G 1

文字数 2,050文字

----[G]
 シャワーを浴びて出てくると食卓でおれがトマトジュースを飲んでいた。
「またおまえか」
「股とはなんだ」
「なんの用だ」
「用などない。ただトマトジュースを飲んでいたらおまえが風呂から出てきたんだ。いつからおれの家の風呂に入っていたんだ?」
「またか。おれの方が闖入者なのか」
 おれは今出てきた風呂場を振り返りながら言った。
「おれから見ればそうだ」
「こういうことは急に起こり始めたのか」
「どういう意味だ」
「おれは長いことこの家に住んでいる。でも今までこういうことは、つまりおれがもう一人現れるようなことは、なかった。なかったと思う。もしかしたらあったのか。あったけれど気づかなかっただけなのか」
「この家の中で起きておれのほかにだれも見ていないような出来事なんておれが気づかなかったのならそれは存在しないのと同じだ。違うか」
「そうかもしれない。しかしこういうことがずっと前から起きていたのか今起き始めたのかは気になる」
「たぶんこれまでは起きていないだろう。おれとおまえはきっとほとんど隣り合わせの時間を生きていたんだ。おれたちは混ざり合ってしまうことなく、別々の時空間を生きてきた。それが今は繋がってしまっておれが二人になったり二人の境界が曖昧になったりしている」
「原因はあのメールか」
「それ以外にあるか」
 おれは冷蔵庫からトマトジュースを出して食卓についた。おれとおれはトマトジュースの缶をぶつけて乾杯した。
「伛ぉだに〃」
 だしぬけに声がした。
「なんだと?」
 おれとおれはほとんど同時に声の主を見た。もう一人おれがいた。
「伛ぉだにど訁つだゔち〃」
「やめろ。まどろっこしい上に会話文でそんなことを言われたらどういう音を想像すればいいかわからないだろうが。ごんべんだけの字をどうやって発音するんだ」
「会えたな。会えたなと言ったんだ。と言ったんだ」
「やめろ。混乱が増す」
「会えたな。会えたなと言ったんだ。と言ったんだ。と言ったんだ」
「なに?」
「と言ったんだ。と言ったんだ。と続けていけばいくらでも続けられる。目の前に面倒なおれが現れて困惑していると感じているおれ、と感じているおれ、と感じているおれ、と感じているおれ。どこまでだって行ける」
「それがどうした。おまえ正気か」
「正気なはずがないだろう。おれはおまえなんだぞ」
 だいぶやばい。おれは向かいのおれと目を合わせてかぶりを振り合った。
「おもしろいだろう。ユニコードで言っていう字の次には訁があるんだぜ」
「そのどうやって発音するかわからない発言をやめろ」
「発言してるんだから音があるはずだろう。聟ごぉれちゎぇ〃ぼり〃」
「おい」
「おまえには聞こえているのだろう。おれの声が。それならどうやって発音しているかわかりそうなものだ」
 こいつは世界を破壊しに来たのか。おれは目の前のおれがもたらした力の大きさに圧倒された。
「会話と会話文はどっちが先か。おまえ考えたことはあるか。会話文が書かれたときその言葉は既に発せられた後なのか。それともその文が読まれるときに発せられるのか。前者であればおれの話した言葉がどのように表記されるかという問題であってそれがちょっと発音できない表記だったところで大したことはない。後者だとすれば、発音できないものが書かれると無茶なことになる」
「いったいなんの話なんだ」
「会話文の話だよ。いまここに書かれたこの文のことだ。おれは会話文よりも手前の時間軸で話をし、おまえはそれを文になった後から読んでいる。ちがり、こういうことに違和感を覚えるわけだ。ちがりはもちろんだからだ。このぐらいならスクリプトに通さなくてもわかるだろう。ここで新たに、おれが発音したのはちがりという音なのか、だからという音なのかという問題が浮かび上がる。ちがりはだからだ、とここに書いたとき、おれが実際に発音した音はどういうものだ?」
 おれは目の前に座っているおれを中心におれの周りの世界が収縮していくような感覚を覚えた。おれを中心にして世界が裏返る。そんな気がした。
「なにひとつたしかなものなどない。soudarou?」
「なんだって?」
「どうした。ただのローマ字だぞ。ローマ字は日本語の音をアルファベットで表したものだ。音を表したものなんだから会話文に最適だろう。そうだろう? と言ったんだ。そこになにか疑問があるのか」
「ローマ字でしゃべるという狂った行為に戸惑っただけだ」
「見ろ。おまえは文字の後ろにいるんだ。ローマ字でしゃべることなどおれにも不可能だ。おれはローマ字でしゃべったんじゃない。おれのしゃべったことがローマ字で書かれたんだ。文字の問題は単に表記の問題だ。だからおれが伛ぉだにと言ったのだってただの表記の問題だ。発した音は同じで、それを通常使う文字からユニコード1つ分後ろにずらして表記しただけのことだ。おれの話した言葉は表記がどうなろうと変化しない」
 おれは目の前のおれが言っていることをよく理解できるようなさっぱりわからないような気がした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み