第二章

文字数 9,356文字

 さて、舞台はウィリアムの下宿に移った。
 ウィリアムとヘンリー、そして小さな狼が居間に集っている。仔狼はウィリアムの足元だ。
「アーサー・ロビンさまはご自分の状況を理解しておられるのでしょうか?」
 心配そうにヘンリーは見下ろす。
「たぶん。馬車の中で一応説明はしたんだ、君は狼に変身してしまったのだと。でもなぜかは言っていない。これはハンター家の秘密だからね」
 ウィリアムはアーサー・ロビンに手を伸ばす。仔狼はくんくんと手の匂いを嗅いでいる。今や唸り声は上げていない。
「ヘンリーさん、とりあえず男爵を呼んできてくださいませんか」
「そうですねえ。それが一番よろしいでしょう」
 ヘンリーは戸口へと向かい、「ついでにモードリンさまに適当な理由をつけてまいります、おぼっちゃまがウィリアムさまの下宿にぜひ行きたいとおっしゃった、とかなんとか」と付け足した。
「アーサー・ロビンさまの姿が見えないと大騒ぎになってはいけませんからね」
「さすが、ヘンリーさん」
 ヘンリーを見送ると、ウィリアムは仔狼を抱き上げて椅子に腰をかけた。そして首筋を撫でてやる。仔狼は気持ちよさそうに眼を細めた。そのうち身体を丸めて寝入ってしまった。下宿の女将ネリー夫人は庭を荒らすので犬が嫌い、ここで吠えられるよりはよっぽどましなのだが、ウィリアムは膝で寝ている子狼を困った顔で見下ろした。
「やれやれ……呑気だな……」


「ウィリアム!」
 懐かしい怒鳴り声が響いたのは一時間ほども経ったときだ。
 同時に部屋の扉が開き、フロックコートにシルクハットの男爵が現れた。
「ウィリアム!」
 名前を呼ばれ、ウィリアムは懐かしさのあまり、胸に甘い疼きを感じた。こんな風に呼ばれるのを嫌がっていたときがあったなんて、信じられない。今すぐにでもあの懐かしい胸に飛び込みたい、でも今はそれどころじゃない、とウィリアムは仔狼を抱いたまま、立ち上がった。そして深く頭を下げる。
「申し訳ありません、男爵、大事な席のおじゃまをして」
 男爵、ウィルが見合いのことを知っているとは気づかない。悠々とシルクハットを脱ぐとウィリアムに近寄った。
「なんの、たいした用ではない。それにアーサー・ロビンが変身したなどど聞いてはいてもたってもいられんからな」
 男爵はじろじろとアーサー・ロビンを眺め、白い手袋を填めたまま、自分の顎を掴んで捻った。
「ウィリアム、こやつはどうして変身したのだ? 今は昼、月は出ていないし、月暦も満月ではないぞ? 丸く光るものでも見たのか? しかし、これまでだってそんなものは見ていただろうしなあ、今日になって初めて変身するのもおかしなことだ」
 男爵の疑問ももっともなこと。ウィリアムもそれはなぜだろうと考えていた、そしてアーサー・ロビンを膝に乗せている間、じっくり考えたのだ。今日彼の身に起こった初体験はなんだろうと。そして最終的に出した結論は。
 ウィリアムは俯いて答えた。
「その、僕と口づけしたことがきっかけになったのだと……」
「なにい?」
 大音声が部屋に響き、仔狼が驚いて目を開けた。
「口づけだと?」
 男爵の手がウィリアムの肩をむんずと掴んだ。
「どういうことだ!」
「いえ、わざとではなく、たまたま、はずみで唇が触れ合ってしまったのです。いわば衝突事故のようなものかと」
 む、と男爵は唸り、目をつり上げたまま、ウィリアムの肩を放した。
「ま、事故なら仕方なかろう」
 それにしても、と再び男爵は自分の顎を掴んで捻る。
「まさか人に戻る方法が俺と同じではないだろうな」
「まさかっ」
 ウィリアムは真っ赤になって男爵を見上げた。
「ふむ、ならいいがな」
「当たり前ですっ」
 やりとりを聞きながらウィリアムの胸の中でアーサー・ロビンは二人を交互に見つめる。くうん、と鼻を鳴らした。
「おっと、今はそれどころではない。こやつには俺さまから説明をしよう」
 どかりと男爵はソファに腰を下ろす。そして顎で椅子を指した。
「そこへ置け」
 ウィリアムは椅子の上に仔狼を降ろす。男爵は身を乗り出すと、顎の下で両手を組んだ。
「アーサー・ロビン、俺さまの話をよく聞くのだ」
 男爵は自分の体験したことを手短に話し出した。知らぬ間に狼に変身したこと。それが十二世紀に起源するハンター家のルーツと関わりがあること。祖先のデーン人にバイキングの神であるフェンリル狼の血が流れていたことなどなどを。
「ハンター家の男子には皆、その血が流れている。お前にもな。なんとなればお前は俺の甥だからな」
 男爵は語り終わると腕を組んだ。
「というわけで、お前が狼に変身するのは何の不思議もないのだ」
 そんなことを言われても、と仔狼は目を丸くして男爵を見つめる。そしてきゃんきゃんと鳴き出した。時折、うぉーんと遠吠えのような声を出す。
「うわっ、アーサー・ロビンくん、静かにっ」
 慌ててウィリアムはアーサー・ロビンの口を塞いだ。
「もっと小さな声で言ってくれないかな」
 アーサー・ロビンはくぅんくぅんと鼻をならし、喉の奥で何か声を出すが、もちろん男爵とウィリアムには解らない。
「向こうはこっちの言うことが解るが、こっちには解らない。俺さまの場合と同じだな」
 男爵は納得という声を出した。
「そんなこと、納得しないでください」
 ウィリアムはそこでふと思いつく。
「そうだ、志門少年に通訳を頼みましょうか」
 九條志門少年、東洋にある神秘の国・日本からの留学生だ。エンペラーの血を引き、ウィリアムと同じように不思議な能力を持っていて、その一つが動物の言葉を理解すること。
 先だって、ウィリアムと男爵はオースチン校に出没する修道士の幽霊と対決するときに彼の力を借りたのだ。
 しかし男爵は太い眉をつり上げた。
「馬鹿を言うな、狼男だと知られてしまうではないか」
「でも彼も自分の能力を秘密にしています。男爵がお願いすればハンター家の秘密も守ってくれるに違いありません」
 もう志門少年しか頼るものはいない、とウィリアムは重ねて言う。いや、と男爵は首を横に振った。
「俺さまがお願いする、だと? 冗談じゃない、ぜったいだめだ」
「いえ、頼んでみます」
 ウィリアムは椅子のそばを離れ、戸口へと向かう。
「僕、すぐ呼んできます!」と扉を開けた瞬間。しゅっと足の間を栗色の毛皮が通り過ぎた。
「ああっ!」
 ウィリアムは慌てて顔を戸口から出す。仔狼の後ろ姿を捉えた。アーサー・ロビンは廊下を全速力で走り、玄関に到達する。間の悪いことに、ちょうど郵便屋がやってきていて、二階の下宿人シドニーが手紙を受け取っているところだった。
「やあやあ、ご足労、ポストマン。てか、僕のところに手紙は来てるかな? まったく、洋服屋や靴屋からの請求書ばっかりじゃないか、いやんなっちゃうなあ。執事カフェの常連さんにはここの住所、教えてあるのになあ。デートのお誘いぐらい来てもいいと思わない? ねえ、君?」
 などとしゃべっている間に、アーサー・ロビンはシドニーの足元を走り抜ける。
「たいへんだ!」
 大慌てで玄関に走ったウィリアムの視界から栗色の毛皮が消え去った。
「男爵、アーサー・ロビン君がっ」
 ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵も顔色を変えてどすどすと玄関まで走ってきた。
「こやつはどこへ消えた?」
「わ、解りません」
 シドニーはぽかんとして二人を見る。手紙を抱えると、「犬を飼うのかい、ウィル」とウィリアムの肩を叩いた。
「ネリー夫人には内緒にしといてやるよ」
 上機嫌でシドニーは階段を上がっていき、二人は呆然として玄関から表通りを見つめた。
「早く捜しましょう!」
 このあたりを知らないアーサー・ロビンは、どんな危ない目に遭うか知れない。それに狼に変身して間もなく、あんな小さな姿では自分のことを守れないだろう。ウィリアムは青ざめて男爵を見上げた。
「こうなったらもう志門君の力を頼む意外ありません! 僕、オースチン校へ行きます」
「お、おう。俺さまはここらを捜す」
「お願いします!」
 ウィリアムの後ろ姿を見届けると、ジョン・ウルフは馬車へと走った。
 ヘンリーがさっと扉を開ける。
「どちらへ、ご主人さま」
「そんなの、知るか! とにかくそこら辺を走れ!」


 土曜のオースチン校は静まりかえっている。近隣に家がある学生たちは週末は帰宅しており、領地が遠い貴族のご子息たちもまたロンドンのタウンハウスを訪れていることが多いからだ。だが志門少年の家はイギリスから船で何ヶ月もかかる遠い国、そんなわけで志門少年は寮の部屋で一人のんびりと過ごしていた。
 遠い異国の地だが、志門少年は結構この学校が気に入っていた。ごみごみとしたシティと違って、敷地には緑があふれ、深い森もあり、栗鼠(りす)や兎、鳥たちが少年の心を和ませてくれる。志門少年の故郷は熊野という深い山の中なのだ。ほとんど人影のない寮にいても寂しいどころかいっそさっぱりとする、などと思っているくらい。ベッドに寝転がり、日本の知り合いから送られてきた手紙を読んでいた。
 そんな時、ふと志門少年は窓ガラスを誰かがコツコツ叩いていることに気づく。起きあがって窓に近寄ると、ガラス越しにウィリアムが立っているのが見えた。
「ウィリアムさん!」
 フランス窓を押し上げると、志門少年は「こんにちは」と丁寧にお辞儀をする。
「ウィリアムさん、どうしたんです、こんなところで」
 ウィリアムはせっぱ詰まった声で「志門君、力を貸してくれ」と頼んだ。
「君のあの力が必要なんだ。動物たちと会話する力が」
 志門少年は快く頷いた。
「動物と話すことなど、別になんに努力もいりませんし、そんなことで力になれるのなら喜んで」
 ウィリアムは窓から身を乗り入れた。
「実は飼い犬が行方不明になったんだ。鳥たちに頼んで上空から捜してもらえないだろうか」
 どんな大変なことなのかと胸をわくわくさせていた志門少年はちょっと拍子抜けしてしまう。この間の修道士の幽霊騒動は大変楽しかったのだ。その時も大きな犬を連れていたっけ、と思い出した。
「あの時の犬ですか?」
 もちろんあれは犬ではなくて狼、しかも人狼、しかし志門少年は気づいていない。ウィリアムは急いで「いや、別の犬なんだ」と答えた。
「え、別の犬ですか、ウィリアムさんは犬が好きなんですねえ」
「ま、まあね」
 わかりました、と志門少年は上着を着込んだ。
「外へ出ましょう、鳥たちに頼んでみます。飼い犬の特徴を教えてください」


 一方、アーサー・ロビンは通りをひた走っていた。どこへ? そんなことは考えていない。とにかく何かから逃げたい一心で。
 四つ足で走るのはもちろん生まれて初めてのこと、目に入る景色はまるでいつもと違う。細長い顔の両側についている眼は左右だけでなく、かなり後ろの方まで見え、視界も広い。その広い視界に映るのは見たこともないものばかり。敷石の割れ目やそこから生える雑草、石段の苔や地面を行進する蟻たちなどがすぐ傍に見える。通行人を追い越すときには背中ではなくて踝が目に入る。時折、ご婦人が犬を連れていて、その犬に猛烈に吠えられる。またベンチの下で寝ているネコにも「ハーッ」と脅される。
 走りながらも自分が元は人間で今や狼になってしまった、というのは何となく理解している。幸いなことに、ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵が変身したときは、人間の理性と狼の本能があまりにかけ離れていて、葛藤が起き、一時的に人事不省に陥ってしまったものだが、アーサー・ロビンはまだ幼く、無垢かつ無辜の魂が残っていて、と言うことは、男爵は心が汚れていたためにあんなことになったのですかね? とまあ、それはともかく、原始の本能との乖離がそれほど著しくなく、ゆえに自分が何者か解らなくなることはなかったのだった。
 それでもこの姿でいることに恐怖を覚え、ひたすら逃げており、それがどんな大変な結果をもたらすかまでは理解できなかった。もしもっと理性が残っていたら、部屋を逃げ出すことなどしなかったろうに。
 やがて息が切れ始め、アーサー・ロビンは走るのをやめた。
 気が付くと、そこは狭い裏通りだ。饐えた塵の匂いが鼻をつく。こんなところは初めてで、アーサー・ロビンは唖然として辺りを見回した。
 がたんと大きな音がして、振り向くと、煉瓦造りの家の裏口が開いたところだった。下町によくある定食屋のようで、肉の焦げる匂いやブラウンソースの匂いが流れ出し、アーサー・ロビンは思わず唾を呑む。鶯荘にいればもうとっくにお茶の時間なのだ。思わず腰を落とした。
 ちょっこんと座っているアーサー・ロビンの前に出てきたのは、前掛けをつけた禿頭の中年親父だった。ぴかぴかに光る丸鼻に赤ら顔、でっぷりとした腹に塵の詰まった酒樽を抱えている。階段をドスドスと大股で降り、地面にどかんと酒樽を置いた。
 と、そこで初めてアーサー・ロビンに気づき、「おや、新顔だ」と言った。
 後脚の間にシッポを入れているアーサー・ロビンに、親父は「大丈夫だよ」と微笑む。
「儂が野良犬に屑をやるもんだから、近所の連中は『笑いカワセミ亭のシチューは犬肉だ』なんて言いやがるが、そんなこたあない、とんでもないデマさ」
 ええっ、とアーサー・ロビンはますます目を丸くした。近所の噂とこの親父の言い分のどっちが本当かなんて、とてもじゃないがわからない。しかし、背後から犬の吠え声が近づいてくるので、アーサー・ロビンが振り向くと、たくさんの野良犬たちが集まって来るではないか。どの犬もアーサー・ロビンよりかなり大きい。先頭の真っ黒なマスチフ犬のような奴が、アーサー・ロビンのすぐ傍でぴたりと止まり、鼻を近づける。そしてふんふんと匂いを嗅いだ。
<お前、誰だ>
 アーサー・ロビンは犬の言葉が解ったのでまたしても目を丸くした。
<お前、犬にしては変だな>
 今や、四、五匹の犬が、アーサー・ロビンの身体を嗅ぎ回っている。どの犬もどう猛そうで、牙は長く尖っている。アーサー・ロビンはぶるぶる震えながら固まってしまった。
 すると親父が太い腕で犬たちを「しっ、しっ」と追い払う。
「お仲間に入れてやりな、またおちびちゃんじゃないか、え、ティマイオス」
 黒犬はおとなしくアーサー・ロビンのそばを離れ、親父は「そうそう、いい子だ、ほら」と樽の中から屑肉を掴みだして犬たちに投げ与える。あっと言う間に、争奪戦になった。
「ほらほら、まだあるから」
 アーサー・ロビンは唖然として犬たちが奪い合うようにして野菜やら肉やらの屑を食べるのを見ていた。すると鼻の前にソーセージのしっぽが置かれる。
 見上げると、親父がにこにこと笑っていた。
「おちびちゃん、可哀相に、こんな小さいのに捨てられたんだろうねえ。ま、食いな」
 そのソーセージの切れっ端はひどく臭く、質も悪そうで、どう考えてもぞっとしないとアーサー・ロビンは思ったが、なぜか身体が動き、そしてはっと気が付くとむしゃむしゃとソーセージを食べていた。しかも旨い、とアーサー・ロビンは思った。すっかり味覚は狼になっているようだった。
 硬い肉をはふはふ噛んでいるアーサー・ロビンに親父は話しかける。
「これからはこいつらの世話になるといい。この黒犬はこのあたりのボスだからな。どこに行けば何が食えるかちゃあんと知ってるぜ」
 でも、僕は本当は人間なんです、とアーサー・ロビンはじっと親父を見上げた。
 野良犬の群になんか入りたくありません。ええ、まったくといっていいほどに。
 悲しいかな、犬の舌と顎は人間の言葉を発音するには不向きで、アーサー・ロビンも何一つ言うことが出来ない。
 自分をじわっと見るアーサー・ロビンの頭を親父はぽんぽんと撫でた。
「おちびちゃん、まるで儂の言うことが解るみたいじゃないか、え? おい、ティマイオス、おちびちゃんの面倒を見てやりなよ、いいな」
 するとがつがつと骨を囓っていた黒犬が振り向いた。
<おい、ちび、名前はなんていうんだ>
 いきなり話しかけられ、アーサー・ロビンは四つ足でぴょんと跳び上がってしまった。
<はい、その、アーサー・ロビンです>
<ずいぶんたいそうな名前じゃねえか、お貴族さまか、え?>
 すごまれてアーサー・ロビンはまたシッポを後脚に挟んだ。
<ま、いい。そろそろ次の餌場へ行くぞ、ついてきな>
<ええっ>
 すでに親父は店の中へと帰ってしまい、扉はもう閉まっていて、アーサー・ロビンにはほかに選択肢がなかった。仕方なく、野良犬たちについてその場を後にする。いったいどこへ行くのか、これからどうなるのか、さらには人間に戻れるのかさえ解らない。
(ウィリアムさん……おかあちゃま……)
 しかしアーサー・ロビンはぐっと涙をこらえた。さっき、ウィリアムさんに「もう子供ではありません」と言ったばかりではないか。それにここにいても決して人間に戻る手段は見つからないだろう。だったら彼と一緒に行くのがいい。そう決心して、アーサー・ロビンは頭をしゃんと上げた。
 犬たちは裏通りから小路を辿り、時に家の庭を通り抜け、どんどんと行進していく。時折、ごみ箱をあさり、時折、猫を追いかけながら。
 そのうち街の外れにある大きな公園へとたどり着いた。ここが彼らのねぐらなのだ。所々鬱蒼とした木立が茂り(栗鼠や兎を追いかけるには最適)、所々に池があり(水を飲むには最適)、また所々に住人たちが憩うベンチ(餌をねだるには最適)が並ぶ原っぱがある。
 土曜日の午後、そこここに人々が集っており、犬たちは眉を顰める人々の足元を抜けて茂みの中に飛び込んだ。もちろんアーサー・ロビンも一緒だ。
 犬たちは脚を投げ出して腹を冷たい土に付け、くつろいでだらりと舌を垂らした。
<今日は人が多いな>
 年取ったテリヤが呟いた。
<なんでも見世物小屋がかかってるってさ>
 誰かが答え、<見世物だって?>と問い直す。
<そういやあ、なにか、変な匂いがしてくる。獣臭い匂いが>
 そう、見世物小屋には檻に入れられた動物が展示されていて、それを見にたくさんの子供たちがやってきているのだった。ヴィクトリア朝の人気スポットは移動動物園にジオラマ、グリーンデールのようなロンドン郊外の小さな街も例外ではない。
 一方、アーサー・ロビンは少し離れたところで、茂みの外を窺っていた。
 肉球に触れる冷たい土、木立を駆け抜ける風の音、鼻をくすぐる様々な匂い、眼には茂みのあちこちを走り抜ける小鳥や栗鼠、兎が映り、アーサー・ロビンの五感は研ぎ澄まされて、狼の本能がどんどんよみがえっているのを感じている。
(そうだ、大昔、僕はこうやって大地を駆けていたんだ)
 メンデルの法則が再発見されるのは1900年、そして染色体がが発見されるのは1903年だが、確かにこの瞬間、アーサー・ロビンの狼の遺伝子はその存在を発揮していた。だからといって、人間の遺伝子もちゃあんとあるわけで、ふと、アーサー・ロビンは見慣れたものがはるか向こうを動いているのを見つけた。それはオースチン校の帽子。リボンの巻かれたカンカン帽(ボーター)
(まさか、スコット叔父ちゃま?)
 人間の理性が戻り、アーサー・ロビンははっと気づく。
(僕はここにいるって教えなくちゃ!)
 アーサー・ロビンは茂みから脱兎のごとく、いや仔狼として飛び出した。
 さて、皆さま、そろそろここで皆さまがとっても会いたいと思っていたであろう人物を紹介することにしましょう。え? 誰だって? 何を今さら! 物語に悪漢(ピカレスク)はつきもの、そして昔から言うじゃありませんか、善人なをもて往生す、いわんや悪人をや…って、違うか。まあこのさい、どうでもいい、とにかく読者の求めるのはストーリーを波瀾万丈に導く魅力的な悪人、となると、ほうら、彼だ、言わずと知れたオースチン校の問題児、ジョージ・ディップディン・ビットだ。天使のような顔立ちにルシフェルの心、と言っては言い過ぎだが、まあとにかく「ワル」がとことん好きなクソガキ。
 そのジョージ・ディップディン・ビットは友人たちとぶらぶら公園を歩き回っていた。本当はこの時間、教会のボランティアに行けと母親から言いつかっていたのだが、当然のことながらさぼっている。せっかくの休日、いつもは締め付けが厳しい寮暮らしなのだから、羽目を外したっていいじゃないかという理屈で。いや、あんたは寮でも十分自由に暮らしていると思いますけど、と作者は思うのだが、そこはそれ、ディップディンの生き方は自由奔放・好奇心のためなら虎の尾も踏む。
 ディップディンたちは先ほどまで見世物小屋の前をうろうろしていた。柵で囲まれた中には所々テントが張られていて、そこからうぉーんといった咆吼が上がっている。
「なあ、入ってみたいな」
 少年たちはもぎりの男へと寄った。
「おじさん、いくら?」
 残念ながら、持ち合わせはあまり多くなく、もしここで払ってしまったら、お菓子も買えないしソーダも飲めなくなってしまう、と少年たちは断念した。しかし、ジョージ・ディップディン・ビットはもぎりに食い下がった。
「なあ、まけてくれよ」
 だめだめ、と男は拒絶したが、「けど、そうだな」と付け加えた。
「なにか餌になるものを持ってきてくれたら入れてやってもいいぞ。なにせうちのライオンは大食らいでな」
「そんなもの、持ってるわけないじゃないか!」
 ちぇーっ、とジョージ・ディップディン・ビットは小石を蹴った。
 ライオンだって? 絶対見てみたい!
「おじさん、なんでもいいのかい、餌になるものなら」
「ああ、だが肉じゃなきゃ駄目だぞ」
 少年たちは未練がましく振り返りながらその場を後にした。見終わって柵の外に出てくる子供たちが「すごかったね!」と歓声を上げているのもうらやましい。
「ちぇっ、ついてないなあ……」
 ぶらぶらと歩いていくうちに、少年たちは原っぱに出た。何人かが凧を揚げている。
 凧を見ていると、ふとジョージ・ディップディン・ビットは足に何かがぶつかったのを感じた。見下ろすと、小さな犬がなにやらディップディンの靴をひっかいている。
「なに? なんだ、こいつ?」
 別の少年が犬の首筋を掴んで持ち上げ、すると子犬はきゃんきゃんと鳴き始めた。
「ちっ、うるさいなあ、あっち行け!」
 ジョージ・ディップディン・ビットの瞳が宝石のように輝いた。悪い兆候だ、つまりは悪魔降臨の。
 ぽんと放り出そうとするのをディップディンは止め、自分で首筋を掴んで吊した。じっくりと子犬を眺める。
「こいつを持っていこうぜ!」
「どこへ?」
「決まってるじゃないか、こいつを餌にするんだ」


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登場人物紹介

ウィリアム・クーパー・ポイズ

ビクトリア朝英国のパブリックスクールオースチン校の司書にして
悪霊を祓う魔術師。

ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵

スコットランドの貴族にしてフェンリル狼の血を引く人狼。
かなり自己チューなお殿様。

アーサー・ロビン。

ジョン・ウルフの甥で、こちらは心優しい小さな紳士。

九条志門

日本の熊野から来た留学生。
南朝の血を引く巫女の家系で、動物の言葉が解る。

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