第54話 憲斗への不思議な思い

文字数 775文字

 相手役が憲斗に変わってから気持ちが楽になった。いや、毎日の練習が一変して楽しくなった。

 例の一件があってから憲斗は僕にとても気を遣ってくれる。元々紳士的だけど、僕を以前よりも更に大事に扱ってくれているのが分かる。演技でオッケーが出ると、肩や頭をさり気なくポンと叩く、そんな仕草にも優しさが伝わる。

 今日は長回しのセリフで、何度もNGを出してかなり焦った。全身ずぶ濡れの姿で憲斗の顔を見つめながら話す、映画の中でもヤマになる重要な場面だった。
 別に照れていた訳じゃない。ずぶ濡れのまま、感情移入しながらこれだけ長いセリフを言うのは、僕には少しハードルが高かったんだ。

 やっとオッケーが出てホッとした、と同時に少し気持ちが落ち込んでうつむいていた。
 そんなとき憲斗がそっと抱き寄せてくれた。
 憲斗の厚い胸板に頬が触れた時、正直ドキッとして体がプルッと震えた。
 憲斗はそのまま、僕の髪を撫でるようにタオルで優しく水を拭き取ってくれた。
 何も言わずに…

 僕は憲斗に抱かれたまま、じっと身を任せていた。
 ずっとこうしていたい…そんな気持ちにさえなっていた。
 もう大丈夫、よくやったね…、っていうそんな仕草が言葉となって、そして体温となって水浸しのからだに染み込んできた。

 何、この気持ち…
 憲斗にこんな感情を抱くなんて…
 確かに憲斗のこと好きだけど
 前から大好きだけど…

 ちょっと胸の奥がうずくような、締めつけられるような気持ち。
 そんな思いに浸っていたとき、突然憲斗が僕の肩を掴んだ。
 そしてそのまま引き離してしまったんだ。

 えっ、なんで引き離しちゃうの?

 そう思って憲斗を恨めしげに見返してしまうほど、僕は一人の世界に耽っていた。
 もう髪を拭き終えたから当然なのに…
 でも何だかもの足りない思いで憲斗の顔を見上げていた。
 そう…、もっと…
 そんな思いで。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み