわたしから視線を逸らした。
「嗣斗?」
「――おまえに隠れて、図書館かよってたんだ。あそこにある、日本人が書いた推理小説は大抵読んだぜ。翻訳ものはどうにも読みづらくて諦めたけど」
「は……?」
あまりにも予想外な答えに、文字通り目が点になるわたし。
「な、なんでそんなことしてたわけっ?」
「そりゃあ、いずれ宣戦布告されるだろうと思ってたからな。どうせなら、相手が得意な分野で戦って倒したいじゃん」
「ってあんた……なにと戦う気だったの?」
呆れた目で嗣斗の横顔を見ると、負けじと嗣斗も横目でこちらを見てくる。
「おまえも大概鈍いよなぁ。輝臣はどう見ても、おまえのこと好きだったぞ。俺なんて、おまえが見てないとき、結構睨まれまくってたんだからな」
そこにあるのも、やっぱり呆れた目だった。
「――――――嘘ぉっ!?」
途端に体中の血が沸騰し、わたしはうまく考えられなくなる。そこが電車のなかだということさえ、あっさりと忘れ去ってしまった。
「き、気に入ってもらえてるのは、薄々感じてたけど……てっきり後輩としてなんだと思ってたよ!?」
「だったら俺だって気に入られるはずだろ」
「どういう理屈よそれっ」
「とにかく本当のことだ。――多分、輝臣がスマホ拾った日に蒼林市の駅前広場にいたのは、俺たちが映画見に行くのを邪魔するためだったんじゃないかって、俺は睨んでる」
「まさか! 輝臣先輩って、そういうことするキャラじゃないでしょ!?」
「そうか? おまえがよく見てなかっただけだろ。用もないのに一年の廊下通ったり、似合いもしないのにおまえのスマホと同じ赤色の鞄使ったりしてるんだぜ? 充分やりそうなことだろ」
「……マジで?」
「大マジ。なんだったら、大盛りネギチャーシュー麺賭けてもいいぜ」
「それはやめとく」
「即答かよ」
「あんた、本気で自信あるときしか、それ言わないもの」
つまり、今嗣斗が言ったことは全部本 当 なのだ。
(本当に、輝臣先輩はわたしのことを好きでいてくれたんだ……!)
誰よりも輝臣先輩のことを見つめていると、そう思いこんでいたわたし。でも、実際には嗣斗の言うとおり、ち ゃ ん と 見てはいなかったのだろう。自分が見たいものだけを見て、浅はかに満足して、視野が狭くなっていたことにさえ気づかなかった。
(そういえばセイちゃんのときも、似たようなこと言われたっけ)
『おまえがちゃんと見てなかっただけで、この探偵はもとからこういうやつだ』
嗣斗はそう言っていた。だからあまり好きじゃなかったと。それは、本質を見抜いていた嗣斗だからこそ、言えた言葉なのだ。
「――どうしたら」
「ん?」
喜びと情けなさのあいだで揺れながら、わたしはひとつずつ言葉を選んでゆく。
「どうしたらあんたみたいに、色んなものが見えるようになるのかな」
茶化さないように我慢して、そっと嗣斗の顔を見たら、嗣斗は珍しく困ったように眉尻をさげた。
「俺だって、大人から見たらまだまだだと思うけどな。ま、おまえの場合は、さっきも言ったけど髪切ればいいんじゃないか? それだけで視界の両端がスッキリするだろ」
「……わたし、真面目に訊いてるんだけど」
「俺も真面目に答えてる。けど、この流れで俺の気持ちに気づかないとか、鈍すぎてさすがの俺もお手上げだ。俺がおまえのんとこのおばさんに握られてるのは、最初から弱みでもなんでもなかったのかもなー」
「はぁ? あんたなに言って――」
「とにかく! とりあえず髪切って、ラーメン食って、それから……そうだ、あ の 事 務 所 にでも行くか?」
「え……」
そのときわたしが動きをとめたのは、嗣斗に発言を遮られたからではない。嗣斗の提案が、心から意外に思えたからだ。
そんなわたしの反応を見て、嗣斗はにやりと口角をあげた。
「も ら っ た んだろ? 琴田探偵事務所。おばさんが昨日、おまえの代わりに判子捺したって言ってたから」
(お母さん口軽すぎ!)
どうやらわたしはこの先も、嗣斗に隠し事はできないようだ。
「――そう、前からセイちゃんに頼まれてたっていう弁護士の人が、昨日うちに来たの。十年先までの維持費はもう受け取ってあるから、あの事務所を譲 ら れ て く れ って。ずいぶん無茶な話だよね……」
あそこには、わたしとセイちゃんの楽しい思い出がたくさんある。けれど、こうなってしまった以上、わたしが事務所をもらっても嬉しいわけがないと、セイちゃんにだってわかっていたはずだ。
(いずれ消されるかもしれない)
そんな覚悟の先に、セイちゃんはなにを見ていたのだろう?
「あんたなら、セイちゃんがどうしてわたしに事務所を譲ろうとしたのか、わかる?」
期待して訊いてみたけど、今度の嗣斗はあっさりと左右を見やった。
「いいや、全然。けど、あいつもやっぱりおまえのことをいちばんに考えてたんだろうなってのは、わかる。だから、あの事務所をおまえに渡すことが、おまえのためになるって信じて渡したはずだ」
「わたしに探偵事務所を継げって言うの!? 確かに、将来の夢とかなんにもないけどさ……探偵になるなんてことも、一秒たりとも考えたことないよっ」
「無理して今すぐなることもないだろ。とりあえずオカミス研の部室として使えばいいんじゃないか? 部活として探偵の真似ごとする分には、客から金取る必要もないだろうし」
言いおえた頃、嗣斗の表情は完全に悪巧みをする子どものようになっていた。
「――そ、それいいじゃないっ!?」
わたしも途端に乗り気になる。
「だろ? いろんなやつと会って、いろんな経験すれば、自然と視野も広がるってもんだ。――まあこれ、あの探偵の受け売りだけどな」
「……セイちゃんらしい、ね」
(そんなセイちゃんがいなくなって、困る人たちがいるのもまた、事実で――)
その親切が、『周囲から信頼を得る』という下心のもとに行われていたことでも。実際頼りにしていた人たちから見れば、普通の親切となんら変わらないのだ。だから、それをわたしたちが手伝えれば理想的だし、なにより狭い部室にこもっているよりもずっといい。
(ずっと楽しそう!)
拳を強く握りしめて、わたしは宣言する。
「じゃあ嗣斗、今日の用事が全部終わったら、泉先輩も呼び出そうよ。それで、事務所の大掃除をするの!」
そんなわたしに、嗣斗は珍しく素直に頷くと、
「それはいいけど、寅さんも仲間に入れてやってくれよ」
「えっ、寅おじさん?」
突然出てきた名前に、わたしは少なからず驚いた。
(そういえば寅おじさんとは、喧嘩別れみたいな形になってたんだっけ……)
昨日は連絡する余裕がなかったというか、実はすっかり忘れてましたなんて、口が裂けても言えやしない。
わたしがそのまま動きをとめていると、嗣斗がプッと吹き出した。
「そんな顔しなくても大丈夫だ。おまえのことだから、どうせ連絡してる余裕なんてないだろうと思って、ちゃんと説明しといたからさ」
「そ、そっか。ありがと。……で? 寅おじさん、なにか言ってた?」
「まー、だいぶショック受けてたみたいだったな。でも、自分よりおまえのほうがつらいだろうからって、伝言預かったんだ」
「伝言?」
そこで嗣斗は、「あー、あー」と喉の調子を整えたあと、
「『舞ちゃんが中学生になって、おれとは遊んでくれなくなって……でも代わりのように、あの探偵のところに行くようになったと聞いて、おれは少し淋しかった。勝手に父親代わりになった気でいたからな。だから――もし舞ちゃんさえよければ、またおれに頼ってほしいと、そう思っている』」
「嗣斗……寒気がするほど似てないよ」
「自覚はあるから言わないでくれ」
クスクスと笑いながらも、わたしは歪む視線をとめられない。
(寅おじさんが、そんなふうに思ってくれてたなんて……!)
知らなかった。
――いや、本当は最初から知っていたのかもしれない。
でもわたしは、わたしの背中を押してくれるセイちゃんのそばが気持ちよかったから、見ない振りをした。
(やっぱりちゃんと、見てなかった)
それが真実なのだろう。
(もう、変わりたい)
わたしはわたしが欲しいものじゃなくて、わたしに必要なものを手に入れたい。
そのためにも――
「わかったよ嗣斗、寅おじさんも誘おう!」
「って、意気ごむのはいいけど、とりあえず泣きやめ」
「う、うんっ」
どんなに小さなことでもいい。
まずはひとつひとつ、できることから始めよう――。
時刻はもう、お昼をまわっている。
(泣き疲れて、こんな時間になっちゃった)
昨日は一日中、飽きるほど泣いていた。痛みも憎しみも、全部涙に流してしまった。おかげで気分はだいぶ晴れやかだ。
(お葬式でもちゃんと泣けなかったのに)
死因がわかって、やっと心から哀しむことができた。その死を悼むことができた。――受け入れる、ことができた。
(おかげで、気づいちゃった)
『オレがスマートフォンを使った独自のトリックを考えて、新しい推理小説を書く!』
そう意気ごんでいた輝臣先輩を死に至らしめたものは、間違いなく『スマホを使った独自のトリック』だったのだ。しかも、使われたもうひとつのアイテムである公衆電話は、ケータイやスマホが普及する以前まで活躍していたもの。当然ながら、輝臣先輩がこれまで読んできた推理小説のなかにも、よく登場していたことだろう。
輝臣先輩は、それらふたつの合わせ技で殺されてしまった。
(なんて皮肉なの)
それとも輝臣先輩なら、「本望だ」と笑うだろうか?
そう考えると、笑みさえ浮かんでくる。
――そう、輝臣先輩のことはもちろん、父のことも、そしてセイちゃんのことも、当然哀しいのだけど、覚悟していたよりもずっとつらくはなかった。
(今までわたしを支えてくれたものは――)
わたしを生かしてくれたものは、ひとつやふたつではないから。一部を奪われたくらいで倒れてしまうほど、弱くはないつもりだ。
みんなが、そういうわたしにしてくれた。
前向きに、歩いていけるわたしに――。
「あ……」
不意に鳴りはじめたスマホに気づいて、ベッドの上から机に手を伸ばした。画面を見てみると、嗣斗からだ。
「――もしもし?」
『舞! ケンケン軒にラーメン食いに行こうぜ。今すぐ支度しろ!』
「はぁ!? いきなりなに言ってんのよ」
『今から行ったら三時半頃着くから、中途半端でちょうどいいだろ? 迎えに行くから五分で準備しろよ。ほい、スタート!』
そこで一方的に通話を切られた。
(こ、この強引さは、本気だあいつ!)
いつもなら文句を言いつつもわたしに従う嗣斗だけど、ときおりこういう態度に出ることがあるのだ。
長いつきあいだからこそ知っていたわたしは、慌てて準備を始める。下手をすれば、たとえ準備が途中でも連れ出される可能性があった。それだけは避けたいところだ。
顔を洗って服を選んで、頭をセットして化粧して――五分どころか十五分くらい経った頃に嗣斗が現れる。さすがに少しは気を遣ってくれたらしい。
玄関で顔を合わせるなり、
「お、ちゃんと準備してんな。偉い偉い」
「だってあんた、寝間着でも連れて行きかねない勢いだったじゃない!」
「そうでもしなきゃ、おまえ頷かないだろ」
「今だって頷いてないよ!? だいいちわたし、全っ然蒼林市まで行けるような顔じゃないんだけど」
どんな化粧品でも、一日泣いてここまで腫れた目蓋を治すことはできないだろう。自分でも笑ってしまうほど酷い顔だった。こんな顔で大勢のおしゃれガールが集まる街に行くなんて、恥さらし以外のなにものでもない。
しかし嗣斗は、当然それを予想していたようで、あっけらかんと笑い飛ばす。
「そんなの、おまえが気にしなきゃいいだけだろ。ほら行くぞっ!」
わたしの右手を掴むと、強引に引っ張った。
「ちょっ、靴くらいちゃんと履かせてよ!」
(まったく……相変わらず騒々しいやつね)
――そう思ったわたしは、どうやら少し間違いだったらしい。
蒼林市までの二時間、電車に揺られているあいだ、嗣斗はとても静かだったのだ。
休日だけあってさすがに混んでいて座れず、並んでつり革に掴まっていた。
そのあいだ、嗣斗の視線はずっと窓の外を向いていたから、一体なにを見ているのだろうと追ったら、窓に反射した顔と目が合った。
(――あれ? もしかしてずっと、
自分で「気にするな」と言ったくせに、やっぱり腫れた目蓋が気になるのだろうか。
そっと近くにあった足を踏んでやったら、
「おい舞。おまえ、髪切れよ」
文句よりも先に、そんな言葉が飛んできた。
「はぁ!? いきなりなに言ってんのよ」
この台詞、さっきも言った気がする。
「オカッパじゃ、ラーメン食べるとき邪魔だろ。スープのなかに髪の先っちょが入る。おまけに妖怪先輩にもからかわれる」
「オカッパじゃないって! それに泉先輩は、ちゃんと名字で呼んでくれるようになったし。……まあ確かに、邪魔ではあるんだけどね」
実は、ボブカットにしたくてしているわけではなく、伸ばしている途中なのだ。これは嗣斗にも言っていないことだけど。
言っていない――はず、だったのに。
「おまえのことだから、どうせ肩まで伸びたら告白しようとか思ってたんだろ? 男はみんな、保健の水森先生みたいにいかにも女くさいのが好きだろうとか、くだらないこと考えて」
「ぐ……っ」
文句を言いたいポイントは、たくさんあった。でも、図星過ぎて言葉に詰まってしまう。
今日の嗣斗はいつもとはひと味違うようで、攻撃はまだとまらない。
「おまえ、昔からずっとショートだったじゃん。そっちのが似合ってるし、実は長いの邪魔だと思ってるだろ? 無理に伸ばしても、後ろ姿で勘違いするやつが増えるだけだぜ」
「余計なお世話よ……っ!」
(わたしのこと、なんだと思ってるの!?)
周囲に人がたくさんいるから、いつものように怒鳴れないのがもどかしかった。でもその分、いつもより深く、嗣斗の言葉を噛みしめることができて――
「……あんた、さぁ。推理とか、全然興味ない感じなのに、人のことよく言いあてるし、事件の話してるときだって、学校の成績があんまりよくないのが信じられないくらい鋭い意見言ってたよね。なんでわかるの?」
「おい、褒めるか貶すかどっちかにしろよ」
嗣斗はそう笑ってから、ふいっとわたしから視線を逸らした。
「嗣斗?」
「――おまえに隠れて、図書館かよってたんだ。あそこにある、日本人が書いた推理小説は大抵読んだぜ。翻訳ものはどうにも読みづらくて諦めたけど」
「は……?」
あまりにも予想外な答えに、文字通り目が点になるわたし。
「な、なんでそんなことしてたわけっ?」
「そりゃあ、いずれ宣戦布告されるだろうと思ってたからな。どうせなら、相手が得意な分野で戦って倒したいじゃん」
「ってあんた……なにと戦う気だったの?」
呆れた目で嗣斗の横顔を見ると、負けじと嗣斗も横目でこちらを見てくる。
「おまえも大概鈍いよなぁ。輝臣はどう見ても、おまえのこと好きだったぞ。俺なんて、おまえが見てないとき、結構睨まれまくってたんだからな」
そこにあるのも、やっぱり呆れた目だった。
「――――――嘘ぉっ!?」
途端に体中の血が沸騰し、わたしはうまく考えられなくなる。そこが電車のなかだということさえ、あっさりと忘れ去ってしまった。
「き、気に入ってもらえてるのは、薄々感じてたけど……てっきり後輩としてなんだと思ってたよ!?」
「だったら俺だって気に入られるはずだろ」
「どういう理屈よそれっ」
「とにかく本当のことだ。――多分、輝臣がスマホ拾った日に蒼林市の駅前広場にいたのは、俺たちが映画見に行くのを邪魔するためだったんじゃないかって、俺は睨んでる」
「まさか! 輝臣先輩って、そういうことするキャラじゃないでしょ!?」
「そうか? おまえがよく見てなかっただけだろ。用もないのに一年の廊下通ったり、似合いもしないのにおまえのスマホと同じ赤色の鞄使ったりしてるんだぜ? 充分やりそうなことだろ」
「……マジで?」
「大マジ。なんだったら、大盛りネギチャーシュー麺賭けてもいいぜ」
「それはやめとく」
「即答かよ」
「あんた、本気で自信あるときしか、それ言わないもの」
つまり、今嗣斗が言ったことは全部
(本当に、輝臣先輩はわたしのことを好きでいてくれたんだ……!)
誰よりも輝臣先輩のことを見つめていると、そう思いこんでいたわたし。でも、実際には嗣斗の言うとおり、
(そういえばセイちゃんのときも、似たようなこと言われたっけ)
『おまえがちゃんと見てなかっただけで、この探偵はもとからこういうやつだ』
嗣斗はそう言っていた。だからあまり好きじゃなかったと。それは、本質を見抜いていた嗣斗だからこそ、言えた言葉なのだ。
「――どうしたら」
「ん?」
喜びと情けなさのあいだで揺れながら、わたしはひとつずつ言葉を選んでゆく。
「どうしたらあんたみたいに、色んなものが見えるようになるのかな」
茶化さないように我慢して、そっと嗣斗の顔を見たら、嗣斗は珍しく困ったように眉尻をさげた。
「俺だって、大人から見たらまだまだだと思うけどな。ま、おまえの場合は、さっきも言ったけど髪切ればいいんじゃないか? それだけで視界の両端がスッキリするだろ」
「……わたし、真面目に訊いてるんだけど」
「俺も真面目に答えてる。けど、この流れで俺の気持ちに気づかないとか、鈍すぎてさすがの俺もお手上げだ。俺がおまえのんとこのおばさんに握られてるのは、最初から弱みでもなんでもなかったのかもなー」
「はぁ? あんたなに言って――」
「とにかく! とりあえず髪切って、ラーメン食って、それから……そうだ、
「え……」
そのときわたしが動きをとめたのは、嗣斗に発言を遮られたからではない。嗣斗の提案が、心から意外に思えたからだ。
そんなわたしの反応を見て、嗣斗はにやりと口角をあげた。
「
(お母さん口軽すぎ!)
どうやらわたしはこの先も、嗣斗に隠し事はできないようだ。
「――そう、前からセイちゃんに頼まれてたっていう弁護士の人が、昨日うちに来たの。十年先までの維持費はもう受け取ってあるから、あの事務所を
あそこには、わたしとセイちゃんの楽しい思い出がたくさんある。けれど、こうなってしまった以上、わたしが事務所をもらっても嬉しいわけがないと、セイちゃんにだってわかっていたはずだ。
(いずれ消されるかもしれない)
そんな覚悟の先に、セイちゃんはなにを見ていたのだろう?
「あんたなら、セイちゃんがどうしてわたしに事務所を譲ろうとしたのか、わかる?」
期待して訊いてみたけど、今度の嗣斗はあっさりと左右を見やった。
「いいや、全然。けど、あいつもやっぱりおまえのことをいちばんに考えてたんだろうなってのは、わかる。だから、あの事務所をおまえに渡すことが、おまえのためになるって信じて渡したはずだ」
「わたしに探偵事務所を継げって言うの!? 確かに、将来の夢とかなんにもないけどさ……探偵になるなんてことも、一秒たりとも考えたことないよっ」
「無理して今すぐなることもないだろ。とりあえずオカミス研の部室として使えばいいんじゃないか? 部活として探偵の真似ごとする分には、客から金取る必要もないだろうし」
言いおえた頃、嗣斗の表情は完全に悪巧みをする子どものようになっていた。
「――そ、それいいじゃないっ!?」
わたしも途端に乗り気になる。
「だろ? いろんなやつと会って、いろんな経験すれば、自然と視野も広がるってもんだ。――まあこれ、あの探偵の受け売りだけどな」
「……セイちゃんらしい、ね」
(そんなセイちゃんがいなくなって、困る人たちがいるのもまた、事実で――)
その親切が、『周囲から信頼を得る』という下心のもとに行われていたことでも。実際頼りにしていた人たちから見れば、普通の親切となんら変わらないのだ。だから、それをわたしたちが手伝えれば理想的だし、なにより狭い部室にこもっているよりもずっといい。
(ずっと楽しそう!)
拳を強く握りしめて、わたしは宣言する。
「じゃあ嗣斗、今日の用事が全部終わったら、泉先輩も呼び出そうよ。それで、事務所の大掃除をするの!」
そんなわたしに、嗣斗は珍しく素直に頷くと、
「それはいいけど、寅さんも仲間に入れてやってくれよ」
「えっ、寅おじさん?」
突然出てきた名前に、わたしは少なからず驚いた。
(そういえば寅おじさんとは、喧嘩別れみたいな形になってたんだっけ……)
昨日は連絡する余裕がなかったというか、実はすっかり忘れてましたなんて、口が裂けても言えやしない。
わたしがそのまま動きをとめていると、嗣斗がプッと吹き出した。
「そんな顔しなくても大丈夫だ。おまえのことだから、どうせ連絡してる余裕なんてないだろうと思って、ちゃんと説明しといたからさ」
「そ、そっか。ありがと。……で? 寅おじさん、なにか言ってた?」
「まー、だいぶショック受けてたみたいだったな。でも、自分よりおまえのほうがつらいだろうからって、伝言預かったんだ」
「伝言?」
そこで嗣斗は、「あー、あー」と喉の調子を整えたあと、
「『舞ちゃんが中学生になって、おれとは遊んでくれなくなって……でも代わりのように、あの探偵のところに行くようになったと聞いて、おれは少し淋しかった。勝手に父親代わりになった気でいたからな。だから――もし舞ちゃんさえよければ、またおれに頼ってほしいと、そう思っている』」
「嗣斗……寒気がするほど似てないよ」
「自覚はあるから言わないでくれ」
クスクスと笑いながらも、わたしは歪む視線をとめられない。
(寅おじさんが、そんなふうに思ってくれてたなんて……!)
知らなかった。
――いや、本当は最初から知っていたのかもしれない。
でもわたしは、わたしの背中を押してくれるセイちゃんのそばが気持ちよかったから、見ない振りをした。
(やっぱりちゃんと、見てなかった)
それが真実なのだろう。
(もう、変わりたい)
わたしはわたしが欲しいものじゃなくて、わたしに必要なものを手に入れたい。
そのためにも――
「わかったよ嗣斗、寅おじさんも誘おう!」
「って、意気ごむのはいいけど、とりあえず泣きやめ」
「う、うんっ」
どんなに小さなことでもいい。
まずはひとつひとつ、できることから始めよう――。