そこから先は誰も知らない

文字数 1,988文字

 まるで虫ケラだ。

 アルヴィンは苦笑いを浮かべた。

 切り立つ崖を登り始めて早3時間。
 蝉のように壁にしがみつき……それから、どれくらい経つだろう。迂闊だった。その点は認めざるを得ない。半ば衝動的に家を飛び出した。何の準備すらせず、命綱すら付けてこなかった。気がついたら崖に手をかけていたのだ。

 アルヴィンは空を見上げた。
 いつの間にか真夜中になっている。足元は見ない。すでに怪我では済まない高さまで到達している。頂上まで、後少しのはずだった。彼は掌に滲む汗を拭った。

 このままなす術もなく、此処で息絶えるか。
 それとも力を振り絞り、頂上まで登り切るか。

「賭けだな……」

 アルヴィンはそう呟き、寒さで悴み始めた手を、ゆっくりと伸ばし始めた……。



「この不届き者が!」

 その約3時間前のことである。
 角を曲がると、怒鳴り声が聞こえてきた。野次馬をかき分け、アルヴィンは騒ぎの元……『天国の門』へと向かった。

「聞こえないのか! さっさと帰れ!」

 再び怒鳴り声。
 ようやく『門』の前に辿り着くと、そこに怒った門番と、見知らぬ少女がいた。

 少女は、地面に伏していた。痩せ細った体に、破けた布を身にまとった、見窄らしい少女だった。その頬には痛々しい痣が出来上がっている。アルヴィンは眉をひそめた。

「何事だ?」
 敬礼を返す部下の一人に尋ねる。
「アルヴィン隊長。不法入国者ですよ」
「またか」
 彼は唸った。最近、侵入者が絶えない。

「ここは選ばれし者だけが通ることの許された『天国の門』!」
 門番が、少女を見下ろし高々と叫んでいる。
「貴様のような下賎な者が踏み込める場所ではない!」
「ですから……」

 少女は倒れたまま、か細い声を震わせた。

「何も中に入ろうとは思いません。ただ……薬を分けて欲しくて」
「薬だと?」
「私の母が……病気なんです。薬草があれば……助かるかもと聞いて……」

 門番はだが、鼻で笑った。

「病気なら、なおさらこの国に持ち込ませる訳にはいかぬ。せいぜい礼節を尽くし、神に感謝しながら余生を過ごすがいい」
「隊長、近づかないで」

 少女のそばに駆け寄ろうとしたアルヴィンを、部下たちが静止した。

「聞いたでしょう? どんな病気を持ち込まれるか分かったもんじゃない」
「だが、あの子は困っている」
「では隊長は、今後この国を訪れる全ての人々を、あの子と同じように助けるおつもりですか?」
 部下がじっとアルヴィンを見た。
「それは……」
 アルヴィンは思わず目を逸らした。
 そこまでの裁量は、自分にはない。全てを人を救うだなんて、そんなことは、どんな国にも不可能だ。だが……

「ご理解ください。手を差し出せば、切りがありません。あの手の輩は、近頃毎日のように現れるのです」
「何処かで魔物が暴れ出しているのかも……」
「隊長、お人好しも過ぎると身を滅ぼしますぞ」
「しかし……この国は『天国』じゃないのか?」
「今すぐ立ち去れ! 卑しき者め!」

 そのうちに、門番が巨体を揺らし、門を閉め始めた。「そんな!」少女は門番に縋ろうとして、今度は腹を蹴り上げられた。観衆から悲鳴が湧き起こる。倒れた少女は一、二度地面を跳ね、蹲り、そしてそれっきりピクリとも動かなくなった。

「『天国』の、


 それを見て、部下の誰かが呟いた。

 やがて門が閉じた。塀の中に静寂と、それから平穏が訪れた。

 

に倒れた少女に駆け寄る者は、誰もいなかった。

 アルヴィンは空を見上げた。
 薄い雲の下に、小高い崖が切り立っている。赤く染まった夕陽が、その向こうにゆっくりと沈んでいくところだった。



 崖の上に、薬草があるはずだった。
 あの後、アルヴィンは鎧を脱ぎ捨て、こっそり城を抜け出していた。

「全く……」

 規律や戒律と言うものは、時に厄介なものだ。アルヴィンは忸怩たる思いだった。『天国』が聞いて呆れる。困っている少女ひとり助けれらないとは。門の外にいた行商にいくらか握らせ、少女の介護を頼んだ。無事だと良いが……。

 アルヴィンはゆっくりと手を伸ばした。残りの力を振り絞り、手を伸ばし続ける。
 何処までも続くかと思われた断崖絶壁も、やがて、あっけなく終わりがやってきた。
 視界が開けると、彼の目に青青とした薬草と……

「ギャアァアアッ!!」
「……イムドゥグドか!」

 ……鷲の体に獅子の頭を持つ魔鳥・イムドゥグドが飛び込んできた。

 ちょうどこの崖の上に、巣を作っていたらしい。魔鳥の足元には巨大な卵と、それからお目当の薬草が見えた。風雷の妖が、今一度威嚇するように大きく吠えた。

 アルヴィンは唸った。全く、息をつく暇もない。

 そう、ここは『天国』ではないのだ。門の外に一歩出れば、そこは妖が跋扈する人外の魔境だった。彼はその縄張りに足を踏み入れているのだ。天国の外側(アウターヘヴン)、そこから先は……

「来い……!」

 重たい体を奮いたたせ、彼は剣の柄を握った。
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