4-5 遠き空に陽は落ちて
文字数 1,437文字
長かった一日が終わりを迎え、太陽が空平線の向こうに沈む。
夜の訪れだ。
空は高く昇るにつれ空気が薄くなる。だが逆に、深く降りるほど大気の濃さは増し、一見すると透明な気体も立派な壁になる。この光を通すかどうかの境目が空平線で、天体の放つ光はこれより上からしか届かない。太陽も月も星も、大空 を下から照らすことはできないのだ。
星の瞬き始めた紺色の上空と日の没する黒い下空 。
二つの空の狭間 に踏み櫂 の軋 む音が響く。
(クロロネシアか……)
ぎぃこぎぃことリズムよく身を揺らしながら、ヒタクは舟の行き先に思いを馳 せていた。
(七年前、兄さんと行くはずだった土地)
そこは自分の故郷やアヌエナの出身地であるウラネシアと異なり、広く大きな島が多く、空の遠くからでもあふれる緑が見えるらしい。森はもちろん山もあり、高いところでは雪が積もっているというから驚きだ。
「って、空の樹で暮らしてる僕が思うことじゃないか」
「ん? なんか言った?」
日が暮れて帆を片付けていたアヌエナが振り向いた。独り言にしては声が大きかったかと思いつつ、ヒタクは首を横に振った。
「ううん。別に何でもないよ」
「そう?」
首をかしげた彼女だったが、それ以上は聞いてこなかった。代わりに視線を少年の頭から足元まで往復させ、満足そうにうなづく。
「ん。だいぶ様になってきたかな」
「え?」
「櫂 の漕 ぎ方よ。これなら、いざって時にも任せられそうね」
「そうかな」
褒められるとやはり嬉しい。
思わず頰を緩めると、アヌエナも笑みを返してきてくれた。
「うん。今日はこの辺で休みましょ。明日から帆だけで進むわ」
「よ、よかった。もう漕 がなくていいんだ」
ヒタクは安堵 の吐息を漏らすと、その場に座り込んだ。一日の疲れが襲って来たのだ。
しかしながら、空の旅のリーダーは容赦してくれなかった。花びらのように明るかった表情が一転、鋭く棘 を帯びたものになる。
「なにへたってんのよ。あんたにはまだやることがあるでしょ」
「え!? あ! 夕食の準備」
「それもだけど」
今度は呆 れた顔になる。
「あのカラスよ。いくら派手な羽でも、日が暮れたら見えなくなるわ。早く呼び戻さないと、わたしたち遭難しちゃうでしょ」
「ああ」
理解したヒタクだったが、ヤタは自分達を置いて行きはしないだろう、という信頼はあった。それよりも雲しかない空間を飛び続ける彼の体調の方が心配だ。急ぎ手を振り呼びかける。
「お~い。ヤタ~!」
「クァ?」
空の先で舟を待つように旋回していたヤタだったが、ヒタクの声を聞くとすぐに戻ってきた。バサバサと羽ばたいて舳先 に止まり、何事かと首を傾ける。
「今日はここまでだって。君も羽を休めるといいよ」
「カァー」
了解したとばかりに、朝焼け色のカラスは一鳴きした。次いで軽く飛んで舟縁 に移り、嘴 を背中に回して目を閉じる。
「クヮー」
「お休み。ヤタ」
一日の終わりの挨拶を交わした、その時。
「ん?」
横合いから、一抱えほどもある何かが飛んできた。突然のことに理解が追い付かなかったが、反射的に手を出すことには成功する。
「うわっと!」
どうにか受け止めてみると、丸められた毛布だった。改めて舟の後ろを見ると、アヌエナが指を突き付けながら言ってきた。
「それはあんたの分よ。今夜はそこで横になりなさい。わたしはこっちで寝るから。……もし帆柱より先に出たら、空に蹴り落とすからね」
「わ、分かった」
深い夜の空へ真っ逆さま。
そんな自分を想像して、ヒタクは震えながら答えた。
夜の訪れだ。
空は高く昇るにつれ空気が薄くなる。だが逆に、深く降りるほど大気の濃さは増し、一見すると透明な気体も立派な壁になる。この光を通すかどうかの境目が空平線で、天体の放つ光はこれより上からしか届かない。太陽も月も星も、
星の瞬き始めた紺色の上空と日の没する黒い
二つの空の
(クロロネシアか……)
ぎぃこぎぃことリズムよく身を揺らしながら、ヒタクは舟の行き先に思いを
(七年前、兄さんと行くはずだった土地)
そこは自分の故郷やアヌエナの出身地であるウラネシアと異なり、広く大きな島が多く、空の遠くからでもあふれる緑が見えるらしい。森はもちろん山もあり、高いところでは雪が積もっているというから驚きだ。
「って、空の樹で暮らしてる僕が思うことじゃないか」
「ん? なんか言った?」
日が暮れて帆を片付けていたアヌエナが振り向いた。独り言にしては声が大きかったかと思いつつ、ヒタクは首を横に振った。
「ううん。別に何でもないよ」
「そう?」
首をかしげた彼女だったが、それ以上は聞いてこなかった。代わりに視線を少年の頭から足元まで往復させ、満足そうにうなづく。
「ん。だいぶ様になってきたかな」
「え?」
「
「そうかな」
褒められるとやはり嬉しい。
思わず頰を緩めると、アヌエナも笑みを返してきてくれた。
「うん。今日はこの辺で休みましょ。明日から帆だけで進むわ」
「よ、よかった。もう
ヒタクは
しかしながら、空の旅のリーダーは容赦してくれなかった。花びらのように明るかった表情が一転、鋭く
「なにへたってんのよ。あんたにはまだやることがあるでしょ」
「え!? あ! 夕食の準備」
「それもだけど」
今度は
「あのカラスよ。いくら派手な羽でも、日が暮れたら見えなくなるわ。早く呼び戻さないと、わたしたち遭難しちゃうでしょ」
「ああ」
理解したヒタクだったが、ヤタは自分達を置いて行きはしないだろう、という信頼はあった。それよりも雲しかない空間を飛び続ける彼の体調の方が心配だ。急ぎ手を振り呼びかける。
「お~い。ヤタ~!」
「クァ?」
空の先で舟を待つように旋回していたヤタだったが、ヒタクの声を聞くとすぐに戻ってきた。バサバサと羽ばたいて
「今日はここまでだって。君も羽を休めるといいよ」
「カァー」
了解したとばかりに、朝焼け色のカラスは一鳴きした。次いで軽く飛んで
「クヮー」
「お休み。ヤタ」
一日の終わりの挨拶を交わした、その時。
「ん?」
横合いから、一抱えほどもある何かが飛んできた。突然のことに理解が追い付かなかったが、反射的に手を出すことには成功する。
「うわっと!」
どうにか受け止めてみると、丸められた毛布だった。改めて舟の後ろを見ると、アヌエナが指を突き付けながら言ってきた。
「それはあんたの分よ。今夜はそこで横になりなさい。わたしはこっちで寝るから。……もし帆柱より先に出たら、空に蹴り落とすからね」
「わ、分かった」
深い夜の空へ真っ逆さま。
そんな自分を想像して、ヒタクは震えながら答えた。