第2話

文字数 9,207文字

 次の日私はベッドの中で目覚めて、枕元のスマートフォンを開いた。するとそこには大学の授業が休講だという報せが、大学の教務課のLINEで届いた。何でも担当教諭が前日に急性の胃腸炎になり、講義に出たくても出られないとの事だった。私は肩透かしを食らったような気分になり、何もする事が無いのでどうしようか考えた。生憎家は築一年も経っていないし、掃除するには綺麗過ぎている。とりあえず私はベッドから這い出て、一階のリビングに向かうことにした。部屋とバルコニーを隔てるカーテンを開くと、今日は曇り空なのか空が灰色に濁っている。太陽の位置は分かったが、その光は低品質の真珠の輝きのように弱かった。私はスリッパを履き、一階に向かった。
 リビングでは弟と母が朝食のコーンフレークを食べながら、朝のニュース番組を見ていた。私に言わせれば朝の情報番組も夜のバラエティと変わらない。核心を突いて相手を抹殺する事をしないから嫌いだった。
「今日はあたし大学休講だから」
 私は話したが、母は生返事を返すに留まった。すると弟はテレビから私に視線を移してこう言った。
「じゃあ、どうするのさ?」
「この辺りの道とか地理とか覚える事にするわ。ご近所の挨拶は終わったんでしょ?」
「ええ、好きにしなさいよ」
 母は素っ気なく答えた。二人の子を産み、夫の仕事を手伝い家庭に尽くしていたら、湿り気が抜けた豆腐のような言葉も出るだろう。
 それから程なくして、弟は学校、母は仕事に出掛けた。父は夜が明ける前にもう家を離れていた。理由は栃木の佐野で系列会社の工場に行った後、北関東道から関越道に入って秩父のセメント会社に行かなければならない予定があるからだった。家に残された私はゲームをしようか、読書をしようか悩んだ。意味もなく視線を庭に移すと、新しく作られた庭に無造作に放置された犬用のボールが目に入った。
 そうだ、真弘と一緒にこの辺りを回ろう。私は思いついた。真弘はここに来てからまだ一度も散歩に連れ出していない。ここに住む事になったからには、この街の環境に慣らす必要があった。
 私は真弘が眠っている部屋に向かい、ケージの中で眠っている真弘を起こした。真弘は私の事を見るなり、何かしてくれるのかと思って立ち上がった。
「真弘、ここの街をお散歩するわよ」
 私は真弘に告げて、散歩に必要なリードと道具一式を用意した。五分ほどで身支度を整えると、私はダウンジャケットを着て真弘と一緒に家を出た。戸締りをして家から離れて行き片側一車線の道に出ると、初めて自分の足で歩く蓮田の道に真弘は少し戸惑っている様子だった。以前住んでいた街の風景は、大小さまざま住宅がひしめき合い、立っている場所から向こうの景色が見えなかった。だがここは建物の建つ間隔がまばらで、目に映る緑や土は人工的に用意されたものでは無く本物だ。その違和感は、理性が知覚を鈍感にする人間とは異なり、動物は直に己の物として認識する。その素直さが羨ましく思う。くだらない理由や理論に振り回されないのだから。
 私は道路を逸れ、別の道に入った。周囲には刈り取られた田んぼが広がり、黒に近い茶色の土は湿り気を帯びていた。土の中には微生物達が住んでいるが、ここから見る限り、作物の無い田畑は死んだ魚の目のように深い闇と沈黙が広がっていた。
「広い田んぼだね。真弘」
 私は言葉の話せない真弘にそう言った。季節が廻り、水を張って田植えの時期になれば今とは違った表情を見せるだろう。
 視線を移すと、遠くの方で大きな白い鳥が一羽、羽ばたいているのが見えた。もしやと思って目を凝らすと、それは一羽の白鷺だった。そのシルエットは白く繊細で、毛筆で紙に書いた美しい書のような柔らかな曲線を描いている。黒い目元は高級な漆細工でも出せないだろうと思った。
「真弘、白鷺だよ」
 私は再び真弘に声を掛けたが、真弘は初めて見るモノトーンの田畑に気を取られているのか、舞い降りた白鷺に興味は無いようだった。しばらくすると白鷺は弾むように飛びはねたあと。人工的には出せない白さの羽を大きく広げて飛び去って行った。
 私は一抹の喪失感を覚えながら、真弘を連れて散歩を続けた。ひたすら土がむき出した田んぼが広がるだけだったが、「農耕車に注意」という看板が都会に慣れた私の心を楽しませてくれた。
 私は真弘と共に道を歩き、遠くに何かの工場が見える所まで来た。その先には申し訳程度の土手があり、向こう側には元荒川が流れている。私はそちらに足を進めたとき、昨日であったあの少年の事が頭に浮かんだ。私は少し気が重くなったが、構わない事にした。昨日会った事が今日起こる事はない、おまけに昨日は午後だったが今日は午前だ。
 私は真弘を連れて土手に入り、下流方面に向かって歩いた。目の前の空は灰色に染まり、川の流れは墨を流したような深みのある黒に染まっている。川を見下ろすと、光の加減が違うせいか昨日よりも表面の光沢が鈍い気がした。
 私は下流に向かって進み、カーブから繋がる橋が見える所に来た。土手には昨日と同じように桜の木々が植えられており、寒空に枝を伸ばしている。すると、そこに一人の人間が立っている事に気付いた。
 まさかと思い近付くと、それは昨日の少年だった。耳に掛かる少し長めの髪に、白磁のように澄んだ肌。服装はベージュのカーゴパンツに、グレーのNA‐1ジャケットと言う格好。大きな瞳は川の水面に向けられ、川の深い深淵を映している。その様子は彼の中に暗くて深い何かがある事を表しているようだった。
 私は彼の事を気にせず、背後を通り抜けようとした。だが一緒にいた真弘は少年に気付き、彼に向かって短く吠えた。その声に気付いた少年は私の方を振り向き、真弘を連れている私の顔を見た。私は突然の事に声を上げずに驚き、平静を取り繕って少年を見た。
「あら、また会ったわね」
 私は普通に話した。だが臆する理由などどこにもないのに、なぜだか気持ちが萎縮したようになる。
「こんにちは。犬の散歩?」
 少年は抑揚のない言葉で言った。
「ええ、散歩コースを見つけようと思って」
 私はそう答え、ゆっくり少年に近づいた。真弘は少年に興味を持ったのか、彼に近づこうとしてリードを引いている。少年は真弘に近づき、犬に慣れているのか手を顎の下に伸ばして真弘を撫でた。
「可愛い黒柴ですね」
「真弘っていうの。丁度一歳になったの」
 私は答えた。少年は真弘を見つめながら撫でている手を止めた。
「今日は、学校じゃないの?」
 私は少年に訊いた。今日は金曜日でまだ平日だった。
「今日は休み。だからここに来たんだ。他にする事が無いから」
 彼は再び抑揚のない言い方をした。そのせいで嘘とも真実とも言えぬ妙な感触が、私の胸の内に生まれる。
「友達とかと遊ばないの?」
「やっても面白くないし、友達と俺の求める物は違うから」
 その少年の言葉が、私の中に形ある何かになって張り付く。さっき見た白鷺は周囲がその存在を際立たせていたが、彼は違う、周囲から排除される存在であるような気がした。
「勉強しないの?受験とか不安じゃないの」
「あるけれど、まだ二年生だから漠然としてる」
 少年は答えた。私が中学二年生の時、こんな言葉を話す能力があっただろうか。
「この街はどう、もう慣れた?」
 今度は少年が質問する。
「慣れたというか、街のあちこちに何があるか覚えようとしている所。色んな場所の間隔か以前住んでいた街より広いから戸惑うけれど」
「そう」
 少年は無味乾燥に続ける。私が今話した言葉の半分は虚偽だったが気付かれなかっただろうか。
「この場所は気に入った?今は冬で何もないけれど」
「桜の季節になったら楽しみね。綺麗なんでしょ」
「うん」
 少年はなおも抑揚のない話し方をする。まるで反発力のある何かが欠損したような感じだ。私はもう十分だと思い、リードを引いて真弘を少年から引き離し、この場を立ち去ろうと足に力を入れた。
「ここの場所は、これからも来る?」
 私が足を持ち上げる前に、少年は言った。釘を刺され動けなくなったように足が止まり、私は少年の方を見た。
「気が向いたらね」
「なら、俺が居た時にまたこうやって話し相手になってよ。俺の名前は小原優斗。姉さんは」
 あまりにも突然な自己紹介に私は戸惑った。もしかして恋の対象にさせられてしまっただろうか、それならば、年頃の子供らしくドギマギする筈だ。だが彼にはそれが感じられない。何かの後遺症を引きずっているような感覚だ。何か別の理由があるのだろうか。
「いい名前ね」
 私はそれだけ答えた。
「私は萩本香澄。大学三年生よ」
「また会ったら、よろしく」
 少年は答えた。私も「よろしく」と答えて、足早にその場を去った。


 私は家に戻り、真弘をケージに戻し昼のドッグフードを与え、玄関の鍵を閉めて部屋に戻った。そしてベッドに潜り込んだ。
 あの少年は優斗と言うのか。その事実が私の胸に焼き印のように深く残る。
 引っ越してきた街の最初に出会った住人の名前を覚えただけなのに、なぜこうも気分が昂るのだろう。取るに足らない、片田舎の中学生なのに。
 もしかしたら、私の名前を教えてしまったのがいけなかったのだろうか。まだ二回しか会っていないのに、易々と名乗ってしまった。今思えば失敗だったが、あの時は立ち止まって冷静に考える事が出来なかった。二秒待って考えれば、多少は違った結果になっただろうに、あの時そのように判断できなかったのは何故だろうか。
 あの時優斗はその瞳に深い鉛色に染まった元荒川の水面を映していた。彼の中にはあの時の水面のような深い鉛色が広がり、暖かさも美しくもない世界を持っている。無意識に思ったのだろう。その深く光の無い部分に吸い込まれたのだ。彼と会う前に見た冷たい世界に舞い降りた白鷺とは逆に、私の鮮やかな世界に彼の冷たい質感が流れ込んできたのだ。
 私はその事を忘れたくて、頭を抱えた。もうあそこに行くのは止めようと思ったが、彼の漆黒が、私が意識していない光の当たらない部分に入り込んできて同化してしまう。
 恐怖に打ち勝つためにはどうすればよいのだろうか、私は考えた。一番の近道は、その恐怖の理由と原因、そして仕組みを解明して一つの現象として捉える事だ。だがそれが私にできるだろうか?考えるうちに、私は昼食も取らずに眠りに落ちてしまった。
 目が覚めると、すでに時刻は夕方だった。私はベッドから這い出てリビングに戻ると、制服姿の弟が彼女の裕子を連れて、ケージから出した真弘と遊んでいた。
「摩修、帰っていたの?」
 私は弟に声を掛けた瞬間、自分の精神がようやく静寂を取り戻しているのに気付いた。まだ違和感は残っていたが、先程に比べればはるかに身体が軽かった。
「ただいまって言っても、答えなかったじゃないか」
 弟は答えた。彼女の裕子は私を見て、「お邪魔しています」と短く挨拶した。
「ごめん」
 力なく私は答えた。些細なことなのに、私は何故だか致命的なミスを犯したような錯覚を覚えた。
「明日は休みだけど、姉さんはどうするの?」
「なにも考えていない。あんたは?」
「俺はちょっと出掛ける。千葉方面に行ってくるよ」
 弟は真弘を抱きながら答えた。恐らく遊園地か何かだろう。
「前と違って電車の便が良くないから、それを忘れずに行動しなさいよ。朝帰りは平気な年頃かもしれないけれど、親はそうでもないからね」
「国家権力からの呼び出しを喰らうようなことはしないよ」
 弟は冗談を交えて言った。聞く相手が私だったからいいが、母が居たらなんというだろうか?
「とりあえず部屋にいるね。それじゃまた」
 私はそう言い捨てて、リビングを後にした。





 次の日は休日だったが、家族はバラバラになってそれぞれの時間を過ごす事になった。父は私のバイクを借りて、古い友人の元に出掛けてしまったし、母は新宿に美術鑑賞とデパートで買い物の為に外出してしまった。弟は友人達と千葉に行ってしまったから、私はまた一人で残されてしまった。
 私は家に引きこもり、CDコンポでシューベルトの『冬の旅』を聞く事にした。テノールの声楽曲で、普通のポップミュージックとは違い自分の気持ちを刺激しない。自分の心の表面を生暖かいもので撫でられるような感触が心地よい曲だった。
 だが曲を半分聞いたところで、私は物足りなさを感じて曲を停めた。CDを取り出してケースに入れて棚に仕舞うと、私は本棚を見た。並んでいるのは私の好きな文学作品に哲学書、それに美術館の企画展で買った図録などだ。この年齢になるまで、常に私は感性を磨いて美しいものを自分の言葉で叙述しようと心掛けてきた。
 それは今から十年ほど前、私がまだ二次性徴を迎えた頃の小学五年生だった時、担任の先生が私に一冊の本を勧めてくれたことに由来している。当時の私は物語よりも図鑑や学習書が好きで、その事を覚えるのに喜びを覚えていた。当時は自覚が無かったが、今思えばそれは教養を身に着けてそれを生かす素性だったのかもしれない。そんな固い本ばかり読んでいた私に、担任の先生は一冊の物語を教えてくれた。それは魔法使いも泥棒も登場しない、日常の出来事を描いた文学作品だった。それを読むと、私の頭の中で文字として入力されたものが頭の中で映像として浮かび上がった。そこから私は活字の本を読むことを覚え、その世界にのめり込んだ。
 そしてその能力を自分の言葉として記述できるようになると、六年生の時に私は作文のコンクールで賞を貰うほどに文章を上達させた。そしてそのまま中学に上がったが、私の文章力は伸びる事無く成長を止めてしまった。生殖活動が可能な体になった事で、他人との付き合い方が変わってしまったのだ。私は見えない壁にぶつかったような気分になり、息苦しさを覚えたまま三年で進学した。
 高校生に入ると、私はある程度落ち着きを手に入れることが出来た。だが周囲は自分を強く見せようとする、或いは優位に見せようとする人間ばかりで、私は変わって息苦しさから違和感、そして学校と言う枠組みの中に押し込まれる人間たちに疑問を持つようになった。自分を強くするために、相手を利用する。そんな疑問を持ち続けて周囲を観察していると、たまたま学校図書館で一冊の本に出合った。それは『功利主義』と言う本で、私はその本の表紙にあった「功利主義」というストレートな題名に惹かれて手に取って読んだ。そこには小難しい言葉や回りくどい表現があったが、十九世紀頃に書かれた外国文学と変わらない感覚で読み、内容のアウトラインをつかむことに成功したのだった。そこで人間の感情と社会における役割と仕組み、認知、判断、行動のサイクルに興味を持って、大学の文学部哲学科に進学して現在に至っている。
 そんな事を思い返してみたが、本を読んだり何か創作したりする気にはなれなかった。私は自分に失望して窓際に移動し、南側の窓の外を見た。
 外の天気は暖かい空気が流れ込んできたお陰で、昨日程の寒さはなかった。空は薄い青が広がり、昨日の沈んだ気分より持ち直している様子だった。南の窓から西の方に視線を移すと、その向こう側には元荒川が流れている。それが引き金となって、私は優斗の事を思い出して、神経が乱れた。
 何を考えているのだ、私は。と自分を戒めてみたが、やはり消える事は無かった。覚えてから日の浅い記憶が、まだ鮮度を落とさずに私の中に残っているのだ。
 私はその場に立ち尽くし、自分がどうなっているか分析した。私の中には一つの思考の塊があり、それが私の意識の上に圧し掛かっている。その意識に乗っている思考の塊は、いくつかの物から成り立っている。元荒川の土手に居る優斗と私。そしてそこで過ごした時間の記憶に、優斗の目の中にあった無機質な黒の世界。私はその世界の表層を知り、その世界がどのように成り立っているのか興味を持っている。できる事は、再び元荒川に行って彼に会って、二つの結論を出す事だ。彼が拒否すれば私は興味を失い、その思考の塊の構成要素たちが結びつきを失って、塊は崩壊して私は楽になる。逆に私の方から彼の世界に入って行けば、複数の構成要素は互いの結びつきを強くして私の意識に侵入し、それを自分の一部にするだろう。
 そう判断した私はハンガーに掛けてあるダッフルコートを手に取り、いずれかの結果をもたらすべく部屋を出て家を後にした。
 私の家から元荒川の土手に行くまでは徒歩で十五分と掛からない。片側一車線の歩道の無い道を南へ進み、ガソリンスタンドに郵便局、空手道場と中華屋にコンビニを抜けるだけだ。近くに学校があったが、そこは改めて看板を見ると公立の中学校だった。優斗はここの生徒なのだろうか。
 十五分ほど歩くと、元荒川に掛かる橋が見えた。進行方向左手には桜が植えられた土手があり、元荒川の水面は昨日より幾らか優しい光を反射していた。
 その場所にやはり優斗は居た。
 彼は昨日と同じ格好でそこに降り、流れる水面に身体を向けている。だが依然と違うのは、彼は草の生えた部分に腰掛けて頭を下げていた事だ。何か写生でもしているのだろうか。
「やあ、こんにちは」
 私は優斗に声を掛けた。私から彼に話すのはこれが初めてだった。
「ああ、こんにちは」
 声に気付いた優斗は私の方を振り向いて言った。彼の瞳は深い闇が中に見えて、その中に小さな私が映っていた。
「ここの場所、よほど好きみたいね。連続三日で会ったわ」
「余計な事を考えずに済むんだ。人が来ないから」
 優斗は年甲斐もなく、冷たく乾燥した言葉を漏らした。私は彼の手元に視線を移した。その手にはA4サイズのノートと、一本の安物シャープペンシルが握られていた。
「何をしていたの?絵を描いていたの」
「あてのない短文」
 優斗は答えた。絵画ではなく短文とは意外だった。
「短文?」
 私は言葉を理解していたのにそう聞き返した。そして再び優斗の瞳を覗き、黒い世界の中に私が居る事を確認する。
「思いついた事を言葉にして書き溜めているんだ。忘れたくないから」
 優斗は私に説明した。私は彼の手元にあるノートを再び見た。表にも裏にも表題はなく、表紙だけはまっさらなノートだった。
「どんな事を書いているの?」
 私は言った。優斗に「ノートの中を見せてくれ」と言う意味の言葉だったが、優斗はその意味を感じ取ったのか、恐る恐る私にノートを手渡してくれた。その時の優斗の表情は自分の気持ちを見られる恥ずかしさではなく、いずれ誰かに見せなければならないという覚悟の上から生まれた、妙な落ち着きと自信に満ちていた。
 私はそのノートを受け取り、そっと開いてみた。白い紙の世界には薄い黒で様々な言葉が美しい字でつづられている。

「川はいい。ただ流れるだけで何もない。水の中には様々な物語があるが人間の住む世界からは水面しか見えない。たぶん宇宙からみた地球も同じだろう。   四月三日」

 私はその短文の中に、優斗の遠くを見渡す感性と観察力に驚かされた。視界に映るものがすべてではなく、その中の構成要素を紐解いて初めて本質に迫れるという事を、彼は知っているのだろうか。私はそのままノートを中に視線を泳がせ、次の短文に目を付けた。

「僕の中には、僕にも理解できない部分がいくつかある。考えて行動する事ではなく直感で動く部分だ。これはどう考えても理解できない。もう一つは、このように自分を考える部分だ。立ち止まって考えようとするのは、自分を良い方向に進ませようとしているのか、それとも単に自分を信用していないからなのだろうか。  六月一日」

 私は自分が息をしていない事に気付いた。優斗の持つ世界に引き込まれてしまったのだ。暗闇のように真っ暗で色が無く、何処からが始まりでどこが終わりなのか分からない場所。そこに優斗は居るのだ。辛うじて自分は認識できるが、それ以外は何も生まれてこない。
 私はページをめくり、更にその次の短文を探した。

「夕方が赤く染まるのを自分なりに考えてみた。それは何事もない一日を少しだけドラマチックに彩る為の照明技術だと思う。何故なら、一日が終わる時、何かが終わりを迎える人が居るから。 七月十四日」
 

 私は頭の中が真っ白になった。自分がここまで小さな存在であった時に、こんな言葉を紡いで書き残すことが出来ただろうか。
「すごいわね」
 私は素直な感想を述べて、ノートを閉じて優斗に返した。優斗はそれを受け取り私を見つめたままこう言った。
「こうやって言葉を残す事しか、今の俺には出来ないんだ。他に取り柄が無いから」
 優斗は他人事のように漏らした。確かに彼の言う通り、この事を認めてくれる同級生は皆無だろう。私の経験からすれば、漆細工と樹脂の器を区別できても、樹脂の器を選ぶような感覚の時期だ。実存という存在があり、その中で様々な関係性や構造が成り立つことで本質という観念的な物が見えるという事を知らない時期だ。クラスで浮いている存在であろう優斗がノートの中の白さに短文を書いて必要最低限の世界に引きこもるのも無理はない。
「ありがとう。良い物を見せてもらったわ」
 私は答えた。すると優斗は私の目を見たままこう言った。
「香澄さんは大学生なんだよね」
 優斗はその時初めて私を名前で呼んだ。その事実が優斗を一人の具体的な形状を持った人間として私に認識させ、質感と重さを持って私の中に入ってくる気がした。
「そうよ。東京の大学に通っている」
「何学部?」
「文学部の哲学科。文学作品とか哲学の本をよんで研究したりするの」
 私は無意識にそう答えた。完全に優斗のペースに飲まれている気がするが。拒否したり止める方法が無かった。
「あなた、文学とかに興味があるの?」
 私は自分でも驚くくらいに自分から発言した。私は優斗に対して何かの負担を感じていたが、それがノートの短文を見たせいで興味へと変化したようだった。
「あるよ。もっと色んな表現を覚えたいし、作品を読みたい」
「今度、私があなたの好きそうな本を持って来ようか?大学のテキストレベルだけれど」
「読んでみたい」
 優斗は答えた。私は「そう」と短く答え、彼にノートとシャープペンシルを渡すように言った。そして私はシャープペンシルで自分の携帯電話の番号を書き、彼に会っても問題が無い曜日と時間を書き込んだ。
「こんど連絡して。また会いましょう優斗」
 私も優斗の事を名前で呼んだ。彼の中に広がる世界に、私はどのようにして入って行っただろうか。
「わかった。ありがとう」
 優斗は答え、口元に微かな笑みを浮かべた。その小さな変化が私の中の地面に種として植え付けられる。
「それじゃあ、連絡して」
 私は答えてその場を離れた。


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