第1話

文字数 2,603文字

 ―ぱちん、ぱちん、ぱちん。
日曜日の夜。左手の爪を切る。
ぱちっ。
ふと、切った爪がどこかに飛んだ。
真下にごみ箱を置いていたけど、意味がなかった。
初めから狙いを定めていなかったから、意味なんてないのかもしれないけど。
ぱちん、ぱちん、ぱちん。
私の人生にも意味はあるのかな。
飛んで行った爪は後で探すとしよう。

 今日は休み明けの仕事。なんとも憂鬱な月曜日だ。
どうして仕事に行かなければいけないのだろう。
アラームとともに朝早く飛び起きて、暗い浴室で熱いシャワーを浴びる。
心臓を飛び起こさせなければ乗り切れない。
浴室のライトは眩しいから点けない。朝日の淡い光だけで十分だ。
涙が自然と出てくるがシャワーを顔に当てて洗い流す。
身支度を済ませ、靴を履いて灰色の外へ身を繰り出し、満員電車に乗るために最寄り駅へ急ぐ。
灰色でくすんだ空気の中では皆、大抵俯いて苦しそうに歩いている。
背を丸め、目を伏せて、真っすぐ会社へと引っ張られていく。
電車に乗る人の列はとても混雑していて、乗りたいタイミングで乗車出来ないということがしょっちゅうある。なんとかスペースを無理やり確保して乗り込むと、出入り口付近にいたスーツの中年男性に舌打ちされた。
「私だってこんなむさ苦しい電車に乗りたくて乗っている訳じゃないのに。」と応戦する気力もなく、すみませんと呟くとドアが閉まった。
平日の朝の通勤電車には色々な人間が存在する。
周りに人が密集していても気にせず音声を垂れ流しにして動画を観る女。
文庫本を片手に物語を読み解くサラリーマン(ブックカバーをしているので何を読んでいるかまでは分からない)。
小さなワイヤレスイヤホンを耳にさし込んで音楽の世界に入り込むお兄さん。
そして、携帯で求人情報アプリをチェックしているのは私。
27年間の人生を、特に定職に就くわけでもなく、ふらふらと生きている。
会社のために朝早く起きることも、満員電車に乗ることも大嫌いだし苦手だ。
「朝早くの、パリッとした空気が好きなの。」だとか、「健康のために片道を徒歩30分かけて通勤している。」だのと語る友達の気が知れないし、理解できなくて恐ろしい。それに対して賛成する友達たちも。
人生のキャリア形成だとか、経験を積み重ねていくことが大切だと理解しているものの、正直それどころじゃない。
周りとの思考の違いにギャップを感じて焦りはするものの、自分でもどう生きるのが正解なのかが分からない。
朝決まった時間に起きて仕事に行く。こんな当たり前のことが私にはとても苦痛なのだ。
重苦しい社会の空気の中で、空気を求めてぱくぱくと呼吸をする私はさながら金魚のようだった。
仕事に対するやりがいも楽しみも何もないから、モチベーションも上がる訳がない。
毎日同じことを繰り返すのだとしても、明日も生きるために会社に属すのだろう。
いつまでこんなこと続けるのだろう。何かを変えなければ。そう思いつつも何をしたらいいか分からずに27年が経っていた。

 飽き性の私は大学を卒業後、転々と職を変えている。
大学在学中は就職に関して前向きで、就職支援のために学生課に何度も訪れては、先生たちとお茶を飲みながら語り合ったものだ。色んなOG・OBとも顔馴染みにもなれた。
あなたにおすすめの求人があるよと言われれば早急に調べ、興味があれば職場見学やインターンシップにも自ら応募してスケジュール管理をし、参加させてもらった。
卒業後はどこかの企業に就職して、会社に勤めて、上司の愚痴を同期と言い合いながらお酒を飲んで。
人並みに恋愛して結婚して子供を産んで、主婦になる。
そういった“普通”の生活を自然と送るのだと思っていた。
その“普通”の生活を送ることがこんなにも大変だったとは。
私は普通の人間じゃないのか。普通の人間なら普通の生活を送れるはずだ。
半年もしないうちに精神を壊し、体調を崩してそのまま会社は辞めた。
あんなに企業研究をして、卒論に追われながら必死に採用を掴んだ会社だったのに。
多大な喪失感と焦燥感とがごちゃ混ぜになりながらも、どうしようもなくなった。
そのうち、学生時代に仲の良かった友達とのギャップについていけなくなった。

 電車に乗っていると、皆も会社に行くのが辛そうな顔をしている。
そう見えるだけかもしれない。
仕事が楽しくて仕方がない人もいる。きっと私の心情がそう見えさせている。
本当に、もうどうしていいか分からなくなる。
悩んでいても仕方がないし、解決策が降ってくる訳でもないのに頭から離れない。
昨日どこかに飛んで行った爪は結局見つからなかった。
私の人生も、真下に置いたごみ箱のように意味がないのかもしれない。

 仕事が終わり、帰り支度をする。
まだ残っている職員たちに挨拶を済ませて、職場を後にする。
退勤前に次回やるべき仕事を前日のうちにリスト化し、順にこなしていく。
仕事は溜まっていても1つ1つ冷静に対処していけば無くなる。
役職の関係上、責任のある仕事を私1人が対処せねばならない。
今日休んでしまったら、その分のシワ寄せが明日の私に降りかかる。
もう嫌だこんな仕事。選んだのは私だし、最終的にここに就職を決めたのも私。
分かっているけどね。分かっているんだけど。
転職したいと思いつつも引継ぎがいなくて辞められない現状。
私の代わりなんて他にたくさんいるでしょ。
帰りはヘトヘトだけど、達成感がある。
帰宅途中の信号機たちは私を家まで送る滑走路に見える。
帰りも満員電車だから疲れることには変わりないけど、1本遅いのに乗れば多分座れる。
本も読めるし、自分のタイミングで電車に乗れるから気持ちも楽だ。

 私のやりたいことって何だろう。
この先も生きてて良いこと、あるのかな。
責任のある仕事を任されているものの、この仕事は私のやりたいことじゃない。
やりたいことは分からないけど、やりたくないことをやっている自覚はある。
社会で生きることに甘えている。分かってる。
頼れる人はいない。
両親や親戚とは縁を切っている。
自分で何とかするしかない。
数百万と借りている奨学金も、この先1人で返済していくしかない。
こうして1人で抱え込んでいって精神的に追い込んでしまう。
でも私の人生、意味があるのかは自分が判断するしかない。
切り開いていくのは自分自身だ。
切っても爪は自然と伸びていく。
見つからなかったら掃除機で吸い込んでしまえ。
悩んでいても仕方ない。転職先、探すか。
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