第3話

文字数 2,080文字


 彼と別れて数日が経過した。


 あの日から彼と出会うこともなく、なんとなし他のクラスをのぞいてみてもあの綺麗な顔立ちをした子を発見することはできなかった。
 今日も雨がしとしとと降り注ぐ雨、もしかしたら雨が彼と僕を引き合わせてくれるんじゃないかと淡い期待を抱いたりしていたけれど、現実はそうも簡単ではないらしい。教室では理科の先生が何か話をしているけれど集中する気も起きなくて、気がついた時には放課後になってしまっていた。
 僕は鞄を手に取り人気のなくなった教室をゆっくりとした足取りで出た。

 廊下には数人の生徒が思い思いの場所で談笑している姿が目に入る、その間も僕の視線は無意識に彼の面影を探してしまう。そんな事をしても無駄だというのに、と、どこかで冷ややかな自分が鼓膜に囁きかける。
 わかっている、彼はきっと僕の脳裏が願望としてうつしだした幻だったのだろう。
 彼なんてともから居なかったのだ、そう考えてしまえば寂しさなんて心が生み出した幻想だったのだ。悲しみは心から脳へ伝導され悲しくなるのか、脳が悲しいと感じるから心が悲しくなるのか、授業でそんな話をしていたような気がするが果たしてどちらだったろうか。
 雨が窓をノックする雨音を聞きながら正面玄関へと繋がる廊下を歩く、下校時間はとっくに過ぎたのかすれ違う生徒や雑談する生徒すらも居ない。息を吐くだけでも張り詰めた空気を破壊してしまうのではないかと思うくらい静寂で繊細な気配で塗りたくられた廊下を、ゆっくりと猫が獲物を狙うような足どりで足を進める。

 彼はクラスメイトよりも遠く、他人よりも不鮮明な人物だったのだ。だから僕が彼に縋る理由なんてないし、放課後に誰も居なくなるまで探し続ける必要なんて何もないのに、どうしても探してしまう。
 一歩一歩、重い足を前に進めれば床が自分の体重を受け止めて鈍い音が静かな空間に鳴り響く。
 このまま彼に会えなかったら僕はどうするのだろうか。残された記憶の断片を頼りに狭い学校を練り歩き、会えもしない彼を探し続けるのか。そうすれば僕の心は満足するのだろうか。どうして?一度しか会った事しかない彼に何を求めているのだ。

 友愛?愛情?共有?

 そんな目にも見えないものを満たす為だけに僕は彼を探していると言うのだろうか。もしそうならば僕はなんて愚かなんだろうか。馬鹿馬鹿しい、自分を理解できるなんて自分だけしか居ないと言うのに。他人の言葉に一喜一憂するなんて無駄な労力でしかない。
 なのにどうして、僕は彼の言葉を聞きたいとここまで願うのだろうか。
 無駄だと分かっていながら、どうして?

 そんな思考を巡らせながら辿り着いた場所は、彼と時間を過ごした特別室だった。こんな場所に居るわけない、そう思いながらも僕の指先は廊下と教室を隔てる扉をスライドさせる。
 そこは誰も来ていない事を証明するように薄暗く空気が澱みカビ臭く、床に広がる薄い埃には足跡すら残っていなかった。僕はそのまま教室へ入り、赤い紫陽花が群れをなして咲き並ぶ中に、その巨大な存在を大きな窓を額縁の様に贅沢に使い、美術館に飾られた貴婦人が優雅に微笑むように大輪の青い花を咲き誇っている青い紫陽花まで足を進めた。

「紫陽花が青いのは」

 ーーー土地がアルカリ性だと赤い花が、酸性だと青い花が咲く事は教科書にも載っていますね。学校に咲いているのでよく見かける紫陽花ですが、土が酸性になると青く発色し、アルカリ性だと花は赤に発色するそうです。花の色はアントシアニンのほか、その発色に影響する……

「土の中に埋めた死体は」

 僕は窓が悲鳴を上げるのも気にせず強引に開き、上書きのまま地面に着地すると赤い紫陽花の根元に座り込み水を含み重く泥の様になった土を両手で掘り出した。
 少しずつ、少しずつ、土を掘り起こす僕を紫陽花達が僕を他者からの視線から断絶する様に、覗き込むように見下ろしてくる。爪に土が入り込む痛さも気にせずに僕は淡々と土を掘り起こす。

「一般的に」

 だんだんと土が固くなり始め、紫陽花の女王は掘り起こされる怒りからか根っこを張り巡らせ邪魔をする。僕の指先は赤く腫れ痛みを伴う。それでも僕は女王の根っこを引きちぎり、何かに取り憑かれた様に一心不乱に土を掘り起こした。

 そうすれば、会えると思ったからだ。

 彼に会って僕はきっと満足するだろう。

「死体の腐り始めは、酸化作用が強くなるので」

 カツン、と爪に何かが当たる。僕は掘る動作をとめ、何度も瞬きを繰り返し、口で酸素を吸い込み吐き出す。恐る恐る払い除ける様に優しく手のひらで周囲の土をどかしていく。

「紫陽花の花は青くなるそうです」

 そこにあったのは、土まみれだと言うのにまるで眠っているみたいな綺麗な彼の顔。まるで壊れ物を扱う様に僕は両手で彼の頭を持ち上げ、指の腹で土を払う。

「だから」

 嗚呼、やっと会えた。

「だから、青い紫陽花がある場所は」

 両手に眠る彼の頬に頬擦りし、僕は彼の美しく整った唇に唇を押し付けた。





 ーーーだから、青い紫陽花が咲いている場所は掘り起こしてはいけません。絶対に。
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