第5章・交錯

文字数 16,865文字

 刻々と、遠征までの日々は近付いて来ていた。
 戦士達は武器や防具の手入れに余念がなく、集落の人々が浮き立っているようにジョスには思えた。
 ここでは、遠征の為の堅焼き麵麭を作るのは奴隷女達の共同作業だった。ミルドも、その為に駆り出された。それでも、個人的な荷物の中にもそれは入れる事が出来そうだったので、ジョスは、スヴェルトの好きな香草入りの物を作った。
 また、織りためた布地から衣服も縫った。その目立たないところに、北の島で使われる護符を刺繍した。戻って来る気温が下がった初冬にも大丈夫なように、毛皮や革の上着も用意しなくてはならなかった。革を縫うのには蝋引きの糸を使わねばならず、島での最後の一年でしか冬支度に関わらなかったジョスは手こずった。
 そして、最も大切なのが、旗だった。こればかりは、太くしっかりとした糸で織らなくてはならない。ジョスはスヴェルトの紋章を織った。
 大切な帆布を織るのは奴隷の仕事で、仕立てるのは若い戦士達だった。破損した際に修繕が出来るようにと、年長の者が教えるのがここでも通例のようだった。
 遠征の準備は島とは大きな違いはないようだった。だが、海上で戦う島の者とは異なり、スヴェルトの戦いは陸上だ。長櫃の中には、麻の繊維を詰めた防護服の代わりに、磨き込まれたずっしりと重い鎖帷子が入っていた。
 怪我もなく、無事に帰って来てくれさえすれば、それでよかった。手柄も名誉も、いらなかった。
 母も、そう思いながら父達を送り出す準備をしていたのだろうかと、ジョスは思った。服に刺繍を施す手が時折乱れ、その想いを振り払おうとするかのように、再び一心に手を動かしていた母の気持ちが、ようやく分った。
 海狼ベルクリフは北海の英雄だ。だが、年齢も高く、それでも遠征を自ら率いて行く。それが、海神の民の族長としての矜持だから。あの年齢で、軽々と舷側を乗り越え、勇魚(いさな)に留め

を突き立てる姿は見慣れていた。だが、外海での事は兄弟達から聞くばかりだった。生涯を、海神の民として生きるのだろう。
 スヴェルトも、戦士を生涯、続けるのだろうか。
 母は、良く耐えている。そうジョスは思った。決して父を止める事はない。それは、父の生き方を理解しているからだ。生涯を、海狼の妻として生きる事を選んだからなのだ。
 では、自分はどうだろうかと、ジョスは自問せずにはいられなかった。
 危険で非道な遠征からは、早くに手を引いて欲しいとは思う。だが、スヴェルトは違うだろう。危険を厭わず、非道を非道と思わずに戦士として生きて行くのだろう。普通は五十歳で戦士を引退すると言うが、船団長は別だ。ならば、自分はそんなスヴェルトの無事を祈る事しか出来ない。母のように、いや、母以上に耐えなくてはならないかもしれない。スヴェルトの手が罪もない人々の血で染まり、穏やかな生活を送っていた人々から全てを奪い尽くす事を認めなくてはならない。
 出発前日、ジョスは寝台に座って武器の点検をしているスヴェルトの前で、床に荷物を広げた。一応は長櫃に入れる物を知っておいて貰った方が良いだろうと思った。子供の頃、母も、余り興味なさそうな父の前でそうしていたのを思い出した。じゃれつくジョスに、長剣を手にした父は、危険だから止めるようにと眉をひそめたが、その青い眼は笑っていた。
「――衣服は種類別に入れておきます。冬の上着、本当に一度袖を通してみられなくても大丈夫ですか」
「ああ、お前の仕立てなら、大丈夫だろう。俺の服を作り慣れているからな」長剣をかざし、その研ぎ具合を確かめるのに夢中なのか、気のない様子でスヴェルトは言った。「それに、洗濯など余り出来んだろうから、それほど服は気にする必要はないだろう」
「訓練でさえも、よく破れることがあるのですから、遠征には多めにあった方が、何かと重宝すると思いますが」
「それは、お前に任せよう」
「その他の布はその横に」
「その他、とは、何だ」
 聞いていないようで、聞いている。ジョスは思わず微笑んだ。
「清拭にも怪我の手当てにも、ご自由にお使いください。服を繕うときの足し布にもなりますから、たくさん、入れておきます」
 無言でスヴェルトは頷いた。
「ああ、そうでした、干物の魚や肉は、供出いたしました。蜜酒も。あなたでしたら、わたしの味を分って下さるでしょうか」
「当然だろう。お前は北の涯の島の者だ。他の誰よりも保存食の作り方は上手だ。味も違う」
 ジョスはほっとした。一年だけのやっつけで憶えたものとは、ばれてはいないようだ。それに、多くの家庭から出された物の中からも、この人は分ってくれるだろう。大食漢だの食い意地が張っているだけだのと、自分では言うが、味もきちんと分る人なのだ。
 静かな時間だった。
 だが、明日、よい風が吹けばスヴェルトは遠征へ出て行ってしまう。自分の本当の気持ちも伝えられないままに、この人は戦いへと身を投じてしまう。そして、帰るまで自分の事は思い出しもしないのだろう。
 それは、嫌だ。
 ジョスは下唇を噛んだ。
 この人の事だ、必ず戻って来るだろう。それでも、無事を願って待っている者がいる事は忘れないでいて欲しい。それも、ただ、妻の義務として祈るのではない事も。
 ――例え、相手を好きになっても、自分から言ってはだめよ。
 ローアンの言葉が甦った。
 男は、女の方が自分を慕っていると知れば強気に出る。そんな事例を、何度も目にしてきた、と。
 北海の男は、女が先に愛情を口にすると、何をしても構わないと思っているのか、したい放題に振る舞う。相手の心が自分から離れないのならば、猶更だ。奴隷の情婦を持ち、子を産ませ、後の事は全て妻に丸投げをする。そこで妻が不興を見せようものならば、女の心の狭い事を責める、と。
 もし、ここで自分がスヴェルトの事を子供の頃からずっと慕い続けていたと知れば、この人はどうするだろうか。愕き、混乱するだろう。それからは、分らない。いずれにせよ、大事な遠征を前に、スヴェルトの心を乱したくはなかった。

    ※    ※    ※

 ジョスが黙々と長櫃の中に衣類を入れて行くのを、スヴェルトは目の隅でしっかりと捉えていた。
 海で目立つ色の胴着。中には刺繍を施した物もある。それを着て舳先で風を切るのは、さぞかし気分の良いことだろうと思わずにはいられなかった。着る物に何の拘泥りもなかったが、それでも、ジョスの織った生地で仕立てられた衣類は自慢だった。それは、あの不思議な羊毛に限った事ではない。亜麻や蕁麻(いらくさ)から織った布も心地よく、染色も見事だった。それをジョスは、全て最初から作り上げる事が出来るのだ。スヴェルトの古い革の手袋をして蕁麻を刈り、火で炙って棘や外皮を取る様を、スヴェルトは目にしていた。本来ならば奴隷の仕事なのだが、ジョスは、女奴隷に自分が手本を示して教えていた。指示するだけでは分らない事も、自ら実践してみせると理解しやすく、頭にも入るものだ。戦士にしてもそうだ。ジョスは賢明だと思った。
「来年は、家の樽には印をつけておいてくれ。船団長の特権だからな」
「今回は知らず、申し訳ありませんでした」
「謝る程の事ではない」
 慌ててスヴェルトは言った。責める気はなかった。昨年までは、どうでも良かった事だ。
 そう、昨年までは。
 一体、この女が嫁に来るまで、自分がどのような生活を送っていたのか、スヴェルトには分らなくなっていた。ジョスがいない生活など、最早、考える事も出来なかった。あれ程嫌だった結婚のはずなのに、自分にはこの女が必要なのだと思った。
「それと、この包みには、傷に効く軟膏が入っております」
「それも、療法師の叔母君からの物か」
「はい、大きな怪我には無理ですが、多少の切り傷には良く効きます」
「ここでも、必要だろう」
 ジョスの行動は子供のように危なっかしいところがあった。たまにだが、大きな魚の鰭や木のささくれで怪我をしている事も知っていた。
「作り方を記した書き付けをもらいましたので、ご心配にはおよびません」
 にっこりとジョスは微笑んだ。
 書き付け。
 この女は文字を読めるのだ。部族に、義姉を含めてそのような女がいるとは思えない。
「後は、風邪のひきはじめにいい薬草と、化膿止めに効く軟膏。どれも、お役に立つことがなければよろしいのですが」
 ジョスの最後の言葉に、スヴェルトは長剣を検める手を止めた。
 北海の女にあるまじき言葉だ。潔く戦って死んで来いとは言わないのか。
 長櫃に薬の包みを入れ、ジョスは少しうなだれている。
「お前の母君も、そう言って父君を送り出しておられたのか」
「そうでは、ありませんが」
「なら、そのような事は言うな。北海の戦士は遠征で生命を惜しむものではない。女は、それを哀しむものではない」
 じっと、ジョスの空色の目がスヴェルトを見た。
「わたしは、では、あなたの妻の資格はありませんわね」
 いきなり何を言うのかと、スヴェルトはどきりといた。ジョスでなければ、誰となら共に暮らせるというのだろうか。
 そっと、ジョスの手がスヴェルトの手を取った。繊細な白い手と、無骨な太い手。何と違うのだろうかと、改めてスヴェルトは思った。
「このみ手が、必要以上に血に染まって欲しくはないだけです」
 ゆっくりと、ジョスはスヴェルトの手に頬を寄せた。
「お願いが、あります」
「何だ」
 ジョスからそのような言葉が出るのは初めてだった。「何だ。土産に、何か欲しい物でもあるのか。帰りには交易島に寄るから、好きな物を買って帰って来るぞ」
「いいえ」ジョスは頭を振った。「何も、欲しくはありません」
「では、何だ」
 それも、北海の女とは思えない。スヴェルトは混乱した。
「約束していただきたいのです」
「何を」
「必ず、ご無事でお戻りになってください。大きな怪我もなさらずに、無茶もなさらないで」
「俺は戻るさ。約束するまでもない事だ」
 そんな事かと、スヴェルトは思った。巨熊スヴェルトを甘く見て貰っては、困る。
「それと、もうひとつ」
「もう一つ――」
 スヴェルトは眉をしかめた。全く、想像もつかなかった。
「どうか、女性には乱暴なさらないで」
「俺は女を殴ったりはしない」
 それは胸を張って言える。今まで、どれ程腹が立とうとも奴隷女にすら、手を上げた事はない。
 さっと、ジョスの顔が赤くなった。
「いいえ、そうではなく…」
 いかに察しの悪いスヴェルトでも、さすがに分った。ジョスから目を逸らし、口に手をやった。
「いや、いい、分った。つまり、その、あれだな」
 気まずくなってスヴェルトは髪を掻き回した。女に言わせたり聞かせたりする言葉ではない。特に、妻や娘に。ジョスも、居心地悪げに顔を伏せている。
 こういう時の言葉を、スヴェルトは知らなかった。互いの気まずさを埋める言葉は、浮かばなかった。
 スヴェルトは長剣を放り出し、ジョスを抱き上げて膝の上に乗せた。
 軽い。とても、軽い。
「大丈夫だ。分っている。約束しよう。だから、泣くな」
「泣く女はお嫌いでしょう」
 この女にそのような事を言っただろうか、と思ったが、それは直ぐに霧散した。流れてはいないが、ジョスの目には確かに、涙がたたえられていたからだった。
「自分の思い通りにさせようとする女の涙は嫌いだ。だが、お前のは違うだろう」
 スヴェルトは思わず、ジョスの瞼に唇付けてその涙を吸った。
 海の味がする。
 そう思った。
「お前はいい女だ。北海の女とは思えん。だが、いい女だ」
 スヴェルトはジョスの顔をじっと見つめた。
 薄い色の金髪に縁取られた小さな顔。空色の目。笑顔の似合う女なのに、今はそのかけらもない。
「お前は、このスヴェルトの妻だ。いつ、俺に何があっても、笑っていてくれなくては、困る。そして、俺が戻らん時には、もっと強い男と一緒になれ」
「父と同じ事をおっしゃるのですね」ジョスは言った。「危険な猟や遠征に出た後、そう言われた母がどれほど忍び泣いていたかも知らないで。あなた以上に強い方がいましょうか。わたしは、二夫にまみえるつもりはありません」
 ジョスはスヴェルトの胴着の胸を摑んだ。「男の人は、誰でもそうなのでしょうか。残される者の気持ちを、出航と同時に置き去りにしてしまうのですか。あれ程に絆の強い両親でさえも、そうだったのに」
 わたしたちは――
 そう続けようとしたように、スヴェルトは感じた。
 自分達の間に、絆と呼べるものはあるのだろうか。
 ジョスは、そう言いたいのだろう。名ばかりの妻。そこに、何の絆があるというのか。
 全ては、自分の責任だ。
 スヴェルトの胸は痛んだ。こんな気持ちは初めてだった。誰かに対して、申し訳ない、などと感じた事すらなかったというのに。この女の存在があるから、そう感じざるを得なくなってしまった。
 嫁など、貰わなければ良かったのか。
 だが、それでは恐らく、この女といる楽しみも知らずにいただろう。
 せめて、ジョスでなかったとすれば、何も感じずに済んだであろうに。
 スヴェルトは、未だに自分の気持ちを整理出来てはいなかった。いや、ずっと、それと向き合う事を避けて来た。いつかは、そういう日が来るだろうとは思いながらも、日常の平穏の中に置き去りにして来た。
 答えは、直ぐには出ない。
 出来の悪い自分には、それは無理だ。なら、今は、その事は考えずに、ジョスを安心させる事の方が先だろう。
 他の誰かに、掻っ攫われる前に。
「なあ、ジョス、海狼殿も俺も、本当に死ぬとは思ってはいない。その覚悟だけはしておけ、という意味だ。だが、女は型通りに受け取ってしまうのだろう。女にとっては、言葉が大事なのだろう。偽りではあっても、安心する言葉が。だが、男にはそんな言葉は言えない」
 そのような言葉は、結局は気休めにしか過ぎない事も分っていた。海上や戦場(いくさば)では、何が起こるか分ったものではない。死ぬかと思った、どころか、死んだかと思ったという事態に陥った事もある。だが、それは知られてはいけない。
 ジョスは、スヴェルトから目を逸らさなかった。嘘だ、という事が見抜かれている気がした。言葉では、この女は騙せない。小太刀を首に当てて義姉に抵抗した女だ。欺いては、いけない。
 沈黙に耐えきれなくなり、ゆっくりと、スヴェルトはジョスに唇を重ねた。
 そうすると、あっと言う間に自制が利かなくなった。一体、どれくらいの日々を耐えて来たのだろうか。何度、この身を腕に抱く事を夢に見ただろうか。自分は、それ程までに、この女を欲していたのか。
 嫌がる事なく身を委ねてきたジョスに、スヴェルトの欲望は掻き立てられた。ジョスを押し倒し、長着の飾り帯を引いた。するりと、帯は解けた。そして、自分の剣帯を解いた。夢のようだ、と思った。しなやかな身体に手を滑らせ、衣の裾をたくし上げて脚に触れた。
 と、若い男の声が戸口でした。
「船団長、宴の準備が調ったので、族長の館にお出で下さるようにと、ヨルド殿がお呼びです」
 船団の若い者だ。
 スヴェルトは唸り声を上げると、叫んだ。
「すぐ行く、と伝えろ」
 二人共に、息が荒かった。欲情ではち切れそうな身を引き剥がすのは、容易ではなかった。後、半時もあれば、ジョスを手に出来た。抵抗する素振りのなかったジョスは、スヴェルトを受け入れたはずだ。
 なのに。
 何という間の悪さだろう。
 スヴェルトは震える手で剣帯を結び直した。
 ジョスも、乱れた髪を気にしながらも飾り帯を結んでいた。
「今夜は、出航の前祝いでいかなくてはならない」
 絞り出すように、スヴェルトは言った。
「はい」
 顔を背けて、ジョスは小さな声で答えた。余計に、気まずくなった。
「遅くなる。だが、戻る」
 そう言い残すと、スヴェルトは寝室にジョスを残して出た。


 族長の館の宴会でも、スヴェルトはずっと不機嫌なままだった。
 どんなして、顔をして戻れと言うのだ。
 子供っぽいところはあっても、北海の女とは思えぬ程に慎み深いジョスの事だ、恥ずかしいという思いで一杯になっているに相違なかった。お互いに、以前よりも遥かに気まずい思いをしなくてはならない。
 二人がもし、契り交わしていたならば、それはまた、別の展開が待っていただろう。ジョスの顔には、優しい笑みが浮かんでいたのかもしれない。少なくとも、今のような状況には陥ってはいなかったはずだ。
 なぜ、あのような時に使いを寄越したのか。
 スヴェルトは杯の陰からヨルドを睨んだ。
 ヨルドのせいでも誰のせいでもないのは分っている。だが、誰かのせいにせずにはいられなかった。
 大体が、ヨルドが自分に「惚れているのでしょう」などと言った事がきっかけだった。
 それまでは、そのような事は考えもしなかった。
 惚れていようがいまいが、ジョスは妻だった。それでよかった。ゆっくりと、遠征の後の長い冬に考えれば良い事だった。なのに、ヨルドのあの言葉が、全ての歯車を狂わせた。
 夢では、ジョスは海鳥ではなかった。海神の娘の人魚のようだった。情熱的でありながらも捉えどころがなく、男を翻弄する、人魚。その姿を見た者は、生涯を憧憬に取り憑かれ、声を耳にした者は決して抗うことができなくなるという、魔性。
 いや、真実、ジョスは人魚だ、とスヴェルトは思った。
 海の民の娘。ジョスは自分の母を海神の娘、と呼ばなかったか。
 海狼は、その魔力に取り憑かれたのだ。
 そしてまた、自分も。
 だが、海狼が海神の娘に魅入られたように、自分もそうであったとしても後悔はしないだろうとスヴェルトは思った。
 共に無為な時間を過ごすのに、苦痛を感じずに済む女は、ジョスしかいなかった。馴染みの女でさえ、事が終われば長居する事はなかった。煩わしいからだ。だが、ジョスは、スヴェルトの邪魔になる事もなく、むしろ、穏やかな気分にさせてくれる。それをいい女、いい女房と言わずしてどうするのだ。
「…それで、どうだ、上手くいっているのか」
 兄の言葉にはっとした。
「何がです」
 スヴェルトはしらばっくれた。
「とぼけるな、嫁とだ。お前、酷く嫌がっていたからな」
「いい女房ですな」
「それだけか」
 呆れたように兄は言った。
「だが、まだ、子は出来んようだな」
 それは当たり前だ。
「子のいない夫婦など、山程おりましょう」
「だが、お前は船団長だ。お前の子が継ぐのが道理だろう」
「兄上の次男でも俺は構いませんよ。いや、実力があれば、他の誰でも」
「また、そのような事を言う」ダヴァルは吐き捨てるように言った。「お前は、もう、独り身ではないのだぞ。お前にも子は必要だ、酔い潰れるくらいなら、その分、女房殿を可愛がってやらんか。それでも出来なければ…」
 言い淀んだ兄に、スヴェルトははっきりと言った。「側女を持て、と」
「タマラは、そう言う」
「義姉上はジョスを嫌っておいでですからね。だが、俺は今のところ、側女など必要ありませんな」
「タマラは相当、頭にきている。お前の嫁は礼儀知らずで一族の恥だ、と」
「兄上は、そう思われますか」
「女の事には口を出さんのが、賢明だ」
「そうですな」
 スヴェルトは兄から宴席の戦士達に目を移した。
 これから、冬の始まりまで行動を共にする者達だ。島の他の集落からも集まって来ているので、大小合わせて十隻の船団だ。それを率いるのが、スヴェルトだった。恐らく、この島の船団が七部族の中で最も数が多いだろう。そして、また、沿岸の掠奪に良い位置にある。
 海狼の島が、その意味では最も数が少なく、島の位置も不利だ。その代わり、海での戦いにかけては右に出る部族はない。
 男ばかりの軍勢は、ある意味、気楽だ。身の周りの事は正戦士に任じられたばかりの若いのにさせれば良い。女を攫って来るまでの事だ、文句は言うまい。楽しむ事も出来るのだから。
 ああ、今年は違う。
 スヴェルトは空の杯の縁を噛んだ。
 ジョスとの約束がある。それは、守らなければならない。約束は、誓いに準ずる。
 だが、今宵は、中途半端な欲望をどうすれば良いのだろうか。ジョスに再び触れる事は出来まい。ならば――


 族長の館での宴会も終わりに近付いているのだろう。スヴェルトは夜道を歩きながら、館の方を見やった。
 明日の出航にさえ間に合えば、二日酔いだろうが何だろうが、構わなかった。最も困るのが、女の寝床から引っ張り出さねばならない奴だ。これは若いのに多い。家畜小屋から納屋まで、探す手間が半端ではないので、置いていこうかとも思うが、そういう訳にもいかない。
 考えるのは面倒だった。
 海に出てしまえば、そこには単純な切った張ったの世界が待っている。自分が生き残る事だけを考えれば良い。
 荒れた海を乗り切る事だけを考えれば良い。
 生活臭に満ちた島から出れば、煩わしい事は何もない。誰も自分に命令をせず、風と潮、気分の赴くままに村を襲えば良い。食糧や金品を奪い、奴隷をとれば良い。年頃の美しい生娘は集会に供する為に手出しは出来ないが、その他の女は慰み者にしたところで、何の問題もない。
 そんな遠征での生活が、スヴェルトの性に合っていた。
 だが、今はどうだろう。
 前の遠征では、前日の宴会で飲んだくれてそのまま寝込んでしまい、一番鶏の声と共にヨルドに叩き起こされて船に向かった。荷物は奴隷に用意させ、前日に運び込んであった。
 ジョスはもう、長櫃を運ばせただろうか。
 風雨に晒されてはいるが、頑丈な造りの長櫃だ。スヴェルトが座しても軋みもしない。あの男の奴隷では運べまい。誰か部下を手配してやるべきだったのだろう。
 家は、直ぐそこだ。もうかなり遅い時間だ。さすがにいつもは起きているジョスも、明日の事を考えれば休んでいるだろう。それもこれも、あの女がなかなか放してくれなかったせいだ。
 そっと、戸口を開けた。
 食堂の灯りは、点いていた。いつ、スヴェルトが帰って来てもよいように、足下を照らす為に点したままなのだろう。それを持って寝室まで行けば、廊下も明るい。
 眠っているであろうジョスを起こさぬようにと、忍び足で食堂に向かった。
 灯火を取ろうと食堂に入ったスヴェルトは、だが、直ぐに足を止めた。
 食卓で、ジョスが腕を枕に眠っていたのだ。
 卓上には、縫いかけの服があった。針も手にしたままだった。
 もしかしたら、この女は、いつもこのように手仕事をしながら自分を待ってたのだろうか。そう思うと、スヴェルトは罪悪感を感じた。自分が酒を呑み、馴染みの女を抱いている時でさえ、この女は、自分の為に、目を悪くしかねない細やかな仕事をしていたのだろうか。
 そんな事は、昼間にすれば良いのだ。そして、さっさと休めば良いのだ。
 そっと、ジョスの手から針を取ると、針刺しに戻した。小さく細い、金属製の鋭い針。まるで、それに刺されるように胸が痛む。
 起こさぬようにと、そっとジョスを抱き上げると、スヴェルトは鯨油蝋燭を吹き消した。一瞬で、辺りは闇に包まれたが、慣れた家の事、そのままゆっくりと寝室へ向かった。
 ジョスは、常に母親を規範としている。いや、どちらかと言えば、崇拝しているのかと思える事もあるくらいだった。その人も、このようにして海狼の帰りを待っていたのだろうか。それとも、海狼は自分のように妻をほったらかしにはしなかったのだろうか。きっと、そうだ。
 その証拠に、ジョスの寝顔は決して安らかなものではない。どこか哀しげだった。
 もっと抱き締めてやりたくなるような、そんな寂しげな顔だ。
 寝台にそっとジョスを横たえると、取り敢えずは靴を脱がせた。小さな手に劣らず、小さな足だ。そして、寝苦しくないように長着の飾り帯を解き、その下の服の紐も寛げた。
 自分が飲んだくれて帰って来た時には、ジョスがこうしてくれる。上半身の服を脱がせられる時には、そうしてくれる。正体をなくした時には、さすがに胴着を脱がせるのが精一杯のようだったが、それでも、ジョスは文句の一つも言った事がない。
 もっと触れていたい、という気持ちを振り払い、スヴェルトは自分も服を脱ぎ捨てると掛布に潜り込んだ。そして、頬杖をついて暫し、ジョスの寝顔に見入った。
 自分は、この女を裏切っている。
 遠征の前夜というのは、家族にとっては特別なものに相違ない。狂戦士の異名を誇った父にしても、幼い自分達を酒宴の側に置いたものだったのだから。
 自分とジョスにとっては、初めての遠征だ。
 その特別な時間を、自分は気まずさから台無しにしてしまった。
 ジョスが何を望んでいたのかは分らない。だが、共に過ごす時間を取りたかったからこそ、ああして待っていたのだろう。それなのに、自分は他の女を抱いていた。
 その方が楽だったから、という理由で。
 スヴェルトは、空いた方の手で髪を掻き回した。どうして良いか、考えても分らぬ時の癖だった。
 安らかではなくとも、ジョスの寝顔は綺麗だった。華奢で、自分のような男が触れてはいけないような気が、まだしていた。
 女達は、スヴェルトの(いさおし)を褒め称え、それに寄って来る。だが、決して、その容姿にではない。身体に残る傷跡は、猛々しい北海の戦士の証だ。それも女達を感歎させる。しかし、ジョスはどうなのだろうか。恐らく、関心を持つまい。分配される掠奪品にも興味を示さないだろう。結婚の際、勇猛な戦士の証でもある、族長から下される銀の腕輪にも無関心だったではないか。それを五本も持つ者は北海広しと言えど、そうはいない。
 蛮勇と賢勇とは違う。
 イルガスが言った事があった。
 海神の民は少数の為、頭を使う。数の多いスヴェルト達は力任せに戦う。戦い方が、そもそも違うのだ。どちらが良い、という訳ではないだろう。ただ、いずれにしても損害は少ない程、良くはないだろうか、と。
 それは理屈だ。
 勇敢な方が良いに決まっている。戦いに生きてこそ、北海の戦士だ。それが、自分が周りの大人達から教わった北海の戦士の生き方だった。そして、北海の女は、その生き方に惚れるものだ。唯論、美丈夫であれば猶、宜しいという訳だ。実際に、イルガスはここでは女達にもてる。だが、あの男は細君一筋の堅物なので、そんな女共に目もくれない。
 海狼も、そうなのだろうか。かつて、海狼はこの島から女奴隷を連れて帰った事があると聞いた。スヴェルトがまだ幼い頃だ。だが、所詮は奴隷、飽きられたのだろう。そして、後妻が迎えられ、ジョス達が産まれた。決して、楽しむ事を知らぬ訳ではないのだ。それでも、妻帯者は貞節を守るのが、あの島での慣習なのかもしれない。
 スヴェルトは、ジョスの顔にかかった髪をそっと除けた。
 吐け口を見付けたはずの欲望が、再び暴れ出しそうだった。

    ※    ※    ※

 翌朝、ジョスは自分が寝床にいる事に気付いて跳ね起きた。
 まだ、一番鶏は啼いてはいない。だが、鴉が飛び行きながら鳴く声がした。旅と戦の導き手たる渡り鴉の声だ。幸先は、いい。跳ね上げ窓を開けると、まだ暗かったが、風もよかった。
 食堂で手仕事をしていたはずなのに、どうしてここにいるのだろうかと、混乱した。
 長着の飾り帯が床に落ちており、その下の衣の紐も緩んでいる事に気付いて赤面した。
 スヴェルトだ。
 本人は、まだ眠っている。それ以外には考えられなかった。
 新しい服と帯で身支度を整えた。食堂に行くと、昨夜の仕事がそのままに卓上に残っていた。糸の通った針は、スヴェルトの服に繋がったままだ。
 うっかり、眠ってしまった。
 これ程恥ずかしい事が、あるだろうか。
 素早く手仕事をしまうと、ジョスは朝食の準備にかかった。
 麵麭は多めに焼いて、早朝の出発の埋め合わせになるようにする。その中でも、一際大きく焼いた物を抉って、夕べに作っておいた羊肉と野菜とを詰めた。船上での軽食にしてはしっかりとした物だが、スヴェルトにはこの位が丁度良いだろう。
 昨日の内に、ヨルドからの使いがスヴェルトの長櫃を持って行ってくれたのでそこには入れる事は出来ないが、船にまで持って行けば済むことだ。後はスヴェルトが決めるだろう。
「奥さま、おはようございます」
 ミルドが起きて来た。「申し訳ありません。奥さまより遅れるなんて…」
「いいのよ。今日は特別に早いのだから」ジョスは笑った。自分に妹がいれば、このような感じなのだろうかと思う事があった。「食器の用意をお願い出来るかしら」
「はい」
 ミルドもドルスも、とても良く働いてくれた。染色や蜜酒造りも、二人がいなければもっと難儀した事だろう。スヴェルトの冬支度もままならなかったかもしれない。
 そろそろ、夜が明ける。ジョスは朝食を並べた。
 スヴェルトがまだ寝ているのならば、早くに用意をして貰わなくてはならない。
「支度は出来ているのか」
 スヴェルトが食堂に姿を見せた。
 緋色の胴着姿に、ジョスは思わず息を呑んだ。
 似合うのではないか、とは思っていた。スヴェルト自身は余り、このような色は好まなかったが、一度は着て欲しかった。晴れ着用の丈の長い胴着では、決して着ようとはしないだろうと、遠征用の胴着にした。それは、ある意味、正解だったようだ。
「よく、お似合いですわ」
「そうか、派手すぎやしないか」
 少し居心地悪げだった。
「いいえ」ジョスは微笑んだ。この人の、そんな表情もまた、趣きがある。「あなたに心を寄せる人が出ては困りますが」
 そんな奇特な女などおるまい、とスヴェルトは高らかに笑った。
「さあ、食事にしよう。船団長が遅れを取ってはならんからな」
 そんな事になれば示しがつかなくなるのだろうと、ジョスは思った。
 いつもよりは豪勢な朝食だった。たっぷりの羊肉に乾酪、麵麭、燕麦の粥もある。蜜酒もいつもより多めにスヴェルトは呑んだ。
「さて、では、行くか」
 食事を済ませると、スヴェルトはゆっくりと立ち上がった。
「渡り鴉が鳴いておりましたし、良い風も吹いております」
「ほう」 
 スヴェルトは革帯に手斧を差して感歎の声を上げた。「それは、縁起が良い」
「船着場まで、ご一緒してもよろしいのでしょうか」
「当然だ。お前は俺の女房だからな」
 ジョスはスヴェルトに茶色の外衣を渡した。背後には短剣を吊しているのが見えた。長剣、片刃の小太刀、手斧に短剣。完全に、戦支度だった。
「ミルド、ドルス、旦那さまがお出かけです」
 ジョスが言うと、二人が奥から出て来た。ミルドの持った包みを、ジョスは受け取った。
「二人とも、俺が留守でもしっかりと仕えるように」
 特にドルスを睨むようにスヴェルトは言った。何故か、スヴェルトはこの男を気に入らないようだった。
「はい、承知しております」
 ドルスが言った。ミルドはただ、大人しく頭を下げるに留まった。
「ではな」
 それだけを二人に言い残し、スヴェルトは家を出た。
「もう少し、奴隷を増やそう。二人ではやはり、留守の時に不安だ」
 スヴェルトはジョスを見ずに言った。
 大股で歩くスヴェルトに、ジョスは肩掛けを羽織りながら小走りについて行った。そういう細かいことには気を遣わないのに、変な所に気を回す人だった。
「それは、あなたが遠征からお帰りになってから、考えます」
 ジョスはスヴェルトについてい行くのがやっとだった。普通の女性ならば息が上がってしまうだろう。
 船着場には奴隷はいたが、戦士達の姿はまだ、なかった。
「団長、お早い事で」
 暫くしてやって来たのは、ヨルドだった。男の子を一人腕に抱き、奥方ともう一人の男の子を連れている。ジョスはヨルドとその奥方と会釈を交わした。社交とは無関係に暮らすジョスは、ヨルドの奥方と顔を合わせるのは初めてだった。大人しく、おっとりとした女性のようだった。
「一番乗りは、俺だ」
「去年は飲んだくれて、起こすのが一大事でしたがね」
 スヴェルトは不機嫌そうにヨルドを見た。そのむっとした顔に、ジョスは思わず笑みを漏らした。自分の前ではいい顔をしておきたかったのだろう。
「奥方様も笑っておいでですぞ」
「笑う事は、ないだろう」
 慌てた様子のスヴェルトに、ジョスは益々、笑いが止まらなくなった。
「お前が変な事を言うからだ」
 ヨルドに文句を言っている間にも、続々と戦士とその家族達が集まって来た。
「さて、それでは、準備にかかりますか」
 そう言って、ヨルドは幼子を奥方に渡した。早朝に起こされてか、ぐずる子供に、ヨルドは何事かを囁きかけていた。
 自分達にも、そういう時が来るのだろうか。
 ジョスは思った。
 遠征に出る際には父も、ヨルドのように幼い弟達を抱いて船着場まで行ったものだった。
 長く留守にする遠征。出来れば、行って欲しくはなかった。それは、父に限った事ではない。島の全員が知り合いのような中にあって、帰らぬ人の出る遠征は、幼いジョスにとっては、何故(なぜ)、ばかりが強かった。
 何故、遠征へと出かけるのか。
 何故、いつもは羊飼いや漁師、農夫をしている者達が武器を持つのか。
 何故、生命を危険に晒すのか。
 何故、置いていかれなくてはならないのか。
 男に産まれていたならば、兄や弟達のように、いつかは父の横に立つ事も出来た。だが、女の身では、留守を守る事しか許されはしない。悲劇的で余り人気のない古謡でも女戦士は謳われる。男と共に戦い、生命を落とした女性も、過去には存在したというのに。
 何故、女は置いて行かれるのか。
 女戦士ならば、共に戦う事も可能だ。訓練も男と共にするのだから。しかし、それでも許されない。
 今では、その全てが理解出来る。
 子供だった頃には分らなかった様々が、理解出来るようになって来た。
 スヴェルトは、そんな世界へと、嬉々として赴こうというのだ。
 家族との別れに愁嘆場はなかった。誰もが笑い、勇壮に出て行き、送り出す。
 自分にはそれは無理だとジョスは思った。
 腕組みをして、準備の調った船から浜を離れて行くのを見守るスヴェルトの横顔は、既に船団長のものだった。部下達の何一つ、見落とさぬようにしているようだった。精悍なその姿に、ジョスは改めて強い魅力を感じた。誰もが、海ではスヴェルトを頼りにするだろう。戦場(いくさば)では、誰もがその命令に疑問を抱かずに従うだろう。
 スヴェルトの船は、他の船に較べても大きな竜頭船だった。その大きさは父の族長船に匹敵すると思われた。
 唯論、父の船は速さを重視しているので、ここの戦船(いくさぶね)とは一概に比較は出来ないだろうが、この部族の大きさを思い知らされた。
「では、行って来る」スヴェルトの言葉に、ジョスはどきりとした。「後は頼んだ。約束は、守る」
 短い言葉だったが、その深い声はジョスの胸に重く落ちた。
 遂に、その時が来てしまったのだ。
「息災で」
 そう言うスヴェルトに、ジョスは包みを渡した。
「一息ついたところで、召し上がってください」
「有り難い」
 にっと笑ってスヴェルトはそれを受け取った。
 ジョスはスヴェルトの手を両手で包んだ。
「どうぞ、無事なお帰りを」
 黙って、スヴェルトは頷いた。茶色の目は、真っ直ぐにジョスを見ていた。
「ではな」
 そう言って、振り向く事なくスヴェルトは浜に来ていたダヴァルの元に向かった。そこで出立の挨拶を交わし、船に乗り込んだ。船団長の、戦士の顔付きで。
 奴隷達が、船を海に押し出して行く。舳先でスヴェルトはじっと、自分を待つ船団を見ているようだった。その身体は普段に増して大きく見えた。
 船が、海へと漕ぎ出して行く。そして、他の船の間を先頭へと進んだ。
 族長集会以外で、これ程の船を見るのは初めてだった。その内の何隻が無事に帰る事が出来るのかは分らない。初冬の北海は荒れる。海神の民でさえも、犠牲を出す事がある程だ。現に、ジョスの祖父は帰途の嵐から戻らなかったと聞く。海に出てしまえば、もう、無事を祈る事しか出来ない。
 ジョスは、踵を返して人々を掻き分けた。

へ行けば、集落と海とを一望出来ると聞いた。
 人垣から出ると、ジョスは駆け出した。人気のない集落を駆け抜け、丘を上った。
 そして、息を弾ませながら、丘の上から眼下に広がる景色に目をやった。
 船団が、巨大な団長船を先頭に、帆を揚げようとしているところだった。
 見えるか見えないかは分らない。いや、そのような事は、どうでも良かった。最後の最後まで、見送っていたかった。今生の別れではないだろうが、身を、心を裂かれるようだった。想いを伝えきれぬままに遠征に送り出す事になってしまったのは、自分の失敗だった。このような思いをするくらいならば、叔母の言葉よりも、自分の心に正直になるべきだったのだ。
 船の人々は、小さく見える。あんなに大きなスヴェルトでさえも、ここからでは、小さい。
 それでも、とジョスは肩掛けを取り、片手に持つと振った。気付かれなくとも構わなかった。だが、自分の待つ場所へと無事に帰って来て欲しい、という願いを込めて、肩掛けを振った。
 神々の恩寵があるように。海神の幸いがあるように、願った。

    ※    ※    ※

 

に最初に気付いたのは、ヨルドだった。
 帆を固定する索具の指示を出していて、島の丘の上に人影を認めたのだった。
 「団長、あれはもしかして――」
 ヨルドは前方を凝視して動かないスヴェルトに声をかけた。
「何だ、遅れた船でもあるのか」
「いえ、丘を御覧下さい」
 副官の言葉に、スヴェルトは何事かと丘に目をやった。そこには、確かに誰かがいた。そして、何かを振っている。
 ジョスだ。
 直ぐにスヴェルトは気付いた。
 島の女で、あのような見送りをする者はいない。船影が浜から消えれば、直ぐに皆、それぞれの仕事に戻って行くものだ。わざわざ、見える限り船の姿を追う事はない。しかも、あの場所は禁足地だ。
「良かったじゃないですか」
 ヨルドはにやりと笑った。
「何がだ」
「あそこまで見送ってくれる女は、そうそういやしませんよ」
 船首一つ分、後方に付けた船の船長もスヴェルトに声をかけてきた。
「あれ、奥方様じゃありませんかね」
「だったら、どうだと言うんだ。余り、こちらに船を寄せるなよ」
 恥をかかされた、とは思わなかった。あれがジョスの島のやり方なのかもしれない。それに、嫌な気はしなかった。情の深い女なのだ。
「相思相愛って事ですかね」
 ヨルドのにやにや笑いは、今や船中に広がっているようだった。
「にやけている暇があったら、しっかり綱を固定しろよ。後で緩んだりしたら、承知しないからな」
 スヴェルトは怒鳴った。皆は、それぞれの仕事に不服そうに戻って行った。確かに、これ以上の見世物はないだろう。
 そうしている内にも、ジョスの姿は、どんどんと遠ざかって行く。本当に、いい女房、いい女だ。ただ、あの場所に足を踏み入れた事に、誰も気付いてくれなければ良いのだがと思った。船の男達は、帰りには忘れているだろうが。
 あの手が触れ合った時、何故(なにゆえ)に人目を気にしてしまったのだろう。
 本当は、抱き締めて大丈夫だと、不安をたたえた顔に言ってやりたかった。
 夕べの詫びに、唇に、とは言わないまでも、額にでも頬にでも、唇付けてやりたかった。
 それは、北海の戦士がする事ではないかもしれない。ただの罪悪感からのものなのかもしれない。だが、本当にこのまま遠征に出ても構わないのか、という胸のわだかまりは、どうしても消えなかった。
 帰ったら、必ず、対峙しよう。
 頭を使うことは苦手だったが、その位は考えなくてはなるまい。
 自分の為にも。
 ジョスの為にも。

    ※    ※    ※

 船団は、水平線の向こうへ消えてしまった。
 風の神は意地悪だ。もう少し、穏やかな風を吹かせてくれても良かったのに。
 ジョスは思った。
 だが、スヴェルトは気付いてくれたようだった。甲板で、その姿がこちらを向くのが、見えた。
 それだけでも、良かった。
 ジョスは、神々への祈りを捧げると、丘を下った。母が話してくれたこの丘の事を知っていて良かった。そうでなければ、最後まで見送る事は叶わなかっただろう。
 集落に戻ると、家を目指した。
「あら、スヴェルトの奥方さまではありませんの」
 背後からの声には聞き覚えがあった。甘ったるい、不快な声。振り返ると、男好きしそうな女がいた。歳の頃は三十くらいだろうかと、ジョスは踏んだ。
「何か、ご用でしょうか」
 つい、身構えてしまった。
「昨夜は旦那さま、遅くお帰りだったでしょう」
 何が言いたいのか、ジョスには分らなかった。
「ごめんなさいね、スヴェルトは、わたしのところにいたのよ」
 一瞬、頭の中が真っ白になった。つまり、この女は――
「わたしたち、もう長い付き合いだから、こういう時には共寝をするのが当たり前になってしまって。奥方さまには申しわけありませんでしたわ」
 そう、この女は、自分がスヴェルトの情婦だと堂々と言いに来たのだ。どういう意図でなのかは分らなかったが、これは挑戦なのだろうかと、ぼんやりと思った。女の唇だけが動いているようだった。
「それにしても、旦那さまもまともに送り出せないなんて、奥方さまはどういうおつもりですの。スヴェルトも、どう思ったでしょうね。戦士の妻として、恥ですわよ」
「スヴェルトさまは、それほど心の狭い方ではありません」
「夫婦なのに、他人行儀ですのね」
 ジョスは、この女が自分の良人の名を呼び捨てにしている事に気付いた。
「やっぱり、望まれずに輿入れなさったのですものね。名ばかりの夫婦でも仕方ありませんわね」
 ジョスは女を見た。
 この女は、自分達の関係を、どこまで知っているのだろうか。スヴェルトが話したのだろうか。そして、スヴェルトの気持ちを、そこまで知っているのだろうか。
 不適な笑みを、女は浮かべていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み