迷迭香が香る

文字数 2,000文字

 今年も庭先に植えている迷迭香(まんねんろう)の花が咲き始めた。小さくて可愛らしい薄紫色の花。夜の静寂の中、レックスは手元のランタンの(あか)りを頼りに花の無いそれを数本ほど摘んで、自宅のキッチンへと戻ってゆく。柔らかく揺れるランプの下、丁寧にナイフを研ぎ終えると、彼は用意していた新鮮な食材と先程の香草を並べて、その一つ一つに愛おしげな視線を向けて呟いた。
「ストラータ――今日も君が好きだった料理を作ることにするよ」
 ストラータと出会ったのは騎士団の合同演習が執り行われた時であった。様々な戦況を想定して対処するために、俺が所属する部署以外の人間も混ざって行われた大規模な演習で、その内容は今でもよく覚えている。
 ランダムに選ばれた組み合わせで顔合わせとなったストラータは魔術を取り扱う部署の人間で、俺のような身体一つで戦う人間とは全く違う見た目をしていた。薬草を取り扱うためか体臭が香草のような香りになっていて、筋肉とは程遠い柔らかい表情と肉付きが特徴の――
 彼は摘みたての香草を手に取り、慎重に刻む。その動作はまるで愛する人に触れるような優しさで、官能的なものであった。それから、フライパンに橄欖油(かんらんゆ)を垂らして、それを大蒜(おおびる)と共に熱した後に切り分けた大きめの肉と迷迭香を加えれば、油が跳ねる軽快な音が部屋中で踊り始める。食欲を促す香りがキッチンの全体に広がると、レックスは深く息を吸い込んだ。
「良い香りだ……ストラータ、お前もそう思うだろう?」
 具材をじっくりと炒めながら、レックスの心が過去の記憶へと浸ってゆく。演習は初めて出会った人間同士とは思えないようなコンビネーションで、評価も上々であった。それからはストラータとも頻繁に会うようになり、共に過ごすようになってからは、一緒に肩を組んで、笑ったり、泣いたりして――
 レックスの動かしていた手が一瞬だけ止まった。彼の表情には微かな苦悩が浮かんでいる。彼が思い出すものといえば、ストラータのことくらいであった。彼は改めて深呼吸をして、すぐに作業へと戻る。
「お前のため……お前のためだけの料理……」
 料理が完成に近付くにつれて、レックスの目には狂気とも言える熱情が宿り始めた。料理の香りが一層強まった頃に、彼は美しく盛り付けられた皿を見つめて、少しだけ目を細める。
「――いただきます」
 静かで薄暗い食卓に座り、レックスはテーブルの上に置かれているナイフとフォークを手に取った。彼の手は微かに震え、その眼差しは遠く過去を見つめている。皿から口へと運ばれてゆく一口一口が、彼の中に深い満足感と共に、言い知れぬ罪悪感を呼び起こす。
「美味しい、美味しいよ……ストラータ……」
 その言葉と共に、彼の頭の中にはストラータが笑って手を振る姿が鮮明に浮かび上がってゆく。俺達はいつしか心の底から愛し合うようになっていた。勢いに任せて、夜を共にしたこともあった。周りに勘付かれては困ると嬌声を控えめにしている可愛らしい姿に俺は虜になってしまって、身体の全てを支配するように行為を続けて――しかし、思い返せば思い返すほど彼の姿は変容してゆき、最後はストラータの恐怖と苦痛に満ちた表情へと辿り着いていた。
 ああ……可愛い、可愛い、俺だけのストラータ。俺以外の誰かと共にしているストラータのことが許せない。ストラータは俺だけを見ていなければならない。ストラータの考える全ては俺とだけ共有すべきなんだ。ストラータは俺だけのもの。俺だけの、俺だけの、俺だけの――!
「俺は君のことを愛しているだけだったんだ」
 レックスが抱いている狂った愛情は、他者には到底理解されることのない唯一の忘憂であった。レックスは最後の一欠片を口に運び、深い溜息を()く。事実として、レックスはストラータに依存する異常者であったが、ストラータはそうではなかった。ただ、それだけのことであったのだ。
 とある日、レックスは嫉妬に狂って、ストラータに暴力の限りを尽くして殺害した。レックスはその時に発したストラータの声がずっと忘れられないでいる。
 ――どうして、なんで。思い出してよ、あの日のことを。愛しているよ、レックス。ねえ、レックス。レッ……!
 それでも、レックスはストラータの肉を切り分けて、食材として愛し続けることを選んだ。そのことにレックスはなんの罪悪感も抱いていない。何故なら、レックスはそれが当然の摂理であると考えていたからだ。それなのに、彼を食べる時だけは不思議と罪悪感が湧いてくる。レックスにはその理由が分からない。ストラータにはずっと自分の隣で生きていてほしいと願うような善性など、とっくに捨てたはずだったのに。
「ああ……ストラータ……」
 迷迭香と共に焼けたストラータの香りが漂う食卓で、涙ぐんだ彼の呟きが静かに響いてゆく。
 今日も庭先に植えられた迷迭香が、彼らを慰めるように寄り添いながら微風(そよかぜ)に揺られていた。
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