Lisblanc 208号室のこと

エピソード文字数 2,914文字

 この町はよく雨が降る。

 雨が降れば陰鬱な気持ちになる。
 最初は「よく降るな」程度に思っていたのだが、こうもよく降るものだから、何とかその気候をポジティブに感じられまいかとあれこれ悩んではみたものの、それも途中で飽きた。
 今このスーパーからの帰路でも、今日も洗濯物が外に干せないだとか、このぐしょぐしょに濡れたくつをどうしようだとか考えては、陰鬱な気持ちに拍車がかかる。

 そんな雨の町で暮らしているものだから、あいつにしても、私自身にしても、雨が降ることと何ら因果関係はないが、それでもこうして雨が降るとつい思い起こしてしまう。アスファルトの湿った臭いや雨粒の軽快な音頭とセットで、私とあいつについて、色々。
 きっとこの先も、雨が降るたびにふと頭をよぎるのだろう。
 そんな鮮烈な記憶。

 「ただいま~」

 帰り道のほんの数分でしっとりと濡れてしまった色々詰まったレジ袋を、どこに置いたものかと逡巡することもなくなった。なくなったなぁと一瞬感慨にふけっては、それをドアノブに引っ掛けるうちにすぐ忘れるくらいになった。
 だが、脱いだくつがずっしりと水を吸ったこの重みには、毎回げんなりしてしまう。
 
 「くつ、乾かさなきゃなぁ…」
 
 なんて思っていたところに、背後からゾワゾワと寒気がする。

 慣れたもので、振り向かずとももう分かる。
 振り向いた先には、闇より黒い長髪を不気味に靡かせながら、肌の白い長身の女が天井から逆さに垂れ下がっている。
 ホラー映画なら絶叫するところだが、粗方のリアクションは既に経験済みで、もはやこの嫌に湿った気味の悪い気配もどうってことはない。
 奴の期待するリアクションをとっても構わないのだが、私も私で、雨に降られたこの陰鬱な気持ちを発散したい気分だったりする。
 ちょうどいいことに、今日はくつ下までじっとり湿っている。仄かに体温の残る、生暖かい湿ったくつ下。当たらないと分かっていても、こんなにイヤな『球』は他にないだろう。
 私はそれを脱ぐやいなや、後ろの気配の主――天井から不気味に逆さ吊りになっている彼女の顔面へ向けて、全力投球した。
 
 『ほああああああああああああああああああああ!?』
 
 ほんの一瞬前まで勇んでおどろおどろしい空気を醸していた奴の口から、こんなに情けなく色気もない悲鳴があるかと思うような、間の抜けた絶叫が木霊した。
 湿ったくつ下は、彼女の顔の横半分をすり抜けて、ビタッと嫌な音を立てて床に落ちた。
 
 『乙女の顔面に脱ぎたての湿ったくつ下投げる奴がいる!?』
 
 彼女の抗議は最もだが
 
 「天井から逆さに垂れてくる乙女もなかなかいないよ。」
 
 私も最もなことを言うと、彼女は黙りこくった。

 「ちょうどいいや、それ干しといてよ。」
 
 彼女が逆さ吊りのまま地に落ちたくつ下に手をかざすと、靴下はふよふよと宙を舞った。
 
 『ちょっとこれ、投げられる気持ち味わってみる?』
 
 「え、いいの?私にそんなこと言って」
 
 『いいのじゃない!小間使いじゃないの私は!いつもいいように使って!』
 
 実際、彼女のよく分からない念動力風のそれの恩恵を受けることは少なくない。
 なので今日は、私も家主として労いを用意したのだ。
 彼女は『アレ』にめっぽう弱い。

 「たかだかくつ下じゃん。」
 
 『たかだかって言うなら自分で干して!』
 
 「あーあ…今日はいつものお礼にと思ってアレ、買ってきたのに…」
 
 言い終わるが早いか、彼女の顔色が変わった。
 
 『あ…アレ…?』
 
 「アレ」
 
 『小さいアレじゃなくて…ちゃんと大きいアレ?』
 
 「そう、今日安かったの。」
 
 ドアノブに提げておいたレジ袋から、長方形の箱を取り出した。
 
 「ロ●テのチョコパイ」
 
 『チョコパイ!!!』
 
 先ほどまで醸していた暗い空気とは一転、背景にひまわりのゆるいイラストでもくるくる舞っていそうな具合に、彼女は分かりやすく喜んで見せた。
 年の頃は分からない彼女だが、この感情豊かな様は、その長身とは対照的に幼さを感じさせる。
 そしてそんな風貌で、なお天井から逆さ吊りのままなので、絶妙に気持ち悪い。
 
 「くつ下…」
 
 『朝飯前やっちゅうねん~~』
 
 彼女が食い気味で答えると同時に、くつ下はどこからかふよふよと飛んできた洗濯ばさみつきのハンガーに綺麗に取りまとめられて、洗濯機の上のつっぱり棒に、今度はスコンと気味のいい音を立ててかけられた。
 本当に便利だな、念動力。

 …

 『いただきまーす!』
 
 くつ下が顔面をすり抜ける彼女だが、当然普通に固形物を食べることは叶わない。
 そんな彼女にいかにしてチョコパイを振舞うかというと、段ボールで造った簡易的な祭壇に、大学で使った余りのA4コピー紙を敷いた上にご飯茶碗を乗せ、封を開けずにちょこんと盛る。チョコだけに。いや我ながらしょうもないな。
 いささか不恰好ではあるが、要はお供えものである。
 不恰好とはいえ、せっかく用意したこの祭壇モドキすら実は不要で、普通に気持ちを込めてお供えすれば、彼女は封が開いてなかろうがその中身のエネルギー(のようなもの?実はいまだによく分かっていない)を抽出して、見た目だけ普通に食べているような格好をとる。地べたに茶碗はさすがに行儀が悪いという、私の側のこだわりである。
 そして味わっている風なところに余談だが、彼女にお供えしたあとの食品はもれなく、気持ちしょうもなくなる。本当に何か吸い取っているようだ。その食べているモノは旨みなのか?
 
 不思議だなぁ…
 今更驚くこともないが、こんなにも間近にスピリチュアルな現象が起こっている様を観られる人はそうそういないだろう。
 そんな毎日は、こうも間近では劇的にも思えないが、退屈でもない。
 私にとってはその塩梅がとても心地いい。
 
 「今日も結構降ったね。」

 『ほうね~』
 
 「雨が降ってると、色々思い出すよ。」
 
 『いほいほっへ……何よ』
 
 頬張っていたチョコパイを急ぎ飲み下し、彼女は名残惜しげにこちらを見る。
 
 「引っ越してきたときのこととか…そういえばもう1年経つね。」
 
 『あ、もうそんなに?長いね、霞(かすみ)は。』
 
 「感謝してよ、一緒に居てあげてんの。」
 
 言うと彼女は顔をしかめる。
 
 『ほーんと憎たらしいやつ…』
 
 「りん、いつ成仏すんの?」
 
 『キツいなぁ当たりが!!』
 
 忘れられないのか、忘れたくないのか。
 何だかんだ悪くはない二人暮らし。

 『もー家事絶対手伝わない!』
 
 「じゃあチョコパイは、残り全部私が食べるね。」
 
 『そんな殺生な!!!!』
 
 大学近く、割と真新しく、不動産業者曰く人気らしい女性向けアパート“Lisblanc”。
 この十畳一間で確かにあった、彼女と過ごした記憶。
 
 私は『幽霊』とルームシェアをした。
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