第2話 妊娠

文字数 40,067文字

「早く食べないと遅刻するわよ」
 お母さんはスーツに着替え、リビングのテーブルでお化粧をしている。
「食べたら食器は洗っておいてね」
「……うん……」
 私はパジャマ姿でテーブルに並べられた料理を眺めた。
 マーガリンを塗ったトースト、牛乳、サラダ、ウィンナーと目玉焼き……、いつものメニューだ。
 朝はしっかり食べないと頭が働かない、とお母さんはどんなに忙しくても朝食を作る。菓子パンとジュースでは栄養が偏るそうだ。
 お父さんが飲み残したコーヒーの臭いがやけに鼻をつく。
 席に着かず、洗面所へ向かう。
「食べないの?」
 お母さんが洗面所に顔を出す。
「……なんか、胃がむかむかする」
「寝る前にスナック菓子でも食べたんじゃないの?」
「そんなことしてない」
 お母さんのお小言はイライラの種。心配してくれているんだろうけれど、ウザい。
 蛇口をひねり、顔を洗おうと腰を曲げた途端、吐きそうになった。口から胃の辺りまでぬめぬめと気持ち悪い。胸の中で大量のナメクジが這っているような感じだった。
 ――……なんだろう、ストレスかな?
 テストが近いから緊張しているんだろうか? いろいろあって勉強してない。
 ――明人君とうまくいっていないからかな。
 メールは送っている。デートの約束は、テストがあるからとか、友達と約束してしまったと断っていた。まだ、明人君と会って冷静でいられる自信がなかった。
 吐きたいのに吐けない。何も食べていないから吐く物がない。お腹もすいた。胸のむかつきと空腹感があわさり、頭がくらくらする。
「……やっぱり、食べる……」
 席に着き、食パンを口元まで持って行った途端、マーガリンの臭いにオエッとなった。
 ――……気持ち悪い。
 額に手を当ててみる、熱はない。咳はしない、頭も痛くない。
 ――……なんだろう。
 レタスの上に載ったトマトに目がいく。フォークで突き刺し、一口かじってみる。トマトの酸味が喉を通り、胸いっぱいに広がる不快感が少しだけ和らいだ。
 ――……いけるかも。
 野菜室のトマトを一玉取り出し、くし切りにしてお皿に盛りつける。フォークで刺し、黙々と食べる。
 冷えたトマトを呑み込むと、不快なもので塞がれた食道に空気の通り道ができるようだった。
「あなた、そんなにトマト好きだった?」
 お母さんに聞かれ、「ううん。トマトならなんとか食べられる感じ」と答えた。
「昨夜の鳥肉、火の通りが浅かったかしら。お父さんは平気そうだったけど。お母さん、もう仕事に行かなくちゃ。一人で学校に行ける? 一日休むと授業が分からなくなるわよ。テストも近いんでしょう?」
「分かっているってばっ」
 お母さんは私の体より勉強の方が大事みたい。
「薬、飲んでおく?」
「…………」
 私はこくりと頷いた。
 コーヒーやマーガリンの臭いが耐えられず、私はテーブルを離れお母さんが出してくれた胃薬を水で流し込んだ。

 薬を飲んでも胸のむかつきは全然よくならない。
 教室に充満する食べ物の臭いが気持ち悪く、お弁当はふたを開けずお茶だけ飲んだ。
「お腹が痛いの?」、「保健室に行く? ついて行ってあげるよ」
 千穂が心配してくれたけれど、「ううん、大丈夫」と断った。
 熱はない。鼻水も咳もない、頭も痛くない。風邪ではないようだ。むかむかするけれどお腹は痛くない。……お腹……。
 そういえば、生理が来たのっていつだっけ?
 教室に貼られたカレンダーを見る。明人君の部屋にお泊りした日が十月十日。その時、既に生理は終わっていた……。必死に記憶をたどる。
 ――……思い出せない。
 生理は痛いし、だるいし、いいことなんて何もない。来なくていいとさえ思っている、思い当たることがなければ……。
 首筋から腰まですーっと熱が引いていく。
 ――……まさか……。
 重心を失い、椅子から転げそうになった。両手で机の角をつかみ、カタカタと揺れる机を必死に押さえる。動揺を気づかれないように力を入れて押さえれば押さえるほど机は激しく振動した。違う、自分の手が、腕が、体が震えているんだ。
「唯、真っ青だよ。保健室行こう」
「いいってばっ!」
 私は声を荒げた。千穂の機嫌を取っている余裕はない。
 そうだ、日記張。日記帳に先月何日に生理が来たか書いてある。
「試合とかぶらないようにチェックしてるんだ」と千穂が生理日を手帳に記録しているのを見て、私も日記帳のカレンダーに印をつけるようになった。
「……唯、どうしたのよ」
 千穂の問いには答えず、手早くお弁当箱を鞄にしまう。
 ――……帰って、確かめなくちゃ……。
 早く、一分でも早く帰りたくて、授業中ずっと床を踏み、鉛筆を指でこすり、じりじりと灼けるような焦燥感に耐えた。

 家に帰り、日記帳を開く。
 お泊りした十月十日をさかのぼり、一ページ、二ページとめくる。
 最後に生理が来た日は、九月十八日。予定日はとっくに過ぎていた。
 ――……まさか……。……そんな……。
 嫌な考えを振り払う。だって、したの一回だけだよ。それも初めてのセックスだった。「外に出した」って言っていた。一回しただけで妊娠なんてありえない。
 不安が背後に忍び寄る。
 モシ、ニンシンシテイタラ?
「ないっ!」
 叫んでいた。耳を塞ぎ声を張り上げる。
「ないないないない、ないない、そんなこと絶対ない」
 ないよ、ない。気にしすぎ、考えすぎ、絶対ない。
 生理なんてしょっちゅう遅れていた、今回も遅れているだけ。大丈夫、妊娠なんて簡単にしない。子ども一人、人間が一人生まれてくるんだよ。何もないところから人間を一人創り出すなんてそんなすごいこと、たった一回のセックスで起きるはずがない。
 妊娠なんて避妊具なしで何度もセックスしている人が運悪くするんじゃないの。子どもが欲しい人が一日に何回も何カ月もセックスしてようやくできるんじゃないの。
 うん、そうだよ。初めての私には関係ない。きっと、ううん、絶対大丈夫。
 たばこを吸わなかった。お酒を飲まなかった。お父さんやお母さんの言う通りずっと勉強してきて、先生にだって逆らったことない。ずっと真面目に大人しく生きてきた。たった一回の過ちでそんな酷い目に遭うはずがない。
 大丈夫、絶対に大丈夫、絶対に……。
 湧き上がる不安を「大丈夫」という言葉で片っ端から打ち消した。
 ……けれど、一週間たっても生理は来なかった。

 ※

 土曜日の午後、お母さんをごまかすためいったん制服を着て家を出る。補習には出ず、公園で時間を潰し、お母さんが仕事に行く時間を見計らい家に戻る。
 制服を脱ぎ、黒のタートルネックと黒のジーンズに着替え、買い揃えた安い化粧品を並べ、スマホで検索した化粧の仕方を参考に顔を作る。
 ファンデを塗りたくり、カーラーでまつ毛を引き上げ、アイラインやアイシャドウで目元を強調する。仕上げにローズ色のリップを唇に塗り重ねた。
 真っ白な顔に真っ赤な唇、目の周りは青くラメまで入り、これなら誰が見ても白木唯と気づかない。
 ――……ちょっと、やりすぎたかな……。
 逆に目立つかもしれない。手直しする時間が惜しい。財布にありったけのお小遣いを入れ、家を出た。
 せっかくの変装が無駄になってしまう、高校のステッカーが貼られた自転車は使わず、私はバスに乗り、途中から歩いて隣町のドラッグストアに向かった。

 二十分近く歩き、大型ドラッグストアにたどり着く。
 入り口を入ってすぐ左に調剤室が併設され、店自体は日用品、薬、化粧品と売り場が分かれている。同じ薬売り場でも解熱、鎮痛、鼻炎、くしゃみ、咳、漢方……と細かく分類されている。
 店内を一周し、知り合いはいないか探る。
 狭い田舎町、誰とはち合わすか分からない。実際、スーパーで買い物をしていると同級生に会うし、レジの人が知り合いだったりする。友達のお父さんが県庁に勤めている、担任の妹さんが近所の病院で働いている、隣に住んでいるおばさんがお父さんの会社近くにあるレストランで働いている。
 化粧をしているとはいえ油断はできない。ばれたら終わりだ。念のため店内を二周、三周し、知り合いがいないことを確認する。
 薬売り場のカウンターから見渡せる棚にそれはあった。
 ピンク色の箱に白いラインが入り、濃いピンク色の文字で『妊娠検査薬』と書かれている。
 間違いない。
 思ったよりコンパクトで、ちっぽけに見えた。
 白衣を着た薬剤師さんがカウンターでレジ打ちをし、買い物カゴを提げた客が列を作っていた。
 いったん薬売り場を離れる。
 日用品売り場で洗顔料や化粧水を選ぶふりをしながら頭の中は『妊娠検査薬』に占められていた。
 ――……店の人はどう思うだろう。
 変装しているとはいえバレない保証はない。高校生が妊娠検査薬を買おうとしているなんて感づかれたら、たちまち町中に噂が広がってしまう。
 ネットで買おうかとも思った。けれど、商品の箱をお母さんが受け取ったらと想像すると、できなかった。
 店に入って一時間近く経っている。
 早く目的をすませて帰らないと店員さんに怪しまれる。知り合いが入ってくるかもしれない。
 リンスやシャンプーの人工的につけられた臭いに頭がくらくらする。ぬめぬめした不快感が口の中で蠢き、吐き気を催す。
 散々店内をうろついた末、結局、何も買わずに店を出た。
 既に二時間が経っていた。

 馬鹿か、お前は! 今買わなきゃいつ買うんだよ! てめぇで調べられるのかよ! 腹かっさばいて内臓全部ほじくり出してガキがいるか確かめるか? 股ぐらに手ぇ突っ込んで搔き出してみるか? できねぇだろう、この意気地なし!
 お父さんの漫画に出てくる暴走族ふうに思いつく限りの言葉で己を罵倒する。
 今からでも引き返して買ってこよう、と思うものの、足は前へ前へと進む。
 白線で区分けされた幅五十センチほどの路側帯はでこぼこで雑草が生え、電柱が立ちはだかる。
 肩すれすれを走り抜ける自動車の風にあおられ私は大きくよろけた。
 このまま車道に身を踊らせ轢かれてしまえば楽になれる。車にぶつかった瞬間に意識が飛んで痛いと感じることなく人は死ぬ、と何かの本で読んだ覚えがある。
 見た目ほど苦しまずに死ねるなら轢かれてもいい。全身の骨が折れて内臓はぐちゃぐちゃで、亀が轢かれたみたいに放射線状に肉片や血が飛び散ればいい。特にお腹は赤ちゃんの痕跡すら残さないくらいぐちゃぐちゃに潰れてほしい。ああ、でもその前にお化粧を落としておかないとお母さんとお父さんがびっくりするだろうな。私だって分からないかもしれない。
 考えている間も体は勝手に電柱を避け、足は歩き続ける。
 私っていつもこう。あれこれ考えて準備して、いざ行動って時に怖気づく。
 明人君に相談するにしても、病院に行くにしても、まずは妊娠しているかどうか確かめないと。
 平日は学校がある。補習も塾もある。土曜日の今日、検査薬を買って確かめられたら、妊娠していても明日の日曜日には明人君に会って相談できる。今日買わなかったらまた一週間遅くなる。堕ろすなら早い方がいい。一週間、二週間と延びるほど取り返しがつかなくなる。
 分かっていて買えなかった、……他人の目が怖くて。

 靴の先十五センチ前方に影が差し、足が止まる。
 大きな緑色の置物があった。
 正面に回り、確かめる。
 大きなマスクをし、マフラーを巻いたカエルのマスコットだった。
 長い間風雨にさらされていたようでインクがはげ白っぽく、ざらざらしている。子どもの悪戯だろう、カエルの頭の側面にマジックで人間の耳が描かれていた。
 カエルのマスコットは薬屋の店頭に立っていた。薬屋もカエルのマスコットと同じくらい古びていた。看板の文字ははがれ、「く」と「り」しか読めず、「す」がある部分は子どもの仕業なのか、石や爪で何度もひっかいた跡があった。
 アスファルトに反射した太陽の光が差し込み、店内が辛うじて見てとれる。
 通り沿いに飲食店やコンビニはなく人影もない。シャッターが下りた店が立ち並び、柱が錆びた民家や雑草が軒先に届くほど伸びた空き家がちらほらと立つ。ここだけ時間の流れから取り残されているようだった。
 カエルの陰に隠れ、店内を観察する。
 カウンターに折りたたまれた新聞が置いてあるものの、人がいる気配はない。
 そっと窓に近づき、注意深く店内を物色する。
 ――……あった。
 壁に埋め込まれた棚にあのピンク色の箱が陳列してあった。
 目を凝らし、箱を確認する。
 ピンク色の箱に白いラインが入り、濃いピンク色の文字で『妊娠検査薬』と書いてある。間違いなかった。
 店には誰もいない。
 ドクンッと心臓が跳ねた。鼓動がやけに激しく、胸に痛みを感じるほどだった。脇の下に汗をかいていた。
 風が背中をあおる。振り向くと車が何台も私の後ろを走り抜けて行った。運転手は前方にだけ注意を払い私には見向きもしない。人通りはない。今この瞬間、私を見ている者は誰もいなかった。
 かあっと頭が熱くなり、こめかみの血管が痛いくらい脈打つ。思考は停止し、足が勝手に目の前の扉に向かい動いていた。手が扉を開け、体がするりと店内へ入る。呼び鈴が頭上で鳴っても足は怯むことなく箱のある棚へ歩いて行く。
 不審者の来訪を知らせるように鈴は頭上で鳴り続ける。
「はぁいー、少々、お待ちをー」
 壁の向こうから男のしゃがれた声がした。鳩尾に鋭い痛みが走り、気管が狭まったように息苦しくなる。
 暗くて分らなかった。壁と思われた場所に丸い取っ手が付き、暗がりにほんのりと銀色に浮かび上がる。多分、居室に繋がっているんだろう。
 私の足は箱の前で止まった。
 暗い店内にガラクタ同然に並べられた商品の中、そこだけが光って見えた。
 取っ手のすぐ向こうで足音と硬い音が交互にする。
 私は明るく光るそれに導かれるまま手を伸ばした。
 ガチャリと取っ手が回り、数十センチ開いた扉から杖の先が現れる。
 私は箱をポケットに入れ、くるりと背を向けた。

 全速力で走っていた。
 信号待ちの車と車の間を突っ切り、民家と民家の角を曲がり脇道へ入る。田畑が広がる生活道を走った。
 汗が噴き出し、鼓動が胸を突きあげる。足がもつれ転びそうになっても走り続けた。
 体が左右に揺れ、山の稜線が波立つ。膝が抜けそうだった。水の中を走っているように己の息遣いが耳にこもり、泳ぐように手足を前へ前へと動かした。
 ガクンと膝が折れ派手に転んだ。
 両手の平が赤く滲み、ジーンズの膝の部分が擦り切れる。
 喘息みたいな呼吸を繰り返し、痛む脇腹をかばい、歩き続けた。
 背中を丸くし草むらにしゃがみ込む。垂れた頭から汗がだらだらと落ちた。
 周囲に人がいないか確かめ、ポケットから箱を取り出す。
 『妊娠検査薬』の文字に、大きく息を吐いた。
 ――……万引き、してしまった。
 今までどんなに可愛い小物があってもお金がなかったら我慢していた。真っ赤なリンゴに緑の葉っぱがちょこんとついたブローチ、ミツバチが留まった鉛筆、銀色のブレスレット、ムーンストーンのネックレス……。
 欲しくてたまらなくても我慢した、万引きはいけないと知っていたから。
 足が悪いおじいさんなのだろう。しゃがれた声に杖を突いていた。近所の子ども達に馬鹿にされながらも独りで細々と店をやっていたのかもしれない。
 胸が痛いのは、喉がひりひりするのは、久しぶりに走ったからだ。息苦しいのは、決して罪の意識からじゃない。
 箱をポケットにしまう。
 ふらふらと立ち上がり、歩き出す。
 箱の角がジーンズごしに私の太腿を刺す。
 ポケットがやけに重かった。

 部屋に鍵をかけ、箱をこじ開ける。
 中身を手に取り、呆然とした。
 髪が引っ張られるように頭皮がぞわぞわとし、首筋がすっと冷える。
 ――……だまされた。
 万引きまでして手に入れた物はできそこないの体温計にしか見えなかった。
 動悸を覚えながら、ぎこちない手つきで説明書を広げる。
 『先端に尿をかけると結果が色になって表示されます』
 ――……本当に、尿をかけるだけで分かるの?
 血を採るとか、腹部をレントゲンで撮影するとかしなくていいの?
 半信半疑で向いのトイレに入り、下着を下ろす。便座に腰かけ、検査薬を近づけた。
 結果はすぐに出た。赤紫色の線がはっきり浮かんでいる、――陽性だった。
 説明書の但し書きに『正確さは九十九パーセント』とある。
 私は残りの一パーセントかもしれない。要するに結果は誤りで、妊娠していないってこと。
 『陽性が出たら必ず病院に行きましょう。他の病気が隠れている場合があります』と書かれている。
 私は妊娠ではなく他の病気なのかもしれない。性病とかは勘弁してほしいけれど、子宮の病気とか卵巣の病気とか。生理痛が酷いのも病気が原因なら納得がいく。
 そっちがいいな。病気なら責められないし同情してもらえる。「高校生のくせにセックスして妊娠した」と噂されるより「若いのに大変な病に罹って可哀そう」と同情されたい。一生産めなくてもいい、命に関わってもいいから病気であってほしい。
 私はまだ高校生だよ。妊娠したなんてばれたら学校を辞めないといけない。お母さんやお父さんに見放される。千穂にも軽蔑される。近所の噂になる。たった一度の失敗で社会から脱落してしまう。
 大学に行ったら遊びたい。美味しい物を食べて、旅行して、飲み会して、お洒落だってしたい。ずっと勉強ばっかりでしんどかった。高校を卒業したら自由に人生を謳歌したいって思っていた。
 陽性を示す赤いラインが薄くなっていく。
 ――いけない、消えてしまう。
 私は慌てて写真を撮った。
 ――……明人君に、相談しなきゃ。
 写真を添付し、明人君にメールを送った。
「相談したいことがあります。できるだけ早く、明日にでも会いたいです」と。

 ※

 鉄棒と砂場しかない小さな公園に人の姿はなく、公園を囲むように植えられた広葉樹は色づき始めていた。
 まだ昼の三時にも関わらず園内は薄暗く、冷たい風が吹く。
 約束の時間を過ぎても明人君は来ない。
 足元が冷え、腰が痛くなってきた。
 公園で待ち合わせをするんじゃなかったと後悔した。でも、誰が聞いているか分からないお店で二人の行く末を左右する話はできない。恐怖心と不信感が拭えない今、明人君の部屋で話し合う勇気もない。
 胸のむかつきは相変わらず、生理も来ない。今朝、二度目の検査薬を試した。陽性だった。
 お腹が締めつけられる。体が冷えているからだろうか。お腹にいるモノが苦しんでいるんだろうか? それとも、私の体が異物を追い出そうしている?
 ――……流れてしまえばいい。
 ナプキンは鞄に常備してある。いつ生理が来てもいいように。いつ流れてもいいように。
 公園を包む影が一段と濃くなり、風が冷たさを増す。
 私は待つしかなかった。
 頼れるのは明人君しかいない。きっと明人君ならいい解決策を考えてくれる。四つも年上で、車を持っているもの。堕ろすことになっても病院に連れて行ってくれる。お金を出してくれる。二人で作ったんだもん、二人で処理しなきゃ。
 もし、明人君が「育てよう」って言うなら私も産む方向で考えてみる。高校を中退して、お父さんに勘当され、お母さんが一生口をきいてくれなくても、それでも、明人君が「俺が働くから二人で育てよう」って言ってくれるなら頑張れる気がする。明人君の部屋で新しい家庭を築けられる気がする。
 本当は中絶なんてしたくない。赤ちゃんを殺した罪なんて背負いたくない。手術だって怖い。手術のせいで一生産めない体になっても困る。女として生れて来たんだ、一度くらい産んでみたい。自分が産んだ子どもを抱いてみたい。でもそれは今じゃなく、もっとずっと先の話であってほしかった。
 明人君が来るまで私はいろいろなことを想像し、葛藤した。

「遅くなった」
 久しぶりに会った明人君は十歳くらい老けたように見えた。
 早く座ってほしいのに明人君は立ったまま「ここ寒くない? どこか店に入る?」と聞く。首を振る私に「喉乾いているだろう、何か買ってくるよ」と公園の外にある自動販売機に行ってしまった。
 明人君はホットミルクティーを私に差し出した。
「……ありがとう」
 私は冷えた手を缶で温めた。
 あんなに好きだったミルクティーは飲めなくなっていた。甘ったるい臭いとねっとりした甘さが吐き気を助長させるから。歯垢が集まってできた軟体動物が食道を塞ぎ、ぬめぬめした触覚で喉をさする。常に口の中がねばつき、臭っている。歯磨きをしても食べるのを控えても変わらず、空腹でいると軟体動物はうねうねとのたうち、胸のむかつきが酷くなる。
「飲まないの?」
「……後で……」
 缶を開けない私に気を悪くしたのか、明人君は無言でコーヒーを飲む。
 コーヒーは止めてほしい。臭いがきつくて……。吐きたくても吐けない。いつもの症状だ。
 きっかけがつかめず、私は途方に暮れた。
 明人君はずるい。
「話って何?」、「悩みごと?」、「あのメールの写真は何?」と聞いてくれれば話を切り出しやすいのに黙ってコーヒーを飲んでいる。
 告白してくれて嬉しかった。手を繋ぎ、展望台で肩を並べ眼下に広がる景色を眺め、腕を組んで散歩した。カラオケに行った、食事をした、ドライブをした。その一つ一つが大切な思い出。
 優しく抱きしめてくれた。明人君の温もりに包まれ、耳元で名前をささやかれ、幸せだった。……だけど、全部ぶち壊し。どうして避妊してくれなかったの? 
「外に出したから大丈夫」なんて嘘ばっかり! 自分が気持ちよくなりたかっただけ、めんどくさかっただけじゃない。それを信じた私も馬鹿。どんなに後悔しても自分を責めても取り返しがつかない。
 妊娠何週目なのか分からない。堕ろすなら早くしないと、遅くなればなるほど時間もお金もかかるってネットに書いてあった。妊娠六週から十一週までは日帰りで手術できるけれど、十二週以降は入院しないといけないって。そうなったら家にも学校にもばれる。
 涙がぼたぼたと落ち、両手の中の缶を濡らした。
「……わたし……、できちゃったの……」
 冷たい風が遮られ、こめかみに明人君の息がかかる。明人君が顔を近づけたのが分かった。
 私は両手で缶を握りしめ、もう一度言った。
「……赤ちゃん……、できたみたいなの……」
 大きく息を吐く音がした。それだけだった。明人君の息遣いが遠ざかる。
 明人君は黙っていた。ベンチにもたれ、どこか遠くの方を睨みつけている。怖い顔だった。
 明人君は私を一瞥した。蔑むような、はねつけるような、優しさの欠片もない冷たい目だった。
「……あきと、くん……?」
 明人君はついっとまた遠くの方を見つめ、ぼそりと言った。
「誰の子?」
「あ、明人君だよ。明人君の子だよ、他に誰がいるの。私、明人君以外としてないよ!」
 叫んでいた、怒鳴っていた、癇癪玉のようにわめいていた。
「……唯、初めてって言ってなかったっけ? 処女って妊娠しないと思ってた。バイトの先輩は『外出しで百回以上やって一回も失敗したことがない』って言っていたし」
「……な、なに、馬鹿なこと言ってるの。処女でも、外に出しても避妊しなきゃ妊娠するんだよ」
 呼吸が上手くできない。どくんどくんと鼓動が胸を強く打ち、落ち着こうと思っても頭に血がのぼっていた。
「明人君の子だよ、他にいないよ。私、明人君しか……」
 それ以上言葉が続かなかった。別人のような明人君に感情がついていかない。私は顔を覆いしゃくりあげた。
 明人君は冷めた口調で話す。
「唯、俺のこと避けていただろう。泊りにきた次の日からメールを返さなくなった。一言あればいい方でさ。あからさますぎて笑いもできなかった」
 明人君は疲れたというふうに大きなため息をついた。
「唯とようやく本当の恋人同士になれたと思った。それがぱったり返事が来なくなって……。俺がどんな気持ちでメールを待っていたか……。なにか傷つけるようなことを言ったか、何かやらかしたか。唯が連絡を絶つほど酷いことを俺はしたのかって……」
 明人君は深く俯く。
「……俺とセックスするの、嫌だったんだろう? 他に好きな奴でもできた? 本当はそいつとの子どもなんだろう? そいつとやるだけやって捨てられて、ガキまでできてどうにもならなくなったから俺に泣きついてきたんだろう?」
「ちがっ」
「嫌いなら嫌いって言えよ。避けられるよりよっぽどましだっ」
 明人君の声が、肩が震えている。手の甲が白くなるほど両拳を強く握りしめていた。
 ようやく気づいた。私は明人君を傷つけていた。
 会った時から明人君はよそよそしかった。言葉少なだった。私のそばに来なかった。私が泣いてもすぐに理由を聞かなかった。
 私が明人君に不信感を抱いていたのと同じで、明人君も私に不信感を抱いていたんだ。そして深く傷ついていたんだ。
「……ごめん……、……私……。でも、私も傷ついたんだよ。痛くて、怖くて。赤ちゃん出来たかもしれないって思ってからは、ずっと不安で。写メ送ったの、見た? 検査薬、陽性だったんだよ。二回検査して二回とも陽性だったんだよ」
 涙が落ちた。ぼとぼと、ぼとぼとと落ちた。
「……なんで、避妊してくれなかったの? 外に出したから大丈夫って。全然大丈夫じゃなかったじゃん。私、高校生だよ。どうするんだよ」
 自分でも勝手だと思った。「避妊して」と言わなかった私も悪い。二人で赤ちゃんができるようなセックスをしたんだ、明人君だけを責められない。
「……俺に、どうしてほしいの?」
 他人事みたいに聞く。
 まだ疑っているんだ。他の人と作った子だって。他の男? 馬鹿じゃないの。どうして信じてくれないの。私は謝ったのに。優しいなんて嘘。誠実でもない。
「どうしてほしいの」って、聞きたいのはこっちだよ。
 私、検査薬を万引きしたんだよ。妊娠しているかどうか確かめたくて。陽性が出ても嘘だと思おうとしたけど、二回も陽性が出てしまって……。どうしていいか分からないから相談しているんだよ。
「……病院、行きたい。行って、本当にできているか調べたい。できていたら……」
 産むか、堕ろすか。明人君の気持ち一つで私の運命が決まる。私一人ではだめ、決められない。明人君が決めてくれなきゃ……。
 明人君は「産んでほしい」とも「堕ろしてほしい」とも言わなかった。
 私は一つだけ、お願いした。
「病院についてきて。明人君についてきてほしい……。一人は、怖い……」
 長い沈黙があった。
 心が折れかけた頃、やっと明人君は口を開いた。
「……いつ、病院に行くか、決まったら連絡して……」
 葉擦れの音が大きいと思えるほど小さな声だった。
 明人君は立ち上がり、「……じゃあ……」と去って行った。

 明人君は振り返らなかった。
「二人でなんとかしよう」と安心させてくれなかった。抱きしめてくれなかった。吹きすさぶ公園に私一人を残して行ってしまった。
 ガタガタと震える自分の体をかき抱く。
 明人君が消えた公園の出入り口を見つめる。
 風の音に混じり、はっきりと聞いた、――明人君と私を繋ぐ糸が切れる音を。

 ※

 ――お母さんが帰ってくるまでに探さなきゃ。
 リビングにある戸棚、テレビ台の収納スペース、パソコン周辺、お母さんのクローゼット……、私は家中の引き出しを開け、保険証を探した。
 お母さんに付き添ってもらうわけにはいかない。「赤ちゃんができたみたいだから保険証を貸して」とも言えない。自分で見つけなきゃ。
 リビングにはない。キッチンにもない。後は……、お父さんの書斎に入る。
「……あった……」
 一時間近くかかって、ようやく見つけた。
 ――なんでこんなところに置くの。
 お父さんが仕事用に使っている机の引き出しから出てきた。それも名刺入れの表紙を開いた一ページ目に入れてあった。
 泥棒が入ったって保険証なんか持って行かないよ。何でこんな分かりにくい場所に隠すんだよと腹が立って仕方がなかった。
 ――……時間がない。
 保険証を名刺入れに戻す。保管場所が確認できればいい。使う直前に持ち出さないと怪しまれる。
 家から離れ、自転車で行けるくらいの距離にある『産婦人科』をスマホで検索する。検索結果の上位にあがった病院は地元でも有名だろうから候補から外し、残った病院の位置情報をくまなく確認する。大通りに面しておらず、かつ人通りも少なく、すいていそうな病院を。
 ――腕はそこそこでいい。誰にも知られず処置してくれれば。
 それだけだった。
 条件に合う病院が見つかり、番号をプッシュする。
「はい、アイワ病院です。いかがされましたか」
 受付の女性が張りのある高い声で答える。私は落ち着いた印象を与えるため声を低く抑えゆっくり話す。
「……生理不順で、生理痛も酷くて、それで、一度診てもらいたくて」
 嘘じゃない。生理が遅れることはしょっちゅうだし生理痛に悩まされているのも本当。
「承知いたしました。では、お名前とお電話番号をお願いします」
「……白木、唯。電話番号は……」
 連絡先はもし行かなくても病院から電話がかかってこないように嘘の番号を言った。
「では、十一月○日土曜日の二時半に予約しておきます。お大事になさって下さい」
 通話を切り、ソファに腰を下ろす。私は足を投げ出し、天井をぼんやりと見上げた。
 ――……明人君に、メールしなきゃ。
 男の人ってあんなに疑り深いの? あんなに嫉妬深いの? 「誰の子?」なんて酷いよ。二股なんかかけないよ。明人君だからセックスしたんだよ。誰でもいいわけじゃない。私、そんなに軽い女じゃないよ。本気で他の人とセックスしてできた子だって思っているの? 人間性を疑うよ。
 私は肌と肌を重ねるだけで充分だった。明人君は物足りないかなと、させてあげなきゃ可哀そうかなと思ってセックスしたんだよ。もったいぶっていたら私への愛情が冷めてしまいそうで不安だった。
 キスまでしたんだ、次はセックスしなきゃいけない。付き合っているなら、好きなら、別れたくないなら、セックスしなきゃいけない。濃厚なキスをされる度に自分を追い込んだ、――セックスは愛情表現の最終形と思っていたから。
 本当の気持ちを言えばよかったの? セックスは嫌だって。キスも嫌だったって。手を繋いで、腕を組んで、一緒にいるだけで私は満足だったのに、って。
 いくら好きでも他人と舌を絡めるなんて、唾液が、汗が、精液が自分の体につくなんて汚らしくて我慢ならなかった。セックスは荒々しくて、生々しくて、痛くて、怖くて、苦痛でしかなかった。四つも年上なんだから避妊ぐらいしてくれると思っていたって。
 傷つくでしょう? 「唯はいい子だ」なんて、「好きだ」なんて思えなくなるでしょう。だから避けていたんだよ。顔を見たら全部ぶちまけてしまいそうだったから、考えつく限りの罵詈雑言を浴びせてずたずたに傷つけてしまいそうだったから会わずにいたんだよ。
 受け止められないくせに、傷つくくせに被害者面しないで。私だって必死に耐えていたんだよ。
 私個人の悩みなら私自身を知ってもらうきっかけになる。私の家族や友達関係といった彼とは全く関係のない相談なら私への愛情が深まるきっかけになるかもしれない。
 けれど、怒りのままに相手を否定し、傷つける言葉は二人の関係を修復不可能なほどに壊してしまう。
 ……結局、私は明人君の前では「いい子」でいたかったんだ。大人しくて、素直な、明人君がイメージする白木唯を先走って演じていたんだ。ありのままの私では受け入れてもらえないと知っていたから。
 スマホを手に取り、文字を打つ。
 画面がぼやけ、透明の滴が落ちる。袖で拭い、文字を打った。
 それでも頼れるのは明人君しかいない。明人君しか……。
「十一月○日の土曜日、二時半にアイワ病院を予約しました。よろしくお願いします」
 メールを送信する。すがる思いでスマホを握りしめる。
 ――……お願い、私をたすけて……。

「その日は補講があるので遅れて行きます」
 明人君からメールが届いたのは四日も経ってからだった。

 土曜日の午後、病院の駐車場にある花壇に腰かけ、明人君を待つ。
 待ち合わせの時間になっても明人君は現れない。
 そばにある室外機が唸りながら温風を噴き出す。
「邪魔だ、どけ」と追い立てられているようで居たたまれず、何度も腰を浮かした。
 ――……あと五分、待とう。
 私は背中を丸め、息を潜める。
 五分が過ぎ、十分、十五分経っても明人君は来なかった。
 どうして来てくれないの。まだ疑っているの。明人君との子どもだよ。間違いないよ。明人君のこといろいろ責めたけれど、やっぱり明人君が好き。私には明人君しかいない。
 私、今日すっぴんで来たんだよ。「化粧は嫌い」って明人君が言っていたから、高校生ってばれるのを覚悟で化粧をせずに産婦人科に来たんだよ。明人君が私を信じてくれるように、私は何も変わっていないって分かってもらえるように素顔のままで来たんだよ。
 明人君と一緒なら周囲から白い目で見られてもきっと耐えられる。だから来て。早く、お願い。
 固く両手を組み祈った、――「来て」と。

 一時間が過ぎても明人君は現れなかった。その間に女性が二人、三人と病院に入って行った。
 私は花壇に腰かけたまま、ぼーっと空を見上げた。抜けるような青空がどこまでも広がる。
 ――……ああ、そうか。本当に何もないんだ。
 空虚とか、空洞とかいうもの。昔の人は知っていたんだ。空がどんなにきれいに見えても本当は存在しないって。
 太陽の青い光が散乱して青く見えるだけで、青いガラス板がはめ込まれているわけでも、青い垂れ幕がかかっているわけでもない。太陽がなければ、月がなければ、星がなければ、巨大な黒い穴なんだ。
 人間は巨大な穴を見上げ、美しいと感動し、祈っているんだ。
 私も同じ。明人君という偶像にすがりついていた、がらん洞とは知らず。
 女性が一人、病院から出てくる。マタニティ服に身を包み、いつ産まれてもおかしくないくらいお腹が突き出ている。立ち止まり、小さな写真をじっと見つめ、穏やかに微笑む。写真をピンク色の手帳に挟み、バッグを肩にかけ直し歩き出す。
 とても幸せそうだった。
 きっと、あの人は結婚していて家族や友達にも祝福されているんだ。大きくなるお腹を旦那様と一緒に喜んでいるんだ。
 膨らんだお腹を隠さず堂々と通りを歩ける、それだけで私とは違う。
 私は高校生で妊娠した。彼氏にも見捨てられた。一人では怖くて病院に入れない。待合室にいる人達は好奇の目を向け、受付の人は驚き、看護師は苦笑するだろう。診察を終えた医師は苦りきった顔でこう言うんだ。
「最近の若い者はこれだから……」
 私は両足を開いたぶざまな格好のまま動けなくなる。
 ニンシン
 なんて嫌な響き。子どもを望む女性には至上の喜び、望まない女性にとっては地獄の苦しみでしかない。
 女が駐車場の一角で電話をしている。診察の結果を旦那にでも報告しているんだろう。弾んだ声がここまで聞こえてくる。
 ――……死ねばいい。
 不意に殺意が芽生えた。派手に倒れて流れてしまえばいい。腹を轢かれてのたうち回ればいい。股から血を流し取り乱す女を見たらスカッとするだろう。
 スマホを耳に当て笑う女が私には手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じられた。
 襟ぐりから覗くホクロ、口の周りにできたほうれい線、服のシワ、スマホに貼ったシール……。幸せを誇示するように背中を逸らし、大きなお腹を突き出していた。
 うなじがすっと冷える。頬がピリピリとし、腰の辺りがぞわぞわとする。
 駐車場の出入り口付近でスマホを耳に当て立ち止まる女の前を車が走り抜ける。
 辺りに人がいないかさっと視線を走らせ、黒い車が視界の端に映ると同時動いていた。
 女に吸い寄せられるように体が動く。足元がふわふわと頼りなく、「早く、早く」と気持ちだけが急いた。
 背中がぞくぞくとし、手がやけに冷える。
 向かい風が顔面をあおり、口角が引き上がる、――嗤うように。
 女の肩甲骨と肩甲骨の間へ両手を伸ばし、ぴりぴりと痺れる己の指先に力を入れる。ふわふわする足の爪先に全体重をのせ、上半身が傾いた瞬間、道路を直進すると思っていた黒い車は病院敷地内に入ってきた。
 女はすっと横に避け、力を加える対象を失った私は前のめりに大きく二歩、三歩と足を踏み出した。
 黒い車がクラクションを鳴らし私のすぐ脇を通り過ぎる。
 スマホを耳に当てた女は訝しげに私を見下ろしたが、何もなかったように道を渡って行った。
 汗がどっと噴き出す。幾筋も首筋を伝い、襟を濡らした。寒気が治まらず、体がガタガタと震えた。
 私は体を丸め、膝を曲げ、両腕を垂らし、巨大な蚤のような姿勢で門の陰に崩れ落ちた。門の鉄柵に手をかけ、黒い土に一滴、また一滴と吸い込まれる汗を見ていた。
 風が頭を殴り、背中を打ち据える。頬が切られるように痛かった。

 私と明人君の関係は終わった。
 少なくとも私の中で明人君の存在価値はゼロになった。
 彼は臆病で、卑怯な人。明人君からメールが来たのは深夜になってからだった。
 “行けなくて、ごめん。補講が長引いて……。病院、どうだった?”
 馬鹿かと思った。自分の子どもができたかもしれない時に補講を優先するの? こんな大事なことをメールですますの? 赤ちゃんができたって重大なことじゃないの? 電話をかけてくるのが普通でしょう。
 恋愛って一瞬で堕ちて一瞬で冷めるものなのかもしれない。恋愛ですらなかったのかも。明人君はセックスができる彼女がほしかったから、私は息苦しい毎日から逃れたかったから恋をしている気になっていたんだ。
 公園に私を一人置き去りにした時に、私の訴えを最後まで信じてくれなかった時に、病院に来なかった時に、彼への愛情は跡形もなく消えた。
 ――……二度と会いたくない。
 私はメールを返さなかった。

 ※

 四時限目は体育。
 男子は鉄棒と持久走、女子は百メートル走と走り幅跳び、それと高跳びだ。女子は三グループに分かれ、三つの競技をこなしていく。一つの競技につき二回記録を取り、いい方を結果に残す。
 私のグループは百メートル走からだ。
 走るのは嫌い。しんどい思いをして〇.一秒、〇.二秒を競ってなにが面白いのか。クラスメイトが颯爽と走るなか、私一人どたばたと手足を振る姿を想像すると滑稽でしかない。実際、私の運動神経は小学生で止まっている。百メートル走は十七秒台、走り幅跳びや高跳びも下から数えた方が早い。
 背が高ければ、足が長ければもっといい成績が残せるんじゃないかと思うこともしばしばだった。
 けれど今は、身長も体重も運動神経の悪さも気にならない。
 私はスタートラインに両手をつき、腰を上げる。
「用意、ピッ」
 笛の合図で飛び出す。
 腕を振り、脚をあげ地面を蹴る。風の抵抗を受け足がもつれそうになってもゴールを目指し加速する。
 景色が水飴のように溶け、クラスメイトの声援は己の呼吸音にかき消された。
 前へ前へと手足を動かし白いラインを走り抜けた。

「唯、すごいじゃん。タイムすっごい伸びたよ。めちゃくちゃ頑張ったじゃん」
 百メートル走を終えた後、千穂が頬を上気させ褒めちぎってくれた。
「……私にしては、ね」
 地面に座り込み、笑顔を返す。無理をしすぎた、お腹が痛い。
「唯、最近いいことあった? なんだか生き生きしてる」
 私は流れる汗をタオルで拭いながら「ないよ」と否定した。拭いても拭いても出てくる汗をタオルで押さえながら目を輝かせる千穂にそれとなく告げる。
「千穂に言ってなかったね。私、明人君と別れたから」
 千穂は笑顔のまま固まる。
「次は走り幅跳びだね。行こう」
 立ち上がり、歩き出した私の背後で千穂が素っ頓狂な声をあげた。
「ふぇえええええっー」

「なんで?」、「いつ?」、「どっちから?」
 昼食時、千穂はおにぎりをほおばっては質問し、牛乳を飲んでは質問する。私は苦笑し説明した。
「まだ、『別れて』とは言っていないけれどここしばらくは連絡を取ってない。原因は感情のすれ違い、かな。今はすっきりしているんだ。私にはまだ恋愛は早かったみたい」
 千穂は納得していないようだったけれど、それ以上は聞いてこなかった。反対に私が聞いた。
「千穂は賢二君とうまくいっているの? しばらく距離を置くって言っていたけれど」
 千穂は表情を緩め、「まあね」と頷いた。
「あれから二人で話し合って、離れている間にお互いの気持ちを再確認した。『やっぱり二人でいたいね』ってさ」
 千穂はちらりと私を見て、続けた。唯が大変な時にこんな話をしてごめんね、と言っているようだった。
「二人ともサッカーが好きで、お互いの頑張っている姿に惚れたわけで。だから今は『目標に向かって頑張ろう』って励まし合った。賢二はレギュラー奪取、私は県大会優勝と全国大会出場、ってね」
「……いいな……」
 ぽろりと、本音がこぼれた。千穂の表情がくもる。私は慌てて取り繕った。
「違うの。私もそうやって二人で冷静に話し合えればよかったなって。次付き合う人とは千穂と賢二君のように何でも話し合える関係を作るよ」
 そして改めて二人の復活を祝福した。
「おめでとう。よかったね」
「そうだ、今度遊びに行こうよ。バッティングセンターとかどう? スカッとするやつをさっ」
 千穂が元気づけてくれる。
「本当に吹っ切れているから。毎日楽しんでいるから大丈夫だよ」と笑った。

 千穂に言った通り、あれほどつまらなかった学校生活が今はとても充実している。学校に行って授業を受け、友達と雑談し、お弁当を食べて、補習を受けて家に帰る。きっと大学に行っても同じ。社会人になったら勉強が仕事に変わるのだろう。
 それでいい。平々凡々でもそこそこ幸せなら、不幸にどっぷり浸かる人生よりずっといい。
 妊婦の背中にふらふらと吸い寄せられていった自分を思い出し、私にあんな凶暴な部分があったなんて、と空恐ろしくなる。
 ――もし、あの時黒い車が駐車場に入ってこなかったら……。
 万引きしたうえ殺人まで犯したら私の人生は台無しだ。
 ううん、違うよ。違う。ちょっと驚かしたかっただけ。人殺しなんて大それたこと私にはできない。そうだよ、ちょっとふざけてみただけ。
 明人君からの連絡は途絶えたまま。「おはよう」や「おやすみ」のメールもない。
 失恋ってもっと辛いものだと思っていた。何日も泣いて暮らし、勉強も手につかず、食欲もなくなるのかと。
 私は違った。
 毎日寝すぎて困るくらいよく眠れる。吐き気やむかつきはだいぶ治まり食欲が増している。付き合っていた頃の遅れを取り戻そうと運動も勉強も頑張っている。
 会わない時間が長くなるほど明人君への想いも執着も薄れ、心が軽くなっていった。
 顔色を窺い、気を遣い、嫌われないかとビクビクしていた頃が嘘のよう。
 今が人生で一番、自由だった。
 妊娠は思い過ごしで単に生理が遅れているだけ。吐き気や胸の不快感はつわりでもなんでもなく、風邪のウィルスが胃腸を荒らしていたから。この止まらない食欲と眠気も冬眠する動物と同じ、体のサイクルからきているのかもしれない。
「うん、絶対そう」
 声に出すと真実だと思えた。
 だってあの検査薬、すごく埃をかぶっていた。箱もへこんでいた気がする。何年も十何年もあの棚に置かれているうちに壊れてしまったんだ。あの検査薬は不良品だ。
 その証拠に跳んだり走ったり、階段を駆け上がってもお腹は痛くならない。高い所から飛び下りたり、冷水をかけたり、拳で叩いても何ともない。
 そうだよ、お腹の中は空っぽなんだ。胎児なんていない、空っぽのすっからかんなんだ。
 ――絶対、そう。
 だって願っているもの。毎日毎日、朝も昼も夜も、食事中も入浴中もイレに入っている時も、夢の中でさえ願っているもの、――消えてしまえ、って。
 そうだよ、お腹は空っぽなんだ。気にしたら余計ストレスになって生理が遅れてしまう。
 大丈夫、お腹には何もいない。
 信じきっていた。それぐらい私は四六時中、お腹の中に向かって願い続けていた、――消えて、と。

 ※

 十二月に入り、庭先にクリスマスツリーを飾る家がちらほらと出てきた。コンビニの駐車場出入り口には大きなサンタのバルーンが揺れ、赤いとんがり帽子を被った店員が列を作る客に慌ただしく対応している様子が信号待ちの私からも見える。
 町中がもうすぐ来るクリスマスに浮かれていた。
 冷気が胸元に忍び込み、スカートの中へ潜り込む。私はコートの襟をきっちりと留め、自宅へと自転車を走らせた。

 部屋に鍵をかけ、コートを脱ぐより先にスカートのホックを緩める。
 赤いラインが入ったお腹をさすり、一息つく。
 スカートがきつくなってきた。
 ――……食べ過ぎだなあ。
 学校でも授業中以外はお菓子をつまんでいる。
 アメやクッキー、チョコレート、ポッ〇ー、菓子パン、ポテチ……、カロリーが高い物ばかり。
 千穂やクラスメイトから貰うこともあるし自分で持って行くこともある。もちろん先生には内緒で。
 千穂はサッカーをしているから太る心配はないとして私は帰宅部。運動はしないし寒いから外出もしない。
 ――さすがにまずいよね、このお腹……。
 指でつまんでみる。ぽっこりと出た白いお腹はたるみなく張り、お父さんのビール腹を小さくした感じだ。
 お腹をさすり決心する。
 間食を減らし運動をする。
「ダイエット?」と千穂にからかわれるだろうけれど「お菓子は一切食べない」ときっぱり断ろう。そして毎日三十分ジョギングをする。
 お腹をさする指に柔らかなものが触れる。ふわふわとした頼りない触感。
 ――……なに……。
 お臍の下を撫でさすり下着の中に手を入れる。さらさらと極細の糸のような物が中指と薬指の間に挟まり、そのまま手を抜いてみる。ほんのわずかな、テレビでも観ていたら気づかないくらいわずかな痛みを生じる。指と指の間に挟まっていたものは透き通るほど色素が薄く、猫の毛より細い毛だった。
 下着を太腿までずらしお腹全体を撫で回す。ちょうど下着で隠れる部分から腿の付け根辺りまで薄茶色で極細の毛がびっしりと生えていた。
 ――えっ、なにこれ。産毛?
 上半身は制服を身に着け、下半身は下着を太腿までずらした不格好な姿のまま姿見の前に立ち、お腹を触る。
 ぽっこりと出た白いお腹の下に薄茶色の産毛が密集していた。
 頭をガツンと殴られた気分だった。
 ――……私ってこんなに毛深かったの?
 慌てて制服を脱ぎ、全裸のまま着替えを手に一階お風呂場に駆け込む。お母さんに見つかったら大目玉だ。
 お腹にシャワーをかけ、ボディーソープをたっぷり塗りつけ、お父さんの髭剃り用のカミソリを借りる。
 刃の動きに沿い無数に生えた産毛がなんの手応えもなく肌から離れ、排水口へ流れる。集まった毛が排水口の蓋に引っかかり薄茶色の毛玉を作る。結構な量だ。
 女子高生の私にとって大量のムダ毛はかなりショックだ。
 腕に生えたムダ毛をピンセットで抜いたり、顔をしかめガムテープではがしたりする友達を、そこまでしなくても……と横目で見ていた。私自身、脱毛するほど自分が毛深いと思ったことはない。
 寒さに弱い私は冬場は常にタイツや保温下着を身に着け、もちろん肌を露出することはなく、脱ぎ着も迅速にしていた。トイレはさっさと終わらせ、入浴剤入りの白濁したお湯にゆっくり浸かり、体は手早く洗っていた。
 要するにここしばらくムダ毛のチェックをしていなかった。
 ――……他は。他はないかな?
 腕、脇の下、腰、すね、ふくらはぎ……、全身をくまなくチェックする。他の部分は生えていないようだ。
 ひとまず安心し、スポンジにボディーソープをたっぷりつけ全身を洗う。前々から気になっている黒ずんだ乳頭も丁寧に洗う。洗う回数を増やし、いくら丹念に洗ってもピンク色に戻らない。
 ――もう一回洗っておこう。
 ボディーソープのボトルに手を伸ばした時、鏡に映る白いお腹が目に入った。
 前屈みになるとお腹のふくらみが強調され不自然なほどポッコリと下腹が突き出ていた、腕と脚の太さは変わっていないのに……。
 ふっと、湯気が立つシャワーが冷たくなった。
 ――……もしかして……。……いるの……? 
 おそるおそる乳房を両手で押さえ、膨らんだお腹を凝視する。
 生理はまだ来ない。常備していたナプキンは鞄の中でしわくちゃになっている。
 止まらない食欲も、頻繁に催す眠気も、丸いお腹も、体重増加も多量の産毛も黒ずんだ乳首も全部、……妊娠しているから?
 体の力が抜け椅子から滑り落ちた。腰を打った痛みよりタイルの冷たさと衝撃が背骨を伝い頭を揺さぶった。
 ――……いるんだ……本当に……。思うだけじゃ、呪うだけじゃ、いなくならないんだ。
 両腕でお腹を覆う。
 甘く、考えていた。妊娠なんてしていないと思うことで現実から逃げていた。いつも通りの自分を演じていれば、変わらない日常を楽しんでいればなかったことにしてしまえると思っていた。そのうち生理も来るだろうと。
 でなきゃ妊娠検査薬で二回も陽性が出、お腹が出てきたのに「太った」なんて思えるはずがない。
 出しっ放しのシャワーのお湯で排水口にとどまった産毛がぷくりと膨らむ。ノズルをいっぱいに回しお湯の勢いを強くしても流れない。指でつまみ、排水口のフタを外し、捨てた。
「うぅ、あっ、あっ」
 嗚咽を必死に抑え込む。
 叫びたい。叫んで、思いっきり泣きたい。何も考えられないくらい腹の底から声を上げてわめき散らしたい。声が喉を突き破り、歯をこじ開け、外へ飛び出そうとしていた。
 シャワーを全開にし、ぎゅっと目を閉じる。必死で奥歯を噛みしめる。
 叫びたい。泣きたい、わめきたい、罵りたい、怒りの限りぶちまけたい。なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの。
 明人は、あいつは逃げたのに、私は苦しまきゃいけないの? このお腹にいる得体の知れないモノに私の一生を台無しにされるの? そんなの嫌!
 お母さんは許してくれない。娘が妊娠したなんて知ったらお母さんは嫌悪と怒りのままに私を責め立てる。怒りのまま「相手は誰なの」と問い詰め、泣いて謝っても許してくれない。
 お母さんだってセックスして私を産んだくせに「いやらしい娘だ」って、「自分のことさえ満足にできないくせにやることだけはやっている」と私だけを責めるんだ。自分だってお父さんとやっていたくせに。やりまくっていたくせにっ。お父さんは庇ってくれないかもしれない。
 冷えたタイルにうずくまり、しゃくりあげる。
 己の甘さを呪った。

 今までは私一人の体だった。
 食べた物は全て「白木唯」という体のためだけに使われ、蓄えられ排泄されていた。今は、勝手にお腹の中に居つき人間になろうとしている生き物のために使われている。
 ――どこまで、成長しているんだろう。
 もう、頭はできあがっているだろうか。顔の凹凸はあるだろうか。手や足が生えて、指もあるかもしれない。
 ぞっとする。止めてほしい。いなくなって、お願いだから……。
 両手を握りしめ必死に祈る。
 ――……駄目、思うだけじゃ。
 願うだけじゃこの子はいなくならない。思っているだけじゃ今までと同じになってしまう。
 避妊できなかったのも相手に期待するだけで何も言わなかった私の甘さが原因なんだ。
 私は日記帳を取り出した。明人君の部屋に泊まったあの日以来、書いていない。
 ――……調べよう。
 妊娠のこと、出産のこと、中絶のこと。
 日記はもう書かない。これからは集めた情報を書き記そう。
 私は明人君と付き合っていた日々を書き綴ったページを破り、細かく裂いてごみ箱に捨てた。

 家でいる時間のほとんどを情報集めに費やす。
 スマホを片手に役立ちそうな情報を日記帳に書き込む。
 ――鍵付きにしといてよかった。
 秘密の事柄を書き込むにはちょうどいい。
 十代の妊娠、週数の数え方、経過、中絶手術、費用、体験談……、関係ありそうな単語を片っ端から検索する。
 調べて分かったこと。
 『妊娠週数は最後に生理が始まった日から数える』そうだ。つまり、セックスをして生理が一週間遅れているなと気づいた時点で、五週目、六週目になっているらしい。
 中絶手術は産婦人科ならどこでも受けられるわけではなく、母体保護法指定医師がいる病院でなければ受けられない。妊娠十一週までなら費用は十数万円、日帰りで手術ができる。妊娠十二週以降は入院しなければならないという。
 私が予約した病院は中絶手術ができたんだっけ? 検査薬で陽性が出た時点で無理やりでも明人君を呼び出し病院に駆け込んでいれば間に合ったかもしれない。
 苦い後悔が胸に広がる。
 ――……無理だ。
 事実を知っていてもできなかった。
 明人君の冷たい目が、鋭い言葉が突き刺さっている、まだ。
 吹っ切れたなんて嘘。今でも明人君からのメールを待っている。アドレスを消せないでいる。「別れて」と言えないでいる。
 全然吹っ切れていない。以前のような関係になりたいと今も夢見ている。
 ――もう一度やり直したい。
 こみあげるものを抑えきれず、両手で顔を覆った。

 私は妊娠十二週くらい。
 この頃の胎児は心臓が拍動し、胎盤と臍の緒を通し母体から栄養を貰うようになるらしい。手足を動かし、羊水の中を自由に動き回るという。
 もう心臓が拍動しているのかと思うとショックだった。体が完全にできあがる前から羊水の中を自由に動き回っているなんて、……あんまりだ。
 妊娠十一週までの初期中絶は不可能、私は妊娠十二週から二十一週の中期中絶に当てはまる。中期中絶の費用は四十万円前後、一部保険が適用されるらしく、通常の出産とほぼ同じ方法を行うため入院は三、四日を要する。
 『未成年者であってもパートナーの同意書があれば親の同意は不要であるが、手術後に娘が中絶をしたと知った親から訴訟されるのを恐れ、親の同意を求める病院は多い』らしい。
 《まずは相談しましょう。予定外の妊娠はこちらのメールかダイヤルへ》
 危うく、青く浮き出たアドレスをクリックするところだった。
 ――……相談してどうなるの。
 中絶費用を払ってくれる? 彼氏の代わりに中絶手術の同意書にサインしてくれる? 親になんて言い訳するの? 親に黙って三日も四日も外泊できない。学校だって休めない。
 相談したって最後はどうせこう言うんでしょう?
「親に事実を話しましょう」、「親の協力なしには解決できません」って。
 ばれたら家を追い出される。学校に行けなくなる。それこそ本当に一人ぼっちになってしまう。
 中絶に対する誹謗中傷は呆れるくらいネットに氾濫している。
 堕ろされる赤ちゃんの気持ちを考えたことがあるか。自分が要らない子だって言われたら傷つくだろ。人殺し、殺人者、鬼母、……感情的な批判ばかり。
「私も母親から要らない子と、中絶するつもりだったと言われて育ちました」と自分の境遇を書き綴り、「お願いです。赤ちゃんを愛してあげて下さい。産んであげて下さい」と懇願する投稿もある。
 じゃあ、あんたにあげるよ。私が産むからあんたが育てて。名前と住所を教えてくれたらのしつけて送るよ。
 子育てを手伝ってくれるわけでも、生活費をくれるわけでも、私の一生を保証してくれるわけでもない見ず知らずの第三者に非難も懇願もされたくない。
 本屋で妊娠と子育てに関する本を買う勇気はなかった。誰が見ているか分からない田舎町、噂が広がらないとも限らない。私ができるのは誹謗中傷が混在する不確かなネットの情報を渡り歩くことだけ。
 顔も知らない奴らの言葉に傷つき、すすり泣き、情報をかき集める。画面に涙が落ちても袖で拭き取り、指を動かした。
 なんで私だけこんなに苦しまなきゃいけないの? 女だから? 女だと産まなきゃいけないの? 育てなきゃいけないの? 愛さなきゃいけないの? 女だから責められるの?
 文字が滲んで読めない。スマホを脇に置き、顔を覆った。
 『高校生でセックスする奴が悪い』
 ネットで散々書かれている言葉。
 分かっているよ。避妊もせずセックスした私が悪い。
 でも、でも、小説でも漫画でも雑誌でもビデオでも平気でセックスしてるじゃない。避妊具なしで「安全日だから」、「外に出すから」って平気でしているじゃない。中出ししても妊娠しないじゃない。裸で抱き合っている写真を、キスしている写真だって、私達ラブラブとかデコ文字つけてSNSに載せているじゃない。
 鼻息荒く責め立てている人達だって毎回毎回ゴムを着けているの? 一回目も二回目もゴムを着けているの? 外に出して済ませたこともあるんじゃないの? 子どもができなかったのは運が良かっただけでそれに胡坐をかいているだけじゃないの?
 私はセックスがしたかったわけじゃない。ただ、好きな人と肌を重ねる行為がすごく美しく、幸せそうに見えた。
 ゆっくり時間をかけて相手を知り、深く理解し、そのうえで相手の全てを受け入れる行為がセックスだと……。
 全部、まやかしだった。
 セックスは愛がなくてもできる。挿れて出すだけだもの、五分か十分あれば、トイレででもできるんだよ。学校で教えなくても、親が知らないふりをしても、子どもは、私は、皆、知っているんだよ。そこらじゅうに情報は溢れているんだから。
 私はセックスができても避妊がどれほど重要かは知らなかった。付属品がついてくるなんて。よりによって自分がそういう目に遭うなんて。
 涙を拭き、またスマホを手に取る。
 指を動かし、知りたい情報を探す。誹謗中傷を目にしても探し続けた。

 ※

「唯、今週の土曜日、空いてる? 一緒に映画行かない?」
 休み時間、千穂は映画のチケットを二枚差し出した。
「前売り券を買っちゃってさあ。一枚余らせてももったいないでしょ。お金はいらないから行こうよ」
 香港が舞台の、サッカーとカンフーが織り交ぜられた、いかにも千穂と賢二君のためにあるアクション映画だ。
「賢二君と行くんじゃなかったの?」
 千穂は悪びれずに言った。
「賢二は対外試合が入ったんだ。あいつ今、レギュラーになれるかなれないかの瀬戸際でさ。休めないわけ」
 屈託なく笑う千穂を真っ直ぐ見られない。腹の底からどす黒い煙が立ち昇る。……千穂が疎ましい……。
 千穂はチケットを一枚、私に押しつけた。
「ね、行こう。一人で観るのも味気ないしさ」
 私は醜い。
 サッカーボールを追いかける千穂が、彼氏と理想的な付き合いをしている千穂が、友達に囲まれている千穂が羨ましい。堂々と自分の人生を楽しんでいる千穂のそばにいると己がいかに惨めで愚かな存在かを思い知らされる。
 千穂と遊んでいる時間がもったいない。映画を観る時間があったらスマホを検索したい。それに、二時間以上隣同士で座ったらお腹のふくらみに気づかれてしまわないか、怖い。
 誘いを断わる勇気はなかった。
 千穂に嫌われたくない。千穂を悲しませたくない。傷つけたくない。
 千穂がいたから友達ができた、高校生活が楽しめた。明るさや強さ、夢、情熱、優しさ……、私が欲しいもの全てを千穂は兼ね備えていた。千穂は私の理想であり、希望だった。
 私は精いっぱいの笑顔を作って言った。
「うん、行こう」
 声が上ずっていた。

 時間が惜しい。
 私は勉強そっちのけでスマホをいじる。情報は既に読んだものばかり。望まない妊娠をした相談者への誹謗中傷、それと懇願。赤ちゃんの心配はしても相談者である母親にはない。誹謗中傷も懇願も全て赤ちゃんのため。妊娠した相談者には要求ばかりが突きつけられる。
「赤ちゃん、可愛いですよ」、「きっと幸せになれます」、「私も予定外の妊娠だったけれど産んで良かったです。こんなに可愛いとは思いませんでした」
 新手の宗教みたい。赤ちゃんは可愛い、母親なら赤ちゃんを愛せる、どんなに生活が苦しくても愛情さえあれば育てられる。
 子どもを愛せるって決めつけないで。幸せになれるかどうかなんて他人に分かるの? 産んで愛せなかったらどうするの? 私は要らないのに、要らないのに、要らないと言っているのに!
 『聞き分けがいい子』、『素直で大人しい子』――それが私の評価だった。
 小学校の先生にも、近所のおばさんにも、中学校の担任にも言われた。要するに扱いやすいってこと。
 お父さんもお母さんも忙しかったからわがままを言わなかっただけ。聞き分けのいい子を演じていただけ。素直な子は万引きなんかしない。妊娠なんかしない。子どもの死を願わない。
 友達がいた。本があった。漫画や音楽もあった。おやつもご飯も不自由なく食べられた。一人でも全然寂しくなかった。むしろ居心地が良かった。勉強さえしていれば制限されず、強制されず、自由だった。土日に家族三人で会話ができればそれで充分だった。私の家族はお父さんとお母さんだけでいい。あんたが入る余地なんてこれっぽっちもないんだよ。
 私はペンを握りしめ、日記帳に大きく「死ね」と書きなぐった。

 ※

「面白かったねー。主人公のマックスがサンダーシュートでマフィアのボスを吹っ飛ばすところ、最高だった」
「うん、最後よかったね」
 ショッピングセンター二階にあるカフェスペースで千穂はミルクココアを、私はレモンティーを飲みながら、先ほど観たアクション映画の感想を言い合った。
 千穂は上気した顔で手を使い、足まで出して話をする。
「あのボスキャラ、マジうざかったー。やられてすっきりしたー」
 表情をころころ変えて語る千穂が羨ましい。
 同じ高校生で、彼氏を作り、セックスをした。千穂は妊娠せず、私はした。性格が明るいとか兄弟がいるとか、たくましいとか以前に、私と千穂は違う。
 千穂は避妊をしていた。生理になった日に印をつけていたし、ピルを病院で貰っていると言っていた。試合と予定日がぶつかりそうだったら薬で遅らせるとも言っていた。
 『ピルは生理の症状を和らげる他に避妊の効果もある』と後で知った。
 意見をはっきり言う子だもの。
「コンドームをつけないならさせないよ」くらい言っていたかもしれない。
 千穂は女性としての自分の体をきちんと管理しているんだ。
「恥ずかしくても病院行った方がいいよ」
 千穂が忠告してくれた時に病院に行っていれば状況は違っていた。少なくとも、病院でピルを貰っていれば妊娠しなかった。
 口に含んだレモンティーがやけに苦い。
「あー、ちいちゃんだ。ママー、ちいちゃんがいる」
 幼稚園くらいの女の子がお母さんの袖を引っ張り、こちらを指さす。女の子の後ろから女の人が赤ちゃんを抱っこし、カートを押しながら近づいてくる。
 千穂は映画の話に夢中で気づいていない。
 私は映画館でもしていたように膝にかけたコートを胸の下まで引き寄せ、パンフレットを広げた。
 女の子が千穂の腕をボンッと叩き、千穂がばっと振り向く。
「ひなっ? なんでいるの?」
「千穂ちゃん」
 すかさず女の人が声をかける。
「ゆう子ちゃん? 買い物? 退院したばかりじゃん、いいの?」
 千穂は年上の女の人を気安く『ちゃん』付けで呼んだ。
「ゆう子ちゃん」は苦笑混じりに答える。
「私が買い物しなきゃ家族全員飢え死によ」
 女の子が千穂の傍らで「ちいちゃん、何飲んでるん?」とテーブルに頭を出す。
「ミルクココア、いる?」
「うんっ」
 千穂は優しい笑顔で女の子の前にカップを置いた。
「ママぁ、ちいちゃんがココアくれたぁ。飲んでもいい?」
「ひなちゃん、お行儀悪いわよ。千穂ちゃん、甘やかさないで。最近ひなはだだっ子で困ってるのよ」
「子どものうちは甘やかした方がいいんでしょ? ゆう子ちゃんが言ったんだよ」
 千穂は笑って私に紹介してくれた。
「浜本ゆう子ちゃんは私のお母さんの妹で、つまりおばさん。ひなちゃんはおばさんの子で私のいとこ、こっちがこの前生まれたゆうすけ君」
 ゆう子さんは「こんにちは」と会釈し、私はぺこりと頭を下げた。
「ちょっと座らせて。疲れたー」
 ゆうこさんは隣のテーブルの椅子をこちらに寄せ、「よいしょ」と座った。
「ゆう子ちゃん、年寄り臭いよ。まだ三十六でしょ」
「年は言わない。出産したばかりでまだ本調子じゃないのよ」
 ゆう子さんは肩をゴリッ、ゴリッと回す。
「買い物多すぎなんじゃない? オムツそんなにいらないでしょ」
 カートに山と積まれたオムツは片手で押さえていないと崩れそうだ。カートに付いたベビーシートにもオムツの袋が一つ突っ込まれている。
「今日、オムツの大安売りなのよ。買えるだけ買っとこうと思って」
「出産すると体調が悪くなるんですか?」
 タイミングがずれた私の質問にゆう子さんは丁寧に答えてくれた。
「そうねえ。出産後一か月は動かない方がいいって言われているわね。産後は骨盤や筋肉が緩くなっているから重い物を持ったり、動き回ると腰痛が悪化したり、不調をひきずったりするの。私は上の子がいるからじっとしているわけにもいかなくて。ひながしゃんしゃん動いてくれれば助かるんだけれど、ゆうすけが産まれてから赤ちゃん返りしちゃってね。『抱っこ、抱っこ』ってうるさいの。それが一番堪えるわね」
 カップを両手で支え真剣な表情でふうふうと息を吹きかけるひなちゃんにゆう子さんは優しいまなざしを向ける。ゆう子さんの手は抱っこ紐の中で大人しくしているゆうすけ君の背中に添えられていた。
 千穂は抱っこ紐の中へ指を伸ばし、ゆうすけ君の頬でもつついているのだろう、笑いかける。
「ゆうすけ君、可愛くなったねー。病院で会った時は猿みたいで、これはどうしたものかと心配したんだぞー」
「失礼ね。生まれたてはそんなもんよ」
 ゆう子さんは唇を尖らせる。本気で怒ってはいないようだ、すぐに笑顔になる。千穂も笑っていた。
「抱っこする?」
「うん、するする」
 ゆう子さんは抱っこ紐を緩め、ゆうすけ君を千穂に渡す。千穂はゆうすけ君を慣れた手つきで抱っこする。
「あーん、可愛いー。小さーい。あったかーい。私も赤ちゃん欲しくなってきた」
「ひなとゆうすけのお下がりでいいなら取っておくわよ。産む時言って」
 ゆう子さんは冗談とも本気ともつかないことを言う。
 千穂は笑い飛ばす。
「そんなこと言ってまだまだ産むつもりなんじゃないのぉ?」
「私はもういいわ。これ以上産んだら体がガタガタになりそう。前日の夜八時過ぎに陣痛が来て、生まれたの翌朝よ。やっと休めると思ったら、やれ朝食だ、昼食だ、授乳だって起こされて全然眠れなかった。会陰切開したでしょう。縫ったところが痛いわしみるわでトイレが辛くて、酷い便秘になったのよ。縫うのが下手なのよ、あの医者。病院変えるんじゃなかった」
 千穂は声を上げて笑った。
「今はいいの?」
「まだまだこれからってところ。疲れやすいし、無理するとすぐ腰にくる。今日は帰って一回横になるわ」
 ゆう子さんはやれやれというふうに腰をさすった。
 経験者による重要な証言だ、私は平静を装いながら聞き耳を立てた。
「唯、抱っこしてみる?」
 千穂がゆうすけ君を私に向ける。
 私は躊躇した。抱きたくない。でも、断ったら子どもが嫌いなんだと思われる。変に疑われたくない、今は特に……。
「……うん……」
 私は手を伸ばした。両腕に滑り込んできたゆうすけ君は温かくて、ズシリと重かった。
「首の後ろを腕で支えといてね」
 千穂が抱き方を教えてくれた。
 ゆうすけ君は温かくて、柔らかくて、重かった。大きな澄んだ目で私をじっと見ている。私は醜い心を覗かれているようで居たたまれず、話しかけることも笑いかけることもできなかった。
「……ありがとう。もう、いい」
 私はゆうすけ君をゆう子さんに返した。
 ゆう子さんは「重いでしょう、よく太っているから」と笑った。
「……いいえ……」
 とても、幸せそうに見えた。化粧っ気がなく、髪を後ろで一つに束ね、服装も普段着という出で立ちなのに輝いていた。理想の母親像が目の前にいた。
「ゆうこちゃん荷物持つよ」
 千穂は立ち上がり、「いいわよ。お友達と遊んでよ」と遠慮するゆう子さんからカートを奪い取る。
「ごめん、唯。ここで解散にしていい?」
「うん、私はもう少しお店を見て回る」
「じゃあ、また学校で」
「ごめんなさいね」と二度、三度頭を下げるゆう子さんとバイバイをするひなちゃんに手を振り返し、千穂達の後ろ姿を見送った。

 千穂は嘘をついている。
 赤ちゃんが欲しいなんて思っていないくせに。知っているもの。千穂がどんなにサッカーが好きか、サッカーに打ち込んでいるか。欲しくても今じゃないんでしょう? 今、赤ちゃんを貰っても困るでしょう? サッカーができなくなるもの。
 休日のショッピングセンターは大勢の人でごった返す。手を繋ぎ歩く母子、車のカートに乗りハンドルをこね回す子ども、ハートのバルーンを手に嬉しそうに笑う女の子とその家族。
 皆、思い思いに幸せを見せびらかしている。
 私は手に持ったパンフレットをバッグにしまい、両腕を下げ、通路の真ん中で立ち止まる。
 千穂は気づかなかった。三時間近く隣に座っていた私のお腹を一度も見ることなく、映画に没頭していた。
 私が心配するほどお腹は目立っていないのかもしれない。むやみに隠そうとすればするほど怪しまれる。
 行き交う人誰もが笑いながら、しゃべりながら私をすり抜けて行く。
 私は背筋を伸ばし、両腕を垂らしたまま、ショッピングセンター五階にあるベビー用品売り場に向かった。

 フロアの半分を占めるベビー用品売り場は子ども連れで溢れていた。
「今日は全品二割引き。五千円以上お買い上げの方にワンチャンス。外れくじなし、一等は二万円の商品券です」
 店のロゴ入り制服を着たおじさんが鐘を鳴らし客を呼び込む。大きな買い物袋を両手に提げた人達が八角形のガラガラ抽選機の前に長い列を作っていた。
 私は列を迂回し店内に入った。
 天井まで届く棚に紙オムツが一つ引っ張り出せば二つ、三つと落ちてきそうなほどぎゅうぎゅうに詰められ白い壁と化していた。オムツの見本が暖簾のようにぶら下がる。粉ミルクはピラミッド型に積まれ、瓶入りの離乳食や袋入りのおやつが棚にずらりと並ぶ。哺乳瓶や乳首、消毒液、ベビーシャンプーにベビーローション……、多種多様な商品がメーカーごとにサイズごとに並べられていた。
 肌着やおむつカバーは包装された状態で陳列され、ベビー服がずらりとハンガーで吊るされている。帽子を被りベビー服を着た赤ちゃんのマネキンと抱っこ紐を着けベビーカーを押す女性のマネキンが展示されていた。
 子ども部屋を模したスペースには低いジャングルジムや歩行器、ベビーチェアが置かれ、本棚には絵本が並べられている。
 商品の数と種類の多さに圧倒された。どれを選び、どうやって使うのか……、全部揃えないといけない気がした。
 閉め切られた部屋で赤ちゃん用品に囲まれ、泣き止まない我が子を必死であやす光景が脳裏をよぎる。
 立ちくらみがした。
 カランカランカラン……、「大当たりー。一等出ました!」
 高らかに鐘の音が鳴り響き、歓声とざわめきが起きる。
 息苦しさに襲われ、足早に売り場を離れた。

 なぜ、ゆう子さんはあんなに幸せそうだったんだろう。
 家族仲がいいから? 旦那様が育児に協力的だから? 経済的に裕福なんだろうか?
 どれも違う気がした。
 オムツが安売りだから買えるだけ買っておく、と言っていた。人込みの中、生後間もないゆうすけ君を抱っこしひなちゃんを連れ、オムツをいっぱい積んだカートを押すゆう子さんの傍に旦那様の姿はなかった。シングルマザーではなさそうだけれど育メンパパでもなさそうだ。
 じゃあ、なぜそんなに幸せそうなの。
 髪はぼさぼさで、けばだつニットによれよれのロングスカート、化粧もしていなかった。それなのに輝いていた。
 子どもが可愛いから? ひなちゃんを見つめるまなざしに、ゆうすけ君の背に添えられた手に、子ども達に対する愛情を垣間見た。
 ゆうすけ君を抱っこした感触が両腕に残っている。
 熱く感じるほどの温もりと支えなければ崩れてしまいそうな柔らかさ。抱いていると腕が痺れてきて、落とすまいと両腕に力を入れた。小さな体にミルクの甘ったるい臭いがしみこみ、澄んだ瞳でじっと私を、私という人間を見定めていた。
 もっと弱々しいと思っていた。もっと儚く、真っ白なものと。泣くしかできない無知な存在だと決めつけていた。
 腕に抱いた赤子は無力ではあったけれどはっきりとした存在感があった。小さな手を握り、大きな黒目を真っ直ぐこちらに向けていた。まなざしに確かな意思を感じた。
 ――……この子、生きているんだ。
 生後間もない赤子にも意思がある。当たり前のことを思い知らされた。
 私のお腹にいる胎児も意思を持っているのかもしれない。母親である私の想いを、臍の緒を通し感じ取っているのかもしれない。感じ取り、お腹の中で悲しんでいるんだろうか。
 まだ引き返せる。考え直してみようか。産んでみたら可愛いと思えるかもしれない。愛せるかもしれない。ゆう子さんのようになれるかもしれない。
 お母さんとお父さんに膨らんだ下腹部を見せて、「私、妊娠しちゃった」と打ち明けてみようか。
 謝って、謝って、謝って、何度も頭を下げたらお母さんもお父さんも許してくれるかもしれない。
 学校には行けなくなるけれど勉強が辛かったから高校中退も悪くない。お父さんとお母さんに養ってもらいながら家でゆっくり子育てするのもいいかもしれない。
 産めるなら産んでもいい。私でも育てられるなら育ててみたい。
 私はスマホで育児サイトを検索した。

 子育てに適した環境、授乳の仕方、オムツの替え方、沐浴の仕方……、いろんな育児情報を読み漁る。
 ベビーベッドを置く場所、赤ちゃんの抱き方、抱っこ紐の使い方、沐浴の時間、赤ちゃんのお臍のお手入れ、赤ちゃんの機嫌が悪い時、赤ちゃんが下痢をしている時、赤ちゃんのうんちが白っぽい時……、きりがない。
 私の部屋はベビーベッドを置くには狭すぎる。二階奥の空き部屋を片付けて赤ちゃん専用の部屋にしようか。ベビーベッドを運び込み、子供服をしまうタンスを置き、ベビーラックも準備して……。
 毎日三時間おきに授乳し、授乳の度にオムツを替え、風邪をひかないように日中に沐浴をすませて……。泣いたらあやし、抱っこし、絵本を読んであげて、歌を歌ってあげて……。
 ――……それで?
 泣き止まなかったら、病気になったら、どうする?
 うつぶせ寝にするだけで死んじゃうんでしょう。揺さぶっただけで死ぬんでしょう。そんな壊れやすいものと二人きりでいられるの?
 お父さんとお母さんは働いている、夜しかいない。近くのコンビニに行くにも赤ちゃんを連れて行かないといけない。トイレに入っている時もお風呂に入る時も赤ちゃんの泣き声が聞こえたら飛んでいかないといけない。一人にしていたら何が起こるか分からないもの。そんな生活を土日関係なく何年も続けるの?
 ――……無理だよ。
 お母さんはただでさえ忙しい。朝五時半に起きてお弁当と朝食を作って出勤し、夜帰ってきてまた料理を作り、洗濯物を干し、お風呂を沸かし……、これ以上無理をさせられない。お父さんは「家はくつろぐ場所」と決めているようで家事を全くしない。居ても役に立たない。
 この家に新しい家族を迎え入れる余裕はなかった。

 お母さんは大手金融企業の総合職に勤めていた。仕事の関係でお父さん白木真介と知り合い結婚したそうだ。
 独身時代は深夜の帰宅は当たり前、出張を月二回こなしていたという。昇進間近という時期に私を妊娠し、無理をしすぎて流産しかけたと言っていた。産後すぐに職場復帰をしたかったけれど保育所が見つからず、退職を願い出たそうだ。
 お父さんが単身赴任で不在の間、家事と育児をお母さん一人で担っていた。
 私が小学校四年生になった頃、お母さんは「もう一人でお留守番できるでしょう?」と私に家の鍵を渡し、働き始めた。
 初めのうちは「私が学校に行っている間だけだろう」、「一カ月もしたら辞めるだろう」と軽く考えていた。
 その期待は裏切られ、お母さんは六時を過ぎないと帰ってこなくなった。
 友達と別れた後、鍵を開けひっそりとした玄関に足を踏み入れる。暗く、人の気配がしない家は恐ろしく、自分の足音さえ大きく聞こえた。廊下やリビング、ダイニング……、家中の明かりをつけ、テレビの音量を上げた。
 お母さんはなぜ働き始めたのか。なぜ私は一人で留守番をしなきゃいけないのか。ずっと、心の片隅でくすぶっていた。
 ひっそりとしたリビングでテレビをつけ、一人で宿題をしていた時、ふと、思い至った。
 お母さんは私と一緒に居るのが嫌なんだ。私が嫌いなんだ。だから働き始めたんだ。私は見捨てられたんだ。
 ノートにぽと、ぽとと涙が落ちた。紙に丸いしみができ、文字が滲んだ。
 今なら私の思い違いだと分かる。
 お母さんは純粋に働きたかっただけ。私を産むまでは男性社員に負けないくらい働いていたんだもの。
「私は課長に推薦されていたの」と言っていた。昇進したかったんだと思う。
「娘の学費を稼ぐため」、「家のローン返済の足しにするため」とかいろいろ言っているけれど、本当は外に出て自分の能力を試したいんだ。お母さんは家の中に収まっている人じゃない。
 だって、家に居た時より仕事をしている今の方が楽しそう。フルタイムで働いている分ずっと大変なはずなのに生き生きしている。
 お母さんの気持ち、分かるよ。
 毎朝五時半に起き、三人分のお弁当と朝食を作り、夜七時半頃になると買い物袋を両手に提げ帰ってくる。夕食を作り、お風呂を沸かし、洗濯物を干し、食器を洗い、翌日のお弁当の下ごしらえに取りかかる。
 そこまでしてもやって当然のように思われる。そして次の日も、その次の日も、三百六十五日、延々と同じことを繰り返す。
 一時間近くかけて作った料理は食べたら終わり。洗った食器は使えば汚れる。服だって毎日のように洗濯するし、部屋も散らかる。
 娘は補習や塾であてにならない。お父さんは問題外、家事なんて一切せず、お風呂あがりビール片手に野球中継を見ている。
 ソファでくつろぐお父さんは王様で、お母さんは小間使い。
 お母さんはなぜ離婚しないんだろう。
 家を出て行けば、お母さん一人ならもっと楽に暮らせるのに。もっと自由に生きられるのに。お父さんや私のことなんてほっといてもっと自分の人生を楽しめばいいのに、どうして自分を犠牲にしてまで「家」にしがみつくの? そんなに「家族」って大事? 
 勉強ならテストの点になって結果が現れる。何より自分のためだ。仕事なら昇進やお給料といった形で評価される。ボランティアでさえ「ありがとう」の一言くらいは言ってもらえるだろう。だけど、家事は……?
「ありがとう」と感謝されるでもなく、お給料が出るわけでもなく、結果が残るわけでもない。
 嫌にならない? 辛くならない? 無駄だと思わない? もしかして老後を看てもらおうとか、家を継いでもらおうとか期待している? 
 私は介護なんてしないよ。寝たきりになったお母さんのオムツを替えるなんてしたくない。皺くちゃだらけのお母さんの下半身なんて見たくない。髪が真っ白で、目がうつろなお母さんにおかゆを食べさせるだなんて。歯が抜けて真っ黒になった口に一本だけ黄ばんだ歯なんかあったらぞっとする。骨と皮みたいに痩せ細ったお母さんを支えて入浴させるとか、考えたくもない。
 お父さんの下の世話なんて絶対やらない。お父さんの局部なんて見たくない、触るなんてもっと無理。大体お父さんなんて重くて支えられない。私の方が体を壊してしまう。
 せわしなく食器を洗うお母さんの背中を見ながら私はああはなりたくないと思う。
 何の得にもならないのに、見返りも期待できないのにどうして働けるのか理解できない。心身をすり減らすような、搾取されるような生活は嫌だ。頑張ったら頑張った分だけ評価されたい。ちゃんと実績として形に残る仕事しかしたくない。
 結婚するなら家事や育児ができる人がいい。それかお手伝いさんを雇って家事や育児をしてもらう。レトルトでも冷凍食品でもいい。外食する手もある。洗濯だって毎日しなくていい。食器は全部使い捨ての紙皿にして、お金に余裕があるなら食洗機を買って、乾燥までできる全自動洗濯機を買って、お掃除ロボも買って、家事は二人で分担して……。
 ほどほどでいいじゃない、家事なんてお金にならないんだから。
 子育てだって同じだよ。注意深く一生懸命育てても、死んだら母親のせいにされる。母親の私が責められる。こんな理不尽なことない。うつぶせに寝かせただけで死んじゃうんだよ。
 無事大きくなっても子どもが友達を叩いたとか、お金を盗んだとか、人を殺したとか。それで親が責められる。特に母親がボロカスに言われるんだ。私は何もしていないのに。
 産むのは当然みたいに思われて、必死に育てても褒められず、死なせたら責められて、子どもが何かしでかしたら「親失格」の烙印を押される。
 何も手を貸さないくせに、お金を出さないくせに、配慮さえしないくせに、母親が子どものために生きるのは当然だと言わんばかりの顔で責めるんだ、――「どういう育て方をしているんだ」と。
 お腹にいるこの子だって私からしたら他人なんだ。
 お腹の中にいる自分以外の人間。決して私の思い通りにならない生き物。言いなりになってくれるならこの子はとっくに死んでいる。
 うつぶせ寝で死ぬようなか細い命を育てる知恵はない。
 誰にも迷惑がかからないような人間に育てる自信はない。
 子どもの罪を背負う覚悟もない。
 妊娠週数の数え方、経過、中絶手術の費用、望まない妊娠の相談……、ノートにいっぱい書き記した情報は役に立たない。
 彼への怒りも憎しみも、ネット住民達への不満も情報収集も、身動き取れない焦りから目を逸らすため。
 一人で抱えることが苦しくて怖くて耐えられないから、頭の中を情報や怒りや反発の言葉でいっぱいにして自責の念や後悔といった感情から自分を守っているだけ。
 本当の私はぐちゃぐちゃ考えるだけで一人で病院に行く勇気さえない臆病者だった。

 ※

 授業が始まるとホッとする。
 クラスメイトの視線は黒板とノートに集中し、お腹を見られていないかと怯えなくていい。
 授業中の静けさと教室という限られた空間で大勢の人間に囲まれている緊張感が、沈みがちな精神を正常に保ってくれる。
 ノートを開け、ぼーっとする。
 頭を使わないことがこんなに気持ちいいなんて。
 授業にはついていけなくなった。追いつこうとも思わない。勉強に対する意欲はすっかりなくなっていた。
 情報を集めるのは止めた。日記帳も閉じたままだ。
 今は時間さえあれば動画やレンタルDVDを夜通し見、音楽を聴き、無料ゲームを楽しんでいる。
 ポストに新聞が投函される音にカーテンをそっと開ける。
 東の空が赤く染まり、太陽が昇ろうとしていた。
 目覚まし時計が鳴るまでのわずかな時間、ベッドに横になる。
 そんな生活だから当然授業中は眠くなる。
 先生の説明はお経のようで、黒板の字はアラビア文字のように曲がりくねり、シャーペンと紙が擦れる音は音楽のよう。
 ――……だめ、眠い……。
 私はシャーペンを持ち直し、寝る体勢に入る。
 机に突っ伏して寝る男子は先生に起こされているけれど、勉強をしているという姿勢を示していれば眠っていても見咎められることはない。
 居眠りしている生徒より授業を真剣に受けている生徒の方が大事、叱っていたらその分時間が無駄になる。
 一部の先生だけでなく大部分の先生がそう思っているようだった、――勉強するふりさえしていればいい、と。
 先生方の方針に私は遠慮なく甘えることにした。いつものように私は背筋を伸ばし、シャーペンを持った手をノートに置き目を閉じる。夜通し聴いた音楽に浸りながら頭痛と肩こりが残る体を休める。
 ぽこっ。
 ビクンッと跳ね起きた。
「なんだ、白木、質問か?」
 先生が顔を上げ、クラスメイトは私に注目する。
「い、いえっ……」
 先生が訝しげに教壇を下り、こちらに来る。クラスメイトが先生と私を交互に見る。とっさに口をついて出た。
「すみません、居眠りしていました」
 どっと笑いが起きる。先生は立ち止まり苦笑を浮かべる。
「今は授業中だ。寝るのは帰ってからにしなさい。夜遅くまでスマホでもいじっていたんじゃないのか?」
 周囲が笑いさざめく中、私は笑ってその場を取り繕った。

 授業が再開し、クラスメイトが真剣な表情でシャーペンを動かす。私はノートを書くふりをし、片手をそっとお腹に当てた。
 息を潜め、ゆっくりと手を、上へ、下へ、右に、左に動かす。耳を澄まし、お腹に当てた手に意識を集中する。少しでも動いていないか、でこぼことしていないか。
 さっき、お腹の内側から外側へ力が加わった。
 目を開けていれば、ノートを書いていれば、立ち上がり発表でもしていれば気づかなかったかもしれないほどわずかな衝撃が、全身の力を抜き、目を閉じ、夢うつつだった私には火山の爆発のように、震度五の地震のように大きく感じられた。
 ――……動いた……。
 じわっと視界が白くぼやける。机に肘をつき手を頭に添え顔を隠す。目の縁に溢れるものをまばたきを繰り返し堪える。
 ――考えちゃ、駄目。考えちゃ駄目。だめ……。
 黒板の字を書き写す。ノートのラインが滲む。まばたきを繰り返しシャーペンを動かした。鼻の奥を刺激し鼻腔を滑り落ちる液体を制服の袖を押し当て、拭いた。

 母体保護法 第十四条
 第一項 第一号 
 妊娠の継続もしくは分娩により身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの
 第二号
 暴行もしくは脅迫によってまたは抵抗もしくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの
 (中略)
 以上の場合にのみ中絶手術を行い得る。

 どうしてお腹にいるうちしか駄目なんだろう。同じ始末をするなら胎内にいる時より外に出てきた時に処理した方が簡単だし、どうせ出てくるんだから無理やり股をこじ開けて出すより出てくるのを待った方が母体にとっては楽だろうに。
 どうしてお腹の中にいる時は殺してもよくて、外に出て来たら殺してはいけないんだろう。
 胎内にいる時は母親の所有物で、生まれた瞬間から人間と見なされるから?
 それなら産道から頭が出てくる寸前にナイフで突き刺したら?
「生まれてから二日までは親の所有物と見なし、生かすも殺すも自由にしてよし」という法律があればいい。
 どんなに望んでいなくても出てくるまでは何もできない。生まれてからじゃ遅すぎる。
 胎動を感じたということはかなり大きくなっている。迷っている時間はない。
 私は妊娠二十週目あたり。二十二週以降は中絶ができない。
 明人君にメールを送ってみた。電話をかけてみた。メールは宛先不明で返ってきた。電話はかからなかった。
 最後は頼るしかないと思っていた命綱はとっくに切れていた。
 手術費用はない。同意書に署名するパートナーは逃げた。学校は休めない。親に知られるわけにはいかない。中絶手術をするという選択肢はなくなった。
 ズキン、ズキンと痛む頭を髪の中に手を突っ込み押さえる。
 育てる? どうやって。
 コロス? 無理、人殺しなんてできない。
 ずっと同じことばかり考えている。寝ている時でさえ夢に現れる。狭い洞穴に閉じ込められ暗闇の中で必死に出口を探している。もがけばもがくほど息苦しくなり、私しかいないはずの洞穴から赤子の泣き声がする。目を覚ましても赤子の声が耳から離れず、常に誰かに視られている気がした。
 いつも眠くて、だけど眠れず、頭に白い靄が立ち込めている。一人でいると小さな影が背中をよじ登ってきそうで、音楽を聴き、映画を見て気を紛らわした。
 黒い煙が立ち昇り、ゆらめく。
 墨汁のような煙が体内に充満し、わずかに残っていた希望や期待を塗り潰していく。ただれた傷口を爪で引っかかれるような痛みと胸の真ん中に拳大の石がつっかえているような苦しさが昼も夜も私を苛む。
 息をするのを止め、体を動かすのを止め、生きることをやめれば楽になれる。それがこの世との別れを意味するならそれでもいい。自分で死ぬ勇気はないから誰かに殺してほしい。誰か私を知らない人に、私が知らない人に私の命を委ねたい。
 誰でもいい、私の命をあげるから楽にして……。
 はっと、閃く。
 ――そうだ。誰かに委ねたらいいんだ。
 私の代わりにこの子を育ててくれる人に拾ってもらえばいいんだ。産んで捨てて、この子を愛してくれる人に拾ってもらおう。そして育ててもらおう。
 小さな光が現れ、暗い洞穴にあるはずのない出口を照らし出す。
 ――そうだ、産もう。産んで捨てて、誰かに託そう。
 やるしかない。
 自暴自棄になって出した結論でも私には最良の解決策のように思えた。
 手探りでさまよっていた暗闇にようやく灯りがともる。永遠に続くかと思われた苦しみに終わりが近づいている。
 終わる、やっと終わるんだ。
 嬉しくて、嬉しくて、無性に嬉しくて、涙がこぼれた。

 補習には参加せず、どうせ受けても分からない、放課後や休日は自転車で町を走る。雑木林や裏道にある公園などを重点的に回り、登下校や塾の行き帰りも適した場所はないかと辺りを窺う。
 捨てる場所を探していた。
 あれほど強く決めたにも関わらず、風が強いと、雨が降ると、気温が低いと、心が揺らいだ。
 本当に捨てるの? 止めておこうよ。こんな寒くて汚い所じゃ拾われる前に死んじゃうよ。
 中絶可能な二十二週はとうに過ぎていた。私には捨てる選択肢しか残されていない。
 殺したくない。憎いわけじゃない、育てられないだけ。
 どっちみち生まれるなら生きてほしい。勝手だけれど、どうせ生まれるなら誰か優しい人に拾ってもらって安心したい。死なれたら一生罪の意識に苛まれる。
 ―……探そう。
 捨てるのに最適な場所を。人目に付きにくく、それでいて産んだ後すぐに誰かが見つけてくれそうな場所を。風が当たらず、温かくて清潔な場所を。私とお腹の子が救われるために。
 桜がほころぶ。
 もうすぐ開花し、一週間も経たないうちに散るのだろう。
 私は川のほとりを歩いた。

 ※

 春休みが終わり、私は三年生になった。
 クラス替えで千穂とは別々になり、休み時間に雑談をすることも、一緒にお昼を食べることもなくなった。放課後にパンを買い食いすることもない。
 私はまた友達を作らなければならなかった。最近一緒にいる子は物静かで、いるのを忘れてしまいそうなほど存在感がない。千穂とは正反対、って言ったら失礼かな。
 千穂のようにいるだけで周りを明るくする人もいれば、彼女のようにいるかいないか分からない人もいる。……いるだけで迷惑な子も……。
 ネットで得た情報だけで体の状態を把握することはとても難しい。お腹の大きさ一つとっても「バレーボールくらい」と書かれていれば、そうかなと思い、「スイカくらい」とあれば、そうかもと思う。
 お腹の大きさってどこからどこまでを指しているのだろう。胸の下から腿の付け根まで? それともお臍の高さでお腹を一周した長さ?
 日中は気温二十度を超える日もある。衣替えはまだ先とはいえ半袖になる男子がちらほらと現れる。
 制服のスカートはゴムを縫い付けて調整し、ブレザーのボタンは外し、上に大きめのカーディガンを羽織る。家ではぶかぶかのパジャマにカーディガンを羽織り「勉強する」と部屋にこもる。
 なんで気づかないんだろう。こんなに大きくなっているのに。
 私がいつもと変わらないから? 朝ご飯を食べ、学校に行き、授業を受け、体育もしているから? 夕ご飯を食べ、お風呂に入り、二階へ上がるから? 勉強をしていると思っている? 笑っているから、会話しているから、元気そうだから、食欲があるから、普段と全然変わらないから、安心しているの?
 平気じゃないよ。もう限界だよ。くたびれてぼろぼろだよ。楽になれるならばれてもいいかなって思うくらい弱り果てているよ。言えないだけだよ。打ち明けられないだけだよ。怖くて。本当は助けてほしいんだよ。気づいてほしいんだよ。
 皆、私のことなんて見ていない。
 私とおしゃべりをしても、挨拶しても、笑いかけても、一緒に掃除しても私のことなんか気にしていない。
 お父さんとお母さんも同じ。私という形をした物体が家にいて生活をしていれば安心なんだ。白木唯という形をした器さえあれば中身がどうなっていても平気なんだ。
 ずっと辛くて息ができなくても、皆の前で胸をかきむしり血反吐でも吐かなきゃ苦しいんだって分かってもらえない。
 お腹が重くて皮膚が引っ張られる。腰が痛い。胎動が強くなった。お腹が張るようになった。夜、眠れない。しゃがみづらくなった、――お腹がせり出して。
 腕や太腿の太さは妊娠前から変わっていない。お腹だけが縦横に大きくなって、太鼓を服の下に隠しているみたいな体形だ。
 だぶだぶの服を着ていても気づくでしょう、普通。太ったと思っているの? 手足の太さは同じなんだよ、お腹だけ太るってあり得ないでしょう。変わりすぎでしょう。毎日見ていると気づかない? 厚着しているから気づかないの? 先生も、友達も、家族ですら気づかないものなの?
 ああ、分かるよ。他人のことなんかどうでもいいものね。勉強しなきゃいけないし、趣味も部活も楽しみたいし、友達にも愛嬌をふりまかないといけない。平穏な一日を演出するのに必死で他人の心配までできないよね。
 お父さんとお母さんだって仕事が忙しいんだよね。家に帰ってご飯食べて、用事済ませて、寝たら終わり。
 今更家族の絆を深めるなんて柄じゃないし、娘が学校に行って勉強していれば安心なんだよね。彼氏がいたことにも気づかない。
 あんたたちがあくせく働いている間に娘は男と手を繋いで、腕くんで、キスして、セックスして、挙句の果てに子どもを作っちゃったんだよ。
 いい加減、気づいてよ。お願いだから。
 顔中に汗をかいている。妊娠の影響だ。私は広げたハンドタオルに顔を埋め、落ち着こうと何度も息を吐く。
 あともう少しの辛抱で隠し通せるのに私の心は限界に近づいていた。
 
 学校にいても、町を歩いていても、女性のお腹ばかり見てしまう。
 ミニスカートにブーツで町を闊歩する女性、手を繋いで歩くカップル、歩道に広がっておしゃべりする女子グループ、なかでも制服を着た女の子のお腹が気になり、我ながら変態かと思うほど女性のお腹ばかり観察した。
 私と同じ境遇の人を探していた。
 いるわけないかと落胆し、一人くらいいるだろうと探すのを止められなかった。
 例え見つかっても、駆け寄って「あなた、高校生? 妊娠しているの? お腹の中に赤ちゃんいるんでしょう?」とは聞けない。
 以前の私ならクラスメイトや友達が妊娠するなんて一ミリも想像しない。廊下ですれ違っても、一緒に話をしていても、ランチをしていても気づかない。お腹が大きくても、ストレス太りかなと思うくらいで妊娠しているとは思わない。もちろん、相手を傷つけてしまうから思うだけで、聞いたり言ったりはしない。
 妊婦なんて身近にいないもの。赤ちゃんだってお母さんを目の前にしてまじまじと見ないし、触りもしない。
 私にとって妊婦も赤ちゃんも遠い未来のこと、未知の存在だった。
 私は口答えもせず、勉強に励み、真面目に暮らしてきた。少なくとも十七年間、ずっと親の教育方針に従って生きてきた。だから親は信じきっているのかもしれない、――うちの子に限って、って。
 このままお腹が大きくなり続けても、隠しきれないほど大きくなっても信じないかもしれない、「唯、少し太ったんじゃない?」って。
 私は吹き出した。無性におかしくて声を立てて笑った。汗ばむ額にハンドタオルを当てながら私は笑い続けた。
 ――あんたは底なしのあほうか。
 鈍すぎる親を心の中で嘲りながらやっぱり私は笑いながら答えるんだ、「これでもダイエットしてるんだよ」と。
 結局、私は親を失望させたくないんだ。悲しませたくないんだ。見放されたくないんだ。軽蔑されたくないんだ。期待を裏切れないんだ。だから言えないんだ、命に関わる重要なことも。
 ――一生産めなくてもいい。子宮ごといなくなってほしい。
 コドモナンカイラナイ。

 お母さんは私を産んで幸せだったんだろうか。
 あんたなんか死ねばいい。産むんじゃなかった。
 ニュースやドラマであるような虐待じみた暴言は一度たりとも吐かれていない。
「唯ちゃん、可愛い」、「唯ちゃん、お利口ね」、「唯ちゃん、よくできました」
 新しい服を着せてもらった時、お手伝いをした時、プリントで百点を貰った時、必ず褒めてくれた。
 嬉しくてお手伝いを進んでした。勉強を頑張った。お母さんが働き始めてからはますます張り切った。ご飯の支度をし、お味噌汁を作った。お母さんが喜んでくれると思ったから。「いい子」でいれば早く帰ってきてくれると思ったから。
 友達のお母さん達がはしゃいで話す話題が実は他人の悪口だったり、いつも笑顔で挨拶してくれる近所のおばさんが他人の噂を流していたり、親切なおじさんが店員さんにはけんか腰だったりと、人の裏側が見え始めた頃、私は「いい子」をやめた。
 おだてれば手伝いをする、褒めれば勉強すると思っている。私はお母さんに乗せられていたんだ。実際私は疑うことなく積極的に「いい子」をしていた、馬鹿みたいに。
 ご飯を炊いてもお母さんは早く帰ってこない。それどころかいつもより帰りが遅くなる。
 私は炊飯器をセットするのを止めた。
「ご飯の支度くらいしてよ」、「食べる時間が遅くなるでしょう」、「気が利かない」、「前はあんなに手伝ってくれたのに」
 どれほど叱られても私は一切手伝わなかった。
 私なりの無言の反抗だった。
「仕事辞めようかしら。唯ちゃんと一緒にいる時間が減ってお母さん寂しいわ」、「唯ちゃんには寂しい思いをさせて悪いわね」
 そういう言葉を期待していた。けれど、お母さんは私の反抗的な態度の理由を聞かず、私が欲しい言葉を言わず、一人黙々と台所に向かった。
 私は甘えていた。甘ったれていた。必要とされたくて、愛されている実感が欲しくて、わざと何もしないことで自分の存在価値をアピールしようとした。私がいないと困るでしょう、と。
 黙々と働くお母さんをソファで膝を抱え見ていた。
 仕事や家事に追いつめられていくお母さんに、ストレスで死んじゃったらどうしようと不安にかられながらも手を出さなかった。
 良心とか思いやりといった明るくきれいな感情がじりじりと焼け焦げていくようだった。
 お母さんは後悔していないだろうか、――こんな私を産んで。

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