第42話

文字数 1,928文字

42
 とにかくそれから数カ月で、僕は必死こいて昼も夜も真夜中も、もう天文学的な球数をネットに投げたんだ。そしてやっとの思いで四つのコーナーにまっすぐ、スライダー、シュートをそこそこ…、いやいや、本当にそこそこなんだけど、とにかく投げられるようになった。
 投げられるのは体が覚えた、いや、水になった上半身が「覚えた」感じかな。覚えたけど忘れることもある。だけどまた「思い出して」くれる。
 忘れていれば、狙った所にボールが行かないし、思い出してくれればまた狙った所へボールが行く。
 ツーボールになって、それから投げて、忘れていたらスリーボールになって、思い出してくれたらまたストライクが入って。それで僕はストライク、ボールについて神経質にならないようになった。
 スリーボールから、思い出してもらわなければフォアボールで、それは仕方がない。次の打者でストライクを取ろう。
 とにかくそういう、ゆったりとした心持で淡々と投げよう。延々とストライクが入らない訳ではないし。
 ストライク投げなきゃ! そういう変な十字架は背負わない。とにかく、ぼちぼちストライクが入るから、僕は焦らない。
 ブルペン捕手の鬼瓦さんに訊いても、
「お前のコントロールぅ? だいぶ良くなったぞ。これならプロとしてはまあ『普通』じゃねえかぁ。少なくとももはや『中の下』ではないぞ。『中の中』だな。だから自信を持て。良かったじゃないか!」って、望外のおほめの言葉を頂いたし。
 とうとう僕は、プロとして普通(!)のコントロールを手に入れた!
 それで嬉しくて嬉しくて、もう豪快に嬉しくて、その日はお祝いに、高校の先輩の分と合わせてタイ焼きを6個買い、3個は30分くらい寮の部屋のテレビの上に「お供え」してから、にやにやしながら部屋で一人で全部食べた。

 それからというと、二軍の試合で投げていても、いろいろとピッチングが組み立てられるようになった。ある程度コーナーに投げてツーストライクからドロンとおばけとか、いろいろね。
 先輩のキャッチャーもリードのバリエーションが増えて、僕と組むのがとても楽しいって言ってくれたし。
 とにかく!「行き先は球に訊いてくれ」はもう卒業!
 だから恒例のバックネット暴投なんて「儀式」も全然必要なくなったし。もう画期的だ。
 いや、もちろん失投もずいぶんやったよ。外角低めのスライダーが見事ど真ん中とか。で、それを場外に運ばれたこともあるけど。だけど意外と失投を空振りしてくれたり、金縛りに遭ったように見送ってくれることもあったんだ。
 そのメカニズムは、僕がコースをついてくると思っている打者にとって、ど真ん中は「想定外」なんだ。打者って、思いもしない球が来ると、意外なほど打てないものなんだ。
 こういう現象は、僕がある程度コースを狙える投手だって思われ始めた証拠でもあるんだ。
 それともう一ついいことがあった。
「行き先は球に訊いてくれ」ではなくなるってことは、野手の人が守りやすいってこと。
 野手の人って、球種、コース別に守備位置をそのつど変えているし、打球に対する第一歩もそれに基づいてやっている。
 だからコントロールが良くなると、野手の人のファインプレーも多くなったんだ。すると相乗効果で防御率も少し良くなった。
 そういうわけで僕は二軍で安定した投球を続け、そして夏ごろには一軍からお呼びがかかり、それ以降はずっと先発3、4番手で一軍に定着することが出来たんだ。
 首脳陣だって、僕が投げれば試合が壊れることはそうそうはないって、信頼し始めてくれたみたいだし。
 そしてあのベテラン三累手の人は、「それにしてもお前、ずいぶん短い間にコーナーに放れるようになったなぁ。まあそこそこやけどな。せやけどほんま感心するわ。そうとう練習したんやな。用具係の人がネットの修理大変やとこぼしとったわ。せやけどこれで、打ちにくうて守りやすい、ええ投手になりよったで。ほんま、良かったやんか。でかしたでかした」って、しみじみと言ってくれたし。

 考えてみると、あのテニスコートでめちゃくちゃに投げていた僕が、それはもう数え切れないほどの課題を長い時間かけて一つ一つ解決し、長い長い道のりを経て、とにかくこのとき僕は、「プロの投手」として、一応の完成となったんだ。
 つまり…
 そこそこの、プロとしては普通のコントロール
 スローカーブと手元で伸びる球との緩急
 両サイドにスライダー、シュートをそこそこ投げ分ける
 決め球のおばけ
 普通程度だけど牽制や投内連携
 そして、対戦相手の綿密な調査に基づく投球術

 それは感慨無量どころの話ではない。
 それはもう言葉に表せない、本当にもう、豪快な豪快な喜びだった。
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