六、茄子がお好きなのですね

文字数 1,368文字

 国許での事件は私にとってはあまりに衝撃的でした。思い返すだけで嫌な気持ちになったくらいです。だから、私も当初は奥さんにもお嬢さんにもそのことを話すつもりはありませんでした。それが結局、大方のところを話してしまったのは、ひとえに私がお嬢さんに恋をしていたからに違いありません。


 私が国許でのことを話すと、お嬢さんは我が事のように泣いてくれました。奥さんもこれからは私を一層身内として扱うから安心して欲しいと請け負ってくれました。国許でのことを思い返すのは私にとっても苦痛でしたが、結果として、二人との仲がさらに深まったことを感じて、私はむしろ過去を伝えたことに満足な思いを抱きました。特に奥さんが私を身内として見てくれるようになったことに私は励まされたのです。何に励まされたのかというと、やはりお嬢さんとの関係についてです。


 過去を伝えてからしばらくしたある日、お嬢さんが篭いっぱいの茄子を両手に抱えて家に帰ってきたことがありました。苦労して運んできたお嬢さんの手から、私は荷物を引き受けながら、


「茄子がお好きなのですね」
 と尋ねてクスリと笑いました。
「ええ、とっても!」

 若いお嬢さんも快活に答えて笑いました。

 そんなお嬢さんの素敵な笑顔を目にして、私は何度も胸の中に湧き上がってきたあの想いを、その時もまた抱いたものです。
(お嬢さんを貰いたい、と奥さんに話してみるべきか)

 と――。

 私は自由な身体と立場でした。学校を通い続けるかどうかも、どこへ住むかも、誰と結婚するかも、誰にも相談する必要はなかったのです。私がお嬢さんと一緒になれば、名実共に身内となります。奥さんもきっと賛成してくれたでしょう。


 ですが、私はその想いを抱くたびに躊躇し、結局、そのことを実行するには至りませんでした。私の中にはまだ叔父に裏切られた悲痛な過去の記憶が根を張っていたのです。あの親切な奥さんですら自分を裏切るのではないか、お嬢さんをタネに自分を都合よく転がす気ではないかと、腹の底で疑っていたのです――。


 そうして私が逡巡している間に、Kの問題が持ち上がり、お嬢さんへの秘めた思いを打ち明けられぬまま、私とKとの同居生活が始まったのです。Kを招く前に、なぜ私はお嬢さんとの事を奥さんに談判しなかったのでしょうか。今となっては悔やんでも悔やみきれません。


 Kが家に来てからしばらく経ったある日、そのお嬢さんが困り顔で私に話しかけてきました。相談事は、無論、Kのことです。お嬢さんがKの部屋を訪れた時のことを話し出しました。


「火鉢に火はありますか?」
 と問うたお嬢さんに、Kは「ありません」と答えたそうです。
「では、持ってきますね」

 とお嬢さんが言うと、Kは即座に「要りません」と言います。

 不思議に思ったお嬢さんが
「なぜ……? 寒くはないのですか?」

と重ねて問うと、Kは、


「寒いです。ですが要りません」

 などと真顔で言うのです。


 なんたる剛情さでしょうか。

 お嬢さんたちとの触れ合いがKの心を溶かすと期待していた私ですが、こんな具合で自室に引き篭もられては手の施しようがありません。


「仕方ない。引っ張りだすか」

 と私は決意しました。この時はまさかあんな事になるなどと思いもしなかったのです。結果を先取りして言えば、私の出した処方薬は効きすぎたのです。


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登場人物紹介

■先生
帝大の学生。叔父に裏切られ、逃げるように故郷を捨ててきた過去を持つ。下宿先のお嬢さんに恋心を抱いている。だが、同郷の幼馴染である親友Kを下宿先に招いたことから悲劇の三角関係が始まってしまう上に、突如としてゾンビ・アポカリプスが訪れたので、ゾンビと三角関係の二重苦に苦しむこととなる。実は柳生新陰流の使い手であり、様々な兵法を用いてゾンビ難局を乗り越えていく。

■K
帝大の学生。実父や養父を偽って進学先を変えたために勘当されてしまい、今は内職と学問の両立に苦しんでいる。そんな姿を見かねて先生が下宿先へと彼を招いたことから悲劇が始まる上にゾンビ・アポカリプスが突如として訪れたので、先生と共に房州へと旅立つこととなる。

■お嬢さん
先生とKの下宿先のお嬢さん。叔父に裏切られ荒んでいた先生の心を癒やしたことから、先生に恋心を寄せられる。Kとの仲も満更ではなさそうだが、お嬢さんの気持ちは未だ不明である。ゾンビ・アポカリプス初期にゾンビに噛まれてしまい、半ゾンビ状態に陥る。好物の茄子を食べた時だけ、一時的に正気に戻る。

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