第37話 泣こかい跳ぼかい

文字数 1,169文字

「いよいよ明日になりもした」
「そうだねえ──しかし、何というか、明日死ぬことが分かっている人間なんてこの世にどれだけいるんだろうか。戦場での我が身は明日をもしれぬけれど、明日と決まっているわけではない。まあ、ここにはそんなに人間がゴロゴロいるんだけどね」杉浦さんは苦笑した。

出来(しき)っことなら行かんで欲しか」
「無理な注文をするな佐智。僕は飛ぶよ、運命は変わらないから」右の手のひらをひらひらと落下させた。

 それは特攻を意味するのか、逆らえない運命を示すのか、分からなかった。いや、この人は自ら特攻を志願した人なのだ。それを運命と呼ぶのだろうか。
「外薗曹長も、汗を拭き吹き迎えに来るだろうし」杉浦さんは薄く笑った。

「ん?」それは唐突だった。
「こんな所にホクロがあるんだね」杉浦さんが顔を寄せて耳たぶを引っ張った。
「あ、こいと? さっちゃんな耳ん糞が付いちょっと、ようからかわれもした」

 確かに耳の穴のそばにホクロがある。母の三面鏡で時々確かめるホクロ。佐智は杉浦の引っ張った左耳を触った。耳が熱を持った。

「か──鹿児島(かごんま)には、泣こかい、跳ぼかいってありもす。こまんか男ん子らが高か所から跳んだりすっとに、腕を前後に振りながらすっとじゃ」



「何で耳を押さえてるの?」
「そがんこっは、よかです。話ん途中です」
「佐智、怒っちゃった?」
「怒っちょらん。かごんまには──あん、聞いちょっと?」

「さっきから、ずっと聞いてるよ。かごんまが2回出てきた」
「泣こかい、跳ぼかい、泣こよっかひっ跳べ! ち言いながら跳ぶとです。男ん子なら、泣っぐれなら跳べちゅうこっです。
 じゃっどん、杉浦さんには飛ばんで欲しかです。じゃっどん……じゃっどん、飛ぶとが運命なら、勇ましゅう飛んで欲しかです」
「うん、多分何気なく飛ぶよ、未来を信じてね。勇ましいかどうかは謎だけど」

 ふたりの姉と三人の弟に挟まれて育った佐智には、兄という感覚が想像の域を出なかったけれど、あの人と接して、年の離れた兄がいたらこんな感じなのだろうかと思った。やさしくてたくましくて、物事を知っていて。

 小さい頃に近所に住む吾一君が好きだった。一緒にいるだけで嬉しかった。そばにいなくてもいつも視線の先に吾一君を捜した。今にして思えばあれが初恋だったのかもしれない。

 それが今は坊主頭で唐芋(からいも)のような顔をしてボソボソとしゃべる変な子になった。でも、あの頃は大好きだった。

 人は恋などという存在に気づく前に人を恋する。好きという感情は勝手に育つものだ。自分があの人に寄せる感情は、存在しなかった兄への慕情に近いのかもしれない。
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