第12章・勇魚

文字数 15,451文字

 鯨漁(いさなとり)の朝は慌ただしかった。
 集落の人々が見守る中で、食糧や飲料の最後の積み込みが行われた。出漁するのは大小合わせて五隻。スヴェルトを入れて六隻だった
 家族から堅焼き麵麭を受け取る者達の姿もあった。スヴェルトの船の者や独り暮らしの者の為には、焼きたての分が運び込まれていた。
 海狼は奥方から包みを受け取っていた。そして、愛おしげに唇付けていた。
「義兄上」フラドリスが声を掛けて来た。「我が家の料理人が、貴方の分も用意してくれたそうです」
 見ると、大柄な老女が満面の笑みで立っており、スヴェルトに包みを渡した。
「ジョスお嬢さまの旦那さまでいらっしゃいますね。本当に、良く食べそうなお方ですこと」そして、声を落とした。「ジョスお嬢さまからは口止めされていますが、実はお嬢さまがお作りになりました。本当に、素直になれないお方ですから」
 ジョスの麵麭。何日、それを口にしていないのだろうか。そして、あのような事の後なのに、わざわざジョスが作ってくれた。ならば、望みはあるのか。
義兄上(あに)、一つ、ご忠告を」フラドリスの言葉にスヴェルトは現実に引き戻された。「絶対に、父上の麵麭だけは口にしてはいけませんよ」
 その真剣な顔に、スヴェルトは思わず口元が綻んだ。
「母君がお作りになったものなのに」
「それは、私からも忠告しておこう」イルガスが口を挟んだ。「あれは正直言って、父上にしか食せない」
「腹壊しますよ、真面目な話」
「母上は機織りにかけては最高の腕をお持ちなのだが、残念な事に料理の才能が皆無であらせられる。正直、私も結婚するまでは気付かなかった」
 二人の真剣な顔に、スヴェルトの笑みも引っ込んだ。ジョスの料理は最高だった。その母親の料理が駄目なはずはなかろうという思いを打ち砕く程に、二人の目は真剣だった。
「本当は想い人から渡されるのが一番なのでしょうがね」マグダルが話に加わった。「遠征やこういう時に、女の子達はこっそりと告白してくれるものなんですが」
「結局は、いつも料理人の麵麭だな、我々は」
 フラドリスが苦笑した。この二人なら、もてそうなものなのにと、スヴェルトは不思議に思った。
「そうそう、(うち)は料理人の目が光っているから、女の子からなんて有り得ない。まあ、どのみち、長引けば共同窯の分を食べる事になるんですがね」
「乗船ですぞ」
 エルガドルが四人に声を掛けた。
 それぞれが乗船する。年若いフラドリスはイルガスの船へ、マグダルはエルドの船へとそれぞれ乗った。
 スヴェルトの船も準備は整っていた。長櫃の中にスヴェルトは麵麭の包みを大事にしまった。
 族長船から出発して行き、スヴェルトの船は最後だった。船に乗り込むのは精鋭の狩人揃いだと聞いていた。成程、族長船の構成員は集会の時とは異なっている。半数が、スヴェルトの知らぬ顔だった。
 他の船には丸太や小船が積み込まれていた。だが、それは慣れないスヴェルト達には危険過ぎるという事で、自分達は銛のみだった。これには綱が括り付けられていた。回収する為だとイルガスは言った。銛の木材とても、この島では大切なのだ。どのような狩りになるのか、スヴェルトには見当も付かなかった。過去の記憶を探ってみても、ここでは入り江で鯱狩りをした事はあっても、鯨の話は訊いた事がなかった。鯨狩りの際にジョスにここでの様子を訊いておけば良かったのかもしれないが、鯨はどこでも同じ狩り方をするものだと思っていた。
 外洋に出ると、族長船の船脚が速い事が良く分かった。舷側の高さはそれ程変わらなかったが、安定性が良く、船団の他の船さえも置いて行かんばかりの速度だった。同じような造りの船で、よくぞあれだけの速度が出せるものだとスヴェルトは感心した。帆を巧みに操り、風に乗っているようだった。
 海狼の乗船だけではない。船団自体が速かった。
「もたもたしていると、置いて行かれるぞ」
 イルガスが船を並べた。「もっと風に乗れ、潮に乗れ」
「お前達のような海の民とは違うのだからな」
 スヴェルトは返した。
「海神の民と言ってくれ」
 笑いながらイルガスは言った。父親譲りの金色の髪を風に靡かせ、(おか)にいる時よりも生き生きとして見えた。
「半日で狩り場に着くだろうから、気を引き締めろよ。相手は雄の

のようだからな。たかが鯨と侮るなよ」
「侮りはしない」スヴェルトはむっとして言い返した。「海狼殿がこれだけの船団を率いられるのだからな」
 だが、本心は、はぐれ鯨にこれ程の員数を必要とするのかも不思議であった。
 イルガスは快活に笑った。
 南中をやや過ぎると、今度は海狼の船が寄せて来た。
「ここらで一服致しませんか、スヴェルト殿、副官殿」エルガドルが言った。「そうでないと、次は何時(いつ)になるか分かりませんからな」
「ヨルド、お前も呼ばれたぞ」
「海狼殿のお招きとあれば、行かねばならんでしょうな」
 スヴェルトは自分の堅焼き麵麭の包みを一応手にした。ジョスの麵麭を再び味わいたかった。それに、フラドリスの忠告も気になった。
 乗組員に食事を摂るように言い、二人は寄せた舷側を飛び移った。
 船上では、既に食事が始まっていた。
 二人はゆっくりと舳先の海狼の許へ向かった。
「御二人とも蜜酒が宜しいかな。麦芽酒(エール)も御座いますが」
「水で薄めていないのであれば蜜酒を、そうであるなら麦芽酒を」
 エルガドルの言葉にスヴェルトはそう答えた。
「頼もしい婿殿だ」
 エルガドルは配下の者に杯を持って来させた。四人は車座になった。
「ベルクリフ殿も蜜酒ですな」
 既に用意させてあった杯を、エルガドルは族長に渡した。
「では、宜しいですかな」エルガドルは皆に杯が渡った事を見届けると言った。「この度の漁の無事な成功を祈念して」
 四人は杯を掲げた。
 堅焼き麵麭と塩をして干した羊肉が食事だった。薄く焼いた堅焼き麵麭を割って口に入れ、麦芽酒を流し込む。それでも、ジョスの味だと分かった。数日の事なのに、涙が出そうに懐かしかった。香草と乾酪の入った独特の味。もしかすると、これはこの島の味なのだろうかとスヴェルトは他の者の麵麭も見てみた。共同窯で焼いたのであろうヨルドのものはごく普通の堅焼き麵麭だった。エルガドルのは乾酪が多そうだった。そして、海狼のものは――
 見た目はジョスのものとそっくりだ。
「少し、喰うかね」
 エルガドルの顔が見る見る蒼くなった。「折角、御自分のを持参為されたのですから、宜しいのでは」
 海狼は笑った。
「ジョスの腕がどれ程のものなのか、確かめたいのでな。貴殿のはジョスのものであろう」
「戴きます」
 エルガドルが首を振っていたが、スヴェルトは気にしなかった。皆、大袈裟に過ぎるのではないだろうか。料理人の腕が良いから、そのように思うだけなのだろう、と。何しろ、男でさえも遠征で作る事もある堅焼き麵麭で、そうそうおかしな事が起こる筈もなかった。
 一口含むと、これは駄目だ、と思った。
 表面は灰と焦げの味がするのに、中は生焼けだった。
 だが義父の手前、吐き出すことは叶わなかった。取り敢えず、塊を麦芽酒で流し込んだ。
「なかなか、個性的ですな。ジョスのは至って、普通です」
 そう言うのが精一杯だった。
「そうなのか。私は良く出来ていると思うのだが」
 この人の舌は麻痺しているのか、それとも、愛情故の事なのか、スヴェルトには分からなかった。素晴らしい料理人の食事に慣れていながらも、あの麵麭を平然として良く出来ていると言えるのかがわからなかった。確かに、遠征の時にはこの世の物とは思えぬ男の料理を食べる羽目になる事もある。だが、そういった者は直ぐに料理番から外される。それでさえも、この麵麭よりはましではないかと思った。何しろ、吐き出す事が出来るのだから。
「ここからは、食事は摂れる時に摂る事だ。そうでないと、長期戦になるだろうから体力が持たんし、夜も碌に眠れん」
 塩辛い肉で口の中の味を消しながらスヴェルトは海狼の言葉を聞いた。
「夜には交代で歩哨を立て、銛打ちの中心的な者は休ませることだ。暗いが、海の変化には敏感でいろ。でなければ、あっと言う間に餌食にされるぞ。特に手負いの鯨は危険だ。血の臭いに誘われて鮫や鯱も来るだろうから、気を付けろ」
 海狼の話は何も大袈裟に言っているのではない事は明らかだった。
「スヴェルト殿には申し訳ないが、慣れぬ者には非常に危険な漁だ。乗組員は中々納得せんだろうが、殿(しんがり)は任せた。その代わり、鯨の尾には注意しろ。まともに喰らったら、お終いだからな」
 その気迫に押されてスヴェルトは頷いた。ヨルドも真剣な顔をしていた。
「特にこの時期のはぐれ鉄砧(かなしき)は気が荒い。隙あらば他の雄の群れを乗っ取ろうとしているからな。目当ては雌だけに、始末が悪い」
 笑い声が起こった。何時しか、他の船の船長や族長船の乗組員達が四人を取り囲んでいた。
「男を試すには良い機会だが、過つな。蛮勇と勇気は違う。自分を過信するな」
 更に海狼が言葉を継ごうとした時、声が上がった。
「潮吹きが見えました、例の奴です」
「良し、皆、船に戻れ」
 海狼が立ち上がり、皆はそれぞれの船に戻った。中には、船を渡って行く者もあった。
「いよいよですな」
「ああ」
 ヨルドの言葉に、スヴェルトは髪を束ね、他の船長達のように銛を手に舳先に立った。ヨルドも顔の横の髪を編み、革紐で縛った。
 船団が左右に分かれる。
 予定通りに挟み撃ちにするのだ。初めてのスヴェルトは、その後を付いて行く他はなかった。フラドリスとマグダルのような若い者は、参加を許されても銛を持つ事はなく、年長者の船に乗り込んで覚えて行くと言う。
 鉄砧、というのはスヴェルトの初めて聞く鯨だった。イルガスによると、この鯨の体内からあの貴重な龍涎香が取れるのだと言う。その正体を見たいのは確かだ。ジョスの結婚の贈り物には、龍涎香が島での一年分を優に越えると思われる量が含まれていた。そして、その香りは、野の花や苔の奥にひっそりと存在するジョスの香りでもあった。
「遅れを取るなよ」
 ヨルドが笑いながら叫んだ。この男も楽しそうだった。帆に風をはらませ、スヴェルトの船は船団を追った。飛び抜けて船脚が速いのは族長船であったが、ここでは連携の為に速度を落としていた。それでも、先頭だ。
 遠くに大きな黒い山のような波のうねりが、スヴェルトの目に入った。
 いや、波ではない。
 そのうねりの最後には、三日月型の尾があった。豪雨のように、その端からは海水が流れていた。
 何という大きさだろうか。
 傍らのヨルドが息を呑むのが分かった。
 あれは、怪物だ。
 歴戦の戦士達も茫然としている。
「ぼやっとするな、置いて行かれるぞ」
 スヴェルトはいち早く衝撃から立ち直って檄を飛ばした。
「あの尾に気を付けろ。俺達は殿を任されているからな、この巨熊スヴェルトに恥をかかせるなよ。敵に背を向けた奴は、分かっているだろうな」
 その言葉に、皆は我に返ったようだった。スヴェルトは笑みを浮かべている自分に気付いた。
「たかが鯨、人間のように知恵は回らん」
 ヨルドも言った。だが、強がっているのは付き合いの長いスヴェルトにはお見通しだった。
 船団は速度をあげ、大きく鯨を取り囲むような陣形を取った。近付きすぎるのも危険、という事なのだろうか。そうスヴェルトが思った時、中央の海面に黒い影を認めた。船が、それに向かって寄って行く。
「出るぞ」
 前の船の舵取りが叫んだ。
 水柱が上がったと思うや、銛が打たれた。
 だが、刺さらない。頭骨に当たったようだった。
 霧のように一面がかき烟り、ゆっくりと鯨の頭が潜り始めた所で、一本の銛が刺さった。綱に結わえられた小船が投じられた。
「やった」
 思わずスヴェルトは言った。そこからは次々に銛が刺さり始めた。殆どの物には小船や丸太に繋げられていた。そうでない物はだらりと綱を垂らしていた。
「一番銛は。誰でしょうね」
「海狼殿だろう」
 ヨルドの問いにスヴェルトは答えた。遠目にではあったが、スヴェルトには舷側から銛を投じる海狼の姿が見えていた。その姿は年齢を感じさせず、また、何者も寄せ付けぬ強さと自信に満ちていた。族長故に譲られたなど、とんでもない。海狼は熟達した銛打ちだ。
 鯨は、高々と尾を上げると深くに潜り込んでしまった。
 どうするつもりなのだろうか、とスヴェルトは不安になった。これでは逃げられてしまう。
 それでも、他の船の者達は舷側で海面に目を凝らしていた。スヴェルトもそれに倣って部下達に注意するように命じた。
 どの位の時間が過ぎただろうか。事前に聞いていたのでは一刻でも二刻でも鯨は潜っていられると言う。そして、浮き上がる時の目印でもあり、潜水の体力を奪うのが銛に繋いだ小船や丸太の役目だと。
「そこだっ」
 風に乗って、どこかの船の者の声が聞えた。その船が先頭を切り、再び船団が動き始めた。誰かが合図をした訳ではない。だが、完全に連携の取れた動きであり、全ての者達がこの漁を知り尽くしているようだった。スヴェルトの船団が遠征の際にそうであるように、互いに信頼で結びついているのだ。誰にでも背中を預けられる状態だった。
 理想的だ。
 スヴェルトは思った。
 狩りですらこの様子では、戦では無敵ではなかろうか。どうしても自分達が盤上であれ摸擬海戦に勝てぬ理由は、海でのこの互いの意思を読み合う(すべ)によるところが大きいのだろう。それは、(おか)での戦いにも通じるものだ。
 スヴェルトは急いで船を回させた。殿という役目は甘んじるのではなく、当然の事だった。あの巨大な生き物を前に生身で、一歩も引かずに戦いを挑もうとする人々には舌を巻かざるを得なかった。
「あがるぞっ」
 あちらこちらから声が上がった。
「海面に注意しろ」スヴェルトは命じた。「絶対に、鯨影の上には乗るな」
 小船や丸太が浮き始めた。
 スヴェルト自身も海面を覗き込む。
 それは、意表を突く出現だった。
 いきなり船団の中心に鯨の角張った頭部が現れ、ぱっくりと口が開かれた。細長い顎に、ずらりと大きく鋭い歯が並んでいた。まるで、冥界の淵を覗き込んだ気分だった。
 ぐるりと鯨は身体を回転させると、背中から海へと倒れ込んだ。初めて見る動きだった。大量の海水が高波となってスヴェルトの船にもなだれ込み、甲板(こうはん)が雷鳴のような音をたてた。
「水を掻き出せ」
 ヨルドが命じた。他の船でもやはり、同じ事をしている。鯨身が水上に立ち上がった。
 いける、と感じ、その腹を目がけてスヴェルトは銛を打った。命中。他の船からも銛が打ち込まれる。
 しかし、スヴェルトが二本目の銛を受け取った時には鯨はまた身を捩り、大量の飛沫を上げて姿を消した。
「弱る気配はありませんな」
 びしょ濡れのヨルドが言った。
「あれ程の大きさだ、屁程も思ってまいよ。簡単にはくたばるまい」
 海中に没した鯨が浮上するのを、再び待つ。弱れば潜水時間は短くなり、遂には潜れなくなると言う。そこまで弱らせて島の入り江へ追い、(とど)めを刺すのだと。下手をすれば三、四日掛かる事もあるというのも、鯨を目の前にしてようやく分かった。
 たかが鯨と思っていたが、大間違いだった。生ぬるい漁の仕方だと思ったが、とんでもない。勇魚、という名が示す通り、闘争心に溢れた獰猛な生き物だ。鯱も強いが、その何倍もの大きさだ。先の見えない戦いだった。
 ジョスから見れば、自分達の漁は児戯にも等しかったろう。わざわざ、専用の衣服を必要とする訳だ。
 一刻を少し過ぎて、鯨が姿を現した。猛然と、一隻の船に向かって行くのを、その船は巧みに帆を操り、方向を逸らせた。
「おいおい、人喰い鯨かよ」
 部下の一人が呟くのが聞えた。「船を襲ってるんじゃねえか」
「だが、背は丸見えだ」
 スヴェルトは笑みを浮かべた。そして、二本目の銛を放った。
 ゆっくりとは考えていられなかった。後、一度潜られれば夜を迎えねばならない。難儀な事になるな、と思った。慣れぬ海、慣れぬ漁。夜になれば一面の闇だ。それはある意味、遠征時に丸腰で陸にいるのと変わらぬだろう。遠征での外洋で夜を過ごすのとは違う。先程目にしたように、手負いの巨大な敵が水中に身を潜める事になるのだ。
 海狼が舳先の立ち上がり部分から銛を投げる姿が見えた。あの年齢にしてあの飛距離。細身の身体からは信じられなかった。
「尾鰭に注意しろ」
 様々な音を圧倒するように海狼の声が響き渡った。
 頭部が沈み、尾鰭が振り上げられた。悪意のある海水の流れが頭から降り注いだ。痛い程の量だった。
「散開せよ」
 再び海狼の声がした。潮に思わず目を(しばた)かせてスヴェルトは海狼の姿を追った。全身から海水を滴らせながらも、些かも変わらぬ姿で前方を見つめている。あの力強さは何処から来るのだろうか、と思わずにはいられなかった。
 一旦、船団はばらばらになった。鯨に追われていた船も無事のようだった。
「今日の勝負は、ここまでのようだな」
 イルガスが船を寄せて来た。海狼と同じように顔の横の髪を編んでおり、完全に戦士の顔をしていた。
「夜には灯りを点けるな。狙われるぞ。それと、船底に何かが当たる音がしたら直ぐに離れろ。浮標代わりの何かが当たったかもしれないからな。水中からの物音にも注意するんだ。奴らは水中で音を発する。耳を船底に付けて眠るよう伝えろ。それが大きく聞えた時には、かなり近くにいる証拠だ。とにかく、見張りには夜目の利く者を置け」
「了解した」
「それと、夜の銛打ちは禁止だ。朝にまた、追跡を始める。それまで乗員を休ませてやれ」
「船の位置は」
「このままだ。固まると却って、危険だからな。奴も相当、頭に来ているようだ」
 笑うイルガスにスヴェルトは海狼の血を見た。ジョスにも、この血が流れているのだ。
 ぐしょ濡れの衣服は気持ちの良いものではなかったが、致し方ない。遠征の航海とは違い、干すこともままならない。船に溜まった海水を掻き出させると、何とか無事だった食糧で夕餉を済ませた。慌てて入れたジョスの麵麭も濡れてはいなかった。
 この午後だけでも皆の消耗は激しいようだった。
 当然だろう。あのような生き物など、目にした事も耳にした事もなかったのだから。スヴェルトにしてからが、かなりの衝撃を受けた。
 これが、ジョスの生きて来た世界の一端なのだ。
 男達は生命懸けの漁を行い、夏の終わりには遠征へ出掛ける。
 だからこそ、ジョスは遠征前日に、あのような事を口にしたのだろう。
 スヴェルトはジョスの堅焼き麵麭を割り、麦芽酒に浸した。正直、この食べ方は好きではなかったが、こうでもしなければ、保存のきくこの麵麭は食べられない。折角の味も死んでしまうが、やはりジョスの味は分かった。胃袋と共に心も満たされる気がした。
 スヴェルトは喉元に手をやった。
 あの時、自分の首に刃を突き付けたのが真実、ジョスなのだとすれば、自分はジョスについて何も知らない事になりはしないか。
 確かに、頬を叩かれた時には愕きはした。あれは、仕方のない事だった。
 だが、あの時は――とスヴェルトは結婚初日にタマラと対峙していたジョスを思い出し、杯を取り落としそうになった。
 その時に見た凶暴な目の光。あれはまさに海狼の血ではなかったか。それを自分は好ましく思いはしなかったか。
 その刃が自分に向けられぬ限りは、などとは言わない。例えそうであっても、原因は自分にあるのは明らかだった。


 夜は何事もなく過ぎた。不気味な程に静かだった。男達は疲れ切って眠り込んでいたが、スヴェルトは夜明け前に起きた。見張りに頷いて見せると、舵を交代した。何かあれば直ぐに起こす事になるが、暫くでも休みが取れるのは違う。
 徐々に空が白んで行き、周りの様子もぼんやりと見え始めた。どの船も帆を降ろし、静寂に包まれていた。それも見せかけだけの事だというのは、スヴェルトには分かっていた。船団の緊張は、全く解かれてはいなかった。
 何時、何処で浮標が現れるか分からない。
 そういった緊張感は、スヴェルトは嫌いではなかった。だが、目に見えぬ標的というのは慣れなかった。大抵は自分達が奇襲を仕掛ける側だったが、今回は何時襲われるか分からない。
 それを楽しめなくては狩りではない。戦士ではないとスヴェルトは思った。
「お早う御座います。変わりはないようですね」
 ヨルドが起き出して来て言った。
「今の所はな」
「逃げられたんじゃないでしょうな」
「この漁に慣れた海狼殿達に、それはなかろう」
「そうですね」
 ヨルドは言った。そして、艫から大海原を見渡した。
「しかし、平和なものです。昨日のは一体、何だったのだろうかと思いますなあ」
「そうだな、だが、油断するな」
 突然、鋭い指笛の音が響いた。
「野郎共、起きろっ」
 スヴェルトが呼ばわると寝汚(いぎたな)い者達も跳ね起きた。
 船団に動きはなかった。次の指示待ちのようだった。
 再び、音がした。船が帆を揚げて族長船に集結し始めたので、スヴェルトもそれに倣った。エルドの船からマグダルが大きく手を振っていた。明るい青年だった。
 族長船に舳先を向けて船団が集まった。船の中央には海狼が立ち、皆に向けて言った。
「浮標が見付かった。これより追跡を再開する。昨日の陣形を取れ。余り痛手を与えられなかったようだ。銛手、焦るな。血を流させて弱らせる事が、今日の目的だ」
 さっと海狼が手を上げるや、船は整然と動き始めた。
「今日は弱らせるのが目的、ですか」ヨルドが唸った。「あの元気でしたからね」
 愚痴りたくなる気持ちも良く分かった。
「遠征では待つ事が少ないからな」
「貴方が苛つかないのが不思議です」
「ほざけ」
 ヨルドは肩を竦めた。だらしなく見える笑いが、その顔に浮かぶ。実際にはこの男も楽しんでいるのだ。
「食える内に食っとけよ」スヴェルトは部下に怒鳴った。「お前らが終わったら、舵を交代しろ」
 そして、追跡と戦いの一日が始まった。
 やはり巨大なだけはあって、手強い相手だった。スヴェルトの銛もそれ程、打撃を与えられたとは思えなかった。それでも、何本もの銛を打ち込まれ、浮標を付けられた鯨の体力は徐々にではあったが、失われているように思われた。昨日のような跳ね上がりの高さも低くなり、潜水する時間も一刻を切るようになった。
 結局はその日も時間切れだった。だが、スヴェルトの部下はともかくとして、船団の者達は手応えを感じているようだった。


 次の日には展開が変わった。日没には主導権は完全に人間の側にあった。最早、鯨は水面から頭を突き出す事もなく、潜る事もなくなっていた。水面近くを泳ぐばかりであった。息を継ぐ為に浮上するのみだ。
「明日は追い込みだな」
 船を寄せたイルガスが言った。「入り江に入る時には私の船の横に付けると良い。父上の止め

を見せてやろう」
「やはり、一番銛は海狼殿だったか」
「当然」イルガスは笑った。「父上は急所を良く御存知だからな。止めも鮮やかだ」
「楽しみにしていよう」
 スヴェルトは本心からそう言った。まだまだ、学ぶ事は多い。
「ああ、そうだ」思い出したようにイルガスが言った。「入り江の断崖の洞窟には母上がお待ちになっている。運が良ければ、いるかもな」
「期待はしていないがな」
 スヴェルトはぽつりと言った。有り難い事に、それはイルガスの耳には届かなかったようだった。
「明日は殿は必要ないから、私の船の後ろについて、とにかく、鯨が方向を変えようとしたら銛を打て。頼んだぞ。まだ、油断は禁物だ」
 満身創痍でいる鯨の背に刺さった銛の中には、海面から石突きが出ている物もあった。それを見やりながら、スヴェルトは食事をし、麦芽酒を飲んだ。
 遠征での戦いや島での鯨狩りは、長くても数刻だ。これ程緊張を強いられるのは初めての事だった。部下達も鯨に劣らず消耗している。スヴェルト達よりも過酷な戦いを挑んでいたイルガスの乗船の者達は平然としているにも関わらず、だ。上手く息抜きをする術でもあるのかもしれない。操船の技術、連携だけではなく、精神と肉体の強靱さも見習わねばならないだろう。
 鯨の傷から滲み出した血が、鮫を呼んでいた。それを身を捩って、鯨は振りほどいていた。
 勇敢な生き物だ。それ故に、勇魚と呼ばれるのであろう。
 そして、まさに鉄砧のような頭部。くびれのない頭蓋との境目に銛を打つのは至難だ。
 油断するなとイルガスは言った。だが、ヨルドはもう既に勝った気でいる。他の者にしたところで、戦いの終わりに休息を取っている感があった。
 スヴェルトはそのような気持ちにはなれなかった。この海や鯨の事は、イルガスの方が良く知っている。その男の忠告なのだ。まだ、気を抜いてはならない。恐らく、息の根を止める迄は安心ならない相手なのだろう。食事が終わったら叱咤しなければならない。
 暮れて行く陽の中で、スヴェルトは麦芽酒を流し込んだ。
 明日には、ジョスに会えるのだろうか。


 鯨は抵抗をした。夜の間に少しでも体力を回復したのか、頭部を揚げる事こそなかったが、尾を水面に叩き付けては船を浸水させた。
 少しでも進路を逸れようものなら、容赦なく銛が打たれる。スヴェルトも銛を放った。
 太陽が天頂に来る頃、島が見えた。
「もう少しだ、気張れ」
 ヨルドが声を張り上げたが、かすれていた。
 何日ぶりの陸の姿だろうか。スヴェルトは思った。何度、海水を浴びたのか分からない髪や服は乾くと塩を吹いてごわごわした。
 島に来た時とは異なった入り江へと導かれて行った。
「海獣の入り江だ。スヴェルト、船を横に着けろ」
 イルガスが叫んだ。常の優男風から野性味を増した精悍な狩人がそこにはいた。
 鯨は逃げ場を求めたが、行き先は入り江への隘路しかなかった。どこへ進もうとも、銛が打たれるからだ。
 諦めたように鯨は入り江に入った。
 その途端に、歓声が頭上から降って来た。スヴェルトが愕いて見上げると、崖の上にはまるで豆粒のように見える人々が迎え出ており、岩場にはあじさしの目覆い付き兜の若い戦士達が散見された。
「さあて、父上の止め

だ」イルガスはスヴェルトに声を掛けてきた。「向かいの船が族長船だからな、お前はこちらに移って来い」
 ヨルドに後を任せ、スヴェルトはイルガスの船に飛び移った。
 途端に船は速度を上げ、黒い巨体に迫った。
 族長船から綱付きの銛が打たれたが、今度はその端が放される事はなかった。それを手がかりにして鯨体に、かなり長い

を片手にした海狼が乗り移った。そして、他の銛の柄を手がかりに進んで行った。ぴんと張られていた綱は、放たれた。船を危険に曝さぬ為には必要だと分かってはいても、スヴェルトの肝は冷えた。
 目的の場所まで行くと、海狼は躊躇う事なく仁王立ちになると

を真っ直ぐに突き立てた。そして、そのまま石突きまで沈めて行く。殆どどその柄が見えなくなった所で、鯨が身を捩った。
 危ない、とスヴェルトは思ったが、イルガスも誰も動じた様子はなかった、海狼は手近な銛の柄を支えに、激しく揺れる鯨体の上でも表情一つ、変えなかった。
 ほっとしたのもつかの間、鯨の頭部の先端にある潮吹き口から血が吹き出た。
「肺臓を突いた証拠だ」イルガスが言った。「全く、父上は(あやま)つ事がない」
 それでも、巨体は抵抗した。うねり、(よじ)られる体の上に海狼が蹲っていた。その身が、鯨の立てる波に洗われる。船も大きく揺れた。だが、舷側に張り付いた誰一人としてその場を離れようとはしなかった。
「自分の血で溺れ死ぬのは、どんな気分なのだろう」
 イルガスが呟いた。感傷的なその言葉に、思わずスヴェルトはイルガスの顔をまじまじと見た。
「母上が、かつてそうおっしゃっていた事があったからな」
 スヴェルトの視線に気付いて心地悪げにイルガスは言った。
 やがて、鯨は大きく痙攣すると動かなくなった。
 海狼はようやく立ち上がり、手近の銛を引き抜くとそれを勝利の証に高々と掲げた。
 崖や岩場から、息をひそめて見守っていた人々から再び歓声が上がった。
 イルガスがスヴェルトの脇を小突き、後ろを振り向くように示した。
 断崖の中程にあいた穴に、数人の女性の姿があった。五人。その内の一人が、スヴェルトが見やると姿を消した。
 ジョスだ。
 直感でスヴェルトには分かった。
 長身で奥方と同じ色の髪。間違いはなかった。
「それ、来ていただろうが」
 イルガスが言った。「早く、仲直りをするんだな」
 それに答える言葉が、スヴェルトには思い付かなかった。


 船に戻ると、イルガスに指示された通りに海狼の海神への感謝の祈りを聞いた。そして、然程の量はなかったが、残った麦芽酒と蜜酒を捧げ物として海に流した。
 鯨の尾に縄が結わえられて船着場のような洞窟に曳航された。この入り江では帆走できるだけの広さが充分にあった。
 スヴェルトの初めて見る綱を巻く装置があり、あの巨体がそれで易々と引かれて岸に寄せられた。
 その後で、族長船を筆頭に船が引き揚げられた。
 族長がまず下船すると、奥方が近付いて行った。何事かを交わし合い、スヴェルトが見た中でこれ以上はない、というくらいの優しく愛おしげな仕種で海狼の頬を撫でた。その手を取り、海狼は奥方から目を離す事なく掌に唇付けた。既に孫もいる夫婦には見えなかった。未だに恋人同士のようだった。
 次々と船が揚げられ、乗組員が降りて行く。イルガスが下船すると子供達が走り寄って来た。その一人を抱き上げ、イルガスは妻に唇付けていた。
 出来るなら、自分はジョスと海狼とその奥方のようになりたいと思った。齢を重ねて猶、いや、むしろ一層、共に生きる事を喜べるように。
 だが、それにはまず、ジョスに会わねばならない。
 順番が来て、スヴェルトも下船した。
 当然と言うべきか、ジョスの姿はなかった。
「まずは身なりを調えた方が良さそうだな」
 イルガスが子供を抱えたままやって来た。「直ぐに案内させよう」
 スヴェルトは頬を撫でた。無精髭がざらりとした。
「お前はどうするのだ。このまま帰るのか」
「まだ、解体があるからな。それからだ」
 では、自分も付き合おうとスヴェルトは言ったが、イルガスは顔をしかめた。
「相当、きついぞ」
「構わん、良い機会だ」
 イルガスは子供の金色の髪に唇付けると、妻の腕に戻した。
「では、こちらだ。だが、お前の部下は止めておいた方が良いだろう。後々、難儀かもしれんからな」
 スヴェルトはヨルドに、皆を休ませるようにと指示した。疲労の限界にまで来ていた戦士達は、それを喜んで受け入れたようだった。
「それで、貴方はどうなさるのですか」
 ヨルドの言葉に、スヴェルトはイルガスの手伝いをするのだと言った。
「お前も奴らと一緒に行って、少しは身なりを何とかしろ。女房に裸足で逃げられるぞ」
「お互様のなりですよ。でも、まあ、体力は貴方の方が上ですからな。ここは引きましょう」
 そう言って苦笑すると、ヨルドは素直に従った。
 イルガスと共に行くと、海狼はまだ奥方と何事かを話していた。スヴェルトの姿を認めると奥方は微笑んだ。
「ご無事でなによりでした。それに、よいお顔をなさって」何とジョスの笑みに似ているのだろうか。そして、その話しぶりも。「あの子も出迎えにおりましたのに、申しわけありませんが、逃げられてしまいました」
「奥方様のせいでは御座いません」スヴェルトは慌てて言った。「先に申し上げました通り、全ては某の責任なのですから」
「そう畏まらずとも良いものを」
 海狼が笑った。
「まあ、おいおい、変わるでしょう。何しろ、まだジョスの夫という立場に慣れぬようですから」
 イルガスの言葉にも応える事は出来なかった。
「では、わたくしは上でお待ちしております」
 奥方は海狼にそう言った。
「では、後で」
 二人は唇付けを交わした。
「全く、今のお前には目の毒だろう」
 イルガスが囁いた。
「お前だってそうだろうが、仲の良い所を見せ付けやがって」
 スヴェルトも小声で返した。
 そう、あの事さえなければ、自分にも家庭が出来ていた。その事を思うと、未だに胸が痛んだ。
「では、父上、お先に参ります」
 イルガスはスヴェルトの背に手を添えて言った。
「まあ、まずは塩を落とそう」 
 連れて行かれた場所では、男達が桶の水を自ら頭からかぶったり、母親や妻と思しき女性から押さえつけられるようにして水を掛けられたりしていた。
「おっと」
 イルガスがさっと身を引き、スヴェルトはまともに勢いよく水を正面から受ける事になった。
「義兄上」マグダルが空の桶を手にして愕いたように立っていた。「いや、その、イルガス兄上にと――」
 スヴェルトはずかずかと歩むと、手近な水桶を摑み、一つはマグダルに、もう一つはイルガスにぶちまけた。
「酷い事をするなあ」
 イルガスが言った。
「どうせ一緒の事だろうが」そう言うとスヴェルトは腹の底から笑った。笑うなど、ジョスがいなくなって初めてのような気がした。「さっさと行こう」
 鯨の所には子供達がいた。この怪物のような生き物を面白がって見たり触ったりしている内に、恐怖心もなくなるのだろうかと思った。少女の姿もあった。
「こら、仕事の邪魔になるからもう行きな」
 男が子供を叱っていた。それでも平気な子供も、スヴェルトが近付くのを見て呆気に取られたようにその巨体を見上げた。
「ジョス姐さまのお婿さんだわ」
 少女の一人が言い、わっと今度はスヴェルトに子供達が群がった。
 ジョス姐さま。族長の娘をそう呼ぶなど、考えられなかった。
「よその島から来たのでしょう」「どうしたらそんなに大きくなれるの」
 子供の質問に、スヴェルトは困ってしまった。部族の子供は戦士に対しての礼儀を叩き込まれるものだ。
「ここは危ない。大人の言う事は聞くものだ」
 スヴェルトは腰に両手を当て、そう言うのが精一杯だった。イルガスが笑いをこらえているのも分かった。
 不承不承と言った様子で、それでも子供達はスヴェルトの言葉に従った。
「助かりました、旦那。いつもなら族長がいらっしゃるまで離れやしないのですから」
「滅多にない客人(まろうど)だしな。それにあのジョスの夫だ。聞き分けのない子供も従うさ」
 イルガスは笑った。そして、男達が並べ始めた解体用の道具を検め始めた。
「中々の獲物でしたな」
 解体を担当するのであろう初老の男が言った。
「まだ若い雄ですから、肉質も申し分ないでしょう。ただ、香がどの程度溜まっているのかは分かりませんね。外れの可能性も高い」
 海狼が姿を見せた。三人の息子も同行している。
「では、始めろ」
 その言葉に、男達は作業を始めた。背から腹へと適当な幅の切れ目を入れ、腹に一直線に刃を入れる。そして先端に大きな鉤の付いた長柄で切れた部分を引っ掛け、数人で持ち上げると皮をめくり上げて行く。脂の下の赤い身が姿を現した。それを繰り返し、上の部分の脂の付いた皮は全て取り除かれた。壮観だった。水中にある尾を引いて鯨体を回転させ、再び同じ作業が始まった。全ての脂が取り除かれると、海狼は鯨の前まで行き、船長達の意見を聞きながら相談をしていた。
「分け前の相談だ。より活躍した銛打ちが良い部位を取る」
 その辺りはスヴェルトの部族と変わらない。違いは、参加しなくとも族長が最上の肉を手に入れる事だろう。
 やがて全てが決まったのか、皆が赤剥けの鯨の前から去り、鯨体は陸に引き上げられた。
「腹を裂きますぞ」
 先程の初老の男が呼ばわった。皆は鯨の腹の前から移動した。
 ぐっと深く、鯨の腹に大きな刃が入った。男はそれを引いた。最初は深く慎重に、ある程度まで来ると浅めに一気に切れ目を入れた。
 内臓が、その自重でなだれ出た。
 人間を切りまくって来たスヴェルトにも、それは壮絶な光景だった。(はらわた)のはみ出た怪我人も、胴体切りした相手も、この光景の凄まじさの前には大した事がないように思えた。
 生臭さも酷かった。
 その中を海狼が進み出て内臓の、丁度、人間で言えば胃の辺りから下方へと素手で探った。やがてその動きが止まると片手を差し出した。若い男が道具類の中から一つの刀を差し出した。海狼はそれで腸を裂いた。
 強烈な腐敗臭と排泄物の匂いがした。そこへ、あの海狼は手を突っ込んだ。
 吐き気を催しそうになる光景だった。
 汚物にまみれた手で海狼は何かを差し上げた。
 一斉に、歓声が上がった。
 刃を渡した男が器に手に近付くと、海狼は汚物の塊を幾つかその中に入れた。
「思ったよりも多かったな」
 イルガスが呟いた。その目は輝いていた。
「あれは何だ。何をそう興奮する」
 虚を突かれたようにイルガスがスヴェルトを見た。そして、苦笑いした。
「ああ、そうだな、お前の部族では取れないのだったな。あれが龍涎香だ。洗いをかけて乾燥させれば、そうなる。最も高貴な物が、あのような汚濁の中に隠れているものなのだ」
 あれが、龍涎香の元の姿。スヴェルトの島で取れる龍涎香は、浜に打ち上げられた灰色の塊だ。
 スヴェルトは海狼の奥方を思い浮かべた。
 奴隷という卑しい身分に落とされながらも、海狼に見出された女性。
 数々の艱難辛苦にも耐えてきたのだろう。自分達の奴隷の扱いを思うと、奥方には顔向けが出来そうになかった。
 そう、自分は、家で使っていた奴隷達の名さえ憶えようとしなかった。それは、家畜と同じ扱いだった。堂々と、ジョスの目の前でそう言った自分を思い出した。
 ジョスはそれを、どのような気持ちで聞いていたのだろうか。
 最初は慕ってくれていた気持ちも、それで冷めたのではないだろうか。
 結局は全て、スヴェルト自身に問題があったのだ。
 生まれや育ちがどうあろうとも、自分はジョスを選んだだろう。なら、他の者達も同じように扱われても良いはずなのだ。だが、好意はそこに差を生む。
 ジョスでならなくてはいけない反面、それ以外の者はどうでも良くなってしまう。それを、ジョスは出来なかった。
 奴隷を自由人の家人のように遇し、それなりの生活をさせていた。それがスヴェルトの気に入らなかったからこそ、最低限の者だけを残して他の者は父親に解放奴隷として託したのだ。
 スヴェルトは、ジョスとどう向き合うべきかを考えた。
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