第1話

文字数 945文字

 やぁ。やっぱりここからだと君の顔がよく見える。嬉しいな。
どうしたの。泣いているの。
仕方ないよ。
職場が同じなんだから彼が結婚していることは最初から知っていただろう。
君がどれだけ彼を好きか、もちろん僕は知っているよ。
人を好きになることは決して悪いことではない。
不倫と言えば陳腐な表現になるけれど、結婚している人を好きになってしまうことはあるさ。

彼の手が好きだったんだろう?
職場で書類に判をついている彼の手を見て、夜その手に触れられることを想像して君が顔を赤くしていたことは知っていたよ。
でも彼が君とすごせる時間はいつもほんの数時間。
だがそれももう今夜が最後だった。

彼だって君と別れたくなかった。
彼は案外純情だからね。君のことを本当に好きだったんだよ。
でも君と一緒にいる間、彼はとても苦しんでいた。
それだけは分かってあげて欲しい。
苦しいのは君だけじゃなかったんだ。

君は賢いね。
私と奥さんのどっちが好きなの、なんて安っぽい質問をしなかったから。
その気持ちは比べてはいけないものなんだって知っていたんだろう?
そう、彼も比べることが出来なかった。

聞きたくないかもしれないけれど、はっきり言うよ。
どちらも大事だから、だからこそ彼は君をあきらめなければならなかった。
君も本当はもう理解しているんだろう?
だから今夜こんなことをした。

気持ちは分かるよ。
でも僕は君のしたことに賛成できない。
だって君はこの為に、あんなに一生懸命貯めたお金の定期預金を崩してしまっただろう?

かわいそうな子だ。
今夜は好きなだけ泣いてもいいし、何だったら朝まで僕と一緒に眠ろう。

でも、お願いがある。
明日の朝会社に行ったら、僕を彼に返してあげて欲しい。
君も本当は後悔しているんだろう?
彼は帰り際に着けた時計が僕じゃなかったことに今頃は気付いているだろう。
だって僕は彼が初めてのボーナスで買った自慢のクロノグラフだし、もう10年も一緒にいるんだから。
僕の身体のたくさんの細かい傷は、僕たちの共に過ごした年月で、それは君が先週買って来た僕と全く見た目が同じのクロノグラフにはないものだ。

もう僕がこの部屋に来ることはないだろうね。
最後に君と二人きりの夜が過ごせて嬉しいよ。

朝まで見守っていてあげるよ。
僕に出来るのはそれくらいだから。
おやすみ。
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