第3話
文字数 5,791文字
三
もっともその後の日々はごく普通に続いた。あの日彼は僕を大学近くの公園にまで送り届け、そのままどこかに消えた。「ちょっと行くところがある」ということだった。僕は今さら大学に戻る気にもなれず――急げば次の講義には間に合うはずだったが――ただベンチに座って空を見上げていた。木の枝の隙間から、徐々に夕暮れへと向かっていく透明な空気の層が見えた。黒いカラスが一羽やって来て、ガーガーとうるさく鳴き、去っていった。僕はそこでかつて好きだった女の子のことを思い出していた。彼女は仙台の大学に通っているはずだった。あのとき一言でも話しかけていたらな・・・。でもすぐに自分が本当にはなんにも考えていなかったことに気付いた。また風が吹いて、すぐ目の前を通り過ぎていった。だとすると、Tの試みはうまくいかなかったことになる、と僕は思った。ドーナッツをたらふく食べたくらいでは、僕の心の穴を埋めることはできなかったのだ。でもそれはそれで構わない、という気がなぜかした。というのもこの穴は、結局死ぬまで穴のままだろう、という気がしたからだ。大事なのはむしろ、自分が
その日の夜と、翌日の朝は食事を抜いた。何も食べたくはなかったし、何も飲みたくもなかった。丸くて真ん中に穴の空いた物体を見るのも嫌だった。僕は財布に入っていた五円玉と五十円玉を全部――といっても数枚だが――大学生協の募金箱に入れた。それはどうやらアフリカの子どもたちを救うために使われるらしかった。
それを除けば、あとは今まで通り、何事もなかったかのように前に進んだ。ときどき後ろに戻っているような気もしたが、たぶん気のせいだろう。僕は着実に一日一日を生き延び、その分歳を取っていった。つまり確実に死に近づいているわけだ。もっともほかの学生たちはその事実に気付いていないように見えた。もちろん気付いていたところで、ごく普通に生活する以外しようがないことは分かってはいたのだが。
彼はあれ以来しばらく姿を現さなかった。五月が過ぎ、六月が過ぎた。たくさんの雨が落ち、川の流れに乗って、やがて海へと注ぎ込んだ。僕は空気の匂いに敏感になった。これは彼と会う前にはなかったことだ。季節の変わり目がなぜかとても重要なものであるような気がした。僕は野良猫の一家と仲良くなった。ときどき餌を持っていってやった。彼らのうちの何匹かは、気が向いたときには頭を撫でさせてくれた。
僕はそのようにして生きていた。アルバイトはまだ続けていた。そのときにお客さん一人一人の生活を想像することが僕の癖 になった。アル中気味のおじさんもいれば、同い年くらいの綺麗な女の子もいた。煙草を買いに来る、明らかに未成年と思われるキャップ姿の少年もいた。そしてその誰もが自分の物語を持っていた。そこには彼ら自身すら気付いていない秘密が含まれているように僕は感じていた。もちろんそのほとんどがごく普通の社会生活を送っている人々である。一見して退屈な人生に見えるのも無理もない。しかし
もっとも僕自身は自分の「新たな別の道を模索する」勇気を持てずにいた。相変わらず同じように日々を送り、同じようにノートを取っている。同じようなことを考え続けている。しかし、にもかかわらず――というか
そんなあるとき、奇妙な客が店にやって来た。シフトが終わる直前の、午後九時五十分くらいのことだった。それは背の高いオカマだった。年齢は五十歳から七十歳までのどの歳だといわれても驚かなかっただろう。彼は――彼女は――ピチピチの青いジーンズに、カラフルなナイキのスニーカー、レースの飾りの付いた白いブラウス、という格好だった。頭にはおさげの付いた黒髪のかつらを被 っている。その姿が異様だったのは――もちろんこの時点ですでに異様だったのだが――彼がまったく化粧をしていなかったからだと思う。意外に凛々 しい顔をした、威厳のあるおじさん、という感じなのに、格好そのものは若い女性を模している。ちなみに彼は身長百八十センチを優に越えていて、肩幅も広く、骨格はがっしりしていた。元プロ野球選手だといわれても驚かなかったかもしれない。
「あら、あなたこんなところにいたの」と彼は僕のいるレジにやって来て言った。本人は甲 高い可愛らしい声を出しているつもりなのだろうが、それは低く、図太 い声だった。店内の客はチラチラとその様子を見ていた。
「こんなところって・・・」と僕はできる限り動揺を見せないようにして言った。なにしろ都会だからいろんな客が来るのだ。いちいち気にしていたら切りがない。
「私あの人に頼まれて来たのよ」とそこで彼は口調を変えて言った。そしてTの名前を出した。
「え? 彼が?」と僕は言った。
「そう、彼が。ねえ、何時に終わる?」
「あと十分くらいで終わります。ねえ、あ、店長が来た。まずいな・・・。ちょっと少し外で待っていてくれませんか?」
「ふうん。あなたがそういうのならそうしますわよ。でもその前にタバコをいただけるかしら」
彼は――彼女は――そう言って「わかば」を一箱買った。そして尻を振り振り外に出ていった。
僕としては店長やほかの従業員にあんな人間と知り合いだと思われたくなかったため、知らん顔をして別の客の対応を続けていた。でも心はドキドキとして落ち着かなかった。一体あの人は何者なのだろう?堅気 の人間でないことだけはたしかなのだが・・・。
シフトが終わって、急いで外に出てみると、彼女は煙草を吸いながら宙に浮いた何かを見つめていた。あまりにも真剣に見ているので、本当にそこに何かがあるのではないか、と一瞬勘違いしてしまったほどだ。でもそれはどうやら彼女の想像世界にある何かであるらしく、少なくとも僕には白い煙しか見えなかった。初夏の湿った空気があたりを包み込んでいた。
「どうもお待たせしました」と僕は言った。
「ずいぶん待ったわよ」と彼女は煙を吐きながら言った。「あら、あなた。よく見ると意外に可愛い顔してるのね」
「そんなこといわれたの初めてですよ」
「ふうん。世の中の女は見る目がないのね」
「でもあなたは男でしょう」
「
その様子を見て彼女は今度は笑い出した。アハハハハと声高らかに。正直にいえば、これはこれでおぞましい光景ではあったのだが。
「まあ冗談よ。たしかにあんたのいう通り私は男。あそこもまだきちんとくっついている。仲間の中には切除しちゃった人もいるけどね。私はそこまでの勇気はなかった。でもいいの。心は女だから。それに本当に大事なのは私が私ってこと。そうじゃなくって?」
「きっとそうなんでしょう」と僕は言った。
「そう。だから今日ここに来たの。あなたのお友達。T君ね。あの人とは彼が高校生のときからお知り合いなの。それこそ同じ釜 の飯を食った仲。カマが同じ釜 の飯を食うなんてね。アハハ」
「彼は当時何をしていたんですか?」
「その話はまたあとでするわね。ちょっとこっちに来てちょうだい」
彼は――彼女は――そう言うと、僕を駐車場に停めてあった車のところに連れていった。ピカピカに磨き上げられた、黒いトヨタクラウンだった。細かい型までは分からないが、あるいは最も新しい種類のものなのかもしれない、と僕は思った。彼女は助手席のドアを開けた。
「ちょっと乗っててくれない?」
僕は一瞬迷ったものの、彼女がそれほど悪い人にも見えなかったので、大人しく指示に従うことにした。もし何かまずいことになったとしたら、そのときは全力で逃げ出せばいいのだ。
彼は――彼女は――僕が車に乗り込むのを見ると、バタンと勢いよくドアを閉めた。そして自分はしばらく誰かと電話をしていた。その相手は誰なんだろう、と僕は思った。彼女の表情はしゃべりながらクルクルと変わった。しかめつらをすると七十代の老人のような顔になったし、にっこりと笑うと若い――といっても四十代くらいの――女性のような顔になった。これだけでも観客からお金を取れるのではないだろうか、と僕は思っていた。
十分ほど経ったあとで、彼は――彼女は――ようやく運転席に乗り込んできた。意外にもその身体は無臭だった。たとえば香水を大量に付けていたりとか、そういうことはまったくない。僕はそれに好感を抱いた。
「あなたは化粧をしないんですね」と僕は言ってみた。
「昔はやったんだけどね」と彼女は言った。「この歳になると、もうどうでもよくなってきちゃうの。だって世の中にはもっと大事なものがあるでしょ?」
その通りだ、と僕は言った。
「それで、まだ名前を言っていなかったわね。私はトシ子っていうの。トシトシって呼んでね」
「でもそれは本名じゃないでしょう」
「本名は利 春 っていうの。変な名前でしょ」
「それじゃあ、トシ子さん」
「
「トシトシ。あなたは彼に――Tに――頼まれてここにやって来た、とおっしゃいましたね。さっきの電話の相手も彼だったのでしょうか?」
「いや、あれは違う人。もっと偉い人よ」
「なるほど。それで・・・僕はこれからどうなってしまうのでしょう?」
「あら、なに? 心配してるの? 私があなたを襲っちゃうとか?」。そう言って彼女はアハハハハと笑った。その声は車内に反響し、僕の鼓膜を奇妙なやり方で震わせた。僕は怯えるのと同時に、一種の好奇心を持ってこの状況を見守っていた。この人は何者なんだろう?
「私?」とトシトシは僕の心を読んだように言った。「私はただのオカマよ。かつては普通の生活を送っていたこともあったけれど、ある出来事を境にオカマになろうって決めたの。そしてオカマのまま死んでいこうとね」
「じゃあ以前は普通の男として生きていた?」
「そう。もちろん。私を何だと思ってるの? 四十五歳までは堅気 の人間として生きていた。だって結婚して、子どもも二人いたんだからね。二人とも、たぶんあんたより年上ね」
「結婚して、子どもがいた?」と僕は驚いて言った。
「そう。なにもそんなに驚かなくてもいいじゃない。私だって人間なのよ。でもそうね・・・たしかにあれは偽 りの生活だった。当時私は、ある外資系の企業に勤めていて、給料も良かったのよ。郊外に一軒家を買って、妻と子どもと、平和な生活を営んでいた・・・」
「犬はいなかったのですか?」
「犬? 犬はいなかったわ。妻が動物が苦手だったの。でもどうしてそんなことが気になるの?」
「いや、ただなんとなくです」
「あんたって変な人ね。顔は真面目そうなんだけど」
僕は曖昧な返事をした。
「それで・・・。ねえ、この話は長くなりそうだから、ちょっと運転しながらでもいい? 私たちは今から
「それは構わないんですが、一体どこで、何をするんでしょうか? 僕にはその辺がどうも・・・」
「大丈夫」とにっこりと笑って彼女は言った。「なんにも悪いことは起きないから」。そして最後に小声でこう付け加えた。「たぶん」
「たぶん」と僕は言った。そしてここが一種の分水嶺 なのだ、と本能的に思った。もし今抜け出さなかったら、あとになって同じ場所に戻ることは二度とできないだろう。それはごく普通の平和な生活を、永遠にあとにすることを意味していた。もし降りるなら今だ、と僕は思った。
でもどうしてもその決心がつかなかった。僕はたぶん、自分でもこの新たな展開に期待していたのだと思う。たしかにTが現れて、例の奇妙な十字路の話を聞いて以降、自分の中の何かが活性化されていた、という感覚はあった。それはこれまで一度も感じたことのない感覚だった。僕は長く生きることと死ぬことの狭間にいた。そしてそれが普通の状態なのだと思っていた。しかし今では何かを自分から掴 み取ろうとしている。その道標 となっているのがTであり、トシトシだった。
彼女はおそらく僕のそんな微妙な心の揺れをある程度察知していたに違いない。というのもしばらくの間話を止めて、ひたすら目の前の空間を睨んでいたからだ。あるいはそれが彼女の癖 なのかもしれない。その視線の中に、僕は尋常ではあり得ないほどの意識の鋭さを感じ取ることができた。もしかしたらこの人は単にオカマを装 っているだけなのではないか、とふと僕は思った。
結局僕が車から降りないのを確認すると、彼女はエンジンをかけ、ゆっくりと車を駐車場から出した。そのとき例の交差点を通ったわけだが、もちろん今は誰も寝転んでいないし、悪魔の姿もなかった。ただ夜の街が、キラキラと人工的な光を振り撒 いているだけのことだった。
もっともその後の日々はごく普通に続いた。あの日彼は僕を大学近くの公園にまで送り届け、そのままどこかに消えた。「ちょっと行くところがある」ということだった。僕は今さら大学に戻る気にもなれず――急げば次の講義には間に合うはずだったが――ただベンチに座って空を見上げていた。木の枝の隙間から、徐々に夕暮れへと向かっていく透明な空気の層が見えた。黒いカラスが一羽やって来て、ガーガーとうるさく鳴き、去っていった。僕はそこでかつて好きだった女の子のことを思い出していた。彼女は仙台の大学に通っているはずだった。あのとき一言でも話しかけていたらな・・・。でもすぐに自分が本当にはなんにも考えていなかったことに気付いた。また風が吹いて、すぐ目の前を通り過ぎていった。だとすると、Tの試みはうまくいかなかったことになる、と僕は思った。ドーナッツをたらふく食べたくらいでは、僕の心の穴を埋めることはできなかったのだ。でもそれはそれで構わない、という気がなぜかした。というのもこの穴は、結局死ぬまで穴のままだろう、という気がしたからだ。大事なのはむしろ、自分が
なんでもなし
である、という事実を受け入れ、その上で何か行動を起こすことだ。それが一体どんな行動になるのかは分からなかったし、そこに「救い」なんてものがあるのかどうかも分からなかったが、少なくとも何もやらないよりはましだった。なんだか彼に影響されているみたいだな、と僕は思った。そしてもっと髪を短くしよう、と決意した。その日の夜と、翌日の朝は食事を抜いた。何も食べたくはなかったし、何も飲みたくもなかった。丸くて真ん中に穴の空いた物体を見るのも嫌だった。僕は財布に入っていた五円玉と五十円玉を全部――といっても数枚だが――大学生協の募金箱に入れた。それはどうやらアフリカの子どもたちを救うために使われるらしかった。
それを除けば、あとは今まで通り、何事もなかったかのように前に進んだ。ときどき後ろに戻っているような気もしたが、たぶん気のせいだろう。僕は着実に一日一日を生き延び、その分歳を取っていった。つまり確実に死に近づいているわけだ。もっともほかの学生たちはその事実に気付いていないように見えた。もちろん気付いていたところで、ごく普通に生活する以外しようがないことは分かってはいたのだが。
彼はあれ以来しばらく姿を現さなかった。五月が過ぎ、六月が過ぎた。たくさんの雨が落ち、川の流れに乗って、やがて海へと注ぎ込んだ。僕は空気の匂いに敏感になった。これは彼と会う前にはなかったことだ。季節の変わり目がなぜかとても重要なものであるような気がした。僕は野良猫の一家と仲良くなった。ときどき餌を持っていってやった。彼らのうちの何匹かは、気が向いたときには頭を撫でさせてくれた。
僕はそのようにして生きていた。アルバイトはまだ続けていた。そのときにお客さん一人一人の生活を想像することが僕の
本当はそうではないのだ
、と僕は思い始めていた。彼らは大事なことに気付いていないだけなのだ、と。その一番重要な何かに気付きさえすれば、新たな別の道を模索するはずではないのか、と。もっとも僕自身は自分の「新たな別の道を模索する」勇気を持てずにいた。相変わらず同じように日々を送り、同じようにノートを取っている。同じようなことを考え続けている。しかし、にもかかわらず――というか
だからこそ
――どこにも進むことができない。それでもなんとか生き続けていられたのは、本を読んでいたことと、Tの存在が大きかったのだと思う。彼は僕にとっての「希望」の代名詞となっていた。この停滞した日々を抜け出すためにはなんとしても彼の力が必要なのだ、と確信していた。それまではなんとか一人で生き続けなければならない・・・。そんなあるとき、奇妙な客が店にやって来た。シフトが終わる直前の、午後九時五十分くらいのことだった。それは背の高いオカマだった。年齢は五十歳から七十歳までのどの歳だといわれても驚かなかっただろう。彼は――彼女は――ピチピチの青いジーンズに、カラフルなナイキのスニーカー、レースの飾りの付いた白いブラウス、という格好だった。頭にはおさげの付いた黒髪のかつらを
「あら、あなたこんなところにいたの」と彼は僕のいるレジにやって来て言った。本人は
「こんなところって・・・」と僕はできる限り動揺を見せないようにして言った。なにしろ都会だからいろんな客が来るのだ。いちいち気にしていたら切りがない。
「私あの人に頼まれて来たのよ」とそこで彼は口調を変えて言った。そしてTの名前を出した。
「え? 彼が?」と僕は言った。
「そう、彼が。ねえ、何時に終わる?」
「あと十分くらいで終わります。ねえ、あ、店長が来た。まずいな・・・。ちょっと少し外で待っていてくれませんか?」
「ふうん。あなたがそういうのならそうしますわよ。でもその前にタバコをいただけるかしら」
彼は――彼女は――そう言って「わかば」を一箱買った。そして尻を振り振り外に出ていった。
僕としては店長やほかの従業員にあんな人間と知り合いだと思われたくなかったため、知らん顔をして別の客の対応を続けていた。でも心はドキドキとして落ち着かなかった。一体あの人は何者なのだろう?
シフトが終わって、急いで外に出てみると、彼女は煙草を吸いながら宙に浮いた何かを見つめていた。あまりにも真剣に見ているので、本当にそこに何かがあるのではないか、と一瞬勘違いしてしまったほどだ。でもそれはどうやら彼女の想像世界にある何かであるらしく、少なくとも僕には白い煙しか見えなかった。初夏の湿った空気があたりを包み込んでいた。
「どうもお待たせしました」と僕は言った。
「ずいぶん待ったわよ」と彼女は煙を吐きながら言った。「あら、あなた。よく見ると意外に可愛い顔してるのね」
「そんなこといわれたの初めてですよ」
「ふうん。世の中の女は見る目がないのね」
「でもあなたは男でしょう」
「
黙らっしゃい
!」と彼女はいかつい顔をして言った。近くにいたサラリーマンが驚いてこちらを見ていた。僕は思わず小便をチビりそうになった。その様子を見て彼女は今度は笑い出した。アハハハハと声高らかに。正直にいえば、これはこれでおぞましい光景ではあったのだが。
「まあ冗談よ。たしかにあんたのいう通り私は男。あそこもまだきちんとくっついている。仲間の中には切除しちゃった人もいるけどね。私はそこまでの勇気はなかった。でもいいの。心は女だから。それに本当に大事なのは私が私ってこと。そうじゃなくって?」
「きっとそうなんでしょう」と僕は言った。
「そう。だから今日ここに来たの。あなたのお友達。T君ね。あの人とは彼が高校生のときからお知り合いなの。それこそ同じ
「彼は当時何をしていたんですか?」
「その話はまたあとでするわね。ちょっとこっちに来てちょうだい」
彼は――彼女は――そう言うと、僕を駐車場に停めてあった車のところに連れていった。ピカピカに磨き上げられた、黒いトヨタクラウンだった。細かい型までは分からないが、あるいは最も新しい種類のものなのかもしれない、と僕は思った。彼女は助手席のドアを開けた。
「ちょっと乗っててくれない?」
僕は一瞬迷ったものの、彼女がそれほど悪い人にも見えなかったので、大人しく指示に従うことにした。もし何かまずいことになったとしたら、そのときは全力で逃げ出せばいいのだ。
彼は――彼女は――僕が車に乗り込むのを見ると、バタンと勢いよくドアを閉めた。そして自分はしばらく誰かと電話をしていた。その相手は誰なんだろう、と僕は思った。彼女の表情はしゃべりながらクルクルと変わった。しかめつらをすると七十代の老人のような顔になったし、にっこりと笑うと若い――といっても四十代くらいの――女性のような顔になった。これだけでも観客からお金を取れるのではないだろうか、と僕は思っていた。
十分ほど経ったあとで、彼は――彼女は――ようやく運転席に乗り込んできた。意外にもその身体は無臭だった。たとえば香水を大量に付けていたりとか、そういうことはまったくない。僕はそれに好感を抱いた。
「あなたは化粧をしないんですね」と僕は言ってみた。
「昔はやったんだけどね」と彼女は言った。「この歳になると、もうどうでもよくなってきちゃうの。だって世の中にはもっと大事なものがあるでしょ?」
その通りだ、と僕は言った。
「それで、まだ名前を言っていなかったわね。私はトシ子っていうの。トシトシって呼んでね」
「でもそれは本名じゃないでしょう」
「本名は
「それじゃあ、トシ子さん」
「
トシトシ
」と彼女は修正した。「トシトシ。あなたは彼に――Tに――頼まれてここにやって来た、とおっしゃいましたね。さっきの電話の相手も彼だったのでしょうか?」
「いや、あれは違う人。もっと偉い人よ」
「なるほど。それで・・・僕はこれからどうなってしまうのでしょう?」
「あら、なに? 心配してるの? 私があなたを襲っちゃうとか?」。そう言って彼女はアハハハハと笑った。その声は車内に反響し、僕の鼓膜を奇妙なやり方で震わせた。僕は怯えるのと同時に、一種の好奇心を持ってこの状況を見守っていた。この人は何者なんだろう?
「私?」とトシトシは僕の心を読んだように言った。「私はただのオカマよ。かつては普通の生活を送っていたこともあったけれど、ある出来事を境にオカマになろうって決めたの。そしてオカマのまま死んでいこうとね」
「じゃあ以前は普通の男として生きていた?」
「そう。もちろん。私を何だと思ってるの? 四十五歳までは
「結婚して、子どもがいた?」と僕は驚いて言った。
「そう。なにもそんなに驚かなくてもいいじゃない。私だって人間なのよ。でもそうね・・・たしかにあれは
「犬はいなかったのですか?」
「犬? 犬はいなかったわ。妻が動物が苦手だったの。でもどうしてそんなことが気になるの?」
「いや、ただなんとなくです」
「あんたって変な人ね。顔は真面目そうなんだけど」
僕は曖昧な返事をした。
「それで・・・。ねえ、この話は長くなりそうだから、ちょっと運転しながらでもいい? 私たちは今から
あるところ
に行かなくてはならないのよ」「それは構わないんですが、一体どこで、何をするんでしょうか? 僕にはその辺がどうも・・・」
「大丈夫」とにっこりと笑って彼女は言った。「なんにも悪いことは起きないから」。そして最後に小声でこう付け加えた。「たぶん」
「たぶん」と僕は言った。そしてここが一種の
でもどうしてもその決心がつかなかった。僕はたぶん、自分でもこの新たな展開に期待していたのだと思う。たしかにTが現れて、例の奇妙な十字路の話を聞いて以降、自分の中の何かが活性化されていた、という感覚はあった。それはこれまで一度も感じたことのない感覚だった。僕は長く生きることと死ぬことの狭間にいた。そしてそれが普通の状態なのだと思っていた。しかし今では何かを自分から
彼女はおそらく僕のそんな微妙な心の揺れをある程度察知していたに違いない。というのもしばらくの間話を止めて、ひたすら目の前の空間を睨んでいたからだ。あるいはそれが彼女の
結局僕が車から降りないのを確認すると、彼女はエンジンをかけ、ゆっくりと車を駐車場から出した。そのとき例の交差点を通ったわけだが、もちろん今は誰も寝転んでいないし、悪魔の姿もなかった。ただ夜の街が、キラキラと人工的な光を振り