彼女の残した遺書

文字数 3,710文字

 ある夏の暑い最中に私は手紙を見つけた。
 いや、それは見つけたというよりも奥の奥に押し込んでいたものがついに目に入ってしまったという感じか。
 散らかった家の中の物を少しは断捨離でもしようかと思って押し入れの中をひっくり返していた最中に見つけてしまったアルバムやら、手紙のやり取りやらを懐かしんでいたらつい目の端にそれを見つけてしまい、私のそれまでの過去を懐かしむ気持ちは一気に吹き飛んでしまった。
 その封筒のタイトルにはこう書かれている。

『遺書』

 封筒はある日突然投函された。
 住所も氏名も書かれていない、私の住所と宛名のみが記入された遺書とだけ書かれた封筒。普通ならいたずらか何かだと思うかもしれないが、私はついぞその封筒を捨てることが出来なかった。
 その封筒に書かれた文字の癖に酷く見慣れたものがあったから。

「百合子……」

 ヒグラシの鳴く声が聞こえてくる。その音と共にゆっくりと夕暮れは訪れていた。

 
 今から十年前の、今日と同じように暑い夏のある日。
 彼女は私の目の前で自殺した。
 首を小刀で切り裂いて、鮮血を迸らせて。
 その時、私と彼女はヤマユリの花が咲き乱れる山の中腹に居た。ヤマユリに血が飛び散り、ひどくそれが美しいと思ってしまった。一瞬の気の迷いだとしても、確かにそう思ったんだ。
 何故彼女が自殺なんてしたのか、未だにわかっていない。
 あれだけ一緒に居ても人の心なんてものはわかりはしない。
 体をいくら重ね合わせたとしても心はすれ違う。きっと人の心がわかるなんて人はうそぶいているだけに過ぎない。
 彼女の一番の理解者を自負していただけに、この出来事は私の心のど真ん中に風穴を開けた。それ以来恋人を再び作ろうという気にもなれなかった。
 でも、この手紙を、中身を見れば彼女の心の一端がわかるんじゃないだろうか。
 完璧に見える彼女が何に悩み、何に苦しんでいたのか。
 封を開けようとする私の手は、しかし止まった。
 テーブルに投げるように封筒を起き、私は冷蔵庫の中から缶ビールを取り出して一気に呷る。
 いつの間にかひどく冷や汗をかいている自分に気づいた。
 手も震え、気持ちが落ち着かない。

「……本当に知りたいんだろうか」

 ひとりごちる。
 同時に彼女の自殺した時の光景が脳裏からフラッシュバックする。
 
 ヤマユリの咲き乱れる風景と、山の中腹の木々のない、ぽっかりと口を開けた空間から市街地を見下ろすのは爽快だった。それまで慣れない山歩きで疲れていたのもすっかり忘れていた。
 その矢先にカランと金属の何かが地面に落ちる音を聞いて、百合子の方を振り向いた。
 彼女は小刀で首を切り裂いていた。
 鮮血が脈動と共にほとばしる。同時に糸の切れたマリオネットのように彼女は倒れた。
 百合子と叫んで駆け寄ると、彼女は微笑んで私を見て何かを喋ろうとした。
 でも首からヒューヒューと息が漏れているだけで、何を言ったのかは全然わからない。
 
「百合子! どうして!? なんで!?」

 私の問いかけにも答えられない。彼女は小刀を指さす。
 指を差しその後それをスッと横に動かす。よく小刀を見れば、首の真ん中の辺りで止まっている。そのせいでまだ生きている、という事なのだろうか。
 
「無理だよ。そんな事できないよ!」

 私の言葉に、彼女は眉をしかめて口を動かした。

 ら、く、に、し、て。

 確かにそう言ったように見える。
 途中までしか刃が通っていないせいなのか、出血の勢いは切った当初よりも弱い。
 このまま放っておけば間違いなく死んでしまう。でも、今から助けを呼んでも山の中まで救急隊が来るのは何分掛かるだろう。その間、むやみに苦しませるというの?
 自然と涙がこぼれた。苛立ちと悲しみがないまぜになって、私の頭の中にはよくわからない憤りでぐるぐるになっていた。
 どうして彼女はこんな事をしなくちゃいけないんだ。
 無意味に世の中を呪いたくなった。
 でも私がこうやってまごついている間にも、百合子は苦しみ続けている。
 涙を袖で拭いて、私は笑顔を作って言った。

「わかった。やるよ。やる。それで百合子はいいんだよね?」

 私の言葉に百合子は弱々しく微笑み、目を瞑った。
 とはいえ、血まみれの小刀をちゃんと握って出来るだけ苦しませずに刃を滑らせるなんて私に出来るのだろうか。
 震える手をもう片方の手で押さえながら、私は小刀の刃を横に滑らせた。
 思ったよりも刃はすんなりと進み合わせて出血が激しくなったかと思うと、彼女は体を大きく震わせ、その後動かなくなった。
 百合子の顔は安らかな微笑みをたたえていた。
 私はその後、百合子が何か持っていないかと探った所ポケットにメモ紙が入っているのを見つける。そこには遺体はこのヤマユリが咲いている場所に埋めてくれという内容だけが書かれていた。おあつらえ向きに、彼女が携帯用のスコップを持ってきていたのはそう言う事だったのか。
 それに従って私は彼女を埋めた。もちろん、素人のやる事だから一日くらいは掛かったと思う。彼女の遺体はその後見つかった事もなく、私の所へ警察が訪れた事もない。
 
 
 私のやったことは間違ってはいないはず。
 彼女の望む事をやったはず。
 私は彼女の行為に、ほんの少し手を貸しただけなんだ。
 ずっとそう思い込んできた。今更罪の意識なんて沸き上がるはずもない。
 
 確かめてみたかった。
 彼女は何故死を望んだのか。
 彼女が死んでからすぐこれが来ていたら、そのまま捨てていたかもしれない。
 でもこれが来たのは去年の夏だった。
 忘れられないとはいえ、幾分かは時間が過ぎて彼女の事も想い出に出来つつあるその時だったから、取っておく気になれたと思う。
 私は意を決して封を開き、手紙を読む。

”沙也加へ。
 この手紙を読んでいるという事は、もう私はこの世に居ないと思います。
 どうして私があのような行為に至ったのかは、たぶん貴方に話してもわからない事と思います。それでも伝えたいと思いペンを取りました。
 
 私はずっと死にたいと思っていました。
 それは子供の頃からずっと続いている念や呪いのようなもので、ある種の強迫観念にも似たものです。
 私は何故生きているのだろう。
 そのことを考え続けると、やがては死に至るしかないのではないかと思うのです。
 生きている事に価値がある?
 私にそんな価値があるとは思えない。
 でも私に寄り添い続けてきた貴方なら「そんな事はないよ」と言ってくれるでしょう。
 貴方は私にとって、暗い夜の海で出会った灯台のような存在でした。
 きっとこの先も誰かにとっての灯火でありつづけるんだろうな、と思えるくらいの眩しい人でした。
 いつまでも私が貴方にまとわりついていてはいけない、そんな風にも思えるくらいの。
 
 生きる事は苦痛であり、死ぬ事こそ私にとっては救いなのです。
 そして醜く老いさらばえていくだけの未来より、今この瞬間を永遠にとどめておきたい。
 そう思っています。
 
 最後に。
 何も無い私にとって、貴方との絆だけが拠り所でした。
 いままでありがとう。”

 手紙にはそれだけ書かれていた。
 
「……なによ、それ」

 死にたいと思っていたなんて、一言も言わなかった癖に。
 ずっと明るくふるまって、成績も運動神経も良くて、皆の憧れみたいな存在で居たのに。
 私はずっと彼女に悩みや愚痴を言っていたのに、彼女はそんな事一言も言わなくて。
 張りぼてのように薄っぺらい虚勢を張っていただけだなんて、今更認めたくなかった。
 そして誰にもそんな事を言おうとしなかった彼女。

 私すらも信じていなかったというの?

 あれだけ一緒に居て、どれだけ言葉を重ねても、それでも私は信じるに足りなかったって言うの?
 一言くらい、愚痴るなり何か言ってくれればよかったのに。
 誰も理解できないとかわからないとか、そうやって決めつけていたから!
 私は手紙をくしゃくしゃに握りつぶして投げ捨て、ついで封筒もビリビリに破いて捨てようとしたところで、何かが透けて見える事に気づいた。
 封筒の中を改めて確認したところ、付箋紙くらいの大きさの紙をもうひとつ見つけた。

”本当は、貴方と一緒に死にたかった。でも貴方を一緒に、私のワガママの為に連れて行くのはやっぱり、ダメだよね”

 
「……!!」

 どうしてそれを言ってくれなかったのだろう。
 言ってくれれば、私は喜んでついていったというのに。
 私はついぞ、百合子以外に人を愛した事など無いというのに。
 
 ふざけるな。

 私の心にあれだけ存在を刻み付けておいて、今更こんなことを言われても全てが遅いんだ。一緒に生きる事も死ぬ事もかなわなくなったというのに。
 私をこの世に置いてけぼりにしないでほしかった。
 
 今となっては私は、自分から死ぬ勇気も無い。 
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