第一節 3

文字数 3,042文字

「大丈夫か」
 差し出された手を掴んで立ち上がると、エドガルドが至近距離からナサニエルの目を覗き込んできた。
「お前は何に怒っているんだ」
 じっと両の目を見つめ、エドガルドが静かに()く。唐突な質問に、ナサニエルは何を言われているのか理解できず、同じように相手の双眸を見つめ返した。
「お前の中にはずっと怒りが(くすぶ)っている。お前が自分の内側へ入り込んでいこうとすればするほど、奥底に仕舞い込んでいた怒りが顕れて、それ以上先へ進めなくなる。それが呼吸を乱し、リズムを狂わせているんだ」
「何を、言っているんだ」
 ナサニエルはやっとのことで口を開いた。何か言い返さなければ、エドガルドの静かな眼差しに呑み込まれそうだった。
「怒りを無理に殺す必要はない。捨てられない感情なら抱えているしかない。だが、棒を振るう間だけは忘れるんだ。一つの感情に囚われ続ければ、心は必ず疲弊する。棒を握っている間だけは感情を忘れ、ただ呼吸に従って動く瞑想となれ。その間、お前の精神は怒りから解放され、休息を得ることができる。ティエラ棒術はそのためにある。お前の心をひとときでも休ませるために」
 言い終えると、エドガルドはナサニエルの反応を窺う様子もなく再び木仗を構えた。
 エドガルドの繰り出す棒に、今度はナサニエルは無心で応える。何も考えず、相手の呼吸に自分の動きを合わせ、ただ打ち込まれた棒に応えているうちに、ナサニエルの心は無になっていく。そしてナサニエルは、目の前で棒を振るう人物の動きが、とうてい自分が属する世界のものとは思えぬ、何かこの世ならぬ高みに到達するのを目の当たりにした。
 エドガルドは自身の言葉通り、動く瞑想となって木仗を振るっていた。
 混沌エネルギーが刺青を通じて肉体に流れ込み、体内でうねっては、また刺青を通じて放出される。自らの肉体がこの世界を充盈(じゅうえい)するエネルギーの一部となり、その大いなる流れに呑み込まれていくのをエドガルドは感じた。不規則で予測のつかぬエネルギーの流れに促されるまま、棒を(さば)く。
 圧倒的な美が、そこにあった。
 ナサニエルは自分の木仗が、ただエドガルドを動かし続けるためだけに繰り出されているのを悟った。味わったことのない静けさが身の内をじわじわと満たしていき、相手の流麗な動きから目が離せない。
 どのくらいのあいだ打ち合っていたのか分からぬまま、気付くと手合わせは終わっていた。
 静かな興奮が去り、ナサニエルは放心したようにその場に立ち尽くした。しわぶき一つ立たぬ沈黙が中庭を満たし、その場にいる学徒全員が茫然とエドガルドを見つめている。上級学師のルカスも、普段の飄々とした様子からは想像もつかぬ、喰い入るような眼差しで二人を見ていた。
 改めて対峙すると、打ち合いの最中は自分よりも大きく感じられたエドガルドの身体が、自分より一回り小さい ことにナサニエルは気付いた。背は低くはないがナサニエルほどの長身ではなく、無駄のない筋肉に覆われた身体も、決して細身ではないがナサニエルよりは華奢だ。この人物が先ほどまで全身で自分を圧倒していたのだと思うと、驚きを禁じえなかった。
 エドガルドはナサニエルの様子を気にも留めぬ態度で話し掛けてくる。
「こんなに気持ちよく棒を振るったのは久しぶりだ、礼を言う。始めて一年にも満たないのに、これほど相手を動かすことができるなんて、本当に筋が良いな」
「いや、俺は何も。動かされていたのは俺の方だ」
 ナサニエルが居心地の悪い思いをして答えると、エドガルドは小さく笑って返した。
「同じことだ。お前は俺に動かされ、俺はお前に動かされた。誰と打ち合ってもああなれる訳じゃない」
 打ち合う前の研ぎ澄まされた雰囲気からは想像もつかぬ、和やかな笑みを浮かべたエドガルドを見て、ナサニエルは思わず口を開く。
「あんたの忘れたい感情はなんだ、エドガルド」
「え」
「さっきあんたが言っただろう、棒を振るう間だけは自分を囚えている感情を忘れることができると。あんたは棒を握ってるあいだ、自分の中のどんな感情から解放されて、ひとときの休息を得てるんだ」
 エドガルドの言うとおり、ナサニエルはいま自分の奥底に常に滞っていた冷たい怒りから解放され、ひとときの穏やかさに包まれていた。エドガルド自身の(まと)う空気も、打ち合いの前に漂わせていた微かな緊張が霧消し、静謐で柔らかなものに変じている。
「俺にとっての怒りは、あんたにとって何の感情だ」
 自分との打ち合いは、この棒術の天才を一体どんな感情から解放したのだろう。ナサニエルは純粋にそれを知りたかった。
 予想もしない質問に動揺し、エドガルドは咄嗟に左手を(めぐ)らし木仗を握る右腕に触れた。袖がまくれ、何の装飾性もない真っ黒な金属製の腕輪が覗く。エドガルドは気を鎮めるように無意識に腕輪を撫でながら、短く答えた。
「恐怖だ」
 ナサニエルはエドガルドの顔を凝視する。恐怖という言葉を口に乗せた時、エドガルドの(はしばみ)色 の瞳に昏い(かげ)りが差し、彼の奥底には確かにそれが眠っているのだと信じさせた。ナサニエルが更に何かを言い募ろうと口を開いた時、ルカスが現れて手を叩き、稽古の終わりを宣告した。
「もう十分だろう。朝の教練はここまでだ。みな解散しろ」
 学徒たちは名残惜しそうにちらちらとエドガルドの方を見ながら中庭を去って行く。ナサニエルはもう少しエドガルドと話をしたかったが、仕方なくその場を立ち去った。
 学徒たちがいなくなると、広々とした石畳の中庭にはがらんとした寂しさが漂う。二人きりで取り残されたエドガルドとルカスは、暫くのあいだ無言で立ち尽くす。やがてルカスが(おもむろ)に口を開いた。
「相変わらず、どんな高みにいるんだ、お前の棒術は」
 言ってすぐに、ルカスはいや違う、と思い直した。ルカスがエドガルドの棒術を最後にまともに見たのは、七年も前のことだ。今のエドガルドの棒術は、その頃よりも更に高みに達している。七年前からエドガルドの動きに無駄なものは一切なく、その棒(さば)きは殆ど芸術の域だった。だが反面、見る者を寄せ付けないような孤高の雰囲気があった。一方、先ほどエドガルドが見せた動きは、流れるように自然にナサニエルの呼吸に応え、相手の全てを受け入れるような、寛容、受容といったものさえ感じさせるものだった。
「山に帰って来もしないで、お前はどこまで行ってしまうつもりなんだ」
「さっきのは、ナサニエルの応じ手が良かったからできた動きだ」
「ああ。お前らの動きは息がぴったり合っていた。まるでアダンと打ち合ってるのを見てる気分だったよ」
 先ほど同様、ルカスがあまりにも自然にアダンの名を口にするので、どう反応して良いのか分からず、エドガルドは押し黙る。
 七年前、エドガルドの幼馴染みである上級学師のアダンがティエラ山から姿を消して以来、エドガルドは山に寄り付かなくなった。そのことを昔馴染みの者たちがどう捉えているのか、エドガルドには想像もつかない。
 ルカスはエドガルドの様子に気付かないふりで、あっさりと話題を変える。
「山にはどのくらいいる予定だ。暫く滞在するのか」
「まだ分からない」
「そうか。時間があったら今度は俺とも打ち合いをしてくれ」
 ルカスは七年に及ぶ空白の時間についても、突然の帰郷の理由も詮索しようとはしない。何も言わずに自分を受け容れてくれるルカスの優しさが、エドガルドは有り難かった。
「ああ、もちろんだ。是非」
 エドガルドは嬉しそうに微笑んだ。
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登場人物紹介

エドガルド

ティエラ教義の学師。ティエラ棒術の名手。

ナサニエル

都市人。ティエラ教義の学徒。

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