12 ホッブズ『リヴァイアサン』(5)
文字数 2,947文字
【権限は国王・貴族院[上院]・庶民院[下院]のあいだで分割されているのだという見解がある。そもそもこのような見解がイングランドの大部分で受け入れられていなかったら、国民が分裂し内乱状態に陥るということはなかったであろう(ちなみに、内乱の争点となったのは最初、政策であり、次いで信仰の自由であった)】[②:P38]
政策の問題はリヴァイアサンの内部で片づけられる、が、信仰の問題は片づけられない。
それには、宗教権力が障害となる
さて、じつはぼく、『リヴァイアサン』の後半戦はまったく読んでなーい。
ので、田中浩さんの受け売り、というか、引用をします
【『リヴァイアサン』とはどのような書物か。それは「近代国家」の原理を最初に体系化した国家理論の書である。『リヴァイアサン』の最大の功績は、「生命の安全」(自己保存)を達成するための「社会契約論」を構築したことにある。かれの「社会契約論」では、国家=政治社会の基本単位は「人間」とされている。それまでのすべての政治学は、国家の構成単位は家族、ポリス、集団(身分会議・ギルド・教会など)を中心に考えられてきた。とくにキリスト教社会において、教会は国家の最重要な組織単位であった。こうして中世社会においては、人間=個人はさまざまな集団のなかに埋没してしまっていた。リヴァイアサンなる国家は、そうした集団から個人を解放した】[田中:P88]
【ホッブズは、国家の基本単位を「人間」におき ―― 『リヴァイアサン』の口絵は、無数の人間から国家が構成されているさまが描かれ、その「代表者」(主権者)の右手には剣、左手には牧杖が振りかざされ、聖俗両面において人民を守っている姿が描かれているのに注目せよ ―― 、国家の第一義的な役割は「生命の安全」を守ることとされた。またホッブズは、当時そうした国家の役割を妨害していた最大の敵である「カトリック教会」と「教皇」を痛烈に批判して「国家を宗教(の脅威)から解放」する大偉業をやってのけた】[田中:P88]
繰り返しになるけど、ホッブズのリヴァイアサンは多頭であってはいけない。
頭は1つ。
ところが、キリスト教社会においては、どうしても頭が2つになってしまう。
世俗権力の頭と、宗教権力の頭・・・・・・
そこでだ、ホッブズは宗教権力の頭を切り落としにかかる。
それが、『リヴァイアサン』の後半戦
だとすると、当時、ホッブズは危険人物視されたでしょうね?
さて、具体的に、後半戦ではなにが述べられているのか・・・・・・
引き続き、田中さんの本から孫引きしちゃいます
【ホッブズは旧約聖書の「歴史と預言」、新約聖書の「福音と手紙」は、ともに人びとを神にたいする従順へと回心させるのに役立つ、という。次いでホッブズは、「神の王国」とキリストの受難から再臨までの「この世の王国」とのちがいについて次のように述べている。「神の王国」とは、ホッブズによれば「神が主権者である国で、神がアブラハム、モーセ、サムエル、長老たちを通じて支配している国」である。これにたいして「この世の王国」すなわち「現在の世界」とは、キリスト(救い主)が「わたくしの王国はこの世のものではない」と語っている世界で、ただかれの教義(キリスト教)によって、人びとに「救済の道」を教え、「父なる神の王国」へと更新するためにきた国である、とホッブズはいう。このことはなにを意味するか。それは、各国の権力はそれぞれの国の主権者の手中にあり、キリスト教会は教えるためのものにすぎないとすることによって、各国の主権者やキリスト教会を破門その他の刑罰によって支配してきたローマ教皇やカトリック教会を批判していたのである】[田中:P103]
要するに、「神の国」はまだ到来していない。
だから、この世の王国は、さしあたり世俗権力が支配するものだ!
ローマ教皇もカトリック教会も黙ってろ、ってわけだね
そう。
宗教権力の頭を切り落とすことで、リヴァイアサンの頭を1つにしたんだ。
リヴァイアサンというネーミングがね、ここにきて生きてるでしょ?
リヴァイアサンはあくまで地上の神だ。
天上の神ではない。
けれど少なくとも、地上では、最強の怪物なんだよ
さて、ホッブズの話はここまでとしておこう。
長々と語ってきたけど、市民社会の話に戻すとね、アリストテレス的な国家共同体(ポリス)の話がね、ここへきてコモンウェルスへ変異してるんだ。
コモンウェルスというネーミングは、振り返ると、それが設立されていく経緯、つまり、
①闘争状態を終わらせるため、理性の声=自然法に従い、みんなが一斉に(相互契約的に)主権を放棄し、
②多数決により主権者を選定、公権力を打ち立てる、
③しかる後に、主権者が法を設定、平和と安全を強権力で維持する、
っていう流れに基づくものだ。
コモンウェルスは共有された権力(共通権力)であり、かつ、みんなのウェルス(平和と安全)を守るものだからね
しかしリアルな歴史では、国家って、そんなふーにはできてないでしょ
普通の感覚だと、強い連中が弱い連中を征服していき、領地を広げていったものが国家だと思うよね?
だとすると、力こそ正義、っていうか、征服したもの勝ち、みたいな理屈ができてしまう。
いま、国家の内部に住んでる人たちも、反旗を翻してね、国家を乗っ取ってしまえばいい。
そうすりゃ今度は自分たちが正義ってことになるからね。
でね、こんな理屈がまかり通るようじゃ、永遠に内乱が終わらなーい、とホッブズは嘆く
だからホッブズはこういう。
【今日、このような論法に頼ったのでは、臣民の服従と主権者を結びつける絆は恐らく世界のどこにも見つかるまい】[②:P362]
ホッブズが求めたものは、リアル歴史において、国家がどのように樹立されたか、ということではなしに、臣民の服従と主権者を結びつける絆だ
つまり内乱を防ぐには、支配する者と支配される者との間に絆がないといけない。
その絆は、現実の、目の前にある国家、その統治形態と向き合いながらね、どこに求められるだろうか? と問いかけた思索の結晶がね、『リヴァイアサン』という書物なんだ
それは、歴史的に、すでに支配されてしまっている側からするとね、頭の中での、いささか空想的なね、主権者の選び直しなのだろうし(誰のための主権者か?)、
支配している側からするとね、内乱を招かないためにも、主権が及ぶ範囲と目的(臣民の安全と平和を維持すること)の選び直しなのだろう。
そうすることでね、臣民の服従と主権者を結びつける絆が構築されると、ホッブズは考えた
この、いささか後付け的な選び直しをね、ホッブズは擬制といってる
なるほど、理論的な後付けか・・・・・・
けど、現実の国家がそのようにあるわけではなく、そのようにあるべきだ、とする規範的なニュアンスも込められてんでしょ?
[引用文献・参考文献]
・ホッブズ『リヴァイアサン(2)』角田安正訳、光文社古典新訳文庫、2018
・田中浩『ホッブズ リヴァイアサンの哲学者』岩波新書、2016
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)