第11話 ちゃんとしている人

文字数 1,246文字

祥子からは珍しく、しばらくメールが返ってこなかった。
誠一は自分の愚行に苛まれていた。
変な人だと思われた。
もう連絡をくれないかもしれない。
おかしなことだった。
こんなに近くにいて、一緒に住んでいるのに、もう祥子には二度と会えないと思っている。
正確に言えば、誠一は会える。
ハジメが会えなくなるだけだ。
ハジメとして祥子に会えなくなることを誠一は憂いでいた。

数日後、やっと祥子から連絡が返ってきた。

「連絡が遅くなってしまってすいません。小説読んでみます。ベローチェ、『春にして君を離れ』いいですよね」

思い出の場所については、その質問の答えはなかった。
それが意図的なことか、忘れてしまったことなのか分からなかったが誠一は悲しかった。
必要以上には答えず、端的に返された返事から、誠一は祥子との気持ちの違いを知った。

どうしたんだろう。
最初から全部勘違いしていて、誠一だけが盛り上がっていたんじゃないか。
何回も祥子とのメールのやりとりを見返しながら、誠一は思った。
よかったじゃないか。
誠一は無理やりそう言い聞かせた。
祥子がハジメに恋することは浮気だ。
祥子は誠一を裏切らなかったのだ。
祥子は誠一を裏切っていない。
祥子は誠一を裏切らない。
そうなんだけれども。
誠一は二度祥子から振られた気がしてならなかった。
ハジメは誠一だった。
少なくとも誠一にとってはハジメは誠一だったのだ。

誠一は祥子への連絡を返せずにいた。
誠一が返したらハジメと祥子は完全に終わってしまうと思った。
もう二度とハジメが祥子に会えない。
それは今すぐには無理だった。

次の日、いつものように朝食を済ませるためにリビングに来た。
リビングに電気がついていた。
祥子だった。
いつもなら祥子は一緒に朝食を食べない。
誠一は元来、朝五時に起き、早く出社するため、朝ご飯は家族と食べないのが普通だった。
朝ご飯を食べながら、まだ浅暗い部屋の中で新聞を読むのが習慣だった。
しかし今日朝起きたら祥子がコーヒーを飲みながら、ダイニングテーブルで本を読んでいたのだ。
まさか徹夜で本を読んでいたんじゃないか。

「おはよう」

祥子は誠一に話しかけてきた。
いつもにない出来事で、誠一は朝から心拍数があがった。
大丈夫だろうか。
もしかして何か悪いことを告白されるんじゃないか。
まさか、離婚について、今話されるのだろうか。
誠一は悪い心当たりしかなかった。

「どうしたんだ?」

相変わらず、誠一はそんなことしか言えなかった。
不愛想だったと思う。

「何か隠しているでしょう?」

祥子は相変わらずちゃんとしていた。
祥子の聞きたいことはそれ以上でもそれ以下でもないんだろう。
肝心な時にはいつもはっきり聞いてくる。
それが祥子だった。
誠一はまるで心当たりがなかった。
誠一は逃げるように祥子から目を逸らし、祥子が読んでいる小説をみた。
それはアガサ・クリスティでも井上靖でもなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み